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2025年6月26日木曜日

6月29日(日)第一礼拝動画配信「聖書が教える愛と希望」 ヨハネ14章1~6節(新約213p)

 

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説教要旨「聖書が教える愛と希望」ヨハネ14章1~6節(新約213p

今朝はヨハネ14章1~6節を心にとめましょう。以前、英国女王エリザベス2世の国葬でもこの聖書の箇所が、当時のトラス首相によって朗読されました。

この時の弟子たちは、これからイエス様が歩まれる道(十字架へ)について不穏な空気を感じ、先行きが見えず、恐れと不安の中にいたようです。そんな弟子たちに主イエス様は改めてご自身が一体誰であるのかをお示しになったのです。

1.信仰者の心を守り、平安をくださる、主イエス・キリスト(1

1節。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。聖書において啓示されている、唯一まことの絶対者なる神、全知全能の創造主なる神を信じ、また神の子であり神である、主イエス・キリストを信頼し続ける時、神に支えられ平安が与えられて安心し、恐れと不安から守られ、「心を騒がせられること」、「心かき乱されること」から守られます。と共に神に祈る時に平安が与えられる事を聖書は教えています(ピリピ人への手紙4・6,7)。その事を通して聖書の教える唯一まことの神は生きておられる事を知ります。

 

2.神の御許(天国)に居場所を用意して下さった主イエス・キリスト(2~3)

続いて2でイエス様は言います。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」。「住む所」とは「父(唯一まことの神の事)の家」にあります。そこは天国、神の国、父なる神の御許とも言い換えられます。神の身許には多くの住まい、居場所があります。さらに3節。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」。永遠にずっと共にあなたと天国で(この世でも)過ごしたい、という切なる神の愛が表されています。聖書では、その神の愛は、親が子を愛する愛や、新郎が新婦を愛する愛にたとえられています。唯一まことの主なる神は、あなたや私たちにご自分の命を与えるほどに最高に愛して下さっています(ヨハネ316)。ですから、父なる神の御許、天国に私達の永遠の居場所を用意するために、主イエス・キリストはこの後、十字架で死なれます。イエス様以外の全ての人間は皆、「原罪」という罪を抱えて生まれてきます。神の前に罪ある人間は、完全に正しい唯一のまことの神のご支配(神の国)に自分の力では入れません。その原因である「人間の罪」の為に罪なきイエス様が十字架で身代りに死んで下さったのです。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに引き受けて下さったからです。それは救い主イエス様を信じる者の罪が赦され、無罪とされ、罪きよめられ、聖なるイエス様と父なる神の御許でいつも親しくできるようにするためです。神とのお交わりを通して信仰者に、神ご自身のご性質(聖さ・愛、義等)が分け与えられるためです。その証拠としてキリストは死後三日目に復活し、弟子達に現れ、弟子達の前で天に引き上げられ、父なる神の王座のある天にお帰りになりました。そして今も一切の権威をもって天に座しておられます。ですからイエス様は目には見えませんが、イエス様を信じて父なる神に近づく者をいつでも救う事がおできになるのです(へブル72425)。この神の与えて下さった救いに、神からの愛と希望があるのです!

 

3.天国の唯一の道である主イエス・キリスト(4~6)

4節。キリスト様は続けて言われました。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」。その時、弟子のトマスが私たちの思いを代弁しているようにイエス様に聞いてくれています。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と。トマスはここで実際に歩いて行く道路を知ろうとしていましたが、イエス様の回答はトマスのイメージとは違います。すなわち6節。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」。主イエス様はトマスに対して「わたしがその天国の道なのだ」と言われます。イエス様がご自身が天国の道、真理そのもの、永遠の命なのです。イエス様だけが父なる神の御許、唯一の神の家、天国への道です。イエス様はまるで花婿が花嫁をエスコートするように天の家へと導かれます!

(結論)主イエス・キリストこそが「道であり、真理であり、命」です。イエス様だけが唯一まことの父なる神の御許、ただ一つの天国の家への、一本道です!

(祈り)天の父なる神様。唯一まことの永遠の命の道、天国への道、主イエス・キリスト様に信頼して、このお方と共に天国の道を歩んで参ります。イエス様によって、アーメン。


6月22日(日)第一礼拝動画配信「主なる神はおられる」 出エジプト記3章1~6,13,14節(旧約101頁)            

 

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説教要旨

「主なる神はおられる」出エジプト316節(旧約101102)

 神はいるのかいないのか。主なる神は「わたしはある」と宣言しています。

1.神に生かされてきた、モーセの生涯

イスラエル民族(へブル人)がエジプトで生活をしていた時の事。エジプトに新しい王が登場し、へブル人の状況は一変。苦役を課せられます。へブル人の著しい人口増加を恐れた王はイスラエルの男の赤子を川に投げ込んで殺せと命じます。しかしイスラエル人の助産婦たちは神を恐れて従いません。そんな中、あるレビ人の夫婦に男の子が誕生。しかし、その男の子を隠し通せず、しかし殺せず、防水加工をした籠に入れてナイル川のしげみに浮かべます。その男の子の姉は見守り続けますが、そこにエジプト王の娘が通り、彼女に拾われます。その時、モーセの姉の機転によって実母が乳母として王の娘に紹介されます。エジプトの王の娘の子として、実母を乳母として育てられる男の子。

その男の子こそモーセでした。そういう複雑な家庭環境の中でモーセは育ち、やがてエジプトの王宮で、へブル人としてではなく、エジプトの王子としてエジプト最高の教育にて育てられます。モーセは40歳までエジプトのあらゆる学問を極め、言葉にもわざにも力がありました(使徒7・22)。しかし40歳の時、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されるのを止めようとして勢い余ってでしょう、そのエジプト人を殺してしまいます。その後、イスラエル人同士の争いを仲裁しようとした時、拒まれて、「自分をもあのエジプト人のように殺すのか」と言われます。モーセはエジプト人を殺した事が知られたと思い、パロとエジプト人を恐れ、エジプトから逃亡。ミディアンという地方に逃れ、そこで結婚し子どもを授かります。そして、その地で、エジプト人に避けられ嫌われていた「羊飼い」となり、彼のしゅうとの羊を飼う羊飼いとして生きるようになり40年。へブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、エジプトの王(ファラオ)から逃れ、エジプト王国から逃れ、荒野に隠れ、今はミディアン人と共に生き、モーセは80歳に。赤子の時から自分という存在を隠され、いつも隠れて生きてきたモーセ。自分とは何者で自分の人生とは何だったのか?と彼は問うたでしょう。しかし、主はモーセにご計画をもち、必要な教育訓練を荒野で羊を飼う事を通して与えました。

2.「わたしはある」~燃えているのに燃え尽きない燃える柴を通して~

そんなモーセ80歳のある日の事。モーセはミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていました。モーセは羊の群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来ます(140年間モーセは習慣的に羊を飼い続けてきました。しかしこの日はいつもと違いました。主の使いが柴の茂みのただ中の燃える炎の中で彼に現れます。モーセがそれ見ると、なんと燃えているのに柴は燃え尽きません(2)!モーセは「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」と思い見に行きます(3)。主はモーセが今までの進路をそれて燃える柴を見に来るのをご覧になりました。神は柴の茂みに隠れる様にしてモーセに「モーセ、モーセ」と呼びかけられます。モーセは「はい、(私は)ここにおります」とつい答えます(4モーセからは神様は見えませんが神様はモーセの全てをご存知でした。燃える柴を見るためにいつもの道から外れたモーセ。それは主に従う道への軌道修正でした。

そんなモーセに神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5。そこに神が臨在される事のゆえに、その地は神様の聖地となりました。そして神様はモーセに履き物を脱ぐように命じます。「履き物を脱ぐ」とは当時、自分が相手にとってしもべで、服従してそむかない事を示しました。明け渡しです。

そして主はさらにモーセに言われました。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(6)。幼き日々に実母から聞かされていたでしょう、その主がモーセにこの時、御声をかけて下さったのです。その後、神はモーセに「『わたしはある』という者である。」(14と御自身を示されます。天地万物を存在させ、モーセを存在させている神。モーセはこれまで、隠され、隠れて生きてきました。しかし神の前には隠れられませんし、この時、モーセは神の前に出ました。かつてはエジプトの王の娘に川から引き出され、それが彼の名前の由来でした(210)。しかし、この時、神がモーセを神の前に引き出したのです。私たちは『わたしはある』という神様によって創造され存在させられています。主なる神は私たちを愛しておられます。神の前に「わたしはここにいます」と祈り出ましょう!


2025年6月14日土曜日

6月15日(日)第一礼拝動画配信「父なる神の愛」ルカの福音書15・11~24(新約149~150頁)

 

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説教要旨「父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

今日は父の日です。肉親の父、育ててくれた父に思いをはせるとともに、私たち人類の共通の生みの親であります、創造主である、父なる神に心を向けて参りたいと思います。ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は、二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。

1.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。

すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、弟息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕した事でしょう。しかし弟息子は自分が息子として受け入れられるとは思えません。21節。彼は『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』と言い、雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。弟息子の自意識を超えた父の愛の取り扱い!「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!

2.このたとえが教えてくれる、父なる神の愛

これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在を無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛して下さっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改める)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらえるのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただく事により、罪赦され、神に「よし!」と認められ、受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。

キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が自分を良く評価できない時も、私という存在を常に最高に愛し続けて下さる愛を感謝致します。主の愛に信頼します。アーメン