説教要旨「天国の道への招き」ヨハネ14章1~6節(新約213頁)
今朝はヨハネ14章1~6節を改めて心にとめましょう。以前、英国女王エリザベス2世の国葬でもこの聖書の箇所が、当時のトラス首相によって朗読されました。キリスト御自身の自己紹介が記されている箇所です(6節)。この時の弟子たちは、おそらく、今後の事について不穏な空気を感じ、先行きが見えず(13・30、38等)、恐れと不安の中で主イエス様を見失っていたと思われます。そんな弟子たちにイエス様は改めてご自身について、お示しになったのです。
1.常に信頼に足るお方、主イエス・キリスト(1)
1節。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」。唯一まことの父なる神を信じ、神の御子であり神であるイエス・キリストを「信じ続ける」様に、信仰にとどまるように言われています。人は恐れや不安に支配されると、できることまでできなくなってしまいます。しかし、旧約聖書において啓示されている、唯一真の絶対者なる神、全知全能の、創造主なる神を信じ、また神の子であり神である、主イエス・キリストを信頼する時、安心し、恐れと不安から守られ、「心を騒がせられること」、「心かき乱されること」から守られるのです。そこに主イエスの与える永遠の命(ヨハネ3・16)と平安があり、主イエス様が与えて下さる真理による自由があります(8・32,36)。
2.神の御許(天国)に居場所を用意して下さった主イエス・キリスト(2~3)
続いて2節でイエス様は言います。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか」。「住む所」とは「父の家」にあります。神の一つの家の中にあるのです。そこは天国、神の国、父なる神の御許とも言い換えられます。神の御許、神の家も一つです。しかしそこには多くの住まいがあります。さらに3節。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」。永遠にずっと共に天国で一つの父なる神の家で過ごしたい、という切なる神の愛です。聖書ではその神の愛を、親が子を愛する愛や、さらには新郎が新婦を愛する愛にたとえています。唯一まことの主なる神は、私たちにご自分の命を与えるほどに最高に愛して下さっています(ヨハネ3・16)。ですから、父なる神の御許、天国、一つの神の家に、私達の永遠の住まいに私達の居場所を用意するために、実は主イエス・キリストはこの後、十字架で死なれます。罪ある人間が、自分の力では、聖なる唯一の神のご支配(神の国)に入れない原因である「人間の罪」の為に十字架で身代りとなり、死んで下さったのです。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに引き受けて下さったからです。それにより主イエスを信じる者の罪が赦され、無罪とされ、罪きよめられ、聖なるイエス様と父なる神の御許にいつもいて親しくお交わりできるためです。また、そのお交わりを通して、信仰者に聖霊によってご自身の性質(聖さ・愛等)にあずからせるためです。その証拠としてキリストは死後三日目に復活し、弟子達に現れ、その前で天に上げられ、父なる神の王座のある天にお帰りになりました。そして今も一切の権威をもって天に座しておられます。ですからイエス様は目には見えませんが、イエス様を信じて父なる神に近づく者をいつでも救う事ができます(へブル7・24~25)。
3.天国の唯一の道である主イエス・キリスト(4~6)
4節。キリスト様は続けて言われました。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」。その時、弟子のトマスが私たちの思いを代弁してくれているように、イエス様に聞きました。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と。トマスはここで実際に歩いて行く道路を知ろうとしていましたが、イエス様の回答はトマスのイメージとは違います。すなわち6節。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」。主イエス様はトマスに対して「わたしがその天国の道なのだ」と言われます。そしてその道は真理の道であり、永遠の命の道なのです。その道だけが父なる神の御許、唯一の神の家、天国に通じる一本道なのです。そして主イエス様を信じてその道を歩み出す時、すでに天国に生きるのです。
(結論)主イエス・キリストこそが「道であり、真理であり、命」です。
(祈り)天の父なる神様。唯一まことの永遠の命の道、天国への道、主イエス・キリスト様に信頼して、このお方と共に天国の道を歩んで参ります。イエス様によって、アーメン。

