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2025年6月14日土曜日

6月8日(日)第一礼拝動画配信「父なる神の愛」ルカの福音書15・11~24(新約149~150頁)

 

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説教要旨「父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

今日は父の日です。肉親の父、育ててくれた父に思いをはせるとともに、私たち人類の共通の生みの親であります、創造主である、父なる神に心を向けて参りたいと思います。ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は、二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。

1.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。

すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、弟息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕した事でしょう。しかし弟息子は自分が息子として受け入れられるとは思えません。21節。彼は『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』と言い、雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。弟息子の自意識を超えた父の愛の取り扱い!「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!

2.このたとえが教えてくれる、父なる神の愛

これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在を無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛して下さっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改める)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらえるのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただく事により、罪赦され、神に「よし!」と認められ、受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。

キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が自分を良く評価できない時も、私という存在を常に最高に愛し続けて下さる愛を感謝致します。主の愛に信頼します。アーメン


2025年6月7日土曜日

6月8日(日)第一礼拝動画配信「神様に導かれて生きる」使徒2・1~4(新約233~234頁)

 

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説教要旨「神様に導かれて生きる」使徒214(新約233234)

今日は教会歴ではペンテコステ(聖霊降臨日)です。ペンテコステは約束の聖霊が初代の教会に最初に臨まれ、教会が聖霊に満たされた事を記念する日です。今年のペンテコステも、改めて、聖霊が初代教会に豊かにお臨み下さった事を覚えて、また現代の教会にもお臨み下さる事を信じて、心から感謝し喜びましょう。

1.聖霊に導かれて生きる(使徒2・1~4)

使徒214節は聖霊の神様が初代教会に最初に臨まれた時の出来事が記されています。この時の弟子達は苦境の中にありました。イエス様の弟子たちを邪魔して、教会を押しつぶそうとする当時のユダヤ教の宗教指導者たちのプレッシャーや、経済的困難もありました。弟子たちはこのような苦境の中で主に信頼し、主のお言葉に従い、主のお約束の聖霊を待ち望んでいました。共に心合わせて祈り合いながら、約束の聖霊を待ち望んでいました。そこについに主イエス様の約束の聖霊が一人一人に、みんなに満ちて下さったのです(使2・1~4)

「風」は旧約聖書において神の霊を表すものでした。まさに天からの息吹が吹き込まれるようにして聖霊が弟子たちに吹き込まれて教会は息を吹き返しました。ここに炎のような舌が分かれて現れ」(3とあります。一つの御霊が各々に臨んだ事を示しています。「炎」とはモーセが燃える柴で示されたように神ご自身が共におられるご臨在を示すしるしでした。これらの現象は神の霊が弟子たちに臨まれた事を示すしるしとしてこの時、特別に示されたものと思われます。

聖霊の降臨はイエス様の約束の成就です。使徒の働き18節。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。聖霊によって救い主イエス様を証しさせて頂く力が与えられます。迫害の中でも、イエス様と主の愛の教えに従う力が聖霊によって与えられます。そのような生き方は聖霊様とその助けとがどうしても必要です。この時、神に祈り続ける中で、悔い改めて、イエス様に全く信頼し、明け渡し、お従いする心で、主を待ち望む人に聖霊が臨んだのです。もちろんイエス様を信じる人の心に聖霊様はすでに生きておられます。共にいて慰め励まし助けて下さいます。さらには、主に全く信頼し、明け渡して、従う人に、聖霊様が臨まれ、満たされるのです。約束の聖霊に満たされた弟子たちはこの時、「御霊が語らせるままに」話し出しました(4)神様はご自身に信頼し明け渡して従う者を通して、さらに豊かに御業をなされます。主イエスを信じ聖霊が主導されるその導きに明け渡し、従う備えのできている者に聖霊が臨まれ、満たされました。そして、弟子たちは聖霊に導かれつつ、聖霊と共に働きます。それは主イエス様と共に働く事と同じです。

今日、聖霊に満たされたからといって、誰もがこのように外国語が話せたり、異言等の特別な言葉が話せたりするとは限りません。ただ共通する事は「御霊が…ままに」(4生きるという点です。そのように生きる時、どんな時にも聖霊による愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という愛の実が伴います(ガラテヤ52223)。聖霊によって多様な弟子達が一致して宣教の為に立ち上がり、人々の心に、愛をもって、福音を伝える事ができました(14)。ペテロをはじめ弟子達はかつてイエス様を置いて逃亡した人たちでした。ですから、この力は弟子たちのものではなく、まさに聖霊の賜物です(ガラテヤ52223、ヨハネ1426)。御聖霊の働きにより人々が回心します(使徒2・41~47)

御聖霊は日々の幸せにも欠かせないお方です。「肉」(神から離れた人間存在)から出て来る様々な「肉のわざ」と呼ばれる悪しき諸症状(淫行、偶像礼拝・魔術、敵意、争い、ねたみ、憤り、分裂分派、泥酔等。参照;ガラテヤ51921に我らは悩まされますが、御聖霊こそ、それらに効く神の特効薬です(同16節)

2.聖霊に満たされて生きる(エペソ518

「御霊に満たされなさい」(エペソ5・18)と神様は今も聖書を通して、全てのクリスチャンに示しておられます。これは「満たされ続けなさい」という事です。様々な困難や難題に現代に生きる私たちもまた今日、直面しています。だからこそ私達は主イエスとそのお言葉に信頼しつつ、助け主、慰め主であられる、聖霊に助けて頂き、慰めて頂き、励まして頂き、導いて頂きながら、神様の愛と恵みの中で、御霊の満たしとお導きをいつも、共に心を合わせて、祈り続けましょう。悔い改めるべきは悔い改め、主に信頼し明け渡し、主に心を向け心合わせて、従い続けましょう。そこに豊かな愛の実が結ばれていきます。

(祈り)天の父なる神様。いつも私たちを聖霊に満たしてお導き下さい。主に従い、周りを潤し、福音を愛をもって的確に伝える愛の人にして下さい。アーメン。


2025年5月31日土曜日

6月1日(日)礼拝動画配信「私たちに必要なお方」 使徒1・3~8(新約232頁)

 

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【説教要旨】

「私たちに必要なお方」 使徒138(新約232)

今年は教会のカレンダーでは6月8日にペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。聖霊が教会に最初に臨んだ記念日です。改めまして今朝は、主の御霊である御聖霊が初代教会に最初に臨まれる直前の弟子たちの姿に学びたいと思います。

1.主が約束されたご聖霊様とその御力 (1・3~8)

十字架の死後三日目に復活された主イエスが弟子達に40日間にわたって現れ関わり続け(3)、散らされていた弟子たちを召し集めました。弟子達は皆、罪があり、失敗があり、弱さもあり、恐れと不安を抱えていました。しかし、そんな彼らと復活の主イエス様は関わって下さり、彼らを励まし支えて下さいました。そして、主イエス様が天に昇られて見えなくなられた後も、イエス様が共におられると、お約束下さいました(マタイ2820)。そして守り、助け、導いて下さいました。さらに、弟子達に主は、聖霊の約束(使徒1・45)、すなわち、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(4)、「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」(5)、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(8を示されました。「父の約束」である「聖霊のバプテスマ」、すなわち聖霊の満たしです。

「わたしの証人」とはキリストの復活の証人の事です。この後、彼らはイエス様の約束を信じて聖霊を祈り求め続けました。このキリストとその約束を信じ続ける教会の祈りは、教会の生命線のように今日も続いています。私たちも個人で祈り、夫婦、家族、祈祷会や礼拝で、教会で共に祈る、等、祈り続けましょう。

 

2.主に祈り求め続ける者に臨まれる聖霊(1・14,2・4,ルカ11・513

教会はいつも必要なものを抱えています。そもそも人間は神を必要としています。しかし主が「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11・9)とおっしゃって下さっています。全知全能で、全き愛で、最善をなされる主なる神が必要を最善に満たして下さるどころか、ご聖霊によって神ご自身が、今も一緒に歩み導き、お助け下さいます。様々に問題があるように見えても、主が一緒に行って下さるのですから、本当は、もはや、私たちが思い煩う必要は何もないのです。主を信頼して、信仰によって先取りして喜び、感謝し、平安の中に生かされたらよいのです。主は聖霊によって、イエス様を信じる者の心の中に、イエス様が目に見えて共におられた時よりも、さらに近しく、私たちの心のど真ん中にまで来て下さいます。そして、聖霊を主に祈り求め、全き悔い改め、全き信頼、全き明け渡し、全き従順の心の備えができている者に、神様の時に、私たちの心の隅々にまで聖霊が満ちあふれて下さるのです。そこには神の平安も満ちるのです。それが神の約束です(ピリピ468)。私たちは主を信じて、主と結ばれて祈る中で喜びと感謝の生活をする事ができるのです(Ⅰテサロニケ51618)。

 

3.ありのままの今の自分で祈り求める聖霊の恵み

弟子たちは、イエス様が命じられるとおりに、自分の罪と失敗と恥の場でもあった、エルサレムという逃げ出した所、逃げ出したい所で共に心を合わせて祈り、約束の聖霊を待ちました(4)。それはありのままの今の自分で、罪や失敗や恥が主の前にも、お互いの前にもあらわになっていたにもかかわらず、主イエスをそれでも信頼し、主イエスの赦しと愛と忍耐を頂ながら、主が置かれている所で、主に信頼して主の弟子として生きていったという事です。私達もまた、置かれた所、遣わされた生活の現場で、時に、失敗や苦戦や行き詰まる中でも主イエス・キリストを信じ続けて、約束の聖霊に満たされて生きる事を祈り続けましょう。

この聖霊のみが人々を回心に導き、全ききよめ(罪を排除し、成長成熟し続ける全き愛の信仰生涯)へと導き、教会を建て上げる唯一の力です(使徒1・8、エペソ518)。その特質は愛、喜び、平安(平和)…です(ガラ52225)。

困難な時代や状況の中でも、それでも私達は聖霊の神様に信頼し、聖霊の満たし、聖霊の御業を祈り求め続け、主に委ねつつ、お従いして参りましょう。教会を、夫婦を、親子を、家族を、人々を真に生かし保ち、救い、幸福にするのは聖霊の神の御業で、全てが聖霊の恵みです。そこに素晴らしい神の御業がなされ神の愛の実が結ばれていきます。試練の中でも、私たち教会はキリストを信じ、いつも、共に心を合わせて、主に聖霊とそのお働きを祈り求め続けて参りましょう。

【祈り】天の父なる神様。ペンテコステに、聖霊が教会に最初にお臨みになった事を覚えつつ、今も聖霊に満たされて生きる事を祈り求め続けます。アーメン。