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2025年3月1日土曜日

2025年3月2日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「雅歌に見る、主イエス様の愛」( 雅歌8章6~7節 )(旧約1165頁)

 

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「雅歌に見る、主イエス様の愛」雅歌8章6~7節(旧約1165頁)

 今日は旧約聖書の『雅歌』から、主イエス様の愛について見て参りたいと思います。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によると、『雅歌』はヘブル語での書名は「歌の(中の)歌」、「最高の歌」を意味します。なお「雅歌」という呼び名は漢訳聖書から来ているとの事です。さて、一章の表題には「ソロモンの雅歌」とあります。『雅歌』はダビデ王の子ソロモン王の残した愛の歌であります。

1.     背景

雅歌を読んでいると、「どの言葉を誰が語っているのか」また「その意味するところは何か」を考えさせられます。この点、E・J・ヤングは「これは人間的愛の純潔を語っているばかりではなく、これが正典に編入されている事実そのものから、我々の愛よりも純潔な愛を、我々に思いおこさしめる」と述べています。さらには「雅歌」は「われらの目を、たしかにキリストに向けさせる」とも述べています(同上書「雅歌」)。また、鎌野直人師はこの雅歌について、「…おとめとエルサレム神殿の結びつきがそこここに描かれていることから考えると、この愛の歌は、実際には比喩的に主とイスラエルの結びつき、そして主の都エルサレムやそこにある神殿と民の結びつきを歌ったものであるとも考えられます。もしそうであるとしたら、イスラエルの間に住むことによって、イスラエルを通して諸国に祝福を注ごうと願う主の姿が雅歌に描かれていると理解することも可能です」(『旧約聖書ガイドブック』、「雅歌」p210)と述べています。

神の民イスラエルの民を愛してやまない主なる神。その関係が、この雅歌の男女の愛に現されている。そしてこの関係は新約聖書における、教会と主イエス様の関係と二重写しとなります。さらには、この主イエス様と教会の愛の関係は、夫婦の関係の模範としても適用されます(エペソ5章参照)。この『雅歌』が、神様との関係抜きで生きる空しさからの悔い改め(方向転換)を教える『伝道者の書』の後にあり、また、夫を裏切る妻の様になってしまった神の民イスラエルと、それでもその神の民イスラエルを愛する、良き夫の様な主なる神の愛の姿が描かれる、「預言書」の前に雅歌がある事も意義深くつながります。主なる神と神の民イスラエルの愛し合う姿、さらには、主なる神と神に造られたすべての人間とが愛し合う本来の姿を、この「雅歌」という愛の歌に見ます。

2.雅歌に見る、主イエス様の私たちへの永遠の愛(8・6,7)

7章までを見ると、お互いに愛し合い慕い合いながらも、5章以降、二人は離れ離れになってしまっていました。しかし、この7章で再び出会い、お互いの距離が解消しています。特に、その事が711節の個所の、「さあ」との呼びかけと、「私たちは」との言葉から、わかります。それに、その後、8章5節でも「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上ってくる女の人はだれでしょう」。と二人を見た人たちは言っています。二人は再び一緒になれたのでした。この場面では、二人は、「荒野」(8・5)に一緒にいます。しかし、愛し合う者同士が一緒なら、たとい、そこがどんな環境であっても、「荒野」(5)であっても幸せなのです。私たちも愛する主が一緒なら、いつでもどこでも幸せです。 

再会を果たし、再び一緒になれた、神の民を表す女性は、主なる神を表す男性に次のように述べています。今日の中心個所です。867節。

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません」。(6,7節)

この言葉には、神の民(イスラエル民族、さらにはキリスト教会)を示しているこの女性の、主なる神様を表す男性からもう離れたくない心が表れています。この点、沢村五郎師は「これは常に心に刻み込んで記念していただきたいという願いです」と述べ、また「イエスさまは、永遠にみ手に傷を受けておられます。・・・主は永遠のみ座にあっても傷が残っています。それは私たちへの愛のしるしです。それを見ると、私のために命を捨ててくださった主のご愛を忘れることは決してできません」(『雅歌講話 聖なる愛の歌』p157)、と復活してなお残る、主イエス様の十字架の傷跡について述べています(ヨハネ2027参照)。栄光の復活体で復活されたのにあえて十字架の傷跡を一部残されたのは、私達への永遠の愛の印をご自分に刻印されたからだと信じます。神の永遠の最高の愛で愛され、主と愛し合って生きる!この事がどれほど私達を力強く生きる者とする事でしょう(ローマ8・35~39)!いつも主との愛の交わりで更に強くされましょう!

【祈り】主よ。何ものも主の永遠のご愛から私達を引き離せません!アーメン。



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