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説教要旨
「主なる神はおられる」出エジプト3章1~6節(旧約101~102頁)
神はいるのかいないのか。主なる神は「わたしはある」と宣言しています。
1.神に生かされてきた、モーセの生涯
イスラエル民族(へブル人)がエジプトで生活をしていた時の事。エジプトに新しい王が登場し、へブル人の状況は一変。苦役を課せられます。へブル人の著しい人口増加を恐れた王はイスラエルの男の赤子を川に投げ込んで殺せと命じます。しかしイスラエル人の助産婦たちは神を恐れて従いません。そんな中、あるレビ人の夫婦に男の子が誕生。しかし、その男の子を隠し通せず、しかし殺せず、防水加工をした籠に入れてナイル川のしげみに浮かべます。その男の子の姉は見守り続けますが、そこにエジプト王の娘が通り、彼女に拾われます。その時、モーセの姉の機転によって実母が乳母として王の娘に紹介されます。エジプトの王の娘の子として、実母を乳母として育てられる男の子。
その男の子こそモーセでした。そういう複雑な家庭環境の中でモーセは育ち、やがてエジプトの王宮で、へブル人としてではなく、エジプトの王子としてエジプト最高の教育にて育てられます。モーセは40歳までエジプトのあらゆる学問を極め、言葉にもわざにも力がありました(使徒7・22)。しかし40歳の時、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されるのを止めようとして勢い余ってでしょう、そのエジプト人を殺してしまいます。その後、イスラエル人同士の争いを仲裁しようとした時、拒まれて、「自分をもあのエジプト人のように殺すのか」と言われます。モーセはエジプト人を殺した事が知られたと思い、パロとエジプト人を恐れ、エジプトから逃亡。ミディアンという地方に逃れ、そこで結婚し子どもを授かります。そして、その地で、エジプト人に避けられ嫌われていた「羊飼い」となり、彼のしゅうとの羊を飼う羊飼いとして生きるようになり40年。へブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、エジプトの王(ファラオ)から逃れ、エジプト王国から逃れ、荒野に隠れ、今はミディアン人と共に生き、モーセは80歳に。赤子の時から自分という存在を隠され、いつも隠れて生きてきたモーセ。自分とは何者で自分の人生とは何だったのか?と彼は問うたでしょう。しかし、主はモーセにご計画をもち、必要な教育訓練を荒野で羊を飼う事を通して与えました。
2.「わたしはある」~燃えているのに燃え尽きない燃える柴を通して~
そんなモーセ80歳のある日の事。モーセはミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていました。モーセは羊の群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来ます(1)。40年間モーセは習慣的に羊を飼い続けてきました。しかしこの日はいつもと違いました。主の使いが柴の茂みのただ中の燃える炎の中で彼に現れます。モーセがそれ見ると、なんと燃えているのに柴は燃え尽きません(2)!モーセは「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」と思い見に行きます(3)。主はモーセが今までの進路をそれて燃える柴を見に来るのをご覧になりました。神は柴の茂みに隠れる様にしてモーセに「モーセ、モーセ」と呼びかけられます。モーセは「はい、(私は)ここにおります」とつい答えます(4)。モーセからは神様は見えませんが神様はモーセの全てをご存知でした。燃える柴を見るためにいつもの道から外れたモーセ。それは主に従う道への軌道修正でした。
そんなモーセに神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5)。そこに神が臨在される事のゆえに、その地は神様の聖地となりました。そして神様はモーセに履き物を脱ぐように命じます。「履き物を脱ぐ」とは当時、自分が相手にとってしもべで、服従してそむかない事を示しました。明け渡しです。
そして主はさらにモーセに言われました。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(6)。幼き日々に実母から聞かされていたでしょう、その主がモーセにこの時、御声をかけて下さったのです。その後、神はモーセに「『わたしはある』という者である。」(14)と御自身を示されます。天地万物を存在させ、モーセを存在させている神。モーセはこれまで、隠され、隠れて生きてきました。しかし神の前には隠れられませんし、この時、モーセは神の前に出ました。かつてはエジプトの王の娘に川から引き出され、それが彼の名前の由来でした(2・10)。しかし、この時、神がモーセを神の前に引き出したのです。私たちは『わたしはある』という神様によって創造され存在させられています。主なる神は私たちを愛しておられます。神の前に「わたしはここにいます」と祈り出ましょう!
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