2026年2月16日月曜日

2026年2月15日(日)説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)




*回線不具合のため、この度は説教要旨のみとなります。申し訳ありません。


説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)                   

クリスチャンたち教会を迫害した迫害者サウロはイエス様に出会って救われ、変えられました。その後、サウロ(別名パウロ)は多くの人に救い主イエス様の事を伝えるようになります。ある時、パウロはこれまでイエス様を伝えてきた人たちに会うために、彼らのところに行ってみようと思いました(36)。この決断が、思いがけない伝道旅行の始まりとなったのです。そこで、シラスという人と一緒に出発(1540)。アンティオケアというところを出発して、シリア地方、キリキヤ地方を通り、諸教会を励ましていきました(41)。さらに、デルベ、リステラという所に行って諸教会を励ましました(16・1~5)。

1.聖霊の導き(6~8)

それから彼らはアジアという今のトルコの西側地域を通りますが、そこでみことばを語ることを聖霊によって禁じられました。そこで、フリュギア・ガラテヤの地方を通って、そのアジア地域を通り抜けていきます。7節。こうして、アジアのミシアという地域に面した所まで、一気に進んでいきました。西側にはエーゲ海があります。そこで、北のビティニアという地方に進んで行こうとしたのですが、そこでもまた、イエス様の御霊がそれをお許しになりませんでした(8)。

2.主の御心を確認、確信して踏み出したパウロたち(9~10)

それでミシアを通って、エーゲ海に面した町トロアスに下ってそこで泊まりました。そして9節。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。」とひたすらお願いするのでした。マケドニアは、エーゲ海の海を渡った向こう岸の地域でした。著者のルカは次のように書いています。10節。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」、と。ここで、「私たち」とありますが使徒の働きの著者ルカがここで旅に加わったようです。また当時、幻や夢は神が人間に意志を伝えるための手段として認められていました。主は様々な方法で受け手の人々にふさわしい仕方でご自身の御心をお示しになります。

そして、ルカは次のように記します。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」(10節後半)とあります。この「確信した」は元来「結び合わす」という意味があり、9・22には「証明する」という意味で用いられています。この語はいろいろな証拠から一つの結論を引き出す事を表すのに使われます(小平徳行師)。この確信と結論に至るまでに、①パウロに与えられている異邦人伝道の使命があり、そして、②これまで、御霊に禁じられてきた事、そして、③今回の幻。それらのすべてが一つにつながったのです。そこで、パウロ達は、主の御心と確信して、エーゲ海を渡ります。主は、様々な形で御心をお示しになります。そして、それらは調和するのです。

神様は目には見えませんが生きておられます。神様は今も全ての人を愛して、救おうとしておられます。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ4522。そして、クリスチャンに未信者を愛する心を与え、未信者の心のSOSを聴いて、救い主イエス様を伝えるように導かれます。パウロたちは聖書をよく学び、いつも祈りながら生活をしていました。ですからイエス様をよく信じて、イエス様の御心がよくわかりました。そしてすぐに従えました。神様に示されて「ただちに」伝道に行ったパウロ達。神様から止められたらしない。神様からするように導かれたら「ただちに」するパウロたち。私たちも聖書のお言葉を忠実に学び、また、いつもお祈りしながら、イエス様のみ言葉(聖書)、聖霊のお導きに、素直に、すぐに、的確に、お従いするクリスチャンにさらに成長させて頂きましょう。

また、もし、まだイエス様を信じていない人がいるなら、今、神はイエス様によってその人をイエス様への信仰へ導き救おうとしておられます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒1631

さてパウロ達は主の導きを信じて、海を渡りリディアという方と出会い、彼女が救われます(161415)。しかし、その後、パウロ達は悪霊につかれた女性から悪霊を追い出した事がきっかけで迫害と投獄に遭いますが、その投獄先でも主に祈りつつ賛美を捧げて過ごします。その中で今度は地震が起こりますが、囚人が誰も逃げていないという奇跡的出来事を通して伝道の機会が生じ、看守と家族が救われます(163134)。その後、パウロたちは釈放されリディアの家に帰ります(3540)。こうして後のピリピ教会が誕生したのでした。

(祈り)主よ。私もパウロのようにイエス様の御心にすぐに従える人に成長させてください。救いを求める人々に主イエス様を伝えさせてください。アーメン。


2026年2月13日金曜日

2026年2月8日(日)礼拝動画配信「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章16~17節(新約p14)

 

説教要旨「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章1617節(新約p14)

このマタイ8章16,17節には主イエスの癒しの働きについての要約が記されています。8117節には三つの癒しの記事があります。そこには主イエスの憐れみに満ちた癒しの御業がなされています。また、主イエスはみ言葉によって悪霊どもを追い出したとあります。悪霊につかれて悩み苦しめられている方々が大勢、主イエスのみもとに連れて来られました。また病気の方々も連れてこられました。イエス様のそばにいた弟子達は恐れたり不安になったりしたかもしれません。しかし、主イエスは悪霊どもを追い出しました。そこには主と主のみ言葉の権威が現わされています。悪霊の働きや、病気、その他の試練で辛い時も、共におられる主イエス様とそのみ言葉と御業に信頼すればよいのですね。

病気の人々をみな残らず癒された、とあります。ここには主イエスの愛の込められた回復と癒しの御業があります。例えばマタイ8章3節前半では、ツァラアトという病の人に対して「イエスは手を伸ばして彼にさわり」とあります。旧約聖書においてツァラアトと呼ばれる律法に規定された病は、律法によって何らかの意味で「汚れ」たものとされていました(レビ記13章)。そして、このツァラアトの病人は、そのツァラアトの病のゆえに汚れた者として隔離され「宿営の外」に住む事になっていました(レビ記134546)。このツァラアトの病人に「さわる」ということは、ユダヤ人にとっては触った者も汚れた者となる、という理解でありました。この点、レビ記5・3の旧約聖書の律法では「いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ…」とあります。

しかし主イエス様は、あえて、このツァラアトの病人に「手を伸ばして」触ったのでした。イエス様は触らなくても、この後、8513節では、言葉一つで体の中風(麻痺)の病をいやしておられます。ですから、主イエス様は触らなくても癒す事ができました。しかし主イエスはあえて、この時、ツァラアトの病の人に触ったのでした。それは主イエスの愛と憐れみであるとともに、その病をご自身が担うことによって、その人を癒し、きよめるためでありました。

この点、マタイ8・17にはこれらの奇跡がイザヤ書の成就である事を示しています。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就されるためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った』」と。イザヤ53・4については「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(あるいは『悲しみ』*欄外注)を担った」とあります。そして、この事は、主イエスの十字架を指し示しています。イザヤ53・5に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」とあります。この点、Ⅰペテロ224には「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたがは癒された。」とあります。そして、この事は、肉体の病気の有無にかかわらず、私達にもあてはまります。強調しますが、肉体的病それ自体が罪ではありません。使徒パウロもまた、三度も祈ったのに取り去られなかった肉体上の不具合がありました。肉体的不具合が、神様の深いお心の中で残される事もあり得ます。その大前提で申し上げると、人類共通の「罪」という魂の不具合(病)、に対して、魂の最高の医者である主イエスが、私たちの霊的クリニック(診療所)となって、愛をこめて関わってくださいます。そして、その「罪」という魂の不具合を癒し、治し、きよめて下さるのです。この「罪」という病は、主イエスにしか癒せない、治せない、きよめることができないのです。主イエスご自身が、ご自分の命、ご自分の血による贖いという罪の解決を備えて下さいました。

私たちがこの魂の医者である主イエスの御許に信仰をもって求める時、主イエスの血というワクチンによって、罪という病が癒される、きよめられるのです。この事は主イエスのご降誕に際して、主の御使いを通して告げられていました。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1・21。主ご自身から、魂の医者であられる主イエスから、人類共通の病である「罪という病」の癒しと予防の恵みを受けようではありませんか。その中で、私達は、主の御前に、正直に、自分自身を明け渡して、取り扱っていただこうではありませんか。私たちも解決して頂きたい何かの課題があるなら、特に人類共通の「罪という病」の癒しと予防を、主イエスの愛の御心と最善の御業に信頼して、切に祈り願いたいと思います。

【祈り】主なる神様。私たち人類共通の「罪という病」を癒し、救うために、主イエス様が十字架で身代わりに御苦難を受けられた事を感謝致します。アーメン。


2026年1月31日土曜日

2026年2月1日(日)礼拝配信「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがる」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

説教要旨「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがるヨブ記1章1322節(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたい

と思います。私達は理由のわからない苦難を受けた時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12サタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。訳のわからない試練の中でも、ヨブのように、まるで幼子が泣きながら母親にの懐に飛び込むように(詩篇131)に神に祈り頼る恵みが備えられています。

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブ自身に病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。5節はこの苦難の中で、その神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し長寿を与え、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。この世で不可解な試練も死後を含めて主の御前で全てのつじつまが合うのです。信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦難。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難の中でも、最善をなさる父なる神と主イエスに全く信頼し続け、常に喜び、絶えず祈り、主を讃美し礼拝する信仰者であらせて頂きましょう。試みがヨブに許されたのは、主が共に勝利して下さるためだったのです!

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。