2026年3月31日火曜日

3月29日(日)礼拝動画配信「私たちの大牧者なる主」詩篇23・1~6(旧約954頁)

 

説教要旨「私たちの大牧者なる主」詩篇2316(旧約954)

今朝は、有名な詩篇23篇から、私たちを愛し守り養われる、唯一真の神様について見ます。冒頭「ダビデの賛歌」とあります。詩篇23篇はイスラエルの名君であったダビデ王の歌です。ダビデ王が晩年に人生の様々な悩みをなめつくした後、人生を振り返って歌ったと言われています。特にダビデが息子に謀反を起こされ、命を狙われる、苦しい状況の中でバルジライという人に接待をされた事が背景にあると言われています(第二サムエル172729)。ダビデは王になる前は羊飼いでした。彼はこの詩篇23篇にて、自分を羊にたとえ、唯一真の神様(「主」とも呼びます)を羊飼いにたとえて、実体験をもとに歌っています。

1.いつも共にいて、愛して守り養って下さる主なる神(1~3)

1節。ダビデは主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。と歌います。羊は弱い動物で羊飼いがいないと生きてはいけません。ダビデ自身も羊飼いでしたのでよくわかっていました。その上でダビデは一国の王でありながら、主が羊飼いで自らを主の羊と告白します。ここにダビデの謙遜を見ます。

2節。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。。緑の牧場とは餌のある所。パレスチナでは牧草と水は乏しく、優れた牧者によってのみ、そこを捜し当てる事ができます。か弱い羊の一切は牧者にかかっています。牧者なしには飢えと猛獣の危険からの守りの保証はありません。緑の牧場に「伏す」とは安心して餌を食べ身を横たえる事のできる安全な状態。羊飼いを信用していないとできず、それだけ主は信頼できる羊飼いだという事です。

3節。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。主なる神は信仰者を正しい道に導き、罪の悔い改めと救いに導き、その魂を復活させ何度も回復させます。それは「御名のため」です。「御名」とは神ご自身と、その聖なる神の御性質(愛、義、真実等)を現わします。神は正しいので正しい道に導きます。ご自身の聖なるご性質にあずからせる為です。

 

2.どんな試練の中でも見捨てずに、共にいて、守り導いて下さる主なる神(4)

ですから、たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。(4)と告白できます。「死の陰の谷」とは狭く険しく見通しの効かない場所。パレスチナには深い谷があり、猛獣がそこに住んでしばしば羊を襲いました。しかし災いを恐れないと言えるまでの主の守りと導きへの信頼です。目に見えない主の、現実の守り(むち)と導き(杖)によって、主を知ります。救い主イエス・キリストは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ1011)と言われました。主イエスこそ真の牧者です。このお方は決してご自身を信頼する者を見捨てません(へブル135)。

 

3.敵から常に守りつつ、敵前でも祝福を注いで下さる主なる神(56)

主は守りに加え、豊かな恵みを注ぎ続けてくださいます。ですから5節。私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれていますと歌われます。主の守りがあるので敵の前でも平然と食事ができるほど安全なのです。一方で、愛する息子に追われて逃げるダビデ。その背後には自分の犯した罪の刈り取りもありました(Ⅱサムエル1211)。しかし神はそんなダビデを追いかけるようにして彼を守り、祝福を注いで下さったのです!ダビデは息子に追われ涙を流しましたが(1530)、この神の愛と恵みに感激の涙を流したと思うのです。頭に香油を注いでくださいますとは喜びの象徴。主人が客人の頭に油を注ぐことはパレスチナでは客を歓迎する時の習慣でした。「杯」は人生を現わし、杯があふれるとは神様からの豊かなおもてなしによって人生に神様の祝福があふれている様子でしょう。自分の罪の刈り取り、愛する息子が敵になる苦しみ。しかし何とその時すら主の完全な守りと豊かな祝福がありました!ですから6節。「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。…」。原語では冒頭に「とだけ」とあります。「いつくしみ」(原語は「へセド」で「契約に基づく愛」)と「恵み」(「良い事」)「だけが」ダビデを追いかける!16節前半までの主の契約に基づく愛と恵みがあったからこそ私はいつまでも主の家に住まいます」と告白できました。これまでも、又これからも主の家に住む、と。神の愛と恵みは今も、試練の中でも、常にあるのです。

【祈り】主よ。あなたの契約の愛と恵みの故に主と共に歩める事を感謝します。アーメン。

2026年3月24日火曜日

2026年3月22日(日)礼拝動画配信「どんな時にも主に希望がある」イザヤ書40章27~31節(旧約p1232)

 

どんな時にも主に希望がある」イザヤ書402731節(旧約p1232

イザヤ書40章は、紀元前700年代のイザヤが、紀元前536年ごろの事をあらかじめ見越した上で、ペルシャ帝国のクロス王によって70年にもおよぶバビロン捕囚から解放される時の事を前もって予告した神のメッセージであると言われております。イザヤがこの書を書いた時にはまだバビロン捕囚は起こっていませんでしたが、やがて預言通り、南のユダの民がバビロン帝国に連れて行かれ捕囚に。しかし神様のご計画の中で70年のバビロン捕囚の期間を終えた時、神はクロス王率いるペルシャ帝国により、神の民は解放され自分の祖国に帰ります。その時の事を、神は預言者イザヤを通して予告しつつ、民への慰めのメッセージをあらかじめお語りになったのが、このイザヤ書40章と言われています。

1.主なる神の慰め(救い)(1~5)

1節。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──」。「慰めよ」とはヘブル語で「ナホーム」。この言葉はもともと「悲しむ」とか「悔い改める」という意味です。神の前に自分の罪深さに本当に気が付いて、自らの力の無さ、小ささ、足りなさに悲しみを覚えるというのがこの「ナホーム」の意味。そして神の前に悔い改める時に神がその人の心にお与えになるのが「慰め」です(小林)。この「慰め」は「救い」という意味です(参照;マタイ5・4)。

2節。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」。まるで牢獄から「あなたの罪はもう問われないから出てもいい」と言われるような情景(小林)です。その事がバビロン捕囚の後にあるとの予告です。バビロン捕囚が長く70年も続き、解放される希望を失っていってしまう事もあるような神の民に、主は事前に、それらを見越したうえで、前もって「その労苦は終わり、その咎は償われた」と預言者イザヤに語らせたのです。

34節。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」』。これは解放者である神が神の民を率いてバビロンから解放して下さるからそれにふさわしい道を備えよ、という意味です。また、後にバプテスマのヨハネが悔い改めを民に伝え、イエス・キリストを信じる心備えをさせた言葉です。5節。「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる」。神の約束通り歴史上においてユダヤ民族はペルシャのクロス王によりバビロン捕囚からの解放が起こります。さらに言えばイエス・キリストの十字架による救いも歴史上の本当の出来事です。これにより全ての人の救いの道が開かれたのです。主のみ言葉は必ず成就していくのです。

2.主を待ち望む者は新しく力を受ける(2731

しかし神の民は偶像に囲まれる中、バビロン捕囚が長引くと言って、やがて主を見失い、「自分たちは神に見捨てられた孤児なのだ」と嘆き希望を失います。しかし主は言われます。2728節。『イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」』。「地の果てまで創造した方」である主は、日本を含め全地を治めるお方です。また、このお方は他の何物も比較にならない、無限の力を持つ愛の大牧者です(626)。そして29節。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」お方なのです。元気の象徴でもある「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる」(30)。しかし主を待ち望む(信頼してより頼む)者はこのお方から新しい力を頂きながら生かされます。31節。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」。『「わし」という鳥は…10年に一度羽替えをするそうです。新しい羽にされて力強く飛んでいくのです。その羽が古くなってきますと彼らは羽を落とすのです。その新しい羽が生え替わってくるのを待って、ついに新しい羽で覆われて、今まで飛べなかった高さを越えて飛んでいくことができる』(小林和夫)。その様に、主を待ち望む時に神からの聖霊による新しい力(使徒18)が与えられ、自分では越えられない試練を乗り越えさせて頂けます。主を信じて待ち望みましょう。

(祈り)主よ。たとい苦難が長引くような時も、疲れる時も、あきらめないであなたに信頼し続け、大牧者なるあなたから、いつも新しい力と愛と知恵を頂きながら、あなたの慰めと救いと守りの中であなたと共に生きていきます。アーメン。


2026年3月19日木曜日

2026年3月15日(日)礼拝動画配信 「わたしたちは主なる神様のもの」 ルカの福音書15章3~7節(新約p149)

 

説教要旨「わたしたちは主なる神様のもの」ルカの福音書151~10(新約149)

 今朝の聖書の箇所はキリストの有名なたとえ話です。わかりやすくも深遠です。

1.飼い主なる神の計算を超えた無条件の愛(4)

4節。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」。迷い出た1匹のために、99匹を野原に残すのですか?それよりも、1匹は犠牲になっても、99匹の方に力を注いだ方が、賢いのではないのでしょうか、というように考える人も、あるいは、いるかもしれません。しかしイエス様は99匹を野原において1匹を探し求める事を当然のように話しておられます。ちなみに「なくした」とか「いなくなった」とありますが、これは、「失った」とか「滅んだ」という意味があります。羊飼いから離れた羊は死んだも同然、滅びた、失なったも同然なのです。羊は羊飼いなしには生きてはいけないのです。

そのため、愛のある飼い主は当然、その羊を捜すのです。この場合、99匹は、助手や羊飼い仲間にゆだねて、自分は、命をかけて、迷える1匹の羊を捜しにいく、という事が想定されますが、しかし、イエス様はそのような事をあえてここで解説していません。このたとえ話のポイントは、羊の所有者は、一匹一匹を計算抜きで愛しているという事です。1匹5万円だ、とか、1匹のために99匹を危険にさらすべきでない、とか、1匹のためにそこまですべきか、とか、そういう計算を超えて、1匹の羊を、かけがえのない存在として愛している、という計算を超えた愛です。そして、この飼い主は、ここでは、イエス様を指し、神様を指しています。迷いだした1匹は罪人のことです。

では99匹を愛していないのか、というと決してそうではありません。もし、99匹の中の別の一匹が迷い出るならば、イエス様の示す羊飼いは、その一匹のためにも、命をかけて、他の羊を置いてでも、その一匹を愛して探し求めて下さるお方なのです。ですから100匹の羊を漏れなく、計算を超えた最高の無条件の愛をもって、愛してくださっているのです。だからこそ、羊たちは安心できる。次は、自分が迷子になったとしても羊飼いは愛して助けてくれる、と。

「一匹くらい、いいや」と思っている羊飼いの羊になりたいですか。それとも、一匹一匹を命をかけて愛してくれる羊飼いの羊になりたいですか。もちろん、後者だと思います。主イエス様は、後者のような羊飼いなのです。そして、神の愛も、後者の羊飼いが示すような、無条件な計算を超えた愛なのです。

 

2.神の燃えるような愛(4~5)

さて、このたとえ話は、律法学者やパリサイ人のつぶやきと非難を受けてのものでした。そのつぶやきの中で、「この人は、罪人たちを受け入れて」とありました。「受け入れて」とは「歓迎する」とか「待ち望む」という意味もあります。イエス様は、このつぶやきを受けて、3つのたとえ話を話されました。確かに、イエス様の言動を見たら、「受け入れ」、「歓迎し」、「待ち望んでいる」わけですが、この3つのたとえ話を通して、神様の愛は、そんなものではない、もっとすごい、地獄の炎にまさる愛の炎だ、と教えているように思います

4節は、見つけるまで捜し求める愛!そして、5節。「見つけたら、大喜びでその羊をかついで」とあります。これは、「両肩」の意味です。この羊飼いは、イエス様の事を指している。イザヤ9:6では有名なキリスト預言です。主イエスはその肩(片方)の方に、主権を担うお方。そのような方が、 一匹の滅びに向かう無力な迷える羊を、わざわざ両肩に担いでいます。これは愛です。片手で楽々とつかんで帰れるのに、両肩にしっかりと担いで帰る。それは愛です。無駄とか、余計な事を、とか突っ込める場面でしょう。しかし、それは神の愛の現れです。

その神の愛が最もはっきり示されたのは、十字架のイエス様です。絶対主権者なる主イエスが、地獄に向かう滅びた罪人一人の救いのために、天の王座を後にして、この闇の世に、罪びとと同じ姿となって、ご降臨くださり、私たちの罪を全身全霊で十字架で身代わりに担ぎ、担い、身代わりに死なれました。地獄の苦しみを味わいました。そこまでされたのです。

旧・統一教会は、この神の最高の愛を失敗と言います!とんでもない!この神の愛による身代わりの死が、私たちの贖いの為に必要なほどに、人類の罪は罪深いという事でもあります。しかし、この神の愛、十字架のキリストの愛によって、救い主イエス様を信じる私たちは救われたのです(イザヤ9・7、使徒1631)。

【祈り】天の父なる神様。私をここまで愛して下さっている事を感謝致します。


2026年3月7日土曜日

2026年3月8日(日)礼拝配信「主なる神を第一にする祝福された生涯」創世記26:23~25(旧約45頁)

 

説教要旨「主なる神を第一にする祝福された生涯創世記26:2325(旧約45)

1.神のみ言葉を信じて従う中にある主の祝福(26・1~12

イサクの時代、その父アブラハムの時代にもあったのですが飢饉がありました(1)。そこでイサクは「ゲラル」という所に行きます。さらにイサクは父の時と同様エジプトに身を寄せようとしたようです。当時、飢饉の時には肥沃なエジプトに下るのが当時の常識だったようです。しかし唯一まことの神様はイサクに現われて仰せられます。エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす」(23。主のみ言葉通りにエジプトには下らず、イサクがその地に留まり、種を蒔くと、その年に百倍の収穫を見ます(12)(当時の農業では2540倍でも豊作)。その理由は「主が彼を祝福された」(12からでした。主と主のみ言葉に信頼して従う中に、試練の中でも、主の祝福を見ます。

2.神と共に、神に信頼して神を第一として生きる祝福の生涯(1325

こうしてイサクは非常に裕福になりました。しかし「ゲラル」のペリシテ人たちはイサクをねたみます(1314)。それでペリシテ人はイサクの父アブラハムの時代に掘られた全ての井戸をふさぎます(15)。しかしイサクは戦争をせずにそこを去って「ゲラル」の谷間に天幕を張りそこに住みます(17)。イサクは井戸を再び掘りました。そして湧き水の出る井戸を見つけます(19)。どんなに財産があっても水がなければ生きていけません。水が必要です。本当に喜んだ事でしょう。ところが「ゲラル」の羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争ったのです(20)。イサクは戦争をせずにその地を離れます。昔の井戸掘りですから機械もない中です。井戸掘りは20~40mも掘るという大事業だそうです。しかもめったと水が出るものではないそうです。そういう中でやっと水が出たのに奪われる。これは大きな試練です。もう一度同じような事がありました。しかしイサクは争わず、そこから移って他の井戸を掘ります。その井戸については争いがなかったのでその名をレホボテ(自由の地、広々とした地)と呼びました。レホボテはゲラルよりもさらに南に40キロのエジプトに近い場所。約束の地からはみ出たのかもしれません。だからでしょうか、イサクはそこから北東およそ30キロのイスラエルの最南端(参照;Ⅰサム3:20)、ベエル・シェバに上りました(23)。最南端ですからぎりぎり約束の地という所でしょう。そこはかつて父アブラハムが主の名によって祈った所でした(2133)。試練の中で亡き父を慕い求めていたのかもしれません。

しかしその夜、主ご自身がイサクに現われて仰せられます。わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに」(24。父アブラハムを支え守り導き祝福して下さった主ご自身からの御声。イサクはどれほど心強く嬉しかった事でしょうか。イサクはそこに祭壇を築き主の御名によって祈ります。まず礼拝を捧げたのです。そして彼はそこに天幕(生活の拠点)を張り、イサクのしもべらはそこに井戸を掘りました(そこに長く住むという事の現れ)(25)。神第一の信仰生活です。主に信頼し第一にする生涯に導くために主は「ゲラル」での試練を許されたのでしょう。

イサクは主に信頼し従う中で神に祝福を受けました。その根底にあるのは、「アブラハムのゆえに」。主とアブラハムとの契約のゆえに、イサクは主に祝福されたのです。私たちもイエス・キリストの十字架の血による契約のゆえに、ただ神の恵みにより、イエス様を信じる信仰によって、「キリストにあって」神の祝福にあずかります(ローマ42551、エペソ248、ヨハネ155、ガラテヤ314)。さて、イサクは試練の中で特に問題の無いレホボテに留まる事もできましたが、さらにベエル・シェバに上ってきた時、主が臨まれました。地味ですがそこに父亡き後、父アブラハムから継承した信仰が現われています。彼は誰に強制されたわけでもなく、神に従い自らを捧げます。それは主が共におられるという主の臨在の恵みの故でした。やがて敵対していた人達もイサクの祝福の歩みを見て、イサクと共に神がおられる事を認め(28)、彼の土地を認め、和平を結びます2831。奇しくもかつて父もこの地で和平条約を締結(2132)。ちょうどその日、掘っていた井戸から水が出たとの報告32。イサクは父と同じ試練を通して、神と共に生きる父と同じ信仰と祝福に導かれたのです。

【祈り】父なる神様。主を信じて従う祝福の生涯を歩ませて下さい。アーメン。


2026年3月2日月曜日

3月1日(日)第一礼拝配信 「私を主イエス様のように変えて下さい」 ピリピ人への手紙2章5~12節(新約p396)

 

説教要旨私を主イエス様のように変えて下さいピリピ人への手紙2章5~12節(新約p396                 

ピリピ人への手紙は、使徒パウロが、ローマかエペソかカイザリヤにある獄中から送った手紙で、50年代後半~60年代初めに書かれたと言われています。パウロは、キリストのために、福音のために、投獄されていました。有罪判決が下れば、死刑も免れられない状況だったのです。そんなパウロをピリピの教会は気にかけ、支援をしていました。ピリピの教会は使徒パウロが開拓伝道した教会です(参照;使徒16640)。ピリピ人への手紙は、ピリピにある教会の兄弟姉妹に宛てられた手紙です。

 そして214節では教会に一致を勧めています。そして511節では一致の基盤はキリストであることを示しています。直前の2611節には、当時の讃美歌と思われるキリスト賛歌が記されています。教会の一致の唯一の基盤、基礎であるイエス・キリストについて歌われている賛美です。6~7,8~9,10~11と区切って読むと歌詞のようにも見えます。パウロはこのように、キリスト讃美歌を引用しつつ、「そういうわけですから」と続けます。12節。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」

使徒パウロは、2111で、イエス・キリストの父なる神への御心への従順、十字架の死に至るまでへりくだり、従順であられたその従順を示します。その中で、教会の一致の基礎である、キリストの十字架の救いを示し、復活のキリストご自身を示しました。そして、キリストの模範を示し、互いに謙遜になり、キリストにあって一致するように勧めます。それは、神への従順の中にあります。使徒パウロがピリピの教会に行ける時にそうであったように、使徒パウロが不在である今も、より神に対して従順であるように、と教えます。そして、その神への従順の中で、「恐れおののいて」、つまり、神への聖なる畏敬の念をもって、謙遜に主に信頼して従い、「あなたがたの救い」の「達成に努めなさい」と命じます。「救い」とは「罪と滅びから神が救ってくださること」であり、「永遠の命の祝福」を意味する言葉です。また、「救い」には「健全な状態」の意味も含まれます。その「健全な状態」の中には教会の一致をも示しているとも言われます。となると各人がイエス様を信じて救われる、という事ともに、さらにはピリピ教会の中にあった「不健全な状態」、つまり「不一致」を、神への従順によって解決しなさい、という事も含まれると言えます。「達成に努める」という言葉は「働く、努力する」というニュアンスがあり、「働いて得る」という意味もあります。もちろん、罪びとの救いは、律法を行う事によってではなく、キリストを信じる信仰によるもので、ただ神の恵みです。しかし、様々な誘惑や試練の中でも、神を信じ、キリストを信じ、その信仰を続け、信仰者として成長し、成熟し、神の御心に沿った愛の実を結んでいくために、健全なクリスチャンにふさわしい生活のために神にとどまり続ける信仰の忍耐、神に信頼し従い続ける忍耐が必要となってきます。信仰を、この世で、全うしていくことが必要なのです。そこには忍耐が必要となり、神と神への御言葉への信仰の継続が必要です。信仰のレースを全うするために、キリストの励まし、指導の御言葉を聴きながら、信頼して従っていく事が必要です。先導されるのはイエス・キリストです(へブル1214)。

 一方で、イエス様によって救われた者同士がつぶやきあったり、言い争ったりしているならば、それは互いの信仰生活を益しません。むしろ教会の共通基盤であるイエス・キリストへの信頼の中で、キリストにならいて、神に従順に従う中で、主にある愛をもって、互いに愛し合い、愛の一致を保っていく事の大切さをこのピリピ12節では教えているのです。そのようなきよい愛の生き方は、まさに神への従順なくしてはできない事であり、それはキリストを基礎とし信頼し、罪ゆるされ、義と認められ、神と和解したからこそ可能となってくる生き方です。キリストを信じて救われたからこそ、聖霊に助けられ導かれながら、そのキリストへの信仰、神への信仰、神の御言葉への信仰をを「働かせて」、罪への誘惑や迫害といったものをふりほどきつつ、神への信仰と従順をもって、愛の実を結び続けていく。そして天国に凱旋するという事です。愛によって働き出る信仰をもって、教会の兄弟姉妹が互いに愛し合う愛の一致を保っていく事を、パウロは勧めます。

主の御前に悔い改めるべきは悔い改めつつ、主と主のみことばへの信仰に立ち、キリストにならいて、神に従順に従い、御霊によって愛に生きるという事が、愛の一致を保ちます。   【祈り】主よ。私を主イエス様のように変えて下さい。アーメン。


2026年2月25日水曜日

2026年2月22日(日)「主にあって愛し合い一つとなる教会」ヨハネの福音書17章1~5節(新約p219~)

 

説教要旨「主にあって愛し合い一つとなる教会」ヨハネの福音書17章1~5節(新約p219)                  

 1これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』とあります。「時」とは十字架の時です。「目を天に向けて」イエス様は父なる神への親しい信頼をもって、「父よ」と呼びかけて、祈られました。そして、地上生涯における最後の時、すなわち、十字架の上に上げられる時が来たことを知り、ご自分の命を棄てる事によって御父の栄光を現わす事ができるように、そのために、ご自分の受難の死がご自分の栄光を現わす機会となるように祈られました。

 2節。「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。。父が子に人間の全ての主権をすでに与えたように、子に父が与えたすべての人に永遠のいのちを子が与えるため、そのために、父が子の栄光を現わしてください、との祈りです。主イエスの身代わりの死により、主イエスを信じる者は永遠の命の賜物が与えられる事となったのです。

 3節。「 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。。ここで「知る」とは、「人物を特に霊的・人格的交わりによって知る事」です。ここでの「永遠のいのち」とは、唯一真の父なる神と御子イエス・キリストと霊的に人格的交わりによって知る事、知り続ける事を教えています。すなわちそれは、絶えず増大していく経験でもあります。この永遠の主との愛の交わりに私達を入れる為、主イエスは私たちの罪を身代わりに背負って死んでくださいました。

 4節。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。。バックストン先生は「私たちもこの世を去るときに同じことを叫びたいのであれば、日々、主と共に歩み、一日の業をその日になし終えなければなりません。」と記しています。イエス様は父なる神様からの使命、仕事を果たすことによって、父なる神の栄光をあらわしたのです。イエス様の地上の全生涯は、神の愛の展開でした(ヨハネ3・16)この4節のお言葉は、すでに先取りして、受難が全うされた事を確信しておられるのです。まさに、「わたしはすでに世に勝ったのです」(16・33)という先取りの勝利宣言です。

 5節。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。。そして、今一度、父なる神に切に祈られる主イエス様。主イエスの祈りは、十字架の受難を通してお受けになる神の栄光の輝きを祈り求めています。主イエスがお求めになられた栄光とは、永遠の昔からお持ちである父なる神の傍ら(共にある)で持っているその栄光です。バックストン先生は次のように書いています。「主はほかの栄光をお求めになりません。ただ父と交わることのみをお求めになります。」。24節でも、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」とあります。バックストン先生は、「その栄光は父の愛でした。主はその栄光をお求めになります。主は決してほかの栄光、ほかの権力をお求めにはなりません。ただ父の愛をお求めになりました。それは主の栄光でした。それはまた私たちの栄光です。私たちはそれを求めますか。私たちの栄光は、父に愛されることです。父の愛を経験することです。神はだれをも愛してくださいます。けれども、だれもがみな神の愛を経験するわけではありません。私たちの栄光は、ほかのことではありません。父の愛を経験することです。これは、世にいる間の最上の恵みです。私たちはたびたび伝道の力を求めます。心の喜びや楽しみを求めます。さまざまな成功を求めます。けれども、これらのことは真の栄光ではありません。私たちが求めるべき栄光は、ただ父の愛のみです。」。そして、11節。「…聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」。全ての教会を愛し守り養い導いておられる主に全幅の信頼をもってお従いしましょう。神様の御心はクリスチャンたちが、主にあって一つとなって愛し合う事です。天国はそういう所です。

(祈り)天の父なる神様。あなたは大切な独り子をお与えになり、十字架でお捨てになるほどに私たちを愛して永遠のいのちを与えて下さり感謝致します。それこそ、私たちの栄光です。あなたは全ての信仰者・教会を愛し、導き、守り、一つとされると信じます。どんな時でも、主に信頼しお従いします。アーメン。

2026年2月16日月曜日

2026年2月15日(日)説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)




*回線不具合のため、この度は説教要旨のみとなります。申し訳ありません。


説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)                   

クリスチャンたち教会を迫害した迫害者サウロはイエス様に出会って救われ、変えられました。その後、サウロ(別名パウロ)は多くの人に救い主イエス様の事を伝えるようになります。ある時、パウロはこれまでイエス様を伝えてきた人たちに会うために、彼らのところに行ってみようと思いました(36)。この決断が、思いがけない伝道旅行の始まりとなったのです。そこで、シラスという人と一緒に出発(1540)。アンティオケアというところを出発して、シリア地方、キリキヤ地方を通り、諸教会を励ましていきました(41)。さらに、デルベ、リステラという所に行って諸教会を励ましました(16・1~5)。

1.聖霊の導き(6~8)

それから彼らはアジアという今のトルコの西側地域を通りますが、そこでみことばを語ることを聖霊によって禁じられました。そこで、フリュギア・ガラテヤの地方を通って、そのアジア地域を通り抜けていきます。7節。こうして、アジアのミシアという地域に面した所まで、一気に進んでいきました。西側にはエーゲ海があります。そこで、北のビティニアという地方に進んで行こうとしたのですが、そこでもまた、イエス様の御霊がそれをお許しになりませんでした(8)。

2.主の御心を確認、確信して踏み出したパウロたち(9~10)

それでミシアを通って、エーゲ海に面した町トロアスに下ってそこで泊まりました。そして9節。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。」とひたすらお願いするのでした。マケドニアは、エーゲ海の海を渡った向こう岸の地域でした。著者のルカは次のように書いています。10節。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」、と。ここで、「私たち」とありますが使徒の働きの著者ルカがここで旅に加わったようです。また当時、幻や夢は神が人間に意志を伝えるための手段として認められていました。主は様々な方法で受け手の人々にふさわしい仕方でご自身の御心をお示しになります。

そして、ルカは次のように記します。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」(10節後半)とあります。この「確信した」は元来「結び合わす」という意味があり、9・22には「証明する」という意味で用いられています。この語はいろいろな証拠から一つの結論を引き出す事を表すのに使われます(小平徳行師)。この確信と結論に至るまでに、①パウロに与えられている異邦人伝道の使命があり、そして、②これまで、御霊に禁じられてきた事、そして、③今回の幻。それらのすべてが一つにつながったのです。そこで、パウロ達は、主の御心と確信して、エーゲ海を渡ります。主は、様々な形で御心をお示しになります。そして、それらは調和するのです。

神様は目には見えませんが生きておられます。神様は今も全ての人を愛して、救おうとしておられます。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ4522。そして、クリスチャンに未信者を愛する心を与え、未信者の心のSOSを聴いて、救い主イエス様を伝えるように導かれます。パウロたちは聖書をよく学び、いつも祈りながら生活をしていました。ですからイエス様をよく信じて、イエス様の御心がよくわかりました。そしてすぐに従えました。神様に示されて「ただちに」伝道に行ったパウロ達。神様から止められたらしない。神様からするように導かれたら「ただちに」するパウロたち。私たちも聖書のお言葉を忠実に学び、また、いつもお祈りしながら、イエス様のみ言葉(聖書)、聖霊のお導きに、素直に、すぐに、的確に、お従いするクリスチャンにさらに成長させて頂きましょう。

また、もし、まだイエス様を信じていない人がいるなら、今、神はイエス様によってその人をイエス様への信仰へ導き救おうとしておられます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒1631

さてパウロ達は主の導きを信じて、海を渡りリディアという方と出会い、彼女が救われます(161415)。しかし、その後、パウロ達は悪霊につかれた女性から悪霊を追い出した事がきっかけで迫害と投獄に遭いますが、その投獄先でも主に祈りつつ賛美を捧げて過ごします。その中で今度は地震が起こりますが、囚人が誰も逃げていないという奇跡的出来事を通して伝道の機会が生じ、看守と家族が救われます(163134)。その後、パウロたちは釈放されリディアの家に帰ります(3540)。こうして後のピリピ教会が誕生したのでした。

(祈り)主よ。私もパウロのようにイエス様の御心にすぐに従える人に成長させてください。救いを求める人々に主イエス様を伝えさせてください。アーメン。


2026年2月13日金曜日

2026年2月8日(日)礼拝動画配信「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章16~17節(新約p14)

 

説教要旨「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章1617節(新約p14)

このマタイ8章16,17節には主イエスの癒しの働きについての要約が記されています。8117節には三つの癒しの記事があります。そこには主イエスの憐れみに満ちた癒しの御業がなされています。また、主イエスはみ言葉によって悪霊どもを追い出したとあります。悪霊につかれて悩み苦しめられている方々が大勢、主イエスのみもとに連れて来られました。また病気の方々も連れてこられました。イエス様のそばにいた弟子達は恐れたり不安になったりしたかもしれません。しかし、主イエスは悪霊どもを追い出しました。そこには主と主のみ言葉の権威が現わされています。悪霊の働きや、病気、その他の試練で辛い時も、共におられる主イエス様とそのみ言葉と御業に信頼すればよいのですね。

病気の人々をみな残らず癒された、とあります。ここには主イエスの愛の込められた回復と癒しの御業があります。例えばマタイ8章3節前半では、ツァラアトという病の人に対して「イエスは手を伸ばして彼にさわり」とあります。旧約聖書においてツァラアトと呼ばれる律法に規定された病は、律法によって何らかの意味で「汚れ」たものとされていました(レビ記13章)。そして、このツァラアトの病人は、そのツァラアトの病のゆえに汚れた者として隔離され「宿営の外」に住む事になっていました(レビ記134546)。このツァラアトの病人に「さわる」ということは、ユダヤ人にとっては触った者も汚れた者となる、という理解でありました。この点、レビ記5・3の旧約聖書の律法では「いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ…」とあります。

しかし主イエス様は、あえて、このツァラアトの病人に「手を伸ばして」触ったのでした。イエス様は触らなくても、この後、8513節では、言葉一つで体の中風(麻痺)の病をいやしておられます。ですから、主イエス様は触らなくても癒す事ができました。しかし主イエスはあえて、この時、ツァラアトの病の人に触ったのでした。それは主イエスの愛と憐れみであるとともに、その病をご自身が担うことによって、その人を癒し、きよめるためでありました。

この点、マタイ8・17にはこれらの奇跡がイザヤ書の成就である事を示しています。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就されるためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った』」と。イザヤ53・4については「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(あるいは『悲しみ』*欄外注)を担った」とあります。そして、この事は、主イエスの十字架を指し示しています。イザヤ53・5に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」とあります。この点、Ⅰペテロ224には「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたがは癒された。」とあります。そして、この事は、肉体の病気の有無にかかわらず、私達にもあてはまります。強調しますが、肉体的病それ自体が罪ではありません。使徒パウロもまた、三度も祈ったのに取り去られなかった肉体上の不具合がありました。肉体的不具合が、神様の深いお心の中で残される事もあり得ます。その大前提で申し上げると、人類共通の「罪」という魂の不具合(病)、に対して、魂の最高の医者である主イエスが、私たちの霊的クリニック(診療所)となって、愛をこめて関わってくださいます。そして、その「罪」という魂の不具合を癒し、治し、きよめて下さるのです。この「罪」という病は、主イエスにしか癒せない、治せない、きよめることができないのです。主イエスご自身が、ご自分の命、ご自分の血による贖いという罪の解決を備えて下さいました。

私たちがこの魂の医者である主イエスの御許に信仰をもって求める時、主イエスの血というワクチンによって、罪という病が癒される、きよめられるのです。この事は主イエスのご降誕に際して、主の御使いを通して告げられていました。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1・21。主ご自身から、魂の医者であられる主イエスから、人類共通の病である「罪という病」の癒しと予防の恵みを受けようではありませんか。その中で、私達は、主の御前に、正直に、自分自身を明け渡して、取り扱っていただこうではありませんか。私たちも解決して頂きたい何かの課題があるなら、特に人類共通の「罪という病」の癒しと予防を、主イエスの愛の御心と最善の御業に信頼して、切に祈り願いたいと思います。

【祈り】主なる神様。私たち人類共通の「罪という病」を癒し、救うために、主イエス様が十字架で身代わりに御苦難を受けられた事を感謝致します。アーメン。


2026年1月31日土曜日

2026年2月1日(日)礼拝配信「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがる」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

説教要旨「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがるヨブ記1章1322節(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたい

と思います。私達は理由のわからない苦難を受けた時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12サタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。訳のわからない試練の中でも、ヨブのように、まるで幼子が泣きながら母親にの懐に飛び込むように(詩篇131)に神に祈り頼る恵みが備えられています。

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブ自身に病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。5節はこの苦難の中で、その神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し長寿を与え、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。この世で不可解な試練も死後を含めて主の御前で全てのつじつまが合うのです。信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦難。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難の中でも、最善をなさる父なる神と主イエスに全く信頼し続け、常に喜び、絶えず祈り、主を讃美し礼拝する信仰者であらせて頂きましょう。試みがヨブに許されたのは、主が共に勝利して下さるためだったのです!

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。


2026年1月25日日曜日

2026年1月25日(日)第一礼拝動画配信「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303頁)

 

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説教要旨「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303)

今朝はローマにいる信徒への使徒パウロの手紙417『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ人への手紙4章17節)に特に注目したいと思います。

この17節はアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている、同じ、唯一まことの神様を信じて、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)。しかし、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。アブラハムは、途中、自分や妻の現実を見て、主の約束を信じ切れない時もありました(創世記1717)。しかしアブラムは神と神の約束の御言葉を信じていくようになり、その信仰は成長し、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18ます。すなわち、19節。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。

そして、アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。

 このような背景の中で『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ4章17節)が記されます。これはアブラム(別名アブラハム)が望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18ることができた根拠でもあります。すなわち「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」る信仰です。

 アブラムは死者をも生かす全能の神を信じる信仰に導かれました。アブラム(およそ100歳)もサラ(およそ90歳)も子を産むという点においては死んだも同然の状態でした。しかし、それでもアブラムは主を信じたのでした。アブラムは、全能の主は「死者をも生かす事ができる」と信じたのです。

その信仰がさらに現われたのは、主に「イサクをささげよ」と命じられて、愛する独り息子を主に全焼のささげものとして献げる時でした(創世記22章)。世間の常識的には不可解な命令と行動【注意;もちろんこれは主がアブラハムに特別に命じられた試練(創世記221)で、虐待はもちろん、人身を犠牲にしなさいという教えではありません!】。しかしアブラハムにあったのは「死者をも生かす事ができる」との全能の神に対する全幅の信頼でした。「自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(創世記2212)のです。主はアブラハムが息子に刃を下す寸前で「その子に手を下してはならない」(2212)と命じ、山に備えていた身代わりの犠牲の雄羊をアブラハムにお与えになりました(創世記2213)。この出来事についてへブル1119には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とあります。

この事は、イエス・キリストの身代わりの死と復活を指し示すひな型となったのです。主なる神は実際に愛する独り子を私たちの身代わりの子羊としてこの世にお与えになり、十字架で身代わりに血を流し死ぬことをお許しになりました(ヨハネ316)。しかし、三日目に、お約束の通り、復活させ、よみがえらせました。主なる神は確かに全能の神である事をここでもお示しになりました。まさに「死者をも生かす事ができる」全能の神なのです。この信仰は私達が、十字架で死んで三日目に復活されたイエス様を信じて救われた私たちにも通じる信仰です(ローマ4・2324)。

この信仰を、自分の無能、弱さ、罪深さを感じるどんな試練の時も発揮したいものです。「死」以外にも自分達にはどうする事もできないと思える試練があります。しかし、どのような試練の中でも、全能の神に全幅の信頼をもって明け渡し、聴き従いたく願います。主は最善をなして、共に試練を乗り越えさせて下さると信じます。

【祈り】全能の主よ。どうにもならない時もあなたに信頼します。アーメン。


2026年1月17日土曜日

2026年1月17日 説教要旨(1/24一部訂正)「常に喜び感謝できるのは神に絶えず祈れるから」テサロニケ人への手紙第一5章16節~22節(新約413頁)

 

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「常に喜び感謝できるのは神に絶えず祈れるから」テサロニケ人への手紙第一5章16節~22節(新約413)

(以下、下線部分一部訂正)テサロニケ人への手紙は使徒パウロを通じて書き送られた神様からのメッセージです。パウロ達のテサロニケ伝道は迫害によって中断され、テサロニケを離れなくてはなりませんでした(使徒17・1~15)。しかしその艱難の中にありながらもパウロは、試練の中にあったテサロニケの教会に手紙を書き送り、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」(1618)と書いたのです。どうしたら、このように生きられるのでしょうか。

1..主イエス・キリストと結ばれて、守られている信仰生活のゆえに(18

そのカギは第一に18節。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(18)。中でも、「キリスト・イエスにあって(の中で)」という言葉です。これは、イエス・キリストを信じて結ばれているという意味です。キリストとの一体性を意味します。たとえるなら、ぶどうの幹(キリスト)に人(枝)が信仰という接点で結ばれているようなものです。また、夫である花婿(キリスト)と妻である花嫁(教会)の関係のようなものです。イエス・キリストと結ばれて、イエス様の中で、イエス様の守り、庇護の中で生きられる!そこに永遠の命があります(ヨハネ316)。全ての良きものがあるのです。だから、どんな状況の中でもイエス様の中に守られて生きられるので、いつも喜び、感謝できる、のです。

2.主への祈りの生活のゆえに~いつも主と向き合い、会話する生活~(17

第二に、常に神に祈れるからです。時に試練もあります。そういう時に、「絶えず祈りなさい」とのみ言葉の重要性、ありがたさ。「祈りは呼吸です」と教えられた事があります。神様の求めている事は、いつも、祈りながら、神様に助けと支えと癒しと守りと、良いものをいつもいただきながら、神様と共に生きていくという事です。だから、「いつも、喜んで」いられるし、どんな状況でも「感謝する」事が可能となってくると信じます。悲しみ、怒り、恐れ、という感情自体が悪いとは思いません。しかし、それらに支配されたり、ふりまわされたりする事は主の御心ではありません。そういう時でも神に信頼して、祈りつつ、主のお守りの中で平安を頂き、喜びと感謝の中で生きる事が主が望んでおられる事です。大変な試練の中でも、それでも、主なる神が救って下さっている、天国を下さっている、支えて下さり、万事を益にしてくださる、と信じて祈りつつ、いつも主と主の御言葉と御業に信頼して、喜びと感謝をもって、生きていきたいと思います。いつでも、イエス様を信じて捧げる祈りに、神は思い煩いと引き換えに心に安らぎを下さり(ピリピ4・6、7)、最善に応えて下さいます(ロマ828)。

聖書は神の言葉で、できないことをしなさいというような、根拠のない事を言うような書物ではありません。できるからこそ、しなさい、と命じているのです。しかし、自分の力ではできない。「主にあって」とありますが、これは主を信じて結ばれているという事です。テサロニケ5・18にもありますが、これが実は「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」秘訣、鍵です。

「すべてのことについて感謝しなさい」とは、「どんな状況においても感謝していなさい」という事です。すべての良いものは神から来るのです。どんな試練の時も、辛い時も、問題が降りかかってくる時も、それでも、神は愛であり、神に生かされている、守られている。だから、当然、主に感謝すべきなのです。さらに、神に愛され、神を愛する信仰者のために、神は万事を益となして下さいます(ローマ8・28)。ですから、この神に信頼し、神の御心に全てをゆだねて従う時、あらゆる場合に感謝ができます。最善だけをなさる、神の御心がなる事。それが私たちの最高の幸せであり、喜びであり、祈りであり、感謝なのです。神は真実で必ず最善にしてくださるからです。だから主を信じて祈り続けるのです。

そしてパウロは「御霊を消してはいけない」(19)、「預言を軽んじてはいけない」(20と言いました。なぜならこれらは善悪を識別する基準だからです。そしてこれらをもって、「あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(21)、「すべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」(22と教えます。いつも喜びと感謝の中で生きながら、同時に再臨のキリストを待ち望む間、サタンに騙されないように、聖書のみ言葉と聖霊の油を絶やすことなく、善悪をしっかりと見分けていく必要があるのです。喜び、感謝しつつ油断せずに祈りつつ、聖霊に導かれながら、冷静に、聖書のみ言葉で善悪を見分けていく必要があるのです。その際、聖書のみことばの健全な理解がその際に鍵になってくる事を思います。

【祈り】主よ。主にあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんな状況でも感謝します。聖霊によって導き、聖書のみ言葉により善悪を識別させて下さい。アーメン。


2026年1月10日土曜日

2026年1月10日(日)第一礼拝動画配信 「全能の主を信じて生きる」 ローマ4章18節~5章2節(新約112~113頁) 

 

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全能の主を信じて生きる」ローマ4章18節~5章2節(新約112113)

今朝はローマにいる信徒への使徒パウロの手紙418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』に特に注目したいと思います。

私たちの信仰生涯において、試練に直面する時、希望を見出せないような時、どのように生きて行けばよいのでしょうか。その大切なポイントがこの聖書箇所で教えられています。それは「全能の主を信じて生きる」という事です。

1.信仰の父アブラハムの全能の主への信仰に学ぶ(ローマ4・18~19)

418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』とあります。これはアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている唯一まことの神様を信じ、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)が、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。アブラハムは、途中、自分や妻の現実を見て、主の約束を信じ切れない時もありました(創世記1717)。しかしアブラムは神と神の約束の御言葉を信頼していきます。「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(18ます。すなわち、19節。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした」。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。『不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。私達もどんな試、境遇、自他の状態でも主と主のみ言葉に信頼して生きましょう。

2.主を信じ救われて、神との平和に生きる希望(ローマ4・23~5・2)

 アブラハムの主への信仰は、私達が主イエス様を信じて救われたという信仰にも関係します。ローマ4・23~24。『しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。』。私達がアブラハムのように信仰によって救われ、信仰によって歩み、神の栄光をもう一度現す存在へと回復されるために、神はイエス・キリストを遣わされ、十字架で身代わりに死ぬことを許されたのです25節。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。とある通りす。

そして、イエス・キリストを信じて、罪が赦され、義と認められる(無罪とされる)。罪の奴隷から解放され、愛と恵みの主人であるキリストのもの、神のものとされる。さらにはローマ5・1,2。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。

主イエス・キリストを通して、神様との平和(ヘブル語のシャローム。神の命、祝福、幸いの満ち溢れる状態)の関係が回復します。死んで天国に上げられる前から、この世において、神様との平和な関係がスタートするのです。イエス・キリストを信頼し、信仰している者は、罪が赦され、義と認められた、のです。だから、神との平和の関係を持つことができ、保たれる、のです。

イエス様を信じる者の罪を、すべて赦し、きよめる贖いを用意をして、愛するとは、なんという途方もない愛と赦し、恵み、でしょうか。主イエスを信じる者を義とする、すなわち無罪とし、イエス様のように見て、迎え、ご自分の永遠のいのちの交わりに迎えて、与らせるとは何という愛でしょうか。この神の愛、この神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらう、この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛か、と思うのです。それは、キリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです(ルカ15章)。この主の救いが与えられ、全能の主が共にいる事、これらが私たちの希望です。

【祈り】天の父なる神様。私もアブラハムのように絶望的と思えてしまう状況の中でも、それでも、あなたに信仰の目を上げて信頼し続けます。アーメン。




2026年1月4日日曜日

2026年1月4日(日)第一礼拝配信「キリストにあって互いに愛し合う教会」ヨハネの福音書15章12節(新約p216)

 

説教要旨「キリストにあって互いに愛し合う教会」ヨハネの福音1512節(新約p216

今朝は、主の年2026年の教会聖句を中心に「キリストにあって互いに愛し合う教会」について見ます。今日の個所は、主イエス様がいよいよ十字架におかかりになられる直前の告別説教です。14章では父なる神と御子イエス様に信頼し続なさいとの命令とその根拠について語られています。主イエス様に信頼する人はイエス様につながっている人です。1518節ではぶどうの木のたとえから、主イエス様につながり続けるようにとの命令、父なる神様と主イエス様とその弟子とその結実について教えています。その流れで912節に続きます。

 9節。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」。父なる神がイエス様を愛する愛は、イエス様が私たちを愛する関係に現れています。イエス様はいつも父なる神様から無限の愛を頂き、いつも父なる神様との無限の愛の交わりの中に生きておられる。だからイエス様は私たちをご自身との愛の交わりの中に招きいれて下さる。父なる神が御子を愛し、その父と子の愛、神の愛の中に私たちも招き入れられています。その愛の中、すなわち、イエス様の中にあなたたがはとどまりなさい、と主イエス様は言われます。それほどの愛で愛して下さる!何とすばらしいことでしょうか!

 10節。「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」。主イエス様こそ弟子の模範です。無条件で全ての人はイエス様が身代わりに死ぬほどに愛されています。しかしその愛を信じないので、イエス様との愛の関係の中にとどまらない。神を信じ、また私を信じなさい、わたしの愛にとどまりなさい、と言われる言葉を信じない。そうするならば、どんなに愛されていても、その愛を受け取らない、わからない、信じられない、という事でしょう。

 神様がどんなにすばらしい救い主である神の独り子イエス様をお送りしても、どんなに無償の愛を提供しても、信じてもらえない、受け取ってもらえなければその愛のすばらしさを体験できず、その中に生きる事ができません。イエス様はイエス様を信じ続ける事を命じておられます。そして、イエス様とつながり続ける事、イエス様を信じてイエス様と一つでありつづける事を求めておられます。この事を遵守し続けるならば、イエス様の愛を受け取り、愛の実を結ぶようになるのです。そして、愛の実が結ばれるとそこには喜びの実が結ばれます。

たくさんの奇跡的な偉業を達成したとしても愛し合うことをしないならば、むなしいことになってしまうと思うのです。私たちが主イエス様に信頼し、主に祈りつつ、主のお言葉を信じて遵守していくなら、聖霊により愛の実が結ばれるように主イエス様は必ずして下さいます。そして、そこには喜びの実が結ばれます。

 11節。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」。イエス様のように生きるために必要なもの、神様の愛、「イエス様の平安」(1427)と共に「イエス様の喜び」が私たちの中にあるようになり、喜びが満ち溢れるために、イエス様は、ここで、イエス様のご受難、十字架の死を前にして、この告別説教を切々と語られました。

イエス様を信じる人の心の中には聖霊様が働いておられます。ですから、御霊の実は愛、喜び、平安…と続きます(ガラテヤ5・22)。私たちは結局何が欲しいかと言えば喜びです。神はすべての人を愛し合う喜びに招いておられる。その喜びは永遠の喜びです。主は喜び合いたいのです!そして愛し合いたいのです。

 だからでしょうか、12節をご覧ください。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とイエス様はお命じになられました。ここでの愛という言葉は両方ともギリシャ語で「アガペー」。この言葉は神の愛を表現する時によく用いられます。イエス様が弟子たちをアガペーの愛で愛したように、あなたがたはお互いをアガペーの愛でこれから互いに愛し合い続ける事、これが私の戒め、命令です、と言われるのです。

そのような愛は私たちの内から絞り出そうとしても出てきませんが、イエス様に信頼しつながる中で、主に祈り求めていく時、アガペーの愛が聖霊により私たちに注がれ、その愛をもって互いに愛し合えるように神はして下さるのです。

愛の冷えた世においても、主イエス様の愛の炎は燃え続けています。このお方が共にいて、つながってくださり、愛の炎を燃え立たせ、愛の実を結ばせて下さいます。なんと感謝な事でしょうか!

(祈り)主なる神様。イエス様を信じて、イエス様とつながって生きます。私をキリストの弟子として成長させ、聖霊による愛の実を結ばせて下さい。アーメン。