「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19章1~10節(新約157頁)
今朝は有名な聖書の話で、イエス様と出会った取税人の頭ザアカイのお話です。
1.ザアカイの友となられた主イエス様(1~7)
エリコの町にザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで金持ちでした(2)。ザアカイはユダヤ人でしたが同じユダヤ人からは嫌われていたようです。というのはユダヤ人を支配していたローマ帝国の出先機関としてユダヤ人から税金を集めていたからです。また取税人の中には、ローマ帝国の権力を背景にして不当な利益を得ていた者もあったようです。ザアカイがそうだったかはわかりません。でも、少なくとも、そのように見られていたようです(7節参照)。
さて、イエス様がエリコの町をお通りになった時 (1)、イエス様の周りには多くの人々が集って来ました。病気を癒し悪霊を追い出し、神様のメッセージを伝える人気絶頂のイエス様。人々は様々な願いをもってイエス様の所に集まります。ザアカイは評判のイエス様がどんな方か見ようとしますが、背が低かったのと群衆のため見ることができません(3)。誰もザアカイをイエス様の見える所に通してくれません。それでザアカイは先回りしていちじく桑の木に登り(4)、イエス様を見下ろしていたのです。しかし、彼はそれ以上、近づけませんでした。
しかし主イエス様はザアカイの全てをご存じの上で、あえてザアカイの上った木の下に来られて(4)、上を見上げてザアカイに言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(5)。「ザアカイ」の名前の意味は日本語でいえば「清」。でも、この後見るとザアカイは皆から、「罪人」と呼ばれていたようです。人々はザアカイを見ると、「ザアカイだ!お金を取られる!」と思って逃げて近寄らなかったかもしれません。しかしイエス様は通り過ぎないで名前を呼んで家に泊まりに来てくれました。
一方、ザアカイはイエス様に近づきたいと思っていても、自分からはできませんでした。ザアカイは木の上からイエス様を見下ろすしかできなかったのです。けれどもイエス様の方から近づいて下さり、わざわざ、ザアカイの木の下まで来てくださって、上を見上げて名前を呼んでくださいました。ザアカイがしたくてもできなかった事をイエス様はザアカイにして下さったのです。イエス様の方からザアカイの友となって下さったのです。ザアカイにとってそのイエス様の愛の行いは、まさに、福音、救いそのものを見た時だったはずです。
ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えました(6)。
2.主イエス様に救われ、祝福されたザアカイと家族(8~10)
しかし、イエス様はザアカイの家に行く事で周囲のユダヤ人から今度は悪口を言われて評判ガタ落ち。「あの人は罪人のところに行って客となった」(7)。罪人の家に入り、汚れたという評価でしょう。しかし、このイエス様の愛に触れてザアカイは立ち上がります。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」(8)。彼は主イエスを信じて救われたのです。その結果として良いわざ、愛の行いの実が結ばれたのでした。そして、他の人の事も大切にするようになりました。イエス様は彼に「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(9,10)と言われました。「アブラハム」とはユダヤ人たちから信仰の父と敬われている人で、神への信仰のゆえに、神の祝福を約束された人でした。聖書にはイエス・キリストを信じる者こそがアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ事が書いています(ガラテヤ3・7,9)。イエス様を信じる者はアブラハムの祝福を受け継ぐアブラハムの子孫とされ神の子とされるのです。イエス様はご自分が汚されるどころか、ザアカイを救い清めて祝福を受け継ぐ人にされました。ユダヤ人なのに部外者にされていたザアカイが「この人もアブラハムの子なのですから」とイエス様から宣言された時どれほど嬉しかったことでしょう。イエス様はザアカイの様に「失われた」罪人を捜し出して救うために天から来られたのです。聖書を読むならば、全ての人は完全に清い神様の前には、もれなく罪人です。しかしイエス様は今、友となるべく全ての人の名前を愛して呼んで下さっています。
今、全ての人を愛して友となって下さる救い主イエス様を信じて心にお迎えするならば、その人は救われ、家族にも祝福が及ぶ事でしょう。そして家族もイエス様を信じるなら救われます。そして主イエス様の愛に心満たされます。そして主を愛し、隣人を愛する事に心の目が開かれるのです。ご一緒に祈りましょう。
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