説教要旨「わたしたちは主なる神様のもの」ルカの福音書15・1~10(新約149頁)
今朝の聖書の箇所はキリストの有名なたとえ話です。わかりやすくも深遠です。
1.飼い主なる神の計算を超えた無条件の愛(4)
4節。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」。迷い出た1匹のために、99匹を野原に残すのですか?それよりも、1匹は犠牲になっても、99匹の方に力を注いだ方が、賢いのではないのでしょうか、というように考える人も、あるいは、いるかもしれません。しかしイエス様は99匹を野原において1匹を探し求める事を当然のように話しておられます。ちなみに「なくした」とか「いなくなった」とありますが、これは、「失った」とか「滅んだ」という意味があります。羊飼いから離れた羊は死んだも同然、滅びた、失なったも同然なのです。羊は羊飼いなしには生きてはいけないのです。
そのため、愛のある飼い主は当然、その羊を捜すのです。この場合、99匹は、助手や羊飼い仲間にゆだねて、自分は、命をかけて、迷える1匹の羊を捜しにいく、という事が想定されますが、しかし、イエス様はそのような事をあえてここで解説していません。このたとえ話のポイントは、羊の所有者は、一匹一匹を計算抜きで愛しているという事です。1匹5万円だ、とか、1匹のために99匹を危険にさらすべきでない、とか、1匹のためにそこまですべきか、とか、そういう計算を超えて、1匹の羊を、かけがえのない存在として愛している、という計算を超えた愛です。そして、この飼い主は、ここでは、イエス様を指し、神様を指しています。迷いだした1匹は罪人のことです。
では99匹を愛していないのか、というと決してそうではありません。もし、99匹の中の別の一匹が迷い出るならば、イエス様の示す羊飼いは、その一匹のためにも、命をかけて、他の羊を置いてでも、その一匹を愛して探し求めて下さるお方なのです。ですから100匹の羊を漏れなく、計算を超えた最高の無条件の愛をもって、愛してくださっているのです。だからこそ、羊たちは安心できる。次は、自分が迷子になったとしても羊飼いは愛して助けてくれる、と。
「一匹くらい、いいや」と思っている羊飼いの羊になりたいですか。それとも、一匹一匹を命をかけて愛してくれる羊飼いの羊になりたいですか。もちろん、後者だと思います。主イエス様は、後者のような羊飼いなのです。そして、神の愛も、後者の羊飼いが示すような、無条件な計算を超えた愛なのです。
2.神の燃えるような愛(4~5)
さて、このたとえ話は、律法学者やパリサイ人のつぶやきと非難を受けてのものでした。そのつぶやきの中で、「この人は、罪人たちを受け入れて」とありました。「受け入れて」とは「歓迎する」とか「待ち望む」という意味もあります。イエス様は、このつぶやきを受けて、3つのたとえ話を話されました。確かに、イエス様の言動を見たら、「受け入れ」、「歓迎し」、「待ち望んでいる」わけですが、この3つのたとえ話を通して、神様の愛は、そんなものではない、もっとすごい、地獄の炎にまさる愛の炎だ、と教えているように思います
4節は、見つけるまで捜し求める愛!そして、5節。「見つけたら、大喜びでその羊をかついで」とあります。これは、「両肩」の意味です。この羊飼いは、イエス様の事を指している。イザヤ9:6では有名なキリスト預言です。主イエスはその肩(片方)の方に、主権を担うお方。そのような方が、 一匹の滅びに向かう無力な迷える羊を、わざわざ両肩に担いでいます。これは愛です。片手で楽々とつかんで帰れるのに、両肩にしっかりと担いで帰る。それは愛です。無駄とか、余計な事を、とか突っ込める場面でしょう。しかし、それは神の愛の現れです。
その神の愛が最もはっきり示されたのは、十字架のイエス様です。絶対主権者なる主イエスが、地獄に向かう滅びた罪人一人の救いのために、天の王座を後にして、この闇の世に、罪びとと同じ姿となって、ご降臨くださり、私たちの罪を全身全霊で十字架で身代わりに担ぎ、担い、身代わりに死なれました。地獄の苦しみを味わいました。そこまでされたのです。
旧・統一教会は、この神の最高の愛を失敗と言います!とんでもない!この神の愛による身代わりの死が、私たちの贖いの為に必要なほどに、人類の罪は罪深いという事でもあります。しかし、この神の愛、十字架のキリストの愛によって、救い主イエス様を信じる私たちは救われたのです(イザヤ9・7、使徒16・31)。
【祈り】天の父なる神様。私をここまで愛して下さっている事を感謝致します。