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2025年7月26日土曜日

7月27日(日)礼拝動画配信

 


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説教要旨

疲れを覚える時も、主に信頼する」イザヤ書402731節(旧約p1232

イザヤ書40章は、紀元前700年代のイザヤが、紀元前536年ごろの事をあらかじめ見越した上で、ペルシャ帝国のクロス王によって70年にもおよぶバビロン捕囚から解放される時の事を前もって予告した神のメッセージであると言われております。イザヤがこの書を書いた時にはまだバビロン捕囚は起こっていませんでしたが、やがて預言通り、南のユダの民がバビロン帝国に連れて行かれ捕囚に。しかし神様のご計画の中で70年のバビロン捕囚の期間を終えた時、神はクロス王率いるペルシャ帝国により、神の民は解放され自分の祖国に帰ります。その時の事を、神は預言者イザヤを通して予告しつつ、民への慰めのメッセージをあらかじめお語りになったのが、このイザヤ書40章と言われています。

1.主なる神の慰め(救い)(1~5)

1節。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──」。「慰めよ」とはヘブル語で「ナホーム」。この言葉はもともと「悲しむ」とか「悔い改める」という意味です。神の前に自分の罪深さに本当に気が付いて、自らの力の無さ、小ささ、足りなさに悲しみを覚えるというのがこの「ナホーム」の意味。そして神の前に悔い改める時に神がその人の心にお与えになるのが「慰め」です(小林)。この「慰め」は「救い」という意味です(参照;マタイ5・4)。

2節。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」。まるで牢獄から「あなたの罪はもう問われないから出てもいい」と言われるような情景(小林)です。その事がバビロン捕囚の後にあるとの予告です。バビロン捕囚が長く70年も続き、解放される希望を失っていたような神の民に、主は事前に、「その労苦は終わり、その咎は償われた」と語らせたのです。

34節。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」』。これは解放者である神が神の民を率いてバビロンから解放して下さるからそれにふさわしい道を備えよ、という意味です。また、後にバプテスマのヨハネが悔い改めを民に伝え、イエス・キリストを信じる心備えをさせた言葉です。5節。「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる」。神の約束通り歴史上においてユダヤ民族はペルシャのクロス王によりバビロン捕囚からの解放が起こります。さらに言えばイエス・キリストの十字架による救いも歴史上の本当の出来事です。これにより全ての人の救いの道が開かれたのです。

2.主を待ち望む者は新しく力を受ける(2731

しかし神の民は偶像に囲まれる中、バビロン捕囚が長引くと言って、やがて主を見失い、「自分たちは神に見捨てられた孤児なのだ」と嘆き希望を失います。しかし主は言われます。2728節。『イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」』。「地の果てまで創造した方」である主は、日本を含め全地を治めるお方です。また、このお方は他の何物も比較にならない、無限の力を持つ愛の大牧者です(626)。そして29節。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」お方なのです。元気の象徴でもある「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる」(30)。しかし主を待ち望む(信頼してより頼む)者はこのお方から新しい力を頂きながら生かされます。31節。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」。『「わし」という鳥は…10年に一度羽替えをするそうです。新しい羽にされて力強く飛んでいくのです。その羽が古くなってきますと彼らは羽を落とすのです。その新しい羽が生え替わってくるのを待って、ついに新しい羽で覆われて、今まで飛べなかった高さを越えて飛んでいくことができる』(小林和夫)。その様に、主を待ち望む時に神からの聖霊による新しい力(使徒18)が与えられ、自分では越えられない試練を乗り越えさせて頂けます。主を信じて待ち望みましょう。

(祈り)主よ。たとい苦難が長引くような時も、疲れる時も、あきらめないであなたに信頼し続け、大牧者なるあなたから、いつも新しい力と愛と知恵を頂きながら、あなたの慰めと救いと守りの中であなたと共に生きていきます。アーメン。


2025年7月23日水曜日

7月20日(日)第一礼拝動画配信「主ご自身が私達と共に行く」出エジプト記33章11~17節(旧約160頁~)

 

                                              ↗一部、回線不具合のため、配信できませんでした。

           ご容赦をお願い致します。

【説教要旨】

「主ご自身が私達と共に行く出エジプト記33章1117節(旧約160頁~)   

 今朝は、信仰者と共にいて安息を与え、導いて下さる主のお言葉に注目します。

1あなたを愛する主なる神様(12

3312節はモーセのとりなしの祈りです。神に罪を犯したイスラエル民族をとりなし、神がモーセとだけでなく民とも共に歩んで下さるようにという切実な祈りです。そこには民を愛するモーセの愛があります。すると主は、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(14と言われます。12節で主はモーセに「あなたは特にわたしの心にかなっている」と語られています。これは「お前(モーセ)は恵みを見出した、私()の目の中に」と訳すことができます。神様がモーセを見る時の目は、ご好意の目でした。主はモーセを愛して共におられました。神様は私達にも愛と恵みを注いでくださるお方です(イザヤ434)。それは神の独り子イエス・キリストを与えるほどの大きな愛です(ヨハネ3・16)。

2.共にいて安息を与える主なる神様(1317

主はモーセに「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」3314と言われました。主イエス・キリストの別の呼び名は「インマヌエル」、「神は私たちと共におられる」(マタイ123)という意味です。罪の世に真の神であるイエス様が真の人となられて来て下さいました。そして言われました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14・6)。イエス様は信仰者と共にいて導いて下さいます(マタイ28・20)。イエス様ご自身が道です。しかも、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…」(マタイ11・28~30)と言われました。今日、モーセにのみならず、全ての人にこの招きがなされています。重荷を共に負って下さる主イエス様に、共に重荷を負っていただいて、安息を頂きましょう。その際、不要な重荷(罪の重荷)はイエス様がすでに全て取り除き、十字架の上で、身代わりに死んで下さいました。イエス様を信じて結ばれるなら、主によって罪の重荷は全て降ろさせていただけるのです。イエス様を信じて、全ての罪の重荷を明け渡しましょう。そこに、安息があります。

しかし私たちもモーセの様にさらに15節に進みたいと思うのです。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(15。モーセは民の罪のために神の前にとりなし祈りました(12131516)。モーセがこのような祈りができたのは神の愛を知っているからであり神の愛を体現しているからです。ここまで民を愛していたのです。

この祈りは神様の御心にかないました。神様はおっしゃいました。17節。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから」。この祈りは主イエス様の祈りに通じます。イエス様には全く罪がありませんでした(へブル415)。にもかかわらず主イエス様は私たち罪人のためにとりなし祈り(ルカ2334)、私たちのすべての罪を背負って身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです(マタイ2746)。このイエス様のとりなしの祈りと身代わりの死のゆえに、イエス様を信じる者はイエス様と一つとされる事で罪赦され(ローマ42425)、罪の奴隷と重荷から解放されて(ローマ667)、主に礼拝を捧げ(ローマ121)、主にお近づきできます(エペソ218)。主と共に歩めます(マタイ112830)。主にお仕えできるのです(へブル914)。そして天国の安息に入れて頂けるのです(ヨハネ316)。全ては神の恵みです(Ⅰコリント1510)。

人生の荒野のような時も、主イエス・キリストと信仰によって結ばれている私たちと共に主は行って下さるのです。燃え尽きやすい柴(出32)のような、もろい土の器(Ⅱコリント57)のような、弱いわれらと共に主がおられる。主が共におられる事こそ救いです。主が私達を守り支え、安息を下さるのです。

私たちも主イエス様を知らない方々が主イエス様の救いに導かれ、共に主を礼拝する礼拝の民に加えられるようにとりなし祈り、愛し、伝道する重荷を主と共に負いたいと思うのです。主と共になら、弱い私たちにも負えると信じます。

主イエス様を信じる私たちと共に、主なる神様がいる事(マタイ28・20)を信じましょう。共にいて安息(救い)を下さる主に信頼して参りましょう。

【祈り】天の父なる神様。全てをご存知の上で、私達と共にいて救いに導き、安息を与え、主の御業を成して下さる事を信じて感謝致します。アーメン。


2025年7月12日土曜日

7月13日(日)第一礼拝動画配信「神様から祝福される人生」 創世記26章23~25節(旧約45頁)

 

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説教要旨「神様から祝福される人生創世記262325(旧約45)

1.神のみ言葉を信じる中にある祝福(26・1~12

イサクの時代、その父アブラハムの時代にもあったのですが、飢饉がありました(1)。そこでイサクはゲラルという所に行きました。さらにイサクは父と同様、エジプトに身を寄せようとしたようです。当時、飢饉の時には肥沃なエジプトに下るのが当時の常識だったようです。しかし唯一まことの神様はイサクに現われて仰せられます。エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす」(23。主のみ言葉通りにイサクがその地に留まり、種を蒔くと、その年に百倍の収穫を見ます(12)(当時の農業では2540倍でも豊作)。その理由は「主が彼を祝福された」(12からでした。主と主のみ言葉に信頼して従う中に、試練の中でも、主の祝福を見ます。

2.神と共に、神を第一として生きる(1325

こうしてイサクは非常に裕福になりました。しかし現地のペリシテ人たちはイサクをねたみます(1314)。それでペリシテ人はイサクの父アブラハムの時代に掘られた全ての井戸をふさぎます(15)。しかしイサクは戦争をせずにそこを去ってゲラルの谷間に天幕を張りそこに住みます(17)。イサクは井戸を再び掘りました。そして湧き水の出る井戸を見つけました(19)。どんなに財産があっても水がなかったら生きていけません。生きていくために水が必要です。本当に喜んだ事でしょう。ところがゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争ったのです(20)。イサクは戦争をせずにその地を離れます。昔の井戸掘りですから機械もない中です。井戸掘りは20~40mも掘るという大事業だそうです。しかもめったと水が出るものではないそうです。そういう中でやっと水が出たのに奪われる。これは大きな試練です。もう一度同じような事がありました。しかしイサクは争わず、そこから移って他の井戸を掘ります。その井戸については争いがなかったのでその名をレホボテ(自由の地、広々とした地)と呼びました。レホボテはゲラルよりもさらに南に40キロのエジプトに近い場所。約束の地からはみ出たのかもしれません。だからでしょうか、イサクはそこから北東およそ30キロのイスラエルの最南端(参照;Ⅰサム3:20)、ベエル・シェバに上りました(23)。最南端ですからぎりぎり約束の地という所でしょう。そこはかつて父アブラハムが主の名によって祈った所でした(2133)。試練の中で亡き父を慕い求めていたのかもしれません。

しかしその夜、主ご自身がイサクに現われて仰せられます。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに」(24。父アブラハムを支え守り導き祝福して下さった主ご自身からの御声。イサクはどれほど心強く嬉しかった事でしょうか。イサクはそこに祭壇を築き主の御名によって祈ります。まず礼拝を捧げたのです。そして彼はそこに天幕(生活の拠点、家庭)を張り、イサクのしもべ達はそこに井戸を掘りました(仕事、そこに長く住む事の現れ)(25)。神第一の信仰生活です(参照;Ⅰ列王記17116「かめの粉と壺の油」の奇跡、マタイ63133)。

イサクは神に信頼し従う中で神に祝福を受けました。その根底にあるのは、「アブラハムのゆえに」。主とアブラハムとの契約のゆえに、イサクは主に祝福されたのです。私たちもイエス・キリストの十字架の血による契約のゆえに、ただ神の恵みにより、イエス様を信じる信仰によって、「キリストにあって」神の祝福にあずかります(ローマ42551、エペソ248、ヨハネ155、ガラテヤ314)。さて、イサクは試練の中で特に問題の無いレホボテに留まる事もできましたが、さらにベエル・シェバに上ってきた時、主が臨まれました。地味ですがそこに父亡き後、父アブラハムから継承した信仰が現われています。彼は誰に強制されたわけでもなく、神に従い自らを捧げます。それは主が共におられるという主の臨在の恵みの故でした。やがて敵対していた人達もイサクの祝福の歩みを見て、イサクと共に神がおられる事を認め(28)、彼の土地を認め、和平を結びます(2831)。奇しくもかつて父もこの地で和平条約を締結(2132)。ちょうどその日、掘っていた井戸から水が出たとの報告(32)。イサクは父と同じ試練を通して、神と共に生きる父と同じ信仰と祝福に導かれたのです。

【祈り】父なる神様。主を信じて従う祝福された生活をさせて下さい。アーメン。


2025年7月5日土曜日

7月6日(日)第一礼拝動画配信「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒の働き16章25~34節(新約268頁) 

 

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説教要旨「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒162534(新約268p

1.試練の中でも、神に信頼し続け、神を賛美したパウロたち(1625

使徒パウロがピリピという都市にいた時の事です。突然、占いの霊に取りつかれた女性がついて来て、パウロを困らせ続けます。ついに、パウロはイエス様のお名前によって占いの霊を女から追い出しました(1618)。すると、この女の占いでもうけていた人たちからパウロは恨まれ、役人に訴えられます(1921。町の人々も反対したので、パウロとシラスは何度もムチ打たれ、牢に入れられました。そして厳重に番をするように命じられた看守はふたりを奥の牢に入れ、足に足かせをかけます(2224)。良い事をしたのに、かえって苦しい目に合わせられたパウロ達。しかし獄に入れられたにもかかわらず、25節。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」。二人は苦難の中でも神に信頼していたのです。

 

2.人生の危機の中で受け取られた神の祝福(2634)

 すると26節。「ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」。そして27節。「目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。」のです。ローマ法によると、囚人の脱獄を許した看守は、その囚人に課せられていたのと同じ刑に服することになっていました。看守の人生は突然の地震で一転。死に直面させられました。そして、いざ、その死に直面した時、その死の先には何の希望もなかったのです。

しかし、そんな看守の所に希望の声が聞こえたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28とパウロは叫びます。まさか、と思ったでしょう。けれども、その声の通りでした。牢屋の扉が開いているのに、囚人は一人も逃げ出さなかったのです。まさに奇跡です。看守の命は救われたのです。看守は、この突然の地震というハプニングを通して、人生の土台を揺り動かされました。そして、死に直面した時、その先に何の希望も救いも無い事を知ったのです。

それは同じく、死ぬかも知れない状況に置かれてもなお、神に祈り、神に賛美を捧げる、二人の不思議な囚人パウロとシラスとは全く違う自分でした。そして、看守はこの時、二人に、救われるために何をしなければならないのかを尋ねます。

看守はひれ伏して二人に「救われるために何をしなければなりませんか。」(30と尋ねます。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31と伝えます。ローマ帝国において、主はローマ皇帝です。救い主はローマ皇帝であり、平和を与え、いのちを守ってくれるのはローマ帝国でした。彼らにとってローマ皇帝は神であり、神の子でありました。けれども地震を通して、看守は、そのローマ皇帝の支配下にあるローマ帝国の命令が、自分に死を迫り、そして、ローマ帝国は、その死の先にある絶望、滅びに対して何の力もない事を知ったのです。しかし、今や本当の救い主イエス様を信じるようにと招かれたのです。二人の囚人を苛酷な環境で生かし、強め、喜びを与えているのは、このイエス・キリストである事を知るのです。

さらに、パウロ達は伝道を続けます。32節。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」。すると、3334節。「看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(34なんと、看守とその家族が救われました!そこには大きな喜びがありました。

看守にやってきた突然の人生の危機。けれども、その危機さえも神様の御手の中にありました。それは看守とその家族が神の祝福を受け取り、救われるきっかけとなったのです。パウロとシラスの投獄・大地震さえも、神は益に変えられました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)主イエス様は私たちに、どんな時も、絶対絶命のピンチの時でも、希望を与え、絶望から救い、生きる力を与えてくださるお方です。苦しい、惨めな環境におかれても、主を信じる者に力と愛と喜びを与え、御業をなして下さるお方です。主イエス・キリストにより頼むなら、人生の土台は決して揺り動かされる事はありません(Ⅰペテロ26

主イエス様に信頼して、家族に仕え、主を証ししていきましょう。

(祈り)父なる神様。あなたが私達の人生の土台となって下さり、感謝致します。