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2025年10月18日土曜日

2025年10月19日第一礼拝「心渇く者は主イエス様のところへ」ヨハネ7章37~39節(新約p194)

 

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説教要旨「心渇く者は主イエス様のところへ」ヨハネ7章37~39節(新約p194

 心、魂の渇きを感じる時、真にその渇きを癒せるのは主イエス様です。 

1.誰でも渇いているなら、主イエスのもとに来て飲みなさい(37

37節には「さて、祭りの終わりの大いなる日に」とあります。「祭りの終わりの大いなる日」とは「仮庵の祭りの第七日目であろう」と言われています。祭りの期間、祭司は朝ごとに神殿の丘を下ってシロアムの池で黄金の水差しで水を汲み、祭壇に注ぐ儀式がありました。7日目には祭壇を七周してから水を注ぐのです。その場には群衆が押し寄せ、神殿の音楽に併せ「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」(イザヤ12・3)が合唱され、終末の希望を人々はその注がれる水の中に見たのです。そういう背景の中で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と主イエスは立って大声で叫ばれたのです。イエス様はご自身こそが、魂の渇きを癒す、救いの井戸だとお示しになっております。その井戸には救いの源泉があるということです。イエス様は、救いの源泉である、ご自身のもとに来なさい、そして、飲みなさい、と言われます。

対象者は誰でしょう。「誰でも渇いているなら」とありますように、対象は「誰でも」であり、「渇いている」人。これは、霊的な渇きです。その霊的な渇きを、主イエスは潤す事ができるのです。「わたしのもとに来て飲みなさい」。祭壇に水が注がれるところに、人々が押し寄せたように、主イエスのもとに、魂の渇きを潤す生ける水が流れ続けている。その主イエスのもとに、「来て」「飲む」ことが渇きを潤すために必要です。「飲む」は現在形が用いられているので「飲み続ける」とも訳す事ができる。一度、イエス様に潤されたら、イエス様から離れるのではなく、いつでも、渇くならば、何度でも、イエス様に潤し続けて頂く事が必要です。つまり、イエス様のもとにとどまり続ける事が必要なのです。これは、イエス様と言うぶどうの木の幹に、私たち枝が、信仰をもってつながり続ける時に、イエス様から流れて来る養分、聖霊によって、愛の実を結ぶことに通じます。

2.主イエスを信じ続ける者の心の奥底から流れ出る生ける水の川々(38

具体的に、イエス様のところに、「来て」、「飲む」とはどういう事か。38節。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。主イエスを「信じる者」、すなわち、現在形なので今から「信じ続ける者」。一度、信じて潤されたからといって、イエス様を信じるのをやめるならばすぐに魂は渇く。イエス様をどんな状況でも信頼し続ける事。イエス様の身許に信頼を寄せてとどまり続ける中で、魂の霊的渇きは主イエスによって潤され癒され続けるのです。さらに主イエスを信じる者には、主イエスという源泉から流れくる生ける水の川(「川」は複数形)、すなわち「聖霊」が、イエス様を信頼し続ける人を満たし、良い愛の実を結びます。さらには周りの人をも潤していく様になるのです。 自分だけ潤され幸いになる事を越えて周りの人々にもその流れは及び、隣人を愛して潤すようになるのです。

3.主イエスを信じた者が受ける聖霊(39

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」。ここに、「生ける水の川」は聖霊を指す事が記されています。それは、イエス様が、十字架で死に、復活し、栄光のからだに変えられ、天に昇られた後に注がれる、ペンテコステの聖霊を指しています。そして、今、主イエスは栄光を受けておられるのです。だから、「イエスを信じる者」は、聖霊を受ける事ができる。「イエスを信じる者」の「信じる」はアオリスト。信じた、とも訳せる。イエス様を信じた者に与えられる聖霊、です。そして、この聖霊なる神様、別名「キリストの御霊」はその人を愛の実を結ぶように導きます。

主イエスが昇天後、御父と共に注がれた、約束のペンテコステの聖霊を受けた弟子たちは、楽な状況ではありませんでした。危機的状況だったのです。しかし、主イエスを信頼し、み言葉を信頼し続けました。その中で、彼らは、聖霊に満たされ、危機的状況の中でも、主イエスを大胆に証し続けました。そして、彼らを通して、主イエスは宣教され続け、多くの人が、主イエスを信じ、そして、彼らもまた、聖霊にあずかり、救われていったのです。まさに、イエス様を決定的に信じた人、信じ続ける人に聖霊が与えられ、満たされ、あふれて、主イエスからの聖霊による流れが、その人を通して、その人の周囲に影響していくさまをあらわしているのです。38節。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とある通りです。

(祈り)主よ。私をも、聖霊の通り良き通路となし、周囲を潤して下さい。アーメン。


2025年10月11日土曜日

2025年10月12日第一礼拝「豊かな実を結ぶ人生のために」ヨハネの福音書15章1~5節(新約p215~)

 

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説教要旨「豊かな実を結ぶ人生のために」ヨハネの福音書151~5節(新約p215~)

今朝は十字架の直前に主イエス様が愛弟子達に語られた説教に学びます。

1.成長させて下さる神様 ~主の御言葉と試練等による取り扱い~(1~3)

主イエス様は愛弟子達に言われます。1節。わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」。また5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。と言われました。イエス様を信じてイエス様に従っていく弟子たちは、イエス様というぶどうの木の枝のようなものです。ぶどうの枝はぶどうの幹にしっかりとつながっていると、そこから栄養分が流れてきて、ぶどうの実を結びます。そして良い実がなるためには手入れが必要です。同じようにイエス様を信じ従っていく弟子達が、聖霊による愛の実を結ぶように天の父なる神様は教え導いて下さるのです。2節を見るとわたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除きとあります。ここは農夫が実を結ぶように必要な手入れ(剪定や支え等)をして下さると理解したいと思います。時に神様は苦痛を伴う取り扱いを与える場合もあります。しかしそれはただもっと多く実を結ぶためです。罪を犯す事は、神様が愛の実を豊かに結ばせるために妨げになります。主は悔い改めに導かれることによって、さらに豊かな愛の実を主は結ばせるのです。

2節後半。実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。。主は成長している弟子はもっと成長するために、さらに教え導かれるのです。神様のみ言葉によって手入れがなされるのです。キリストの弟子も成長段階に応じた神様の取り扱いがなされるのです。神様は耐えられない試練は与えません。クリスチャンに与えられる試練は、神様がその試練を通して、さらに成長させ、さらに愛の人に変えるためです。主を忍耐しつつ信じ続ける信仰の訓練でもあるのです。御言葉に立てば時に試練はありますが成長があるのです。

イエス様はあなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」(3と言われました。父なる神様は、聖書のみ言葉、神のみ言葉によって、私たちを手入れして下さり、「もっと多くの実を結ぶ」キリストの弟子とされます。主なる神様の御言葉に信頼して聴き従って参りましょう。

 

2.さらなる成長のために~キリストに信頼し続け、聖霊を祈り求める~48

 さらにイエス様は実を結ぶ人生のために必要な事を話されました。45節。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」。「とどまる」
とは口語訳では「つながる」と訳されます。ここでは「信頼する」という事でしょう。イエス様はイエス様に信頼する者につながり、とどまって下さるのです。イエス様に信頼し続ける人は多くの実を結ぶと約束されています。なぜならイエス様とつながり、イエス様が心に宿り、住んで下さっているからです。「実」とは「御霊の実」(ガラ52223)、愛(第一コリント131813141)の実、キリストの弟子の結実です。キリストに信頼し、神の言葉に従う時、愛の実が結ばれます。イエス様を信じてとどまる以外に神様による愛の実を結ぶ事はできないのです。6節は厳粛です。だからこそ主は「わたしにとどまりなさい」と愛故に命じます。

7節に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。とあります。ここでは実を結ぶために必要不可欠な聖霊を祈り求める事で、聖霊が注がれてさらに実を結ぶ事を教えています(ルカ1113。これは主イエスを信じ受け入れ、主の御言葉を信じる人へのイエス様の約束です。そういう人のお祈りに神様は最善の形で答えて下さいます。それはその人がイエス様を信じ、神様の言葉に従い、愛の実を結ぶ事と矛盾しない形で最善に答えられます。その事を確信して神様に祈り続けましょう。そして聖霊の実である愛の実を通して農夫である父なる神の栄光が現わされるのです。8節。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。とある通りです。ここで「わたしの」とは「イエス様のもの」という意味です。「イエス様のものである弟子となる」という事です。イエス様のものである弟子達となったら主に栄光が帰されます!その事を祈り求め続けましょう。

(祈り)主よ。私にキリストの弟子としての愛の実を結ばせて下さい。アーメン。


2025年10月3日金曜日

2025年10月5日(日)第一礼拝配信

 

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