2026年2月25日水曜日

2026年2月22日(日)「主にあって愛し合い一つとなる教会」ヨハネの福音書17章1~5節(新約p219~)

 

説教要旨「主にあって愛し合い一つとなる教会」ヨハネの福音書17章1~5節(新約p219)                  

 1これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』とあります。「時」とは十字架の時です。「目を天に向けて」イエス様は父なる神への親しい信頼をもって、「父よ」と呼びかけて、祈られました。そして、地上生涯における最後の時、すなわち、十字架の上に上げられる時が来たことを知り、ご自分の命を棄てる事によって御父の栄光を現わす事ができるように、そのために、ご自分の受難の死がご自分の栄光を現わす機会となるように祈られました。

 2節。「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。。父が子に人間の全ての主権をすでに与えたように、子に父が与えたすべての人に永遠のいのちを子が与えるため、そのために、父が子の栄光を現わしてください、との祈りです。主イエスの身代わりの死により、主イエスを信じる者は永遠の命の賜物が与えられる事となったのです。

 3節。「 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。。ここで「知る」とは、「人物を特に霊的・人格的交わりによって知る事」です。ここでの「永遠のいのち」とは、唯一真の父なる神と御子イエス・キリストと霊的に人格的交わりによって知る事、知り続ける事を教えています。すなわちそれは、絶えず増大していく経験でもあります。この永遠の主との愛の交わりに私達を入れる為、主イエスは私たちの罪を身代わりに背負って死んでくださいました。

 4節。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。。バックストン先生は「私たちもこの世を去るときに同じことを叫びたいのであれば、日々、主と共に歩み、一日の業をその日になし終えなければなりません。」と記しています。イエス様は父なる神様からの使命、仕事を果たすことによって、父なる神の栄光をあらわしたのです。イエス様の地上の全生涯は、神の愛の展開でした(ヨハネ3・16)この4節のお言葉は、すでに先取りして、受難が全うされた事を確信しておられるのです。まさに、「わたしはすでに世に勝ったのです」(16・33)という先取りの勝利宣言です。

 5節。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。。そして、今一度、父なる神に切に祈られる主イエス様。主イエスの祈りは、十字架の受難を通してお受けになる神の栄光の輝きを祈り求めています。主イエスがお求めになられた栄光とは、永遠の昔からお持ちである父なる神の傍ら(共にある)で持っているその栄光です。バックストン先生は次のように書いています。「主はほかの栄光をお求めになりません。ただ父と交わることのみをお求めになります。」。24節でも、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」とあります。バックストン先生は、「その栄光は父の愛でした。主はその栄光をお求めになります。主は決してほかの栄光、ほかの権力をお求めにはなりません。ただ父の愛をお求めになりました。それは主の栄光でした。それはまた私たちの栄光です。私たちはそれを求めますか。私たちの栄光は、父に愛されることです。父の愛を経験することです。神はだれをも愛してくださいます。けれども、だれもがみな神の愛を経験するわけではありません。私たちの栄光は、ほかのことではありません。父の愛を経験することです。これは、世にいる間の最上の恵みです。私たちはたびたび伝道の力を求めます。心の喜びや楽しみを求めます。さまざまな成功を求めます。けれども、これらのことは真の栄光ではありません。私たちが求めるべき栄光は、ただ父の愛のみです。」。そして、11節。「…聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」。全ての教会を愛し守り養い導いておられる主に全幅の信頼をもってお従いしましょう。神様の御心はクリスチャンたちが、主にあって一つとなって愛し合う事です。天国はそういう所です。

(祈り)天の父なる神様。あなたは大切な独り子をお与えになり、十字架でお捨てになるほどに私たちを愛して永遠のいのちを与えて下さり感謝致します。それこそ、私たちの栄光です。あなたは全ての信仰者・教会を愛し、導き、守り、一つとされると信じます。どんな時でも、主に信頼しお従いします。アーメン。

2026年2月16日月曜日

2026年2月15日(日)説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)




*回線不具合のため、この度は説教要旨のみとなります。申し訳ありません。


説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)                   

クリスチャンたち教会を迫害した迫害者サウロはイエス様に出会って救われ、変えられました。その後、サウロ(別名パウロ)は多くの人に救い主イエス様の事を伝えるようになります。ある時、パウロはこれまでイエス様を伝えてきた人たちに会うために、彼らのところに行ってみようと思いました(36)。この決断が、思いがけない伝道旅行の始まりとなったのです。そこで、シラスという人と一緒に出発(1540)。アンティオケアというところを出発して、シリア地方、キリキヤ地方を通り、諸教会を励ましていきました(41)。さらに、デルベ、リステラという所に行って諸教会を励ましました(16・1~5)。

1.聖霊の導き(6~8)

それから彼らはアジアという今のトルコの西側地域を通りますが、そこでみことばを語ることを聖霊によって禁じられました。そこで、フリュギア・ガラテヤの地方を通って、そのアジア地域を通り抜けていきます。7節。こうして、アジアのミシアという地域に面した所まで、一気に進んでいきました。西側にはエーゲ海があります。そこで、北のビティニアという地方に進んで行こうとしたのですが、そこでもまた、イエス様の御霊がそれをお許しになりませんでした(8)。

2.主の御心を確認、確信して踏み出したパウロたち(9~10)

それでミシアを通って、エーゲ海に面した町トロアスに下ってそこで泊まりました。そして9節。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。」とひたすらお願いするのでした。マケドニアは、エーゲ海の海を渡った向こう岸の地域でした。著者のルカは次のように書いています。10節。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」、と。ここで、「私たち」とありますが使徒の働きの著者ルカがここで旅に加わったようです。また当時、幻や夢は神が人間に意志を伝えるための手段として認められていました。主は様々な方法で受け手の人々にふさわしい仕方でご自身の御心をお示しになります。

そして、ルカは次のように記します。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」(10節後半)とあります。この「確信した」は元来「結び合わす」という意味があり、9・22には「証明する」という意味で用いられています。この語はいろいろな証拠から一つの結論を引き出す事を表すのに使われます(小平徳行師)。この確信と結論に至るまでに、①パウロに与えられている異邦人伝道の使命があり、そして、②これまで、御霊に禁じられてきた事、そして、③今回の幻。それらのすべてが一つにつながったのです。そこで、パウロ達は、主の御心と確信して、エーゲ海を渡ります。主は、様々な形で御心をお示しになります。そして、それらは調和するのです。

神様は目には見えませんが生きておられます。神様は今も全ての人を愛して、救おうとしておられます。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ4522。そして、クリスチャンに未信者を愛する心を与え、未信者の心のSOSを聴いて、救い主イエス様を伝えるように導かれます。パウロたちは聖書をよく学び、いつも祈りながら生活をしていました。ですからイエス様をよく信じて、イエス様の御心がよくわかりました。そしてすぐに従えました。神様に示されて「ただちに」伝道に行ったパウロ達。神様から止められたらしない。神様からするように導かれたら「ただちに」するパウロたち。私たちも聖書のお言葉を忠実に学び、また、いつもお祈りしながら、イエス様のみ言葉(聖書)、聖霊のお導きに、素直に、すぐに、的確に、お従いするクリスチャンにさらに成長させて頂きましょう。

また、もし、まだイエス様を信じていない人がいるなら、今、神はイエス様によってその人をイエス様への信仰へ導き救おうとしておられます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒1631

さてパウロ達は主の導きを信じて、海を渡りリディアという方と出会い、彼女が救われます(161415)。しかし、その後、パウロ達は悪霊につかれた女性から悪霊を追い出した事がきっかけで迫害と投獄に遭いますが、その投獄先でも主に祈りつつ賛美を捧げて過ごします。その中で今度は地震が起こりますが、囚人が誰も逃げていないという奇跡的出来事を通して伝道の機会が生じ、看守と家族が救われます(163134)。その後、パウロたちは釈放されリディアの家に帰ります(3540)。こうして後のピリピ教会が誕生したのでした。

(祈り)主よ。私もパウロのようにイエス様の御心にすぐに従える人に成長させてください。救いを求める人々に主イエス様を伝えさせてください。アーメン。


2026年2月13日金曜日

2026年2月8日(日)礼拝動画配信「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章16~17節(新約p14)

 

説教要旨「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章1617節(新約p14)

このマタイ8章16,17節には主イエスの癒しの働きについての要約が記されています。8117節には三つの癒しの記事があります。そこには主イエスの憐れみに満ちた癒しの御業がなされています。また、主イエスはみ言葉によって悪霊どもを追い出したとあります。悪霊につかれて悩み苦しめられている方々が大勢、主イエスのみもとに連れて来られました。また病気の方々も連れてこられました。イエス様のそばにいた弟子達は恐れたり不安になったりしたかもしれません。しかし、主イエスは悪霊どもを追い出しました。そこには主と主のみ言葉の権威が現わされています。悪霊の働きや、病気、その他の試練で辛い時も、共におられる主イエス様とそのみ言葉と御業に信頼すればよいのですね。

病気の人々をみな残らず癒された、とあります。ここには主イエスの愛の込められた回復と癒しの御業があります。例えばマタイ8章3節前半では、ツァラアトという病の人に対して「イエスは手を伸ばして彼にさわり」とあります。旧約聖書においてツァラアトと呼ばれる律法に規定された病は、律法によって何らかの意味で「汚れ」たものとされていました(レビ記13章)。そして、このツァラアトの病人は、そのツァラアトの病のゆえに汚れた者として隔離され「宿営の外」に住む事になっていました(レビ記134546)。このツァラアトの病人に「さわる」ということは、ユダヤ人にとっては触った者も汚れた者となる、という理解でありました。この点、レビ記5・3の旧約聖書の律法では「いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ…」とあります。

しかし主イエス様は、あえて、このツァラアトの病人に「手を伸ばして」触ったのでした。イエス様は触らなくても、この後、8513節では、言葉一つで体の中風(麻痺)の病をいやしておられます。ですから、主イエス様は触らなくても癒す事ができました。しかし主イエスはあえて、この時、ツァラアトの病の人に触ったのでした。それは主イエスの愛と憐れみであるとともに、その病をご自身が担うことによって、その人を癒し、きよめるためでありました。

この点、マタイ8・17にはこれらの奇跡がイザヤ書の成就である事を示しています。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就されるためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った』」と。イザヤ53・4については「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(あるいは『悲しみ』*欄外注)を担った」とあります。そして、この事は、主イエスの十字架を指し示しています。イザヤ53・5に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」とあります。この点、Ⅰペテロ224には「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたがは癒された。」とあります。そして、この事は、肉体の病気の有無にかかわらず、私達にもあてはまります。強調しますが、肉体的病それ自体が罪ではありません。使徒パウロもまた、三度も祈ったのに取り去られなかった肉体上の不具合がありました。肉体的不具合が、神様の深いお心の中で残される事もあり得ます。その大前提で申し上げると、人類共通の「罪」という魂の不具合(病)、に対して、魂の最高の医者である主イエスが、私たちの霊的クリニック(診療所)となって、愛をこめて関わってくださいます。そして、その「罪」という魂の不具合を癒し、治し、きよめて下さるのです。この「罪」という病は、主イエスにしか癒せない、治せない、きよめることができないのです。主イエスご自身が、ご自分の命、ご自分の血による贖いという罪の解決を備えて下さいました。

私たちがこの魂の医者である主イエスの御許に信仰をもって求める時、主イエスの血というワクチンによって、罪という病が癒される、きよめられるのです。この事は主イエスのご降誕に際して、主の御使いを通して告げられていました。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1・21。主ご自身から、魂の医者であられる主イエスから、人類共通の病である「罪という病」の癒しと予防の恵みを受けようではありませんか。その中で、私達は、主の御前に、正直に、自分自身を明け渡して、取り扱っていただこうではありませんか。私たちも解決して頂きたい何かの課題があるなら、特に人類共通の「罪という病」の癒しと予防を、主イエスの愛の御心と最善の御業に信頼して、切に祈り願いたいと思います。

【祈り】主なる神様。私たち人類共通の「罪という病」を癒し、救うために、主イエス様が十字架で身代わりに御苦難を受けられた事を感謝致します。アーメン。