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2025年9月28日日曜日

2025年9月28日(日)第一礼拝配信「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19章1~10節(新約157頁)

 

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「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19110節(新約157頁)

今朝は有名な聖書の話で、イエス様と出会った取税人の頭ザアカイのお話です。

1.ザアカイの友となられた主イエス様(1~7)

エリコの町にザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで金持ちでした()。ザアカイはユダヤ人でしたが同じユダヤ人からは嫌われていたようです。というのはユダヤ人を支配していたローマ帝国の出先機関としてユダヤ人から税金を集めていたからです。また取税人の中には、ローマ帝国の権力を背景にして不当な利益を得ていた者もあったようです。ザアカイがそうだったかはわかりません。でも、少なくとも、そのように見られていたようです(7節参照)。

さて、イエス様がエリコの町をお通りになった時 ()、イエス様の周りには多くの人々が集って来ました。病気を癒し悪霊を追い出し、神様のメッセージを伝える人気絶頂のイエス様。人々は様々な願いをもってイエス様の所に集まります。ザアカイは評判のイエス様がどんな方か見ようとしますが、背が低かったのと群衆のため見ることができません()。誰もザアカイをイエス様の見える所に通してくれません。それでザアカイは先回りしていちじく桑の木に登り()、イエス様を見下ろしていたのです。しかし、彼はそれ以上、近づけませんでした。

しかし主イエス様はザアカイの全てをご存じの上で、あえてザアカイの上った木の下に来られて(4)、上を見上げてザアカイに言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」()。「ザアカイ」の名前の意味は日本語でいえば「清」。でも、この後見るとザアカイは皆から、「罪人」と呼ばれていたようです。人々はザアカイを見ると、「ザアカイだ!お金を取られる!」と思って逃げて近寄らなかったかもしれません。しかしイエス様は通り過ぎないで名前を呼んで家に泊まりに来てくれました。

一方、ザアカイはイエス様に近づきたいと思っていても、自分からはできませんでした。ザアカイは木の上からイエス様を見下ろすしかできなかったのです。けれどもイエス様の方から近づいて下さり、わざわざ、ザアカイの木の下まで来てくださって、上を見上げて名前を呼んでくださいました。ザアカイがしたくてもできなかった事をイエス様はザアカイにして下さったのです。イエス様の方からザアカイの友となって下さったのです。ザアカイにとってそのイエス様の愛の行いは、まさに、福音、救いそのものを見た時だったはずです。

ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えました()

 

2.主イエス様に救われ、祝福されたザアカイと家族(810

しかし、イエス様はザアカイの家に行く事で周囲のユダヤ人から今度は悪口を言われて評判ガタ落ち。「あの人は罪人のところに行って客となった」()。罪人の家に入り、汚れたという評価でしょう。しかし、このイエス様の愛に触れてザアカイは立ち上がります。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」()。彼は主イエスを信じて救われたのです。その結果として良いわざ、愛の行いの実が結ばれたのでした。そして、他の人の事も大切にするようになりました。イエス様は彼に「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(910と言われました。「アブラハム」とはユダヤ人たちから信仰の父と敬われている人で、神への信仰のゆえに、神の祝福を約束された人でした。聖書にはイエス・キリストを信じる者こそがアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ事が書いています(ガラテヤ3・7,9)。イエス様を信じる者はアブラハムの祝福を受け継ぐアブラハムの子孫とされ神の子とされるのです。イエス様はご自分が汚されるどころか、ザアカイを救い清めて祝福を受け継ぐ人にされました。ユダヤ人なのに部外者にされていたザアカイがこの人もアブラハムの子なのですから」とイエス様から宣言された時どれほど嬉しかったことでしょう。イエス様はザアカイの様に「失われた」罪人を捜し出して救うために天から来られたのです。聖書を読むならば、全ての人は完全に清い神様の前には、もれなく罪人です。しかしイエス様は今、友となるべく全ての人の名前を愛して呼んで下さっています。

今、全ての人を愛して友となって下さる救い主イエス様を信じて心にお迎えするならば、その人は救われ、家族にも祝福が及ぶ事でしょう。そして家族もイエス様を信じるなら救われます。そして主イエス様の愛に心満たされます。そして主を愛し、隣人を愛する事に心の目が開かれるのです。ご一緒に祈りましょう。

(祈り)父なる神様。罪人の私の為にイエス様をお送り下さり感謝します。イエス様を私の心にお迎えします。私も清い愛の人にして下さい。イエス様のお名前によって。アーメン。 

2025年9月20日土曜日

2025年9月21日(日)第一礼拝配信「疲れて重荷のある人を招かれるイエス様」マタイの福音11章25~30節(新約21p)

 

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説教要旨「疲れて重荷のある人を招かれるイエス様マタイの福音112530節(新約21p)

私たちの人生において幸いな時もありますし、単調な時もありますし、疲れる時もありますし、試練の時もあります。そのような人生の様々な出来事の中で、クリスチャン生涯を生き、信仰生活を歩み続けていくために大切な事を学びます。

1.父なる神との交わりの中に生きた主イエス様に学ぶ(2527

今朝の聖書の箇所は主イエス様の奇跡の数々にもかかわらず、悔い改めなかった人々を、主イエス様は愛するがゆえに、そのままでは滅びてしまう事に嘆き悲しみ憐れまれます(マタイ112024)。時に、伝道しても信じてもらえない、というやがて弟子たちが直面する試練、嘆き悲しみを、イエス様ご自身こそ誰よりも体験しておられ知っておられます。それ以外のあらゆる苦難もご存じです。それは同じような苦難に直面する私たちの慰めです。主イエス・キリストに対する熱心な求道と拒絶という二つの反応を受けて、主イエス様は父なる神に祈ります(25)。「ほめたたえます」はイエス様が父なる神の御心に全面的に従っておられる事を示します。さっきまで嘆き悲しみ、愛するがゆえに悔い改めない街々を責めておられたのに一転、父なる神への賛美を表しました。ここにどんな時もクリスチャンとしての歩みや奉仕を続ける秘訣があります。私たちもクリスチャンとして生きる中で試練に直面し、悲しみ嘆く中でも父なる神との交わりの中に生き続ける中で支えられ、慰め励まされ、新しい力と愛と知恵を頂き、人生の歩みや、クリスチャン生活を疲れ果てずに、継続することができるのです。モーセやイサクという旧約聖書における信仰者もそうでした。信仰生活、奉仕、夫婦・親子・家族関係、仕事、人間関係等、生きる事全てにおいて主が必要です。

25節後半。これらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」。「これらのこと」とは福音の真理であり、主イエス・キリスト様ご自身の事です。「知恵ある者や賢い者とは、ここでは、高慢に陥ってしまい、福音であるイエス様を受け入れず拒絶していた人々です。そういう中でも幼子のように心を開いて救い主イエス様を信じる人もいました。それは神がなさった事でした。26そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」。イエス様は、先の嘆き悲しみの中で、同時にそれでも、父なる神に信頼し明け渡し、「そうです、父よ」とその御心に全面的に同意して従われます。

27節。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」。ここで、すべてのこととは「神の国の福音の啓示のすべて」という事です。それを父なる神からイエス様は渡されているのです。ですから、主イエス様が知らせて下さらなければ、父なる神を知る事ができないのです。主から教えられるために必要なのは謙遜です。

 

2.主イエス・キリスト様とつながり、学び、合わせて、共に生きる(2830

そして父なる神との交わりをしつつ、主イエス様はあきらめずに、常にすべての人を招き続けます。愛しているからです。28節。すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」。わたしのもとに来なさい」。ここに父なる神を真に知らせていただける場所があり、父なる神との親しい交わりがあり(第一ヨハネ1・3,4)、罪のゆるし、きよめ、神の国、安息、癒し、救い、永遠の命、知恵、愛と力の源泉、真の宝があります。イエス・キリストを信頼し、神に立ち返る時に、罪の重荷は取り除かれ、人生の重荷は主イエスが共に担って下さり、共に歩んで下さり、人生を守り導いて下さるのです。2930節。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」。「くびき」とありますがこれは強い牛と弱い牛をつなげる道具です。イエス様が強い牛、弟子が弱い牛にたとえられ、自分だけでは負いきれない重荷も主イエスが共に担ってくださるので重荷が軽くなるという事です。また主イエスの弟子になる事も意味します。イエス様は真実なお方で、ご自分に信頼して、ご自分の弟子となる者の魂や人生に、真の安息を必ず与えて下さるお方です。だからこそご自分のことを偽る事ができず、ご自分の事を「わたしは心が柔和でへりくだっていると言われたのでした(エレミヤ3・12参照)。

(祈り)天の父なる神様。人生の重荷や苦難の中で、時に嘆き悲しみ疲れる事もありますが、どんな時も、主が共に重荷を負って支えて下さり、お交わりの中で慰め励まし、立ち上がらせて下さり感謝です。イエス様によって、アーメン。

2025年9月6日土曜日

2025年9月7日(日)第一礼拝配信「聖書が教える良いお知らせ」ヨハネの福音書3章1~16節(新約聖書p179~180)

 

           

説教要旨「聖書の教える良いお知らせ」ヨハネ3・116(新約179180)

 この分厚い聖書を一言で言えば、このヨハネ316節であると言われるほど、聖書の中心的メッセージがこのヨハネ316節です。今朝、改めてこの箇所から聖書の良い知らせを確認しましょう。

1.神から新しく生まれる ~神の子どもとして生きる~(111

ある夜、ユダヤ人の指導者でパリサイ人のニコデモという人がイエス様を訪ねて来ました(12)。パリサイ人とは旧約聖書の律法を厳守しようと努力をしていた、厳格なユダヤ教の一派です。さらに彼はユダヤ人の最高法廷の71人の議員の一人。夜に来たのは世間体があったのかもしれません。彼はイエス様に尋ねます。2節。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。彼にイエス様はお答えになりました。まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3。「新しく」とは「もう一度」や「神から」という意味もあります。「神の国」、天国では神の御心が行われます。そのため神の国に生きる者は誰でも新しく生まれる必要があるのです。

ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4と問います。先の「新しく生まれ」と言われた言葉を、ニコデモは「もう一度、肉体的に生まれる」と解釈したのです。しかし主イエス様の真意は、「神から」、すなわち、霊的に生まれる事にありました。これはユダヤ教や、その他の宗教、全ての人間の力では不可能。ニコデモはまずこれを認める必要がありました。

イエス様はその事を教えようとされます。5節。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」。ここで「水」とは「悔い改め」(神への心と生活の方向転換)を意味します。主イエス様は「聖霊によって生まれる」という事を肉体的誕生とは区別して話している事を示しつつ(6)、あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(78と言われます。風は目には見えませんが音やその影響でわかるように、目に見えない聖霊の神の働きにより、人は悔い改めて(神に立ち帰り)、十字架で身代わりに死なれた救い主イエス様を信じて、神の霊である聖霊によって霊的に新しく生まれ、神の国に入り、神の家族の一員となります(エペソ219。ニコデモはそのようなことがあり得るでしょうか。」(9と答えます。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。…」(1011とイエス様。

 

2.神から新しく生まれ、永遠の命を持つために必要なのは信仰(1216

イエス様は彼にだれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」(1314と言われます。民数記2149節で、神様につぶやいたイスラエルの民達が、神様から送られた毒蛇にかまれて苦しんでいた時、神様は指導者モーセに青銅の蛇を旗竿につるすように命じ、その青銅の蛇を仰ぎ見るならば救われると示されました。その事を信じて青銅の蛇を仰ぎ見た人たちは毒が消えたのです。その様に、この後、「人の子」すなわちイエス様が、この青銅のへびのごとくに十字架につるされます。それは主イエスを信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため(15)に、全人類の罪を身代わりに背負い、父なる神からの怒りの刑罰を受けるためだったのです。

イエス様が十字架にかけられた時、ニコデモはあの夜、語られた事、そして旧約聖書を通して学んできた事の成就をイエス様に見たのでしょう。ニコデモがどの段階でイエス様とその御言葉を信じて、聖霊によって新しく生まれたかはわかりません。しかし、まさに風がどこから来てどこに行くかわからないように、イエス様をキリスト(救い主)と信じた時に彼の心は聖霊によって新しく生まれ、神からのいのち、「永遠のいのち」を得ました。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)。この「永遠のいのち」にキリスト様による救いの全てが含まれます。主イエス様を信じましょう。

【祈り】父なる神様。私たちを大切な存在として愛し、あなたの独り子、救い主イエス様を信じて受け入れる者には、永遠の命をくださり感謝致します。