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2023年9月2日土曜日

信仰の体験談 その1「救いの証」(後藤健一)

1982年、私は大分県日田市にて三人兄妹の長男として生まれました。幸いにも幼い頃からクリスチャンの母に連れられてキリスト教会に通っておりました。しかし、小学生になって、ある時から一時期、教会から遠のいていました。そして、元々よくなかった心と生き方が、だんだんとさらに悪くなりました。そして中学生3年生の秋、熱中していたバスケ部の部活が終わると、ぽっかり空いた心の空洞を埋めるかのように、駅伝選手に選ばれてもいないのに、駅伝選手に選ばれた他の中学生たちに混じって、夕日の落ちる夕方に練習で走っていました。何かで一番になれば幸せになれると思い込んでいた私でしたが、その時、ふと、自分もいつかは年老いて死ぬ事を思い、人生の目的を見失います。

そんな時、ちょうど、当時、同教会の牧師先生と聖書を学ぶ機会がありました。その中で、イエス・キリストの生涯を聖書からじかに学んでおりました。聖書を学び、牧師先生がお祈りされると、不思議と私の心は平安になりました。今思えば、それは、肉体に栄養と酸素が必要な様に、聖書に記されている唯一まことの神様のお言葉を聞き、唯一まことの神様に心を向けるお祈りを通して、私の魂に必要な栄養と酸素が供給されていたからだと思います。聖書の学びの後の、母がもてなしてくれた茶菓をいただきながらの何気ない雑談も楽しい時でしたが、示唆に富んでおりました。それは、何気ない雑談の中でも、聖書に記されている揺るがない確かな神の真理に基づいた見解等が、暗夜に輝く星の光のように、魂の暗闇の中に生きていた私の心を照らしていたからだと思います。

さて、聖書からイエス・キリストの生涯を学ぶ時、イエス・キリストのすばらしい教えと行動、その愛と権威にあふれた人格、人には到底できない奇蹟の数々に感動しました。しかし、ある時、ふと疑問がわきました。それは、「なぜ、イエス・キリストはこんなにすばらしい方なのに、十字架につけられなければならなかったのか?」という疑問です。そんな時、牧師先生が一つのお話をされました。それは、イエス・キリストが十字架につけられた場面を描いた絵画を見ながら、老人と青年が対話をしているというお話です。老人は青年に「青年、どうして、キリストは十字架につけられなければならなかったのか?」と問います。青年は「全人類の罪の為です」と答えます。すると老人は「確かにそうだ。しかし、青年。キリストはあなたの罪のために十字架にかけられなければならなかったのだ」と言います。

その時、私とその青年がぴったりと重なり、これまでの私の罪がスライドショーのように思い起こされました。そして私は「自分はこのままでは地獄行きだ」と思いました。そして牧師先生に神に祈るように導かれ、神様に罪びとの私をおゆるしくださるようにお祈りしました。それ以来、なぜか、イエス・キリストは私の罪のために身代わりに死なれた事が信じられるようになりました。後にそれは神様の働きによることを知りました。これが私の救いの原点です。それ以来、イエス・キリストを私の救い主として信じるようになりました。そして、中学3年生のクリスマスに洗礼を受けました。神の御子イエス様をほめたたえます!

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(聖書・ヨハネの福音書316節)


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