2026年3月31日火曜日

3月29日(日)礼拝動画配信「私たちの大牧者なる主」詩篇23・1~6(旧約954頁)

 

説教要旨「私たちの大牧者なる主」詩篇2316(旧約954)

今朝は、有名な詩篇23篇から、私たちを愛し守り養われる、唯一真の神様について見ます。冒頭「ダビデの賛歌」とあります。詩篇23篇はイスラエルの名君であったダビデ王の歌です。ダビデ王が晩年に人生の様々な悩みをなめつくした後、人生を振り返って歌ったと言われています。特にダビデが息子に謀反を起こされ、命を狙われる、苦しい状況の中でバルジライという人に接待をされた事が背景にあると言われています(第二サムエル172729)。ダビデは王になる前は羊飼いでした。彼はこの詩篇23篇にて、自分を羊にたとえ、唯一真の神様(「主」とも呼びます)を羊飼いにたとえて、実体験をもとに歌っています。

1.いつも共にいて、愛して守り養って下さる主なる神(1~3)

1節。ダビデは主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。と歌います。羊は弱い動物で羊飼いがいないと生きてはいけません。ダビデ自身も羊飼いでしたのでよくわかっていました。その上でダビデは一国の王でありながら、主が羊飼いで自らを主の羊と告白します。ここにダビデの謙遜を見ます。

2節。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。。緑の牧場とは餌のある所。パレスチナでは牧草と水は乏しく、優れた牧者によってのみ、そこを捜し当てる事ができます。か弱い羊の一切は牧者にかかっています。牧者なしには飢えと猛獣の危険からの守りの保証はありません。緑の牧場に「伏す」とは安心して餌を食べ身を横たえる事のできる安全な状態。羊飼いを信用していないとできず、それだけ主は信頼できる羊飼いだという事です。

3節。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。主なる神は信仰者を正しい道に導き、罪の悔い改めと救いに導き、その魂を復活させ何度も回復させます。それは「御名のため」です。「御名」とは神ご自身と、その聖なる神の御性質(愛、義、真実等)を現わします。神は正しいので正しい道に導きます。ご自身の聖なるご性質にあずからせる為です。

 

2.どんな試練の中でも見捨てずに、共にいて、守り導いて下さる主なる神(4)

ですから、たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。(4)と告白できます。「死の陰の谷」とは狭く険しく見通しの効かない場所。パレスチナには深い谷があり、猛獣がそこに住んでしばしば羊を襲いました。しかし災いを恐れないと言えるまでの主の守りと導きへの信頼です。目に見えない主の、現実の守り(むち)と導き(杖)によって、主を知ります。救い主イエス・キリストは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ1011)と言われました。主イエスこそ真の牧者です。このお方は決してご自身を信頼する者を見捨てません(へブル135)。

 

3.敵から常に守りつつ、敵前でも祝福を注いで下さる主なる神(56)

主は守りに加え、豊かな恵みを注ぎ続けてくださいます。ですから5節。私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれていますと歌われます。主の守りがあるので敵の前でも平然と食事ができるほど安全なのです。一方で、愛する息子に追われて逃げるダビデ。その背後には自分の犯した罪の刈り取りもありました(Ⅱサムエル1211)。しかし神はそんなダビデを追いかけるようにして彼を守り、祝福を注いで下さったのです!ダビデは息子に追われ涙を流しましたが(1530)、この神の愛と恵みに感激の涙を流したと思うのです。頭に香油を注いでくださいますとは喜びの象徴。主人が客人の頭に油を注ぐことはパレスチナでは客を歓迎する時の習慣でした。「杯」は人生を現わし、杯があふれるとは神様からの豊かなおもてなしによって人生に神様の祝福があふれている様子でしょう。自分の罪の刈り取り、愛する息子が敵になる苦しみ。しかし何とその時すら主の完全な守りと豊かな祝福がありました!ですから6節。「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。…」。原語では冒頭に「とだけ」とあります。「いつくしみ」(原語は「へセド」で「契約に基づく愛」)と「恵み」(「良い事」)「だけが」ダビデを追いかける!16節前半までの主の契約に基づく愛と恵みがあったからこそ私はいつまでも主の家に住まいます」と告白できました。これまでも、又これからも主の家に住む、と。神の愛と恵みは今も、試練の中でも、常にあるのです。

【祈り】主よ。あなたの契約の愛と恵みの故に主と共に歩める事を感謝します。アーメン。

2026年3月24日火曜日

2026年3月22日(日)礼拝動画配信「どんな時にも主に希望がある」イザヤ書40章27~31節(旧約p1232)

 

どんな時にも主に希望がある」イザヤ書402731節(旧約p1232

イザヤ書40章は、紀元前700年代のイザヤが、紀元前536年ごろの事をあらかじめ見越した上で、ペルシャ帝国のクロス王によって70年にもおよぶバビロン捕囚から解放される時の事を前もって予告した神のメッセージであると言われております。イザヤがこの書を書いた時にはまだバビロン捕囚は起こっていませんでしたが、やがて預言通り、南のユダの民がバビロン帝国に連れて行かれ捕囚に。しかし神様のご計画の中で70年のバビロン捕囚の期間を終えた時、神はクロス王率いるペルシャ帝国により、神の民は解放され自分の祖国に帰ります。その時の事を、神は預言者イザヤを通して予告しつつ、民への慰めのメッセージをあらかじめお語りになったのが、このイザヤ書40章と言われています。

1.主なる神の慰め(救い)(1~5)

1節。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──」。「慰めよ」とはヘブル語で「ナホーム」。この言葉はもともと「悲しむ」とか「悔い改める」という意味です。神の前に自分の罪深さに本当に気が付いて、自らの力の無さ、小ささ、足りなさに悲しみを覚えるというのがこの「ナホーム」の意味。そして神の前に悔い改める時に神がその人の心にお与えになるのが「慰め」です(小林)。この「慰め」は「救い」という意味です(参照;マタイ5・4)。

2節。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」。まるで牢獄から「あなたの罪はもう問われないから出てもいい」と言われるような情景(小林)です。その事がバビロン捕囚の後にあるとの予告です。バビロン捕囚が長く70年も続き、解放される希望を失っていってしまう事もあるような神の民に、主は事前に、それらを見越したうえで、前もって「その労苦は終わり、その咎は償われた」と預言者イザヤに語らせたのです。

34節。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」』。これは解放者である神が神の民を率いてバビロンから解放して下さるからそれにふさわしい道を備えよ、という意味です。また、後にバプテスマのヨハネが悔い改めを民に伝え、イエス・キリストを信じる心備えをさせた言葉です。5節。「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる」。神の約束通り歴史上においてユダヤ民族はペルシャのクロス王によりバビロン捕囚からの解放が起こります。さらに言えばイエス・キリストの十字架による救いも歴史上の本当の出来事です。これにより全ての人の救いの道が開かれたのです。主のみ言葉は必ず成就していくのです。

2.主を待ち望む者は新しく力を受ける(2731

しかし神の民は偶像に囲まれる中、バビロン捕囚が長引くと言って、やがて主を見失い、「自分たちは神に見捨てられた孤児なのだ」と嘆き希望を失います。しかし主は言われます。2728節。『イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」』。「地の果てまで創造した方」である主は、日本を含め全地を治めるお方です。また、このお方は他の何物も比較にならない、無限の力を持つ愛の大牧者です(626)。そして29節。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」お方なのです。元気の象徴でもある「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる」(30)。しかし主を待ち望む(信頼してより頼む)者はこのお方から新しい力を頂きながら生かされます。31節。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」。『「わし」という鳥は…10年に一度羽替えをするそうです。新しい羽にされて力強く飛んでいくのです。その羽が古くなってきますと彼らは羽を落とすのです。その新しい羽が生え替わってくるのを待って、ついに新しい羽で覆われて、今まで飛べなかった高さを越えて飛んでいくことができる』(小林和夫)。その様に、主を待ち望む時に神からの聖霊による新しい力(使徒18)が与えられ、自分では越えられない試練を乗り越えさせて頂けます。主を信じて待ち望みましょう。

(祈り)主よ。たとい苦難が長引くような時も、疲れる時も、あきらめないであなたに信頼し続け、大牧者なるあなたから、いつも新しい力と愛と知恵を頂きながら、あなたの慰めと救いと守りの中であなたと共に生きていきます。アーメン。


2026年3月19日木曜日

2026年3月15日(日)礼拝動画配信 「わたしたちは主なる神様のもの」 ルカの福音書15章3~7節(新約p149)

 

説教要旨「わたしたちは主なる神様のもの」ルカの福音書151~10(新約149)

 今朝の聖書の箇所はキリストの有名なたとえ話です。わかりやすくも深遠です。

1.飼い主なる神の計算を超えた無条件の愛(4)

4節。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」。迷い出た1匹のために、99匹を野原に残すのですか?それよりも、1匹は犠牲になっても、99匹の方に力を注いだ方が、賢いのではないのでしょうか、というように考える人も、あるいは、いるかもしれません。しかしイエス様は99匹を野原において1匹を探し求める事を当然のように話しておられます。ちなみに「なくした」とか「いなくなった」とありますが、これは、「失った」とか「滅んだ」という意味があります。羊飼いから離れた羊は死んだも同然、滅びた、失なったも同然なのです。羊は羊飼いなしには生きてはいけないのです。

そのため、愛のある飼い主は当然、その羊を捜すのです。この場合、99匹は、助手や羊飼い仲間にゆだねて、自分は、命をかけて、迷える1匹の羊を捜しにいく、という事が想定されますが、しかし、イエス様はそのような事をあえてここで解説していません。このたとえ話のポイントは、羊の所有者は、一匹一匹を計算抜きで愛しているという事です。1匹5万円だ、とか、1匹のために99匹を危険にさらすべきでない、とか、1匹のためにそこまですべきか、とか、そういう計算を超えて、1匹の羊を、かけがえのない存在として愛している、という計算を超えた愛です。そして、この飼い主は、ここでは、イエス様を指し、神様を指しています。迷いだした1匹は罪人のことです。

では99匹を愛していないのか、というと決してそうではありません。もし、99匹の中の別の一匹が迷い出るならば、イエス様の示す羊飼いは、その一匹のためにも、命をかけて、他の羊を置いてでも、その一匹を愛して探し求めて下さるお方なのです。ですから100匹の羊を漏れなく、計算を超えた最高の無条件の愛をもって、愛してくださっているのです。だからこそ、羊たちは安心できる。次は、自分が迷子になったとしても羊飼いは愛して助けてくれる、と。

「一匹くらい、いいや」と思っている羊飼いの羊になりたいですか。それとも、一匹一匹を命をかけて愛してくれる羊飼いの羊になりたいですか。もちろん、後者だと思います。主イエス様は、後者のような羊飼いなのです。そして、神の愛も、後者の羊飼いが示すような、無条件な計算を超えた愛なのです。

 

2.神の燃えるような愛(4~5)

さて、このたとえ話は、律法学者やパリサイ人のつぶやきと非難を受けてのものでした。そのつぶやきの中で、「この人は、罪人たちを受け入れて」とありました。「受け入れて」とは「歓迎する」とか「待ち望む」という意味もあります。イエス様は、このつぶやきを受けて、3つのたとえ話を話されました。確かに、イエス様の言動を見たら、「受け入れ」、「歓迎し」、「待ち望んでいる」わけですが、この3つのたとえ話を通して、神様の愛は、そんなものではない、もっとすごい、地獄の炎にまさる愛の炎だ、と教えているように思います

4節は、見つけるまで捜し求める愛!そして、5節。「見つけたら、大喜びでその羊をかついで」とあります。これは、「両肩」の意味です。この羊飼いは、イエス様の事を指している。イザヤ9:6では有名なキリスト預言です。主イエスはその肩(片方)の方に、主権を担うお方。そのような方が、 一匹の滅びに向かう無力な迷える羊を、わざわざ両肩に担いでいます。これは愛です。片手で楽々とつかんで帰れるのに、両肩にしっかりと担いで帰る。それは愛です。無駄とか、余計な事を、とか突っ込める場面でしょう。しかし、それは神の愛の現れです。

その神の愛が最もはっきり示されたのは、十字架のイエス様です。絶対主権者なる主イエスが、地獄に向かう滅びた罪人一人の救いのために、天の王座を後にして、この闇の世に、罪びとと同じ姿となって、ご降臨くださり、私たちの罪を全身全霊で十字架で身代わりに担ぎ、担い、身代わりに死なれました。地獄の苦しみを味わいました。そこまでされたのです。

旧・統一教会は、この神の最高の愛を失敗と言います!とんでもない!この神の愛による身代わりの死が、私たちの贖いの為に必要なほどに、人類の罪は罪深いという事でもあります。しかし、この神の愛、十字架のキリストの愛によって、救い主イエス様を信じる私たちは救われたのです(イザヤ9・7、使徒1631)。

【祈り】天の父なる神様。私をここまで愛して下さっている事を感謝致します。


2026年3月7日土曜日

2026年3月8日(日)礼拝配信「主なる神を第一にする祝福された生涯」創世記26:23~25(旧約45頁)

 

説教要旨「主なる神を第一にする祝福された生涯創世記26:2325(旧約45)

1.神のみ言葉を信じて従う中にある主の祝福(26・1~12

イサクの時代、その父アブラハムの時代にもあったのですが飢饉がありました(1)。そこでイサクは「ゲラル」という所に行きます。さらにイサクは父の時と同様エジプトに身を寄せようとしたようです。当時、飢饉の時には肥沃なエジプトに下るのが当時の常識だったようです。しかし唯一まことの神様はイサクに現われて仰せられます。エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす」(23。主のみ言葉通りにエジプトには下らず、イサクがその地に留まり、種を蒔くと、その年に百倍の収穫を見ます(12)(当時の農業では2540倍でも豊作)。その理由は「主が彼を祝福された」(12からでした。主と主のみ言葉に信頼して従う中に、試練の中でも、主の祝福を見ます。

2.神と共に、神に信頼して神を第一として生きる祝福の生涯(1325

こうしてイサクは非常に裕福になりました。しかし「ゲラル」のペリシテ人たちはイサクをねたみます(1314)。それでペリシテ人はイサクの父アブラハムの時代に掘られた全ての井戸をふさぎます(15)。しかしイサクは戦争をせずにそこを去って「ゲラル」の谷間に天幕を張りそこに住みます(17)。イサクは井戸を再び掘りました。そして湧き水の出る井戸を見つけます(19)。どんなに財産があっても水がなければ生きていけません。水が必要です。本当に喜んだ事でしょう。ところが「ゲラル」の羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争ったのです(20)。イサクは戦争をせずにその地を離れます。昔の井戸掘りですから機械もない中です。井戸掘りは20~40mも掘るという大事業だそうです。しかもめったと水が出るものではないそうです。そういう中でやっと水が出たのに奪われる。これは大きな試練です。もう一度同じような事がありました。しかしイサクは争わず、そこから移って他の井戸を掘ります。その井戸については争いがなかったのでその名をレホボテ(自由の地、広々とした地)と呼びました。レホボテはゲラルよりもさらに南に40キロのエジプトに近い場所。約束の地からはみ出たのかもしれません。だからでしょうか、イサクはそこから北東およそ30キロのイスラエルの最南端(参照;Ⅰサム3:20)、ベエル・シェバに上りました(23)。最南端ですからぎりぎり約束の地という所でしょう。そこはかつて父アブラハムが主の名によって祈った所でした(2133)。試練の中で亡き父を慕い求めていたのかもしれません。

しかしその夜、主ご自身がイサクに現われて仰せられます。わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに」(24。父アブラハムを支え守り導き祝福して下さった主ご自身からの御声。イサクはどれほど心強く嬉しかった事でしょうか。イサクはそこに祭壇を築き主の御名によって祈ります。まず礼拝を捧げたのです。そして彼はそこに天幕(生活の拠点)を張り、イサクのしもべらはそこに井戸を掘りました(そこに長く住むという事の現れ)(25)。神第一の信仰生活です。主に信頼し第一にする生涯に導くために主は「ゲラル」での試練を許されたのでしょう。

イサクは主に信頼し従う中で神に祝福を受けました。その根底にあるのは、「アブラハムのゆえに」。主とアブラハムとの契約のゆえに、イサクは主に祝福されたのです。私たちもイエス・キリストの十字架の血による契約のゆえに、ただ神の恵みにより、イエス様を信じる信仰によって、「キリストにあって」神の祝福にあずかります(ローマ42551、エペソ248、ヨハネ155、ガラテヤ314)。さて、イサクは試練の中で特に問題の無いレホボテに留まる事もできましたが、さらにベエル・シェバに上ってきた時、主が臨まれました。地味ですがそこに父亡き後、父アブラハムから継承した信仰が現われています。彼は誰に強制されたわけでもなく、神に従い自らを捧げます。それは主が共におられるという主の臨在の恵みの故でした。やがて敵対していた人達もイサクの祝福の歩みを見て、イサクと共に神がおられる事を認め(28)、彼の土地を認め、和平を結びます2831。奇しくもかつて父もこの地で和平条約を締結(2132)。ちょうどその日、掘っていた井戸から水が出たとの報告32。イサクは父と同じ試練を通して、神と共に生きる父と同じ信仰と祝福に導かれたのです。

【祈り】父なる神様。主を信じて従う祝福の生涯を歩ませて下さい。アーメン。


2026年3月2日月曜日

3月1日(日)第一礼拝配信 「私を主イエス様のように変えて下さい」 ピリピ人への手紙2章5~12節(新約p396)

 

説教要旨私を主イエス様のように変えて下さいピリピ人への手紙2章5~12節(新約p396                 

ピリピ人への手紙は、使徒パウロが、ローマかエペソかカイザリヤにある獄中から送った手紙で、50年代後半~60年代初めに書かれたと言われています。パウロは、キリストのために、福音のために、投獄されていました。有罪判決が下れば、死刑も免れられない状況だったのです。そんなパウロをピリピの教会は気にかけ、支援をしていました。ピリピの教会は使徒パウロが開拓伝道した教会です(参照;使徒16640)。ピリピ人への手紙は、ピリピにある教会の兄弟姉妹に宛てられた手紙です。

 そして214節では教会に一致を勧めています。そして511節では一致の基盤はキリストであることを示しています。直前の2611節には、当時の讃美歌と思われるキリスト賛歌が記されています。教会の一致の唯一の基盤、基礎であるイエス・キリストについて歌われている賛美です。6~7,8~9,10~11と区切って読むと歌詞のようにも見えます。パウロはこのように、キリスト讃美歌を引用しつつ、「そういうわけですから」と続けます。12節。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」

使徒パウロは、2111で、イエス・キリストの父なる神への御心への従順、十字架の死に至るまでへりくだり、従順であられたその従順を示します。その中で、教会の一致の基礎である、キリストの十字架の救いを示し、復活のキリストご自身を示しました。そして、キリストの模範を示し、互いに謙遜になり、キリストにあって一致するように勧めます。それは、神への従順の中にあります。使徒パウロがピリピの教会に行ける時にそうであったように、使徒パウロが不在である今も、より神に対して従順であるように、と教えます。そして、その神への従順の中で、「恐れおののいて」、つまり、神への聖なる畏敬の念をもって、謙遜に主に信頼して従い、「あなたがたの救い」の「達成に努めなさい」と命じます。「救い」とは「罪と滅びから神が救ってくださること」であり、「永遠の命の祝福」を意味する言葉です。また、「救い」には「健全な状態」の意味も含まれます。その「健全な状態」の中には教会の一致をも示しているとも言われます。となると各人がイエス様を信じて救われる、という事ともに、さらにはピリピ教会の中にあった「不健全な状態」、つまり「不一致」を、神への従順によって解決しなさい、という事も含まれると言えます。「達成に努める」という言葉は「働く、努力する」というニュアンスがあり、「働いて得る」という意味もあります。もちろん、罪びとの救いは、律法を行う事によってではなく、キリストを信じる信仰によるもので、ただ神の恵みです。しかし、様々な誘惑や試練の中でも、神を信じ、キリストを信じ、その信仰を続け、信仰者として成長し、成熟し、神の御心に沿った愛の実を結んでいくために、健全なクリスチャンにふさわしい生活のために神にとどまり続ける信仰の忍耐、神に信頼し従い続ける忍耐が必要となってきます。信仰を、この世で、全うしていくことが必要なのです。そこには忍耐が必要となり、神と神への御言葉への信仰の継続が必要です。信仰のレースを全うするために、キリストの励まし、指導の御言葉を聴きながら、信頼して従っていく事が必要です。先導されるのはイエス・キリストです(へブル1214)。

 一方で、イエス様によって救われた者同士がつぶやきあったり、言い争ったりしているならば、それは互いの信仰生活を益しません。むしろ教会の共通基盤であるイエス・キリストへの信頼の中で、キリストにならいて、神に従順に従う中で、主にある愛をもって、互いに愛し合い、愛の一致を保っていく事の大切さをこのピリピ12節では教えているのです。そのようなきよい愛の生き方は、まさに神への従順なくしてはできない事であり、それはキリストを基礎とし信頼し、罪ゆるされ、義と認められ、神と和解したからこそ可能となってくる生き方です。キリストを信じて救われたからこそ、聖霊に助けられ導かれながら、そのキリストへの信仰、神への信仰、神の御言葉への信仰をを「働かせて」、罪への誘惑や迫害といったものをふりほどきつつ、神への信仰と従順をもって、愛の実を結び続けていく。そして天国に凱旋するという事です。愛によって働き出る信仰をもって、教会の兄弟姉妹が互いに愛し合う愛の一致を保っていく事を、パウロは勧めます。

主の御前に悔い改めるべきは悔い改めつつ、主と主のみことばへの信仰に立ち、キリストにならいて、神に従順に従い、御霊によって愛に生きるという事が、愛の一致を保ちます。   【祈り】主よ。私を主イエス様のように変えて下さい。アーメン。