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【説教要旨】
「主ご自身が私達と共に行く」出エジプト記33章11~17節(旧約160頁~)
今朝は、信仰者と共にいて安息を与え、導いて下さる主のお言葉に注目します。
1.あなたを愛する主なる神様(12)
33章12節はモーセのとりなしの祈りです。神に罪を犯したイスラエル民族をとりなし、神がモーセとだけでなく民とも共に歩んで下さるようにという切実な祈りです。そこには民を愛するモーセの愛があります。すると主は、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(14)と言われます。12節で主はモーセに「あなたは特にわたしの心にかなっている」と語られています。これは「お前(モーセ)は恵みを見出した、私(神)の目の中に」と訳すことができます。神様がモーセを見る時の目は、ご好意の目でした。主はモーセを愛して共におられました。神様は私達にも愛と恵みを注いでくださるお方です(イザヤ43・4)。それは神の独り子イエス・キリストを与えるほどの大きな愛です(ヨハネ3・16)。
2.共にいて安息を与える主なる神様(13~17)
主はモーセに「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(33・14)と言われました。主イエス・キリストの別の呼び名は「インマヌエル」、「神は私たちと共におられる」(マタイ1・23)という意味です。罪の世に真の神であるイエス様が真の人となられて来て下さいました。そして言われました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14・6)。イエス様は信仰者と共にいて導いて下さいます(マタイ28・20)。イエス様ご自身が道です。しかも、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…」(マタイ11・28~30)と言われました。今日、モーセにのみならず、全ての人にこの招きがなされています。重荷を共に負って下さる主イエス様に、共に重荷を負っていただいて、安息を頂きましょう。その際、不要な重荷(罪の重荷)はイエス様がすでに全て取り除き、十字架の上で、身代わりに死んで下さいました。イエス様を信じて結ばれるなら、主によって罪の重荷は全て降ろさせていただけるのです。イエス様を信じて、全ての罪の重荷を明け渡しましょう。そこに、安息があります。
しかし私たちもモーセの様にさらに15節に進みたいと思うのです。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(15)。モーセは民の罪のために神の前にとりなし祈りました(12~13、15~16)。モーセがこのような祈りができたのは神の愛を知っているからであり神の愛を体現しているからです。ここまで民を愛していたのです。
この祈りは神様の御心にかないました。神様はおっしゃいました。17節。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから」。この祈りは主イエス様の祈りに通じます。イエス様には全く罪がありませんでした(へブル4・15)。にもかかわらず主イエス様は私たち罪人のためにとりなし祈り(ルカ23・34)、私たちのすべての罪を背負って身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです(マタイ27・46)。このイエス様のとりなしの祈りと身代わりの死のゆえに、イエス様を信じる者はイエス様と一つとされる事で罪赦され(ローマ4・24、25)、罪の奴隷と重荷から解放されて(ローマ6・6,7)、主に礼拝を捧げ(ローマ12・1)、主にお近づきできます(エペソ2・18)。主と共に歩めます(マタイ11・28~30)。主にお仕えできるのです(へブル9・14)。そして天国の安息に入れて頂けるのです(ヨハネ3・16)。全ては神の恵みです(Ⅰコリント15・10)。
人生の荒野のような時も、主イエス・キリストと信仰によって結ばれている私たちと共に主は行って下さるのです。燃え尽きやすい柴(出3・2)のような、もろい土の器(Ⅱコリント5・7)のような、弱いわれらと共に主がおられる。主が共におられる事こそ救いです。主が私達を守り支え、安息を下さるのです。
私たちも主イエス様を知らない方々が主イエス様の救いに導かれ、共に主を礼拝する礼拝の民に加えられるようにとりなし祈り、愛し、伝道する重荷を主と共に負いたいと思うのです。主と共になら、弱い私たちにも負えると信じます。
主イエス様を信じる私たちと共に、主なる神様がいる事(マタイ28・20)を信じましょう。共にいて安息(救い)を下さる主に信頼して参りましょう。
【祈り】天の父なる神様。全てをご存知の上で、私達と共にいて救いに導き、安息を与え、主の御業を成して下さる事を信じて感謝致します。アーメン。
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