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2025年3月8日土曜日

3月9日(日)礼拝動画配信 ルカの福音書15章11~24節(新約149~150頁) 「救い、回復せずにはおれない父なる神の愛」 

 

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救い、回復せずにはおれない父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

1.イエス様のたとえ話(15110

ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。律法学者、パリサイ人と呼ばれる当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は①100匹の羊と羊飼いのたとえ、②10枚の銀貨と婦人のたとえ、そして、③二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。有名な「放蕩息子」のたとえ話です。このようなお話です。

2.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、この人は幸いにも本心に立ち帰りました。1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、その息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕したことでしょう。そして父に言おうと思っていた事を父に言います。21節。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』…。そして、息子が雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。

「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在そのものを無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛してくださっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改め)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらうのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただけます。それにより、神に義と認められ、神に受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛かと思うのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が、うまくいっていてもそうでなくても、私という存在を常に最高に愛し続けてくださっていることを感謝致します。アーメン。


2025年3月1日土曜日

2025年3月2日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「雅歌に見る、主イエス様の愛」( 雅歌8章6~7節 )(旧約1165頁)

 

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「雅歌に見る、主イエス様の愛」雅歌8章6~7節(旧約1165頁)

 今日は旧約聖書の『雅歌』から、主イエス様の愛について見て参りたいと思います。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によると、『雅歌』はヘブル語での書名は「歌の(中の)歌」、「最高の歌」を意味します。なお「雅歌」という呼び名は漢訳聖書から来ているとの事です。さて、一章の表題には「ソロモンの雅歌」とあります。『雅歌』はダビデ王の子ソロモン王の残した愛の歌であります。

1.     背景

雅歌を読んでいると、「どの言葉を誰が語っているのか」また「その意味するところは何か」を考えさせられます。この点、E・J・ヤングは「これは人間的愛の純潔を語っているばかりではなく、これが正典に編入されている事実そのものから、我々の愛よりも純潔な愛を、我々に思いおこさしめる」と述べています。さらには「雅歌」は「われらの目を、たしかにキリストに向けさせる」とも述べています(同上書「雅歌」)。また、鎌野直人師はこの雅歌について、「…おとめとエルサレム神殿の結びつきがそこここに描かれていることから考えると、この愛の歌は、実際には比喩的に主とイスラエルの結びつき、そして主の都エルサレムやそこにある神殿と民の結びつきを歌ったものであるとも考えられます。もしそうであるとしたら、イスラエルの間に住むことによって、イスラエルを通して諸国に祝福を注ごうと願う主の姿が雅歌に描かれていると理解することも可能です」(『旧約聖書ガイドブック』、「雅歌」p210)と述べています。

神の民イスラエルの民を愛してやまない主なる神。その関係が、この雅歌の男女の愛に現されている。そしてこの関係は新約聖書における、教会と主イエス様の関係と二重写しとなります。さらには、この主イエス様と教会の愛の関係は、夫婦の関係の模範としても適用されます(エペソ5章参照)。この『雅歌』が、神様との関係抜きで生きる空しさからの悔い改め(方向転換)を教える『伝道者の書』の後にあり、また、夫を裏切る妻の様になってしまった神の民イスラエルと、それでもその神の民イスラエルを愛する、良き夫の様な主なる神の愛の姿が描かれる、「預言書」の前に雅歌がある事も意義深くつながります。主なる神と神の民イスラエルの愛し合う姿、さらには、主なる神と神に造られたすべての人間とが愛し合う本来の姿を、この「雅歌」という愛の歌に見ます。

2.雅歌に見る、主イエス様の私たちへの永遠の愛(8・6,7)

7章までを見ると、お互いに愛し合い慕い合いながらも、5章以降、二人は離れ離れになってしまっていました。しかし、この7章で再び出会い、お互いの距離が解消しています。特に、その事が711節の個所の、「さあ」との呼びかけと、「私たちは」との言葉から、わかります。それに、その後、8章5節でも「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上ってくる女の人はだれでしょう」。と二人を見た人たちは言っています。二人は再び一緒になれたのでした。この場面では、二人は、「荒野」(8・5)に一緒にいます。しかし、愛し合う者同士が一緒なら、たとい、そこがどんな環境であっても、「荒野」(5)であっても幸せなのです。私たちも愛する主が一緒なら、いつでもどこでも幸せです。 

再会を果たし、再び一緒になれた、神の民を表す女性は、主なる神を表す男性に次のように述べています。今日の中心個所です。867節。

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません」。(6,7節)

この言葉には、神の民(イスラエル民族、さらにはキリスト教会)を示しているこの女性の、主なる神様を表す男性からもう離れたくない心が表れています。この点、沢村五郎師は「これは常に心に刻み込んで記念していただきたいという願いです」と述べ、また「イエスさまは、永遠にみ手に傷を受けておられます。・・・主は永遠のみ座にあっても傷が残っています。それは私たちへの愛のしるしです。それを見ると、私のために命を捨ててくださった主のご愛を忘れることは決してできません」(『雅歌講話 聖なる愛の歌』p157)、と復活してなお残る、主イエス様の十字架の傷跡について述べています(ヨハネ2027参照)。栄光の復活体で復活されたのにあえて十字架の傷跡を一部残されたのは、私達への永遠の愛の印をご自分に刻印されたからだと信じます。神の永遠の最高の愛で愛され、主と愛し合って生きる!この事がどれほど私達を力強く生きる者とする事でしょう(ローマ8・35~39)!いつも主との愛の交わりで更に強くされましょう!

【祈り】主よ。何ものも主の永遠のご愛から私達を引き離せません!アーメン。