2026年1月31日土曜日

2026年2月1日(日)礼拝配信「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがる」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

説教要旨「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがるヨブ記1章1322節(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたい

と思います。私達は理由のわからない苦難を受けた時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12サタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。訳のわからない試練の中でも、ヨブのように、まるで幼子が泣きながら母親にの懐に飛び込むように(詩篇131)に神に祈り頼る恵みが備えられています。

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブ自身に病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。5節はこの苦難の中で、その神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し長寿を与え、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。この世で不可解な試練も死後を含めて主の御前で全てのつじつまが合うのです。信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦難。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難の中でも、最善をなさる父なる神と主イエスに全く信頼し続け、常に喜び、絶えず祈り、主を讃美し礼拝する信仰者であらせて頂きましょう。試みがヨブに許されたのは、主が共に勝利して下さるためだったのです!

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。


2026年1月25日日曜日

2026年1月25日(日)第一礼拝動画配信「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303頁)

 

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説教要旨「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303)

今朝はローマにいる信徒への使徒パウロの手紙417『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ人への手紙4章17節)に特に注目したいと思います。

この17節はアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている、同じ、唯一まことの神様を信じて、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)。しかし、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。アブラハムは、途中、自分や妻の現実を見て、主の約束を信じ切れない時もありました(創世記1717)。しかしアブラムは神と神の約束の御言葉を信じていくようになり、その信仰は成長し、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18ます。すなわち、19節。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。

そして、アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。

 このような背景の中で『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ4章17節)が記されます。これはアブラム(別名アブラハム)が望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18ることができた根拠でもあります。すなわち「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」る信仰です。

 アブラムは死者をも生かす全能の神を信じる信仰に導かれました。アブラム(およそ100歳)もサラ(およそ90歳)も子を産むという点においては死んだも同然の状態でした。しかし、それでもアブラムは主を信じたのでした。アブラムは、全能の主は「死者をも生かす事ができる」と信じたのです。

その信仰がさらに現われたのは、主に「イサクをささげよ」と命じられて、愛する独り息子を主に全焼のささげものとして献げる時でした(創世記22章)。世間の常識的には不可解な命令と行動【注意;もちろんこれは主がアブラハムに特別に命じられた試練(創世記221)で、虐待はもちろん、人身を犠牲にしなさいという教えではありません!】。しかしアブラハムにあったのは「死者をも生かす事ができる」との全能の神に対する全幅の信頼でした。「自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(創世記2212)のです。主はアブラハムが息子に刃を下す寸前で「その子に手を下してはならない」(2212)と命じ、山に備えていた身代わりの犠牲の雄羊をアブラハムにお与えになりました(創世記2213)。この出来事についてへブル1119には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とあります。

この事は、イエス・キリストの身代わりの死と復活を指し示すひな型となったのです。主なる神は実際に愛する独り子を私たちの身代わりの子羊としてこの世にお与えになり、十字架で身代わりに血を流し死ぬことをお許しになりました(ヨハネ316)。しかし、三日目に、お約束の通り、復活させ、よみがえらせました。主なる神は確かに全能の神である事をここでもお示しになりました。まさに「死者をも生かす事ができる」全能の神なのです。この信仰は私達が、十字架で死んで三日目に復活されたイエス様を信じて救われた私たちにも通じる信仰です(ローマ4・2324)。

この信仰を、自分の無能、弱さ、罪深さを感じるどんな試練の時も発揮したいものです。「死」以外にも自分達にはどうする事もできないと思える試練があります。しかし、どのような試練の中でも、全能の神に全幅の信頼をもって明け渡し、聴き従いたく願います。主は最善をなして、共に試練を乗り越えさせて下さると信じます。

【祈り】全能の主よ。どうにもならない時もあなたに信頼します。アーメン。


2026年1月17日土曜日

2026年1月17日 説教要旨(1/24一部訂正)「常に喜び感謝できるのは神に絶えず祈れるから」テサロニケ人への手紙第一5章16節~22節(新約413頁)

 

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「常に喜び感謝できるのは神に絶えず祈れるから」テサロニケ人への手紙第一5章16節~22節(新約413)

(以下、下線部分一部訂正)テサロニケ人への手紙は使徒パウロを通じて書き送られた神様からのメッセージです。パウロ達のテサロニケ伝道は迫害によって中断され、テサロニケを離れなくてはなりませんでした(使徒17・1~15)。しかしその艱難の中にありながらもパウロは、試練の中にあったテサロニケの教会に手紙を書き送り、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」(1618)と書いたのです。どうしたら、このように生きられるのでしょうか。

1..主イエス・キリストと結ばれて、守られている信仰生活のゆえに(18

そのカギは第一に18節。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(18)。中でも、「キリスト・イエスにあって(の中で)」という言葉です。これは、イエス・キリストを信じて結ばれているという意味です。キリストとの一体性を意味します。たとえるなら、ぶどうの幹(キリスト)に人(枝)が信仰という接点で結ばれているようなものです。また、夫である花婿(キリスト)と妻である花嫁(教会)の関係のようなものです。イエス・キリストと結ばれて、イエス様の中で、イエス様の守り、庇護の中で生きられる!そこに永遠の命があります(ヨハネ316)。全ての良きものがあるのです。だから、どんな状況の中でもイエス様の中に守られて生きられるので、いつも喜び、感謝できる、のです。

2.主への祈りの生活のゆえに~いつも主と向き合い、会話する生活~(17

第二に、常に神に祈れるからです。時に試練もあります。そういう時に、「絶えず祈りなさい」とのみ言葉の重要性、ありがたさ。「祈りは呼吸です」と教えられた事があります。神様の求めている事は、いつも、祈りながら、神様に助けと支えと癒しと守りと、良いものをいつもいただきながら、神様と共に生きていくという事です。だから、「いつも、喜んで」いられるし、どんな状況でも「感謝する」事が可能となってくると信じます。悲しみ、怒り、恐れ、という感情自体が悪いとは思いません。しかし、それらに支配されたり、ふりまわされたりする事は主の御心ではありません。そういう時でも神に信頼して、祈りつつ、主のお守りの中で平安を頂き、喜びと感謝の中で生きる事が主が望んでおられる事です。大変な試練の中でも、それでも、主なる神が救って下さっている、天国を下さっている、支えて下さり、万事を益にしてくださる、と信じて祈りつつ、いつも主と主の御言葉と御業に信頼して、喜びと感謝をもって、生きていきたいと思います。いつでも、イエス様を信じて捧げる祈りに、神は思い煩いと引き換えに心に安らぎを下さり(ピリピ4・6、7)、最善に応えて下さいます(ロマ828)。

聖書は神の言葉で、できないことをしなさいというような、根拠のない事を言うような書物ではありません。できるからこそ、しなさい、と命じているのです。しかし、自分の力ではできない。「主にあって」とありますが、これは主を信じて結ばれているという事です。テサロニケ5・18にもありますが、これが実は「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」秘訣、鍵です。

「すべてのことについて感謝しなさい」とは、「どんな状況においても感謝していなさい」という事です。すべての良いものは神から来るのです。どんな試練の時も、辛い時も、問題が降りかかってくる時も、それでも、神は愛であり、神に生かされている、守られている。だから、当然、主に感謝すべきなのです。さらに、神に愛され、神を愛する信仰者のために、神は万事を益となして下さいます(ローマ8・28)。ですから、この神に信頼し、神の御心に全てをゆだねて従う時、あらゆる場合に感謝ができます。最善だけをなさる、神の御心がなる事。それが私たちの最高の幸せであり、喜びであり、祈りであり、感謝なのです。神は真実で必ず最善にしてくださるからです。だから主を信じて祈り続けるのです。

そしてパウロは「御霊を消してはいけない」(19)、「預言を軽んじてはいけない」(20と言いました。なぜならこれらは善悪を識別する基準だからです。そしてこれらをもって、「あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(21)、「すべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」(22と教えます。いつも喜びと感謝の中で生きながら、同時に再臨のキリストを待ち望む間、サタンに騙されないように、聖書のみ言葉と聖霊の油を絶やすことなく、善悪をしっかりと見分けていく必要があるのです。喜び、感謝しつつ油断せずに祈りつつ、聖霊に導かれながら、冷静に、聖書のみ言葉で善悪を見分けていく必要があるのです。その際、聖書のみことばの健全な理解がその際に鍵になってくる事を思います。

【祈り】主よ。主にあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんな状況でも感謝します。聖霊によって導き、聖書のみ言葉により善悪を識別させて下さい。アーメン。