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説教要旨「死者をも生かす全能の神を信じて生きる」ローマ人への手紙4章16節~17節(新約303頁)
今朝はローマにいる信徒への使徒パウロの手紙4・17の「『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ人への手紙4章17節)に特に注目したいと思います。
この17節はアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている、同じ、唯一まことの神様を信じて、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1,2、13:14~、15:5,6)。しかし、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。アブラハムは、途中、自分や妻の現実を見て、主の約束を信じ切れない時もありました(創世記17・17)。しかしアブラムは神と神の約束の御言葉を信じていくようになり、その信仰は成長し、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18)ます。すなわち、19節。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした」。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。
そして、アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。20~22節。『不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。
このような背景の中で「『わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。』」(ローマ4章17節)が記されます。これはアブラム(別名アブラハム)が「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4・18)ることができた根拠でもあります。すなわち「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」る信仰です。
アブラムは死者をも生かす全能の神を信じる信仰に導かれました。アブラム(およそ100歳)もサラ(およそ90歳)も子を産むという点においては死んだも同然の状態でした。しかし、それでもアブラムは主を信じたのでした。アブラムは、全能の主は「死者をも生かす事ができる」と信じたのです。
その信仰がさらに現われたのは、主に「イサクをささげよ」と命じられて、愛する独り息子を主に全焼のささげものとして献げる時でした(創世記22章)。世間の常識的には不可解な命令と行動【注意;もちろんこれは主がアブラハムに特別に命じられた試練(創世記22・1)で、虐待はもちろん、人身を犠牲にしなさいという教えではありません!】。しかしアブラハムにあったのは「死者をも生かす事ができる」との全能の神に対する全幅の信頼でした。「自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(創世記22・12)のです。主はアブラハムが息子に刃を下す寸前で「その子に手を下してはならない」(22・12)と命じ、山に備えていた身代わりの犠牲の雄羊をアブラハムにお与えになりました(創世記22・13)。この出来事についてへブル11・19には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とあります。
この事は、イエス・キリストの身代わりの死と復活を指し示すひな型となったのです。主なる神は実際に愛する独り子を私たちの身代わりの子羊としてこの世にお与えになり、十字架で身代わりに血を流し死ぬことをお許しになりました(ヨハネ3・16)。しかし、三日目に、お約束の通り、復活させ、よみがえらせました。主なる神は確かに全能の神である事をここでもお示しになりました。まさに「死者をも生かす事ができる」全能の神なのです。この信仰は私達が、十字架で死んで三日目に復活されたイエス様を信じて救われた私たちにも通じる信仰です(ローマ4・23~24)。
この信仰を、自分の無能、弱さ、罪深さを感じるどんな試練の時も発揮したいものです。「死」以外にも自分達にはどうする事もできないと思える試練があります。しかし、どのような試練の中でも、全能の神に全幅の信頼をもって明け渡し、聴き従いたく願います。主は最善をなして、共に試練を乗り越えさせて下さると信じます。
【祈り】全能の主よ。どうにもならない時もあなたに信頼します。アーメン。
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