↗視聴はこちら
説教要旨「聖書が教える愛と希望」ヨハネ14章1~6節(新約213p)
今朝はヨハネ14章1~6節を心にとめましょう。以前、英国女王エリザベス2世の国葬でもこの聖書の箇所が、当時のトラス首相によって朗読されました。
この時の弟子たちは、これからイエス様が歩まれる道(十字架へ)について不穏な空気を感じ、先行きが見えず、恐れと不安の中にいたようです。そんな弟子たちに主イエス様は改めてご自身が一体誰であるのかをお示しになったのです。
1.信仰者の心を守り、平安をくださる、主イエス・キリスト(1)
1節。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」。聖書において啓示されている、唯一まことの絶対者なる神、全知全能の創造主なる神を信じ、また神の子であり神である、主イエス・キリストを信頼し続ける時、神に支えられ平安が与えられて安心し、恐れと不安から守られ、「心を騒がせられること」、「心かき乱されること」から守られます。と共に神に祈る時に平安が与えられる事を聖書は教えています(ピリピ人への手紙4・6,7)。その事を通して聖書の教える唯一まことの神は生きておられる事を知ります。
2.神の御許(天国)に居場所を用意して下さった主イエス・キリスト(2~3)
続いて2節でイエス様は言います。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」。「住む所」とは「父(唯一まことの神の事)の家」にあります。そこは天国、神の国、父なる神の御許とも言い換えられます。神の身許には多くの住まい、居場所があります。さらに3節。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」。永遠にずっと共にあなたと天国で(この世でも)過ごしたい、という切なる神の愛が表されています。聖書では、その神の愛は、親が子を愛する愛や、新郎が新婦を愛する愛にたとえられています。唯一まことの主なる神は、あなたや私たちにご自分の命を与えるほどに最高に愛して下さっています(ヨハネ3・16)。ですから、父なる神の御許、天国に私達の永遠の居場所を用意するために、主イエス・キリストはこの後、十字架で死なれます。イエス様以外の全ての人間は皆、「原罪」という罪を抱えて生まれてきます。神の前に罪ある人間は、完全に正しい唯一のまことの神のご支配(神の国)に自分の力では入れません。その原因である「人間の罪」の為に罪なきイエス様が十字架で身代りに死んで下さったのです。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに引き受けて下さったからです。それは救い主イエス様を信じる者の罪が赦され、無罪とされ、罪きよめられ、聖なるイエス様と父なる神の御許でいつも親しくできるようにするためです。神とのお交わりを通して信仰者に、神ご自身のご性質(聖さ・愛、義等)が分け与えられるためです。その証拠としてキリストは死後三日目に復活し、弟子達に現れ、弟子達の前で天に引き上げられ、父なる神の王座のある天にお帰りになりました。そして今も一切の権威をもって天に座しておられます。ですからイエス様は目には見えませんが、イエス様を信じて父なる神に近づく者をいつでも救う事がおできになるのです(へブル7・24~25)。この神の与えて下さった救いに、神からの愛と希望があるのです!
3.天国の唯一の道である主イエス・キリスト(4~6)
4節。キリスト様は続けて言われました。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」。その時、弟子のトマスが私たちの思いを代弁しているようにイエス様に聞いてくれています。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と。トマスはここで実際に歩いて行く道路を知ろうとしていましたが、イエス様の回答はトマスのイメージとは違います。すなわち6節。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」。主イエス様はトマスに対して「わたしがその天国の道なのだ」と言われます。イエス様がご自身が天国の道、真理そのもの、永遠の命なのです。イエス様だけが父なる神の御許、唯一の神の家、天国への道です。イエス様はまるで花婿が花嫁をエスコートするように天の家へと導かれます!
(結論)主イエス・キリストこそが「道であり、真理であり、命」です。イエス様だけが唯一まことの父なる神の御許、ただ一つの天国の家への、一本道です!
(祈り)天の父なる神様。唯一まことの永遠の命の道、天国への道、主イエス・キリスト様に信頼して、このお方と共に天国の道を歩んで参ります。イエス様によって、アーメン。