説教要旨「私たちの大牧者なる主」詩篇23・1~6(旧約954頁)
今朝は、有名な詩篇23篇から、私たちを愛し守り養われる、唯一真の神様について見ます。冒頭「ダビデの賛歌」とあります。詩篇23篇はイスラエルの名君であったダビデ王の歌です。ダビデ王が晩年に人生の様々な悩みをなめつくした後、人生を振り返って歌ったと言われています。特にダビデが息子に謀反を起こされ、命を狙われる、苦しい状況の中でバルジライという人に接待をされた事が背景にあると言われています(第二サムエル17・27~29)。ダビデは王になる前は羊飼いでした。彼はこの詩篇23篇にて、自分を羊にたとえ、唯一真の神様(「主」とも呼びます)を羊飼いにたとえて、実体験をもとに歌っています。
1.いつも共にいて、愛して守り養って下さる主なる神(1~3)
1節。ダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と歌います。羊は弱い動物で羊飼いがいないと生きてはいけません。ダビデ自身も羊飼いでしたのでよくわかっていました。その上でダビデは一国の王でありながら、主が羊飼いで自らを主の羊と告白します。ここにダビデの謙遜を見ます。
2節。「主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。」。緑の牧場とは餌のある所。パレスチナでは牧草と水は乏しく、優れた牧者によってのみ、そこを捜し当てる事ができます。か弱い羊の一切は牧者にかかっています。牧者なしには飢えと猛獣の危険からの守りの保証はありません。緑の牧場に「伏す」とは安心して餌を食べ身を横たえる事のできる安全な状態。羊飼いを信用していないとできず、それだけ主は信頼できる羊飼いだという事です。
3節。「主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます」。主なる神は信仰者を正しい道に導き、罪の悔い改めと救いに導き、その魂を復活させ何度も回復させます。それは「御名のため」です。「御名」とは神ご自身と、その聖なる神の御性質(愛、義、真実等)を現わします。神は正しいので正しい道に導きます。ご自身の聖なるご性質にあずからせる為です。
2.どんな試練の中でも見捨てずに、共にいて、守り導いて下さる主なる神(4)
ですから、「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(4)と告白できます。「死の陰の谷」とは狭く険しく見通しの効かない場所。パレスチナには深い谷があり、猛獣がそこに住んでしばしば羊を襲いました。しかし災いを恐れないと言えるまでの主の守りと導きへの信頼です。目に見えない主の、現実の守り(むち)と導き(杖)によって、主を知ります。救い主イエス・キリストは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10・11)と言われました。主イエスこそ真の牧者です。このお方は決してご自身を信頼する者を見捨てません(へブル13・5)。
3.敵から常に守りつつ、敵前でも祝福を注いで下さる主なる神(5~6)
主は守りに加え、豊かな恵みを注ぎ続けてくださいます。ですから5節。「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています」と歌われます。主の守りがあるので敵の前でも平然と食事ができるほど安全なのです。一方で、愛する息子に追われて逃げるダビデ。その背後には自分の犯した罪の刈り取りもありました(Ⅱサムエル12・11)。しかし神はそんなダビデを追いかけるようにして彼を守り、祝福を注いで下さったのです!ダビデは息子に追われ涙を流しましたが(15・30)、この神の愛と恵みに感激の涙を流したと思うのです。「頭に香油を注いでくださいます」とは喜びの象徴。主人が客人の頭に油を注ぐことはパレスチナでは客を歓迎する時の習慣でした。「杯」は人生を現わし、杯があふれるとは神様からの豊かなおもてなしによって人生に神様の祝福があふれている様子でしょう。自分の罪の刈り取り、愛する息子が敵になる苦しみ。しかし何とその時すら主の完全な守りと豊かな祝福がありました!ですから6節。「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。…」。原語では冒頭に「とだけ」とあります。「いつくしみ」(原語は「へセド」で「契約に基づく愛」)と「恵み」(「良い事」)「だけが」ダビデを追いかける!1~6節前半までの主の契約に基づく愛と恵みがあったからこそ「私はいつまでも主の家に住まいます」と告白できました。これまでも、又これからも主の家に住む、と。神の愛と恵みは今も、試練の中でも、常にあるのです。
【祈り】主よ。あなたの契約の愛と恵みの故に主と共に歩める事を感謝します。アーメン。