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2025年4月5日土曜日

2025年4月6日(日)第一礼拝動画配信「主イエス様のとりなしの祈り」 ルカの福音書23章32~38節(新約170頁)

 

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「主イエス様のとりなしの祈り」ルカの福音書23章32~38節(新約170)

本日は教会役員任命式が礼拝の中で執り行われます。続いて、教会役員の為にお祈りをお願い致します。今朝は、受難節に入ったこの時期に、イエス様の御受難を覚えつつ、イエス様と共に、キリストの弟子として生きる上で欠かせない「赦し」、他者を愛していくために必要な「とりなしの祈り」について見ましょう。

1.全き愛に生き、全人類の救いの為に奔走されたイエス様になされた仕打ち

主イエス様が十字架にかけられる際、他にも二人の犯罪人が、イエス様と共に死刑にされるために引かれます(32)。「どくろ」(ラテン語でゴルゴダ)と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエス様と犯罪人とを十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に(33)。イエス様は何の悪いこともしていないのに、むしろ全き愛に生きられたのに、犯罪者に挟まれる形で、その真ん中に十字架の上にはりつけにされたのです。全人類の救い主を、イエス様を信じない人々は十字架にくぎ付けにし、極悪人に仕立てたのです。主イエス様は人々の救いの為に奔走し、尽くされたのに、人々はイエス様を十字架に追いやります。

2.敵をも愛してとりなし祈る、主イエス様の愛(34)

しかし、イエス様はそれでも自分を殺す者をも愛され祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34)。イエス様は、このような驚くべき、敵をも愛する愛をもって、とりなしの祈りをされたのです。

その後、イエス様を十字架につける人々はくじを引いて、イエスの着物を分けました(34)。イエス様は何も着るものがありませんでした。民衆はそばに立ってながめていました。指導者たちもあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」(35。兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出します(36)。そして、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです(37)。

しかし、イエス様はそれらの愚弄、挑発を受けているのにもかかわらず、十字架から降りませんでした。降りることができなかったのではありません。降りようと思えば降りることがおできになるのですが、決して降りようとはされなかった。なぜなら、イエス様は、この時、全人類を罪と罪の刑罰である地獄から救うために、全人類の罪を身代わりに背負って、父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受けておられたからです。それによって、イエス様を信じる者を救うためです。ここにもご自分の敵たちのために身代わりに死ぬ愛が示されます。

悪魔は罪人をあおって、イエス様を必死に挑発し、必死に十字架からおろそうと働きかけましたが、イエス様は決して挑発に乗らず、十字架にはりつけにされたままとなってくださったのです。イエス様が十字架から降りなかったから、主イエス様を信じる私たちは救われるのです。十字架の死は失敗ではなく成功です。

さて、「これはユダヤ人の王」と書いた札も十字架の主イエスの頭上に掲げてありました(38)。これはピラトが書いた罪状書きです。イエス様がローマ総督ピラトの尋問を受けられた時(マタイ27・1114)、ピラトが「あなたはユダヤ人の王ですか」(11と問うと、イエス様は「そのとおりです」と言われました。ピラトは、イエス様は死刑になるような罪を犯しておらず、祭司長、長老たちがねたみのために、イエス様を引き渡してきたことを見抜いていました。

祭司長たちはこのピラトの書いた罪状書きを見て、「ユダヤ人の王と自称していた、と書いてくれ」と要求しますが(ヨハネ1921)、ピラトはそれを許さず、このように書かせました(ヨハネ19・22)。この看板の通り、イエス様はまことのユダヤ人の王でした。さらに言えば、神の国の王、天国の王、永遠の王、天地万物の主なる神、救い主なのです。しかし、民はユダヤ人の真の王であられる、イスラエルの主なる神を拒んで、信じ受け入れずに、十字架の死刑に処したのです。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。主イエス・キリスト様を信じないユダヤ人たちは、イエス様が真のユダヤ人の王である、と正直に言われた事を、偽りとして訴えて、それを罪状としたのです。罪人の愚かさの暴露です。

ここに記されている人間の罪は、私たちの内にある罪の性質でもあります。人間の罪が、イエス様を十字架につけたのです。しかし、イエス様は、そんな罪人たちを愛されました。その証拠に、イエス様は、十字架上で、人類の赦しを、とりなし、祈られました。そして人類の為に、身代わりに死んでくださいました。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子、主イエス様が罪人である私たちのために、十字架でとりなし祈り、身代わりに死んで下さった事を感謝致します。


2025年3月29日土曜日

2025年3月30日(日)第一礼拝動画配信「主と共に歩み、イエス様に似た者となる事を目指して」マタイ28章16~20節(新約p64)

 

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メッセージ要旨

「主と共に歩み、イエス様に似た者となる事を目指して」マタイ28章16~20(新約p64

本日は、教会学校進級式、教会学校教師任命式です。続いて、教会学校の生徒と教会学校の教師のために、教会教育のために、お祈りをお願い致します。

今朝は、今一度、主イエス様の示された私たちの歩むべき方向性について確認したいと思います。ある時、弟子たちがイエス様に「世が終わる時のしるし」について尋ねた事があり、イエス様がお答えになった時がありました(マタイ24・3~12)。異端、偽キリストの登場、戦争とそのうわさ、民族紛争、あちらこちらでの飢饉、地震…。しかし、これらは「産みの苦しみの始まり」(24・8)と主イエスは言われます。その時には、さらに、キリスト者への迫害、裏切り、偽預言者による惑わし、不法がはびこり愛が冷える…(24・12)。

しかしピンチはチャンスとも言われるように、闇が深い時こそ、真理の光は明確に輝きます。クリスチャンは世の光として、キリストと共に忍耐しつつ信仰と愛をもって輝くのです(24・13,14)。14節の冒頭には原語では「そうしながら」という言葉があります。すなわち、そのような試練の中で、キリスト様が、福音が、かえって証されるのです(14)。その際、重要な事はキリスト者がキリストの弟子として生き、成長していく事です。今朝はそのカギとなるみ言葉です。十字架で贖いを成し遂げ、死後三日目に復活された主イエス様のみ言葉、マタイの福音書28章16~20節に改めて注目致しましょう。今、改めて、キリストの弟子として生きる事、さらにはその成長が必要なのです。

1.復活の主イエス様の権威とご命令(18~20)

復活された主イエス様は弟子たちに語られます。わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(18)。この時、弟子達は困難な中にありました。ローマ帝国、ユダヤの宗教指導者達が敵に回っていました。民衆もイエス様を十字架につけろと叫んだ直後でした。しかし、この18節のお言葉が弟子たちの力であり、命であり、守りであり、勝利です。イエス様は天地万物の王で主です。たといローマ帝国とユダヤ宗教指導者たちと民衆が敵対していても勝利はゆるがないのです。一切の権威はキリストにあるからです。

主イエス様はその権威をもって言われます。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(19~20節前半)。あらゆる国の人々を主イエス・キリストにお従いする弟子にしなさい、という主のご命令です。弟子にするとは、具体的には、その直後にありますように、①愛をもって福音をお伝えして、信仰告白に導かれた方に洗礼を授ける事。②主イエス様の教えを共に学び、信じて、守り行うように教え続ける事です。その際、教える者たちもまた、主イエスの教えを学び守る必要がある事は言うまでもありません。そして、共にキリストの弟子、すなわち、イエス様に似た者となっていくのです。

洗礼は、イエス様を信じて救われて、聖霊を頂いて、三位一体の神との霊的交わりに入る事(ローマ6:3、4)のしるしです。洗礼を受けてそれで終わりではなく、続いて、主イエス様の教えを主の御言葉によって学び続け、守り続けるのです。その人は幸いな者になります(マタイ5・2~12)。しかし主イエス様の教えとご命令は自分の力では守れません。では、どうすればいいのでしょうか?

2.復活の主イエス様のお約束(20)

主イエス様はそんな弟子たちに見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節後半)と約束されました。どこでも、いつでもイエス様は信仰者と共にいて下さるのです。この時の弟子たちは、まだ宣教どころではないと思われるような、つまづいたところからやっと起き上がったような弱い未熟な弟子達です。にもかかわらず、いえ、そんな弱い弟子達だからこそ、このお言葉を下さいました。弟子たちがこれから担う使命の重さを主はご存じです。しかし主イエス様と共に担うなら重荷は軽いのです(マタイ11・28~30)。

主イエス様は一切の権威をもって、父なる神の右の座に着き、天で、地上の弟子たちの為に祝福をもってとりなし祈り、今も弟子達と共に働いておられます。

福音宣教も、キリストの弟子としての成長も、主イエス様と共にするものです。主が共にいつもおられます。だからこそ、弟子としての成長、主に従う事、福音宣教や教会教育が可能となります。主イエス様を中心とし、主イエス様に共に学び倣いながら、互いに愛し合い、共に試練を耐え忍び、共に福音を証しましょう。

(祈り)父なる神様。困難な時代でも、イエス様に学び、倣い、互いに愛し合いながら、イエス様の弟子として共に健全な成長を遂げさせてください。アーメン。


2025年3月22日土曜日

3月23日(日)午前9時半~ 第一礼拝 配信 ヨハネの福音書14章1~6、12~17節「主と共に、この世を生きる」

 

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