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2025年3月29日土曜日

2025年3月30日(日)第一礼拝動画配信「主と共に歩み、イエス様に似た者となる事を目指して」マタイ28章16~20節(新約p64)

 

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メッセージ要旨

「主と共に歩み、イエス様に似た者となる事を目指して」マタイ28章16~20(新約p64

本日は、教会学校進級式、教会学校教師任命式です。続いて、教会学校の生徒と教会学校の教師のために、教会教育のために、お祈りをお願い致します。

今朝は、今一度、主イエス様の示された私たちの歩むべき方向性について確認したいと思います。ある時、弟子たちがイエス様に「世が終わる時のしるし」について尋ねた事があり、イエス様がお答えになった時がありました(マタイ24・3~12)。異端、偽キリストの登場、戦争とそのうわさ、民族紛争、あちらこちらでの飢饉、地震…。しかし、これらは「産みの苦しみの始まり」(24・8)と主イエスは言われます。その時には、さらに、キリスト者への迫害、裏切り、偽預言者による惑わし、不法がはびこり愛が冷える…(24・12)。

しかしピンチはチャンスとも言われるように、闇が深い時こそ、真理の光は明確に輝きます。クリスチャンは世の光として、キリストと共に忍耐しつつ信仰と愛をもって輝くのです(24・13,14)。14節の冒頭には原語では「そうしながら」という言葉があります。すなわち、そのような試練の中で、キリスト様が、福音が、かえって証されるのです(14)。その際、重要な事はキリスト者がキリストの弟子として生き、成長していく事です。今朝はそのカギとなるみ言葉です。十字架で贖いを成し遂げ、死後三日目に復活された主イエス様のみ言葉、マタイの福音書28章16~20節に改めて注目致しましょう。今、改めて、キリストの弟子として生きる事、さらにはその成長が必要なのです。

1.復活の主イエス様の権威とご命令(18~20)

復活された主イエス様は弟子たちに語られます。わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(18)。この時、弟子達は困難な中にありました。ローマ帝国、ユダヤの宗教指導者達が敵に回っていました。民衆もイエス様を十字架につけろと叫んだ直後でした。しかし、この18節のお言葉が弟子たちの力であり、命であり、守りであり、勝利です。イエス様は天地万物の王で主です。たといローマ帝国とユダヤ宗教指導者たちと民衆が敵対していても勝利はゆるがないのです。一切の権威はキリストにあるからです。

主イエス様はその権威をもって言われます。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(19~20節前半)。あらゆる国の人々を主イエス・キリストにお従いする弟子にしなさい、という主のご命令です。弟子にするとは、具体的には、その直後にありますように、①愛をもって福音をお伝えして、信仰告白に導かれた方に洗礼を授ける事。②主イエス様の教えを共に学び、信じて、守り行うように教え続ける事です。その際、教える者たちもまた、主イエスの教えを学び守る必要がある事は言うまでもありません。そして、共にキリストの弟子、すなわち、イエス様に似た者となっていくのです。

洗礼は、イエス様を信じて救われて、聖霊を頂いて、三位一体の神との霊的交わりに入る事(ローマ6:3、4)のしるしです。洗礼を受けてそれで終わりではなく、続いて、主イエス様の教えを主の御言葉によって学び続け、守り続けるのです。その人は幸いな者になります(マタイ5・2~12)。しかし主イエス様の教えとご命令は自分の力では守れません。では、どうすればいいのでしょうか?

2.復活の主イエス様のお約束(20)

主イエス様はそんな弟子たちに見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節後半)と約束されました。どこでも、いつでもイエス様は信仰者と共にいて下さるのです。この時の弟子たちは、まだ宣教どころではないと思われるような、つまづいたところからやっと起き上がったような弱い未熟な弟子達です。にもかかわらず、いえ、そんな弱い弟子達だからこそ、このお言葉を下さいました。弟子たちがこれから担う使命の重さを主はご存じです。しかし主イエス様と共に担うなら重荷は軽いのです(マタイ11・28~30)。

主イエス様は一切の権威をもって、父なる神の右の座に着き、天で、地上の弟子たちの為に祝福をもってとりなし祈り、今も弟子達と共に働いておられます。

福音宣教も、キリストの弟子としての成長も、主イエス様と共にするものです。主が共にいつもおられます。だからこそ、弟子としての成長、主に従う事、福音宣教や教会教育が可能となります。主イエス様を中心とし、主イエス様に共に学び倣いながら、互いに愛し合い、共に試練を耐え忍び、共に福音を証しましょう。

(祈り)父なる神様。困難な時代でも、イエス様に学び、倣い、互いに愛し合いながら、イエス様の弟子として共に健全な成長を遂げさせてください。アーメン。


2025年3月22日土曜日

3月23日(日)午前9時半~ 第一礼拝 配信 ヨハネの福音書14章1~6、12~17節「主と共に、この世を生きる」

 

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2025年3月15日土曜日

3月16日午前9時半~ 第一礼拝 配信 *回線不具合のため、夕方礼拝録画を配信致します。申し訳ございません。

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「共にいて、お守り下さる主イエス様」マタイの福音書142233節(新約29)

時に人生で嵐の様な試練に会う事があります。そんな時どうしたらよいのでしょうか。

1.「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(227)

ある時、イエス様は弟子たちを強いて船に乗らせて湖の向こう岸に渡らせ、ご自分は祈るために一人、山に登られました(2223)。一方、弟子達は言われた通りに舟をこぎ出し、陸からもういくらか離れていましたが逆風にさらされ、波に悩まされていました(24)。次々と逆風による波が舟に押し寄せます。元・漁師もいましたが、自分たちの技能や経験や体力に勝る試練。このままでは舟もろとも沈むかも!「イエス様の言うとおりにしているのにどうして?」と思ってしまうような状況です。そんな彼らの所にイエス様が来られました。25節。夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。「夜明けの三時ごろ」は午前3時~6時にかけての事です。夜明け前の薄暗がり時、イエス様が湖の上を歩いて来られました(25)夜中に海の上を歩いてくる人(実はイエス様)を見て、弟子たちは湖の上を歩いておられるのを見て「あれは幽霊だ。」(26と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのです。

私達も試練の中で、試練が続く中で、共にいて下さるイエス様を見失ってしまう事がありえます。しかし、主は試練の中にいる弟子達のそばにまで来て「すぐに」御言葉をもって語りかけて下さったのです。27節。『しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。』。この「しっかりしなさい」という言葉は、「恐れるな、安心しなさい、元気を出せ」という意味があります。「しっかりしなさい」と言える根拠はどこまでも「わたしである」にあります。この「わたしである」とはギリシャ語で「エゴ―、エイミ」。神様ご自身のお名前であるヤハウェに通じる言葉です(出3・14)。まるで鍵で「しっかり」とロックするようにして、主イエス様と信仰によって「しっかり」とつながる事によって恐れに勝利するのです。

 

2.「なぜ疑ったのか?」~どんな試練の中でもイエス様を疑う理由などない~(2833)

するとペテロは主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください(28)と願い出ます。あいかわらず湖は荒れています。しかしペテロの心は主イエスとそのみ言葉を信じて、主イエスのお言葉通り、「しっかり」し恐れていない心の状態となったのです。イエス様が「来なさい」と言われたので、何とペテロは舟から出て水の上を歩いてイエス様の方に歩いて行きました(29)!かつて紅海の水が分かれそこを民が通った主のみわざに匹敵するような出来事を、主のみ言葉を信じる信仰によって体験したのです。ところがペテロは「風」(30、原語では「強風」を見ていて恐れました。そして沈みかけたので叫び出し「主よ。助けてください。」と言います(30)。 原語では「主よ!救って!私を!」。そこでイエス様はここでも「すぐに」手を伸ばして彼をつかんで引き上げ、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(31)と言われ、沈み始めたペテロをすぐに握って支えて下さいました。主は共にいて、お守り下さいました。二人が舟に乗り移ると風が止みます(32)。嵐の試練すら神の御手の中。舟の中からそれらを見ていた弟子たちはイエス様をまことに、あなたは神の子です(33)と言って礼拝しました。

「信仰の薄い者よ」とは信仰はあるのですが小さくなっている人の事です。その原因は主イエスとそのみ言葉から心が離れ、逆風とその影響力を見て恐れたからでした。水の上を歩いたペテロの信仰は小さくないでしょう。しかし、強風を見て恐れ、試練よりもイエス様を小さく見てしまったのです。だから、その分その信仰は小さくなってしまい沈み始めました。なぜ疑うのか。」は「疑う理由なんてどこにもないよ」、「信頼しなさい」とも言われている様です。その後すぐ嵐が止んだ様に、どんな試練の嵐も主の支配下にあるのです。時に直面させられる試練は私たちを信仰者としてさらに成長させるために存在します。全てをお見通しの主イエス様が、弟子たちを舟に乗らせて、湖の向こう岸を渡らせられたのは、実はこのためだったのです。主は私たちを成長させようとしておられるのです。それは更なる大きな試練への備えでした。主イエス様はこの出来事を通して「わたしはあなたの直面している試練よりも大きいのだよ」と教えておられます。どんな試練の中でも主イエス様を疑う理由などないのです。どんな時も主イエス様に信頼して主と共に歩みましょう。

(祈り)父なる神様。どんな試練よりもあなたの方が圧倒的に大きい事を忘れずに日々、主に信頼してつき従います。イエス様のお名前によって。アーメン