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2025年2月22日土曜日

2025年2月23日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「キリスト信仰者の良い実を結ぶ実際生活」(ガラテヤ5・16~26)(新約382頁)

 

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キリスト信仰者の良い実を結ぶ実際生活(ガラテヤ51626)(新約382)

 今朝はイエス様を信じて救われた人の歩み(生活)の実践、実際について学び、確認しましょう。それは、神の言葉(聖書)と神の霊(聖霊)に従う生活です。

1.あらすじと背景

誤った教えに翻弄され、ユダヤ人の様に律法を自分で行う事で救われよう(ユダヤ主義)としていたガラテヤ諸教会(169)。使徒パウロは、神のしもべとして、その誤りを正します(11012)。生粋のユダヤ人で熱心なユダヤ教徒だったパウロですら律法を行う事によってではなく、イエス・キリスト信仰によって義と認められると知り、パウロもイエス・キリストを信じました(21516)。さらにキリストが私(パウロ)の身代わりに十字架で処刑された事。だから私(パウロ)も共に律法に基づき処刑されたのだ(1819)、と続けます。これは罪人が完全に正しい神と共に生きるためでした。しかし、その罪人が受けるべき処罰を、神の独り子イエス・キリストが十字架で身代わりに受けて下さいました。だからこそ219、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」とパウロは続けます。キリストとはメシア(油注がれた者)の事です。旧約聖書にて、王(統治)・大祭司(仲保)・預言者(指導)の三職(任職時に油注ぎ)を兼ねて成就する存在です。そのようなメシア、救い主をユダヤ人達は待ち望んでおりました。そのメシア、キリストがついに来られたのがイエス様なのです。このお方がイエス・キリストを信じて受け入れる者の心に生きて下さいます(20)。しかもキリスト様は「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子」(20)です。ゆえに、パウロは「私は神の恵みを無駄にしません」(21と記します。

ですから使徒パウロは、偽りの教えに騙されて、ユダヤ教に改宗する事で救われようとしていたガラテヤ教会の人々に愕然としつつ(3・1~4)、「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。」(35と迫ります。もちろん、イエス・キリストの福音を信じたから、神の約束の聖霊を受けた事をユダヤ人の信仰の父祖アブラハムの話をもって説明します(3・5~14)。

2.聖霊と聖書(神の言)に教え導かれて、良い実を結ぶ生涯(51626

イエス様を信じて結ばれて約束の聖霊を受けた信仰者に、使徒パウロは、キリストにある真の自由に留まり、再び偽りの教え等の奴隷にならないように命じます(5・1)。律法を行う事では救われない事(5・2~4)、聖霊によって、信仰によって(現在と共に、最終的にも)義とされる望みを持っている事(5・5)、大事なのは「愛によって働く信仰」と示します(5・6)。そしてそのキリストを信じて救われ、罪の奴隷から解放された自由を、再び「肉」(ここでは「神から離れた人間存在」、「罪の奴隷となり、本能的欲望のままに生きる人間」の意味)の働く機会とせず、愛をもって互いに仕え合うように命じます(13)。それは律法全体を通して神が示した事です(14)。「肉」は聖霊に反抗します(17)。その処方箋は16節で「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」、と聖霊により導かれて生活し続ける事だと教えます。

御霊は神の御心のままに生きるように導きます。肉と聖霊に同時には従えません。どちらかです。肉のわざは具体的に1921節。神の国は神の恵みの支配。神の国の王はイエス・キリスト。このお方を主として王として信頼し明け渡し従って生きる、すなわち御霊によって歩む時、その結実は2223節。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。これらは神の聖なる御性質の現われで、神の聖なる律法も反対せず、むしろ承認します(23)。

そのように聖霊に導かれるなら同時に24節。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」。「キリスト・イエスにつく者」とは「キリスト・イエスのもの」という意味。キリストの十字架での贖いにより、キリスト信仰者はキリストと結ばれ、聖霊を受けて、聖霊に導かれて生きる「キリストのもの」となりました。ですからその事を信じて、私は自分の「肉」(神から離れていた自分)を、諸々の悪欲(1921)と共に「十字架につけたのです」と、主のお言葉ですから、私達も信じて、主に明け渡しましょう。

そして更に聖霊に導かれ、キリストに全く信頼し、明け渡してお従いし、聖書のみ言葉に従って前進して参りましょう(2526)。聖書は聖霊に導かれて書かれました。聖書と聖霊は矛盾せず一致して、私たちに神の御心を教え導きます。

【祈り】父なる神様。私達の生活に御霊の実を豊かに結ばせて下さい!アーメン。



2025年2月8日土曜日

2月9日(日)午前9時半~ 礼拝動画配信「主イエス様への信仰によって」ローマ4章18節~5章2節(新約112~113頁)

 


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「主イエス様への信仰によって」ローマ4章18節~5章2節(新約112113)

今朝は主への信仰によって救われた、救われている、という事について見ていきましょう。ローマにいる信徒への使徒パウロの手紙です。イエス・キリストの福音はすべての主イエス様を信じる人に罪とその結果からの救いをもたらすことのできる神の力であることを示します。罪とは、神への不信仰、不従順(不敬虔1・18)からくるあらゆる不正、悪です。それは全人類に蔓延しており、異邦人に神の戒めを教えようとしているユダヤ人も例外ではない、と示します。人は誰も自分の行いでは救われない。だからこそ、救い主イエス様、福音が神から与えられた事を、32124節において示します。神の義を受け取るための唯一の条件は主イエス・キリストを信じる信仰です。

1.信仰の父アブラハムの主への信仰(ローマ4・18~19)

418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』とあります。これはアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている唯一まことの神様を信じ、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)が、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。しかし、アブラムは神と神の約束の御言葉を信頼し続けます。すなわち、19節。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした」。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。『不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。

2.私たちも主を信じ救われて、神との平和に生きる(ローマ4・23~5・2)

 これはアブラハムだけの事ではありません。ローマ4・23~24。『しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。』。私たちがアブラハムのように信仰によって救われ、信仰によって歩み、神の栄光をもう一度現す存在へと回復されるために、神はイエス・キリストを遣わされ、十字架で身代わりに死ぬことを許されたのです25節。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。とある通りです。

そして、イエス・キリストを信じて、罪が赦され、義と認められる(無罪とされる)。罪の奴隷から解放され、愛と恵みの主人であるキリストのもの、神のものとされる。さらにはローマ5・1,2。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。

主イエス・キリストを通して、神様との平和(ヘブル語のシャローム。神の命、祝福、幸いの満ち溢れる状態)の関係が回復します。死んで天国に上げられる前から、この世において、神様との平和な関係がスタートするのです。イエス・キリストを信頼し、信仰している者は、罪が赦され、義と認められた、のです。だから、神との平和の関係を持つことができ、保たれる、のです。

赦すという事がどれほど困難か、という事を私は痛感します。ましてや、イエス様を信じる者の罪を、すべて赦し、きよめる贖いを用意をして、愛するとは、なんという途方もない愛と赦し、恵み、でしょうか。主イエスを信じる者を義とする、すなわち無罪とし、イエス様のように見て、迎え、ご自分の永遠のいのちの交わりに迎えて、与らせるとは何という愛でしょうか。この神の愛、この神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらう、この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛か、と思うのです。それは、キリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです(ルカ15章)。

【祈り】天の父なる神様。私もアブラハムのように絶望的と思えてしまう状況の中でも、それでも、あなたに信仰の目を上げて信頼し続けます。アーメン。

      


2025年2月1日土曜日

2月2日(日)午前9時半~ 礼拝動画配信

 




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【説教要旨】「神の揺るがない愛」イザヤ書431~7(旧約12371238)  

 私たちは、時に、神の愛が実感できないような時や、自分で自分を価値ある存在とは思えない時があるかもしれません。しかし、神からの愛は揺るぎません。今朝は、その事を神様のお言葉、聖書から、確認、確信しましょう。

1あなたは神に造られ、神に愛された、神のもの(1)

1節。だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。とあります。「主」とは、聖書において「はじめに神が天と地を創造された」(創世記11)と記されている、唯一まことの創造主なる神の事です。旧約聖書の創世記にて、イスラエル民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブ(別名;イスラエル)、…と、イスラエル民族、イスラエル王国を奇跡的に創り出し、形成し、保ってこられたお方です。高齢でありながら、子どもがいなかった父祖アブラハムとサラの間に、奇跡的に二人の実の子イサクを生まれさせ、その子から子々孫々が生まれ、イスラエル民族が形成されたのです。

途中、様々な危機がありましたが、神が救い、守り、導き、保って、増やしてくださったのです。まさに神が、息子娘を愛して育てるようにイスラエルを形成します。17節では何度も「私があなたを造った」という神様の切なる愛が記されています。その創造の目的は神の栄光の為です(7)。

さらに、神はイスラエルに言われます。1節後半。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」ここに出て来る、「贖った」という言葉は「買い戻す」という言葉です。ここでの「贖った」は、かつてエジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を救い出した、という意味で用いています。神の力という代価を払ってイスラエルを救い出したという事です。神ご自身が贖い主で、イスラエルをエジプトの奴隷状態から買い戻された(出エジプト)、ご主人様なのです。そして贖ったお方は慈しみ深い、愛のご主人です。だから、「わたしがあなたを贖った」から「恐れるな」です。そしてわたしはあなたの名を呼んだ。奴隷にとって自分の主人がどのような者であるか、自分が誰の所有になるのか、は大きな事でしょう(奴隷制を是認するわけではありません)。主はイスラエルの名前を呼んで贖い出し、人格を愛し尊んで下さるお方なのです。なぜなら神様は愛そのもののお方だからです。しかも、このお方はイスラエルを贖っただけでなく、創造主であり、イスラエルを愛してやまない「生みの親」、「父なる神」(ルカ151124)なのです。この事は、イスラエル民族だけにではなく、私たち、全人類に当てはまります。

聖書を読むと、創造主なる神は、全人類の創造者、生みの親、父なる神なのです。そして、全ての人が救われる事を願っておられます(Ⅰテモテ24。また「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316とあります。父なる神は、神の御子であり神であるイエス・キリスト様をこの世に送られました(クリスマスの意味)。そして、イエス様は、私たち全ての人の罪を身代わりに背負い、十字架で身代わりに死んで下さいました。これが全人類の為に父なる神が用意した「贖い」のための代価です。

その贖いの代価は、神の独り子の命です。父なる神はそれ程、全ての人間一人一人をもれなく最高に愛しておられます!そして、神は私たち一人一人の名を呼んでおられます。そして「あなたは、わたしのもの」と宣言しておられるのです。私たちは「何を所有しているのか」という事よりも、「誰のものなのか」という事を忘れてはなりません。私たちはもれなく「神のもの」です。どんな試練の中でも、神は「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」(5と約束しておられます。試練がどんなに大きくても、たとい死に直面する事があっても、それらよりも、さらに大いなる主は信仰者と共にいて守る事ができます(詩篇23篇)。

2..神の目にあなたは高価で尊い~私たちが神に愛されている理由~(4

この時のイスラエルは神の民としてふさわしくない罪深い状態になっていました。それでも神は愛しているのです。4節に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。とある通りです。これはどこまでも神の一方的な御愛、ご好意、恵みのゆえです。一方的に神がイスラエルを愛し、そして神は全人類を愛しておられます。それは神の独り子なる神、イエス・キリスト様の命を代価としてまで、あなたを滅びから救い、神ご自身の永遠の命を与えるほどの、はてしない愛、最高の愛なのです(ヨハネ316、ガラテヤ220

【祈り】父なる神様。たとい、私があなたの愛がわからず、実感できないような時でも、あなたの愛は揺るがず、私に注ぎ続けられている事を信じて感謝します。