基本集会のご案内
〇日曜礼拝(毎週日曜日午前)*第一、第二礼拝等のご案内
第一礼拝(お話は第二礼拝よりも短めです)
*席数は第二礼拝に比べて空席(15席程)は十分あります(駐車場は軽4台or普通車2台程。事前にご連絡頂くと駐車場の空きの確認や予約ができて確実です。どうぞ、ご相談下さい)。空席状況や駐車場がご心配の方はあらかじめご連絡ください。
午前9時30分~10時頃 *終了時間が10時15分頃まで延長する場合もあります。
【ライブ(録画)配信でもご視聴できます】
*回線不具合等により、配信開始が遅くなる場合や配信ができない場合もあります。時折起こる回線不具合の為、第二礼拝、午後礼拝の配信となる場合もございます。あらかじめご了承ください。
*説教者のみを撮影して配信しています。会衆は映りません。
*視聴される方は↓の写真をクリックしてください。「youtubeで見る」という文字が写真内に出た場合はそちらをクリックしてください。
第二礼拝 午前10時30分~11時30分頃
(お話は第一礼拝よりも詳しくお話します)
☆諸事情により、どうしても上の時間帯での礼拝出席がかなわず、その他の時間帯での個別の礼拝【早朝(例・朝6時~6時半)礼拝、午後礼拝、夕礼拝(午後8時~8時半)等】の時をご希望の方は、ご遠慮なく、事前にご相談ください。なるべく対応させて頂きます。
☆彡 当教会のコロナ対策方針
☆特に高齢者等リスクの高い方への配慮のため、アルコール消毒、換気、密閉、密集、密接を避ける等を引き続き実施します。マスク着用は各自で適宜ご判断をお願い致します。
☆なお3密防止のため席数(14席程)が限られています。また駐車場も軽自動車4台分(実質2~3台分)と限られています。ご参考までに、現在は午前9時半~の第一礼拝の集会の方が空席が15席程と十分あります。第二礼拝は日によっては空席が4~5席の時もあります。空席状況がご心配の方はあらかじめご連絡頂く事をお勧めしております(特に第二礼拝出席時)。なおご連絡頂かなくても、空席があれば、先着順にてご着席可能です。
☆満席時も、なるべくご着席頂けるように対応させて頂きますが、どうしてもスペースに限りがありますし、コロナ感染対策のため、場合によっては、オンラインでのご参加をお願いする場合もございます。その際は、どうぞ、ご了承ください。事前にお電話頂くと確実です(教会の電話 095(870)7200、あるいは牧師直通携帯;080-6322-5554)。
☆引き続き、コロナ対策の為、ご体調のすぐれない方や、コロナの感染がご心配な方は、ご無理はなさらないで、上の方にあります、「礼拝ライブ配信または録画配信」を用いて、ご自宅にて、主なる神様を礼拝頂ければと存じます。その他、ご心配な点等やご質問等ございましたら、どうぞ、お尋ね下さい。
〇教会学校(子ども) 午前9時半~10時頃
〇聖書研究祈り会 毎週水曜日 午前10時30分~11時30分頃
*各集会は全て無料ですが礼拝では自由献金の時があります(強制ではなく自由です)。
☆「やさしい聖書の学び」(お申し込み随時受付中)*ご都合の良いお時間で聖書を学べます。オンラインでも個別にも対応致します。ご遠慮なくご相談下さい。
*その他、ご質問、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
☆彡教会周辺の地図はこちら↓
一月 第三主日礼拝
◇礼拝の始まり5分前には心を静めて、静かにお待ちください。
♢コロナ感染対策は、各自で、適宜、お気をつけ下さい。
前 奏
頌 栄 『あめつちこぞりて』(新聖歌60) (一同起立)
主の祈り (週報左下記載)
祈 祷 司会者 (会衆着席)
信仰告白 使徒信条 (週報右下記載)
聖 書 マタイの福音書16章21~26節(新約34頁) 司会者
讃 美 「見失せしわが主と」(新聖歌363B)
(一同起立)
献金・祈祷
頌 栄 『父・ 御子・ 御霊』 (新聖歌63) (一同起立)
祝 祷 後藤健一牧師
主の祈り
天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ、
み国を来らせたまえ、みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ、
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ、我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ、
国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり、アーメン。
日本イエス・キリスト教団 信仰告白文 (毎月第一日曜日第二礼拝のみ告白)
わたしたちは信じて、告白します。旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた、誤りのない神のことばであり、キリストをあかしし、福音の真理を示すもので、教会の拠(よ)って立つただ一つの正典です。聖書は、わたしたちに、神と救いについての完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の規準です。
主イエス・キリストによって啓示され、聖書にあかしされた唯一の神は、父と子と聖霊の三位一体の神であり、その本質において同一です。イエス・キリストは、神のひとり子であり、わたしたちを罪から 救うために人となり、身代りとなって十字架にかかり、ただ一度、ご自身を完全な犠牲(いけにえ)として神にささげ、あがないを成就されました。その復活は、永遠のいのちの保証です。天に昇られた 主は、キリストの日に至るまで、わたしたちのためにとりなしておられます。
わたしたちは、神の恵みにより、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、罪をゆるされ、神と和解し、新たに生まれて神の子とされます。わたしたちは、キリストの血によって、すべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマを受け、その内住による全き支配によって、主のかたちに変えられていきます。主は 再び来られ、わたしたちを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて、永遠のみ国をつぐ者とされます。
教会は、キリストのからだであって、神に召された聖徒の集まりです。教会は、公同の礼拝を守り、主の命(めい)にこたえて、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を執り行ない、聖徒をととのえ、主に仕えつつ愛のわざを励み、主が再び来られるのを待ち望みます。わたしたちは、このように信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白します。
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、 生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。
「キリストの道を共に生きよう」マタイ16章21~26節(新約34頁)
前回はペテロがイエス様に「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16・16)と告白したところを見ました。イエス様もペテロの信仰告白が主に導かれたと示しつつ、「あなたは幸いです」(17)と喜ばれました。
1.キリストに信頼して付き従う道(21~24)
その直後の事です。21節。「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」。十字架での身代わりの死です。これこそイエス様がご降誕された目的であり、私たちを救うための救いの御業です。しかし22節。『すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」』。良かれと思って言ったのかもしれません。しかしペテロはイエス様を自分に引き寄せていさめはじめ、イエス様の十字架は起こらないと否定したのです。しかし、この事は愛する弟子を通してのサタンの大きな誘惑でした。しかしイエス様はペテロに言います。2 3節。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。イエス様は愛弟子のペテロを通して働きかけて来たサタン(悪魔)を退けました。そして弟子達に言われました。24節。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。この24節を4つに分けて見ていきましょう。
第一に「だれでもわたしについて来たいと思うなら」。だれでもイエス様についていきたいと思うなら…ついて来なさい、と広く招かれています。イエス様に出会い、イエス様のすばらしさを知ったお互いです。皆がイエス様についていきたいと願っているはずです。主イエスは「従って来なさい」と言って下さいます。
第二に「自分を捨て」です。イエス様を第一にして生きる事です。自己中心の自分をもったままでは、この時のペテロの様にイエス様に従い続けることはできません。イエス様の道は愛の道です。人は皆、罪びとでわがままの心があります。だから、そんな自分を捨てなければ、イエス様に従い続ける事はできないのです。
第三に、「自分の十字架を負って」です。イエス様の道は十字架の道です。その道を進み続け、イエス様に従い続けて生きるためには、わがままな自分がいつもイエス様と共に十字架につけられている必要があります。十字架を負い続けるとは、そういう罪の自分が十字架でつけられ、そこで死に続けている、という事です。そうでないと誘惑や迫害の中でもイエス様に従い続けることはできません。
第四に「わたしに従って来なさい」とあります。そのためにはいつもイエス様を信じて、信仰の目でイエス様を見続ける必要があります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル12・2)。もう一度24節。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」。これらは別々の命令ではなく、弟子としての生き方であり、神への信頼と献身、神の御心への日々の従順を求める言葉なのです。私たちもイエス様を信じて、聖霊によって、自己中心な自分、罪の自分、主イエスへの不信仰と不従順な自分を主に明け渡し、それらに十字架でイエス様と共に死に続けつつ、イエス様を信仰の目で見続け、従い続けましょう。
2.キリストに信頼して従う事で真に生かされる永遠のいのちの道(25~26)
イエス様はさらに続けて言われました。25~26節。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」。そもそも自分のいのちを救うことは私たちにはできません。ですから自分のいのちを救おうとする者は皆、自分のいのちを失います。救い主イエス様に救って頂く以外にないからです。たとい主イエス様に従う故に試練があっても、主イエスに信頼する者に永遠のいのちがあり、主との幸いな永遠の愛の交わりがあり、主に信頼してお従いする道こそ、自分が本当に神に生かされる道なのです。
(結論)主イエス様のお招きにお応えし、私たちも、主イエス様にどこまでも信頼し、ついていきましょう。自己中心の自分ではなく、主イエス様中心に生きましょう。その中で試練の十字架があっても、それでも主イエス様を信頼して、お従いして行きましょう。主イエス様はいつも共にいて守り、お支え下さいます。
(祈り)天のお父様。あなたに信頼して従って参ります。この世での試練の中でもご聖霊によって守り導いて下さり、あなたに付き従わせて下さい。アーメン。
出典:聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
―今週の予定―
☆1月24日(水)聖書研究祈り会
午前10時半~。
☆1月25日(木)15時~ 子ども宿題タイム
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