後藤健一 救いの証(信仰の体験談)
1982年、私は大分県日田市にて三人兄妹の長男として生まれました。幸いにも幼い頃からクリスチャンの母に連れられて(現在は日本イエス・キリスト教団の)日田福音キリスト教会に通っておりました。幼稚園はキリスト教会付属幼稚園のルーテル幼稚園に通い、その中で、聖書の言葉を暗唱したり讃美歌を歌ったりしていました。家では母親がひざまずいて聖書を読んでいた姿が印象に残っています。
しかし、小学生になったある時から一時期、教会から遠のいていました。そして、元々よくなかった心と生き方が、だんだんとさらに悪くなっていきました。そして中学生3年生の秋、熱中していたバスケの部活が終わると、ぽっかり空いた心の空洞を埋めるかのように、駅伝選手に選ばれてもいないのに、駅伝選手に選ばれた他の中学生たちに混じって、夕日の落ちる夕方に練習で走っていました。
自分の名前が「健一」だからという理由もあってだと思いますが、なぜか単純に「何かで一番になれば幸せになれる」と思い込んでいた私でした。しかし、その秋の夕暮れに走っている時、ふと、「今でも、田舎の少ない人数の学校ででも何も一番になれるものがない。勉強でも、部活のバスケでも、人気でも…。なのに、これからもっと大きな高校に入って、もっとライバルが多くなるのに一番になれるのか」、「たとい何かで一番になれても、やがて、もっとできる人が出て来て追い抜かれる」、「そもそも、自分もいつかは年老い、そして、死ぬ」という事を思い、人生の目的を見失ってしまったのです。
しかし何を思ったのか、道徳的な事でなら学校で一番になれるかもしれないと錯覚して、その事を自分なりに追求しました。学校ではそれなりに振舞えたと思っても、家に帰ればストレスが爆発して、暴君のような自分の姿を見出して愕然とする事がしばしばありました。反省しても反省しても、頑張っても、変えられない自分。ふと鏡を見れば、ニキビだらけの、暗い、醜い自分の顔を見て絶望しました。
ちょうどその時期、当時、同教会の牧師の先生と聖書を学ぶ機会がありました。その中で、イエス・キリストの生涯を、聖書をじかに読みながら学んでおりました。聖書を学び、牧師先生がお祈りされると不思議と私の心は平安になりました。それがほぼ毎回でしたので不思議でした。今思えば、それは、肉体に栄養と酸素が必要な様に、聖書に記されている唯一まことの神様のお言葉を聞き、このお方に心を向けるお祈りを通して、私の魂に必要な栄養と酸素が供給されていたからでした。聖書の教えている唯一まことの神は、目には見えませんが、本当に生きていて、私たちを生かす、命を与える事のできる神だからです。
また、牧師先生との聖書の学びの後の、母がもてなしてくれる茶菓が新鮮でした。その母の改まった茶菓のもてなしを通して、母の愛に改めて気づかされたのでした。そこでの牧師先生との何気ない雑談も楽しい時でしたが、示唆に富んでおりました。それは、何気ない雑談の中でも、聖書に記されている揺るがない確かな神の真理に基づいた見解や意見等が、暗夜に輝く星の光のように、魂の暗闇の中に生きていた私の心を照らしていたからだと思います。
さて、聖書からイエス・キリストの生涯を学ぶ時、イエス・キリストのすばらしい教えと行動、その愛と権威にあふれた人格、人には到底できない奇蹟の数々に感動しました。しかし、ある時ふと疑問がわきました。それは、「なぜ、イエス・キリストはこんなにすばらしい方なのに、十字架につけられなければならなかったのか?」という疑問です。ちょうどその時、牧師先生が一つのお話をされました。それは老人と青年が絵画を見ながら対話をしているというお話です。イエス・キリストが十字架につけられた場面を描いた絵画を見ながら、老人は青年に「青年、どうして、キリストは十字架につけられなければならなかったのか?」と問います。青年は「全人類の罪の為です」と答えます。すると老人は「確かにそうだ。しかし、青年。キリストはあなたの罪のために十字架にかけられなければならなかったのだ」と言います。その時です!私とその青年がぴったりと重なり、これまでの私の罪がスライドショーのように思い起こされました。そして私は「自分はこのままでは地獄行きだ」と直感しました。そして牧師先生に神に祈るように導かれ、神様に罪びとの私をお赦し下さるようにお祈りしたのでした。
以来、イエス・キリストは私の罪のために身代わりに死なれた事が信じられるようになりました。そして、中学3年生のクリスマスに洗礼を受けました。後に聖書を学んでわかったことは、そのように私が自分の罪に気がついて、その罪の為に身代わりに死んで下さった救い主、イエス・キリスト様を信じられたのは、「聖霊」と呼ばれる神様の霊のお働きによることを知りました。
その後、高校、大学、と進む中で、クリスチャンとして生きる中で、神様の恵みがたくさんありました。人生の折々で、聖書の教える唯一真の神様が助けて下さった、という事を度々、経験して参りました。必要なものも与えられ続けてきました。幸せも一杯頂いています。また紆余曲折があり、悔い改める事も多くありました。しかし唯一まことの神様はいつも愛して、赦し、救い、助け、立ち上がらせて下さいました。その中で神様の愛と恵みを頂き続ける中で「自分は幸せ者だ」と神様に思わせて頂いております。神様は全ての人を愛して、救い主イエス様を信じる者を幸せにして下さる事を信じます。
試練もありました。一例を挙げますと、大学生の時にイエス・キリストの復活を否定する内容の本を図書館で見て、ショックを受けキリスト教信仰が揺さぶられた事もありました。しかし、聖書を読み続け、教会に集い、その交わりの中で、またそういう反キリスト教の言説に対してちゃんと証拠を挙げてイエス・キリストの復活を弁証しているクリスチャンの学者の本も読む中で、これまた聖霊のお助けにより、ショックから立ち直り、かえって、主イエス・キリストの復活をさらに確信させて頂きました。
41才となり人生の後半を意識しますが、振り返ってみて、本当に幸いな日々を歩ませて頂いていた事を思います。つらいこと、悲しい事もありましたが今は特に思い出せません。これもまた神様の恵みと守りである事を思います。そして、唯一まことの神の誤りのない神の真理のことば、全人類への神のラブレターである聖書があり、イエス・キリストの救いという最高の良い知らせ(福音)があり、神ご自身がいつも共におられる!何と幸いな事だろうか。この聖書を、福音を人々と分かち合っていける幸い、主と共に生き、働ける幸いを思います。
しかし同時に自分の衰えも意識するようになりました。しかし、聖書も福音も変わらず、神の愛も変わらずに常に私たちに与えられており、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わりません。人生の後半戦、愛する日本の救い、日本でクリスチャンがたくさん起こされる大リバイバルの到来を信じて祈りつつ、ワクワクしながら、福音宣教に励んで参りたいと思います。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(聖書・ヨハネの福音書3章16節)
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