2026年2月16日月曜日

2026年2月15日(日)説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)




*回線不具合のため、この度は説教要旨のみとなります。申し訳ありません。


説教要旨「主に導かれて福音宣教」使徒の働き16章6~10節(新約p267)                   

クリスチャンたち教会を迫害した迫害者サウロはイエス様に出会って救われ、変えられました。その後、サウロ(別名パウロ)は多くの人に救い主イエス様の事を伝えるようになります。ある時、パウロはこれまでイエス様を伝えてきた人たちに会うために、彼らのところに行ってみようと思いました(36)。この決断が、思いがけない伝道旅行の始まりとなったのです。そこで、シラスという人と一緒に出発(1540)。アンティオケアというところを出発して、シリア地方、キリキヤ地方を通り、諸教会を励ましていきました(41)。さらに、デルベ、リステラという所に行って諸教会を励ましました(16・1~5)。

1.聖霊の導き(6~8)

それから彼らはアジアという今のトルコの西側地域を通りますが、そこでみことばを語ることを聖霊によって禁じられました。そこで、フリュギア・ガラテヤの地方を通って、そのアジア地域を通り抜けていきます。7節。こうして、アジアのミシアという地域に面した所まで、一気に進んでいきました。西側にはエーゲ海があります。そこで、北のビティニアという地方に進んで行こうとしたのですが、そこでもまた、イエス様の御霊がそれをお許しになりませんでした(8)。

2.主の御心を確認、確信して踏み出したパウロたち(9~10)

それでミシアを通って、エーゲ海に面した町トロアスに下ってそこで泊まりました。そして9節。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。」とひたすらお願いするのでした。マケドニアは、エーゲ海の海を渡った向こう岸の地域でした。著者のルカは次のように書いています。10節。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」、と。ここで、「私たち」とありますが使徒の働きの著者ルカがここで旅に加わったようです。また当時、幻や夢は神が人間に意志を伝えるための手段として認められていました。主は様々な方法で受け手の人々にふさわしい仕方でご自身の御心をお示しになります。

そして、ルカは次のように記します。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」(10節後半)とあります。この「確信した」は元来「結び合わす」という意味があり、9・22には「証明する」という意味で用いられています。この語はいろいろな証拠から一つの結論を引き出す事を表すのに使われます(小平徳行師)。この確信と結論に至るまでに、①パウロに与えられている異邦人伝道の使命があり、そして、②これまで、御霊に禁じられてきた事、そして、③今回の幻。それらのすべてが一つにつながったのです。そこで、パウロ達は、主の御心と確信して、エーゲ海を渡ります。主は、様々な形で御心をお示しになります。そして、それらは調和するのです。

神様は目には見えませんが生きておられます。神様は今も全ての人を愛して、救おうとしておられます。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ4522。そして、クリスチャンに未信者を愛する心を与え、未信者の心のSOSを聴いて、救い主イエス様を伝えるように導かれます。パウロたちは聖書をよく学び、いつも祈りながら生活をしていました。ですからイエス様をよく信じて、イエス様の御心がよくわかりました。そしてすぐに従えました。神様に示されて「ただちに」伝道に行ったパウロ達。神様から止められたらしない。神様からするように導かれたら「ただちに」するパウロたち。私たちも聖書のお言葉を忠実に学び、また、いつもお祈りしながら、イエス様のみ言葉(聖書)、聖霊のお導きに、素直に、すぐに、的確に、お従いするクリスチャンにさらに成長させて頂きましょう。

また、もし、まだイエス様を信じていない人がいるなら、今、神はイエス様によってその人をイエス様への信仰へ導き救おうとしておられます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒1631

さてパウロ達は主の導きを信じて、海を渡りリディアという方と出会い、彼女が救われます(161415)。しかし、その後、パウロ達は悪霊につかれた女性から悪霊を追い出した事がきっかけで迫害と投獄に遭いますが、その投獄先でも主に祈りつつ賛美を捧げて過ごします。その中で今度は地震が起こりますが、囚人が誰も逃げていないという奇跡的出来事を通して伝道の機会が生じ、看守と家族が救われます(163134)。その後、パウロたちは釈放されリディアの家に帰ります(3540)。こうして後のピリピ教会が誕生したのでした。

(祈り)主よ。私もパウロのようにイエス様の御心にすぐに従える人に成長させてください。救いを求める人々に主イエス様を伝えさせてください。アーメン。


2026年2月13日金曜日

2026年2月8日(日)礼拝動画配信「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章16~17節(新約p14)

 

説教要旨「私たちの患いと病を負われた主イエス様」マタイの福音書8章1617節(新約p14)

このマタイ8章16,17節には主イエスの癒しの働きについての要約が記されています。8117節には三つの癒しの記事があります。そこには主イエスの憐れみに満ちた癒しの御業がなされています。また、主イエスはみ言葉によって悪霊どもを追い出したとあります。悪霊につかれて悩み苦しめられている方々が大勢、主イエスのみもとに連れて来られました。また病気の方々も連れてこられました。イエス様のそばにいた弟子達は恐れたり不安になったりしたかもしれません。しかし、主イエスは悪霊どもを追い出しました。そこには主と主のみ言葉の権威が現わされています。悪霊の働きや、病気、その他の試練で辛い時も、共におられる主イエス様とそのみ言葉と御業に信頼すればよいのですね。

病気の人々をみな残らず癒された、とあります。ここには主イエスの愛の込められた回復と癒しの御業があります。例えばマタイ8章3節前半では、ツァラアトという病の人に対して「イエスは手を伸ばして彼にさわり」とあります。旧約聖書においてツァラアトと呼ばれる律法に規定された病は、律法によって何らかの意味で「汚れ」たものとされていました(レビ記13章)。そして、このツァラアトの病人は、そのツァラアトの病のゆえに汚れた者として隔離され「宿営の外」に住む事になっていました(レビ記134546)。このツァラアトの病人に「さわる」ということは、ユダヤ人にとっては触った者も汚れた者となる、という理解でありました。この点、レビ記5・3の旧約聖書の律法では「いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ…」とあります。

しかし主イエス様は、あえて、このツァラアトの病人に「手を伸ばして」触ったのでした。イエス様は触らなくても、この後、8513節では、言葉一つで体の中風(麻痺)の病をいやしておられます。ですから、主イエス様は触らなくても癒す事ができました。しかし主イエスはあえて、この時、ツァラアトの病の人に触ったのでした。それは主イエスの愛と憐れみであるとともに、その病をご自身が担うことによって、その人を癒し、きよめるためでありました。

この点、マタイ8・17にはこれらの奇跡がイザヤ書の成就である事を示しています。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就されるためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った』」と。イザヤ53・4については「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(あるいは『悲しみ』*欄外注)を担った」とあります。そして、この事は、主イエスの十字架を指し示しています。イザヤ53・5に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」とあります。この点、Ⅰペテロ224には「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたがは癒された。」とあります。そして、この事は、肉体の病気の有無にかかわらず、私達にもあてはまります。強調しますが、肉体的病それ自体が罪ではありません。使徒パウロもまた、三度も祈ったのに取り去られなかった肉体上の不具合がありました。肉体的不具合が、神様の深いお心の中で残される事もあり得ます。その大前提で申し上げると、人類共通の「罪」という魂の不具合(病)、に対して、魂の最高の医者である主イエスが、私たちの霊的クリニック(診療所)となって、愛をこめて関わってくださいます。そして、その「罪」という魂の不具合を癒し、治し、きよめて下さるのです。この「罪」という病は、主イエスにしか癒せない、治せない、きよめることができないのです。主イエスご自身が、ご自分の命、ご自分の血による贖いという罪の解決を備えて下さいました。

私たちがこの魂の医者である主イエスの御許に信仰をもって求める時、主イエスの血というワクチンによって、罪という病が癒される、きよめられるのです。この事は主イエスのご降誕に際して、主の御使いを通して告げられていました。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1・21。主ご自身から、魂の医者であられる主イエスから、人類共通の病である「罪という病」の癒しと予防の恵みを受けようではありませんか。その中で、私達は、主の御前に、正直に、自分自身を明け渡して、取り扱っていただこうではありませんか。私たちも解決して頂きたい何かの課題があるなら、特に人類共通の「罪という病」の癒しと予防を、主イエスの愛の御心と最善の御業に信頼して、切に祈り願いたいと思います。

【祈り】主なる神様。私たち人類共通の「罪という病」を癒し、救うために、主イエス様が十字架で身代わりに御苦難を受けられた事を感謝致します。アーメン。


2026年1月31日土曜日

2026年2月1日(日)礼拝配信「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがる」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

説教要旨「不可解な試練の中でも幼子のように主にすがるヨブ記1章1322節(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたい

と思います。私達は理由のわからない苦難を受けた時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12サタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。訳のわからない試練の中でも、ヨブのように、まるで幼子が泣きながら母親にの懐に飛び込むように(詩篇131)に神に祈り頼る恵みが備えられています。

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブ自身に病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。5節はこの苦難の中で、その神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し長寿を与え、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。この世で不可解な試練も死後を含めて主の御前で全てのつじつまが合うのです。信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦難。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難の中でも、最善をなさる父なる神と主イエスに全く信頼し続け、常に喜び、絶えず祈り、主を讃美し礼拝する信仰者であらせて頂きましょう。試みがヨブに許されたのは、主が共に勝利して下さるためだったのです!

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。


2026年1月25日日曜日

2026年1月25日(日)第一礼拝動画配信「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303頁)

 

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説教要旨「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303)

今朝はローマにいる信徒への使徒パウロの手紙417『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ人への手紙4章17節)に特に注目したいと思います。

この17節はアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている、同じ、唯一まことの神様を信じて、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)。しかし、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。アブラハムは、途中、自分や妻の現実を見て、主の約束を信じ切れない時もありました(創世記1717)。しかしアブラムは神と神の約束の御言葉を信じていくようになり、その信仰は成長し、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18ます。すなわち、19節。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。

そして、アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。

 このような背景の中で『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ4章17節)が記されます。これはアブラム(別名アブラハム)が望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18ることができた根拠でもあります。すなわち「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」る信仰です。

 アブラムは死者をも生かす全能の神を信じる信仰に導かれました。アブラム(およそ100歳)もサラ(およそ90歳)も子を産むという点においては死んだも同然の状態でした。しかし、それでもアブラムは主を信じたのでした。アブラムは、全能の主は「死者をも生かす事ができる」と信じたのです。

その信仰がさらに現われたのは、主に「イサクをささげよ」と命じられて、愛する独り息子を主に全焼のささげものとして献げる時でした(創世記22章)。世間の常識的には不可解な命令と行動【注意;もちろんこれは主がアブラハムに特別に命じられた試練(創世記221)で、虐待はもちろん、人身を犠牲にしなさいという教えではありません!】。しかしアブラハムにあったのは「死者をも生かす事ができる」との全能の神に対する全幅の信頼でした。「自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(創世記2212)のです。主はアブラハムが息子に刃を下す寸前で「その子に手を下してはならない」(2212)と命じ、山に備えていた身代わりの犠牲の雄羊をアブラハムにお与えになりました(創世記2213)。この出来事についてへブル1119には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とあります。

この事は、イエス・キリストの身代わりの死と復活を指し示すひな型となったのです。主なる神は実際に愛する独り子を私たちの身代わりの子羊としてこの世にお与えになり、十字架で身代わりに血を流し死ぬことをお許しになりました(ヨハネ316)。しかし、三日目に、お約束の通り、復活させ、よみがえらせました。主なる神は確かに全能の神である事をここでもお示しになりました。まさに「死者をも生かす事ができる」全能の神なのです。この信仰は私達が、十字架で死んで三日目に復活されたイエス様を信じて救われた私たちにも通じる信仰です(ローマ4・2324)。

この信仰を、自分の無能、弱さ、罪深さを感じるどんな試練の時も発揮したいものです。「死」以外にも自分達にはどうする事もできないと思える試練があります。しかし、どのような試練の中でも、全能の神に全幅の信頼をもって明け渡し、聴き従いたく願います。主は最善をなして、共に試練を乗り越えさせて下さると信じます。

【祈り】全能の主よ。どうにもならない時もあなたに信頼します。アーメン。


2026年1月17日土曜日

2026年1月17日 説教要旨(1/24一部訂正)「常に喜び感謝できるのは神に絶えず祈れるから」テサロニケ人への手紙第一5章16節~22節(新約413頁)

 

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「常に喜び感謝できるのは神に絶えず祈れるから」テサロニケ人への手紙第一5章16節~22節(新約413)

(以下、下線部分一部訂正)テサロニケ人への手紙は使徒パウロを通じて書き送られた神様からのメッセージです。パウロ達のテサロニケ伝道は迫害によって中断され、テサロニケを離れなくてはなりませんでした(使徒17・1~15)。しかしその艱難の中にありながらもパウロは、試練の中にあったテサロニケの教会に手紙を書き送り、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」(1618)と書いたのです。どうしたら、このように生きられるのでしょうか。

1..主イエス・キリストと結ばれて、守られている信仰生活のゆえに(18

そのカギは第一に18節。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(18)。中でも、「キリスト・イエスにあって(の中で)」という言葉です。これは、イエス・キリストを信じて結ばれているという意味です。キリストとの一体性を意味します。たとえるなら、ぶどうの幹(キリスト)に人(枝)が信仰という接点で結ばれているようなものです。また、夫である花婿(キリスト)と妻である花嫁(教会)の関係のようなものです。イエス・キリストと結ばれて、イエス様の中で、イエス様の守り、庇護の中で生きられる!そこに永遠の命があります(ヨハネ316)。全ての良きものがあるのです。だから、どんな状況の中でもイエス様の中に守られて生きられるので、いつも喜び、感謝できる、のです。

2.主への祈りの生活のゆえに~いつも主と向き合い、会話する生活~(17

第二に、常に神に祈れるからです。時に試練もあります。そういう時に、「絶えず祈りなさい」とのみ言葉の重要性、ありがたさ。「祈りは呼吸です」と教えられた事があります。神様の求めている事は、いつも、祈りながら、神様に助けと支えと癒しと守りと、良いものをいつもいただきながら、神様と共に生きていくという事です。だから、「いつも、喜んで」いられるし、どんな状況でも「感謝する」事が可能となってくると信じます。悲しみ、怒り、恐れ、という感情自体が悪いとは思いません。しかし、それらに支配されたり、ふりまわされたりする事は主の御心ではありません。そういう時でも神に信頼して、祈りつつ、主のお守りの中で平安を頂き、喜びと感謝の中で生きる事が主が望んでおられる事です。大変な試練の中でも、それでも、主なる神が救って下さっている、天国を下さっている、支えて下さり、万事を益にしてくださる、と信じて祈りつつ、いつも主と主の御言葉と御業に信頼して、喜びと感謝をもって、生きていきたいと思います。いつでも、イエス様を信じて捧げる祈りに、神は思い煩いと引き換えに心に安らぎを下さり(ピリピ4・6、7)、最善に応えて下さいます(ロマ828)。

聖書は神の言葉で、できないことをしなさいというような、根拠のない事を言うような書物ではありません。できるからこそ、しなさい、と命じているのです。しかし、自分の力ではできない。「主にあって」とありますが、これは主を信じて結ばれているという事です。テサロニケ5・18にもありますが、これが実は「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」秘訣、鍵です。

「すべてのことについて感謝しなさい」とは、「どんな状況においても感謝していなさい」という事です。すべての良いものは神から来るのです。どんな試練の時も、辛い時も、問題が降りかかってくる時も、それでも、神は愛であり、神に生かされている、守られている。だから、当然、主に感謝すべきなのです。さらに、神に愛され、神を愛する信仰者のために、神は万事を益となして下さいます(ローマ8・28)。ですから、この神に信頼し、神の御心に全てをゆだねて従う時、あらゆる場合に感謝ができます。最善だけをなさる、神の御心がなる事。それが私たちの最高の幸せであり、喜びであり、祈りであり、感謝なのです。神は真実で必ず最善にしてくださるからです。だから主を信じて祈り続けるのです。

そしてパウロは「御霊を消してはいけない」(19)、「預言を軽んじてはいけない」(20と言いました。なぜならこれらは善悪を識別する基準だからです。そしてこれらをもって、「あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(21)、「すべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」(22と教えます。いつも喜びと感謝の中で生きながら、同時に再臨のキリストを待ち望む間、サタンに騙されないように、聖書のみ言葉と聖霊の油を絶やすことなく、善悪をしっかりと見分けていく必要があるのです。喜び、感謝しつつ油断せずに祈りつつ、聖霊に導かれながら、冷静に、聖書のみ言葉で善悪を見分けていく必要があるのです。その際、聖書のみことばの健全な理解がその際に鍵になってくる事を思います。

【祈り】主よ。主にあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんな状況でも感謝します。聖霊によって導き、聖書のみ言葉により善悪を識別させて下さい。アーメン。


2026年1月10日土曜日

2026年1月10日(日)第一礼拝動画配信 「全能の主を信じて生きる」 ローマ4章18節~5章2節(新約112~113頁) 

 

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全能の主を信じて生きる」ローマ4章18節~5章2節(新約112113)

今朝はローマにいる信徒への使徒パウロの手紙418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』に特に注目したいと思います。

私たちの信仰生涯において、試練に直面する時、希望を見出せないような時、どのように生きて行けばよいのでしょうか。その大切なポイントがこの聖書箇所で教えられています。それは「全能の主を信じて生きる」という事です。

1.信仰の父アブラハムの全能の主への信仰に学ぶ(ローマ4・18~19)

418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』とあります。これはアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている唯一まことの神様を信じ、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)が、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。アブラハムは、途中、自分や妻の現実を見て、主の約束を信じ切れない時もありました(創世記1717)。しかしアブラムは神と神の約束の御言葉を信頼していきます。「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(18ます。すなわち、19節。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした」。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。『不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。私達もどんな試、境遇、自他の状態でも主と主のみ言葉に信頼して生きましょう。

2.主を信じ救われて、神との平和に生きる希望(ローマ4・23~5・2)

 アブラハムの主への信仰は、私達が主イエス様を信じて救われたという信仰にも関係します。ローマ4・23~24。『しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。』。私達がアブラハムのように信仰によって救われ、信仰によって歩み、神の栄光をもう一度現す存在へと回復されるために、神はイエス・キリストを遣わされ、十字架で身代わりに死ぬことを許されたのです25節。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。とある通りす。

そして、イエス・キリストを信じて、罪が赦され、義と認められる(無罪とされる)。罪の奴隷から解放され、愛と恵みの主人であるキリストのもの、神のものとされる。さらにはローマ5・1,2。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。

主イエス・キリストを通して、神様との平和(ヘブル語のシャローム。神の命、祝福、幸いの満ち溢れる状態)の関係が回復します。死んで天国に上げられる前から、この世において、神様との平和な関係がスタートするのです。イエス・キリストを信頼し、信仰している者は、罪が赦され、義と認められた、のです。だから、神との平和の関係を持つことができ、保たれる、のです。

イエス様を信じる者の罪を、すべて赦し、きよめる贖いを用意をして、愛するとは、なんという途方もない愛と赦し、恵み、でしょうか。主イエスを信じる者を義とする、すなわち無罪とし、イエス様のように見て、迎え、ご自分の永遠のいのちの交わりに迎えて、与らせるとは何という愛でしょうか。この神の愛、この神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらう、この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛か、と思うのです。それは、キリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです(ルカ15章)。この主の救いが与えられ、全能の主が共にいる事、これらが私たちの希望です。

【祈り】天の父なる神様。私もアブラハムのように絶望的と思えてしまう状況の中でも、それでも、あなたに信仰の目を上げて信頼し続けます。アーメン。




2026年1月4日日曜日

2026年1月4日(日)第一礼拝配信「キリストにあって互いに愛し合う教会」ヨハネの福音書15章12節(新約p216)

 

説教要旨「キリストにあって互いに愛し合う教会」ヨハネの福音1512節(新約p216

今朝は、主の年2026年の教会聖句を中心に「キリストにあって互いに愛し合う教会」について見ます。今日の個所は、主イエス様がいよいよ十字架におかかりになられる直前の告別説教です。14章では父なる神と御子イエス様に信頼し続なさいとの命令とその根拠について語られています。主イエス様に信頼する人はイエス様につながっている人です。1518節ではぶどうの木のたとえから、主イエス様につながり続けるようにとの命令、父なる神様と主イエス様とその弟子とその結実について教えています。その流れで912節に続きます。

 9節。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」。父なる神がイエス様を愛する愛は、イエス様が私たちを愛する関係に現れています。イエス様はいつも父なる神様から無限の愛を頂き、いつも父なる神様との無限の愛の交わりの中に生きておられる。だからイエス様は私たちをご自身との愛の交わりの中に招きいれて下さる。父なる神が御子を愛し、その父と子の愛、神の愛の中に私たちも招き入れられています。その愛の中、すなわち、イエス様の中にあなたたがはとどまりなさい、と主イエス様は言われます。それほどの愛で愛して下さる!何とすばらしいことでしょうか!

 10節。「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」。主イエス様こそ弟子の模範です。無条件で全ての人はイエス様が身代わりに死ぬほどに愛されています。しかしその愛を信じないので、イエス様との愛の関係の中にとどまらない。神を信じ、また私を信じなさい、わたしの愛にとどまりなさい、と言われる言葉を信じない。そうするならば、どんなに愛されていても、その愛を受け取らない、わからない、信じられない、という事でしょう。

 神様がどんなにすばらしい救い主である神の独り子イエス様をお送りしても、どんなに無償の愛を提供しても、信じてもらえない、受け取ってもらえなければその愛のすばらしさを体験できず、その中に生きる事ができません。イエス様はイエス様を信じ続ける事を命じておられます。そして、イエス様とつながり続ける事、イエス様を信じてイエス様と一つでありつづける事を求めておられます。この事を遵守し続けるならば、イエス様の愛を受け取り、愛の実を結ぶようになるのです。そして、愛の実が結ばれるとそこには喜びの実が結ばれます。

たくさんの奇跡的な偉業を達成したとしても愛し合うことをしないならば、むなしいことになってしまうと思うのです。私たちが主イエス様に信頼し、主に祈りつつ、主のお言葉を信じて遵守していくなら、聖霊により愛の実が結ばれるように主イエス様は必ずして下さいます。そして、そこには喜びの実が結ばれます。

 11節。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」。イエス様のように生きるために必要なもの、神様の愛、「イエス様の平安」(1427)と共に「イエス様の喜び」が私たちの中にあるようになり、喜びが満ち溢れるために、イエス様は、ここで、イエス様のご受難、十字架の死を前にして、この告別説教を切々と語られました。

イエス様を信じる人の心の中には聖霊様が働いておられます。ですから、御霊の実は愛、喜び、平安…と続きます(ガラテヤ5・22)。私たちは結局何が欲しいかと言えば喜びです。神はすべての人を愛し合う喜びに招いておられる。その喜びは永遠の喜びです。主は喜び合いたいのです!そして愛し合いたいのです。

 だからでしょうか、12節をご覧ください。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とイエス様はお命じになられました。ここでの愛という言葉は両方ともギリシャ語で「アガペー」。この言葉は神の愛を表現する時によく用いられます。イエス様が弟子たちをアガペーの愛で愛したように、あなたがたはお互いをアガペーの愛でこれから互いに愛し合い続ける事、これが私の戒め、命令です、と言われるのです。

そのような愛は私たちの内から絞り出そうとしても出てきませんが、イエス様に信頼しつながる中で、主に祈り求めていく時、アガペーの愛が聖霊により私たちに注がれ、その愛をもって互いに愛し合えるように神はして下さるのです。

愛の冷えた世においても、主イエス様の愛の炎は燃え続けています。このお方が共にいて、つながってくださり、愛の炎を燃え立たせ、愛の実を結ばせて下さいます。なんと感謝な事でしょうか!

(祈り)主なる神様。イエス様を信じて、イエス様とつながって生きます。私をキリストの弟子として成長させ、聖霊による愛の実を結ばせて下さい。アーメン。