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長崎めぐみ教会ホームページにようこそ!日本イエス・キリスト教団長崎めぐみ教会は、長崎県時津町にある伝統的なプロテスタントのキリスト教会です。 聖書の教える、唯一まことの造り主なる全知全能の神様は全人類を、そして、あなたを本当に愛しておられます。この神の愛は戦争や疫病、災害、物価高騰等の混迷の時代でも全く変わりません。 世界のベストセラーであり、唯一まことの神の誤りのないお言葉である『聖書』から、この唯一まことの神の愛を知って頂けましたら幸いです。 このホームページがその一助となるように願いつつ、随時更新していますので、どうぞ、ご覧下さい。また、皆様のご来会をお待ちしております。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書よりイエス・キリスト様のおことば)
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2022年4月26日火曜日
2022年4月24日日曜日
5月1日(日)礼拝録画&説教要旨「憐れみ深い者を、神が憐れまれる」マタイの福音書5章7節
ミヤマキリシマ
☆5月1日(日)第三礼拝録画配信をご視聴される方は↓の枠内のをクリックしてください。「youtubeを見る」がある場合は、そちらをクリックするとご視聴できます。
*ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師
直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
本日の中心聖句
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
(マタイの福音書5章7節)
【メッセージ要旨】
「憐れみ深い者を、神が憐れまれる」マタイ5章7節(新約6頁)
幸せになりたい。これは多くの人が願う事でしょう。では私たちが真に幸せに生きるために何が必要でしょうか。今朝もキリスト様の山上の説教に聴きます。
1.今日の御言葉の背景 ~これまでのあらすじ~(マタイ4・17~5・6)
イエス様の御人格や御業に触れ、弟子たちやおおぜいの群衆はイエス様についていくようになりました(マタイ4・17~25)。主イエス様のそば近くに弟子たちが集まり、その周りに先の群衆が取り囲んで聴いている中で(5・1)、主イエス様は本当に幸せな人について繰り返し教えてお語りになりました(マタイ5・1~2)。有名な山上の説教と呼ばれる場面で、野外での説教です。主イエス様のこの山上の説教の一連の説教が終わった後、「群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」(7・29)とあります。主イエス様は神ご自身が人となって来られたお方です。その御口から語られるお言葉は神の権威のあるお言葉なのです。
3~4節では、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」と語られています。自分の心の罪や足らなさを自覚している人は、自分の罪や足らなさを悲しみ、救いを求めて、主イエス・キリストに信頼します。そして神のご支配(天の御国)に受け入れられて救われます。そして主イエス様に信頼して生きる中で、神様の愛と恵みと助けと慰めと供給を体験して生きます。だから幸いなのです。
この「幸いです」は主イエス・キリストの救いにあずかった人たちだけに与えられる祝福を指しています(ウェスレアン聖書注解p32)。もちろんイエス様は全ての人をご自分の弟子とその幸いへと招いておられます(マタイ11・28~30)。まだキリストの弟子となっておられない方は、これを機にイエス様の弟子になられるならば幸いです。この「幸いです」は山上の説教の冒頭の3~11節に繰り返されますが、主イエス・キリスト様の弟子の性質と弟子の祝福を示しています。
5節では「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と語られます。柔和な者とは己の心の貧しさを悲しみ、救いを求め、主イエスを信じて救われ、神に慰められ、神とその御旨に信頼して忍耐深く従う人です。その人は「地を受け継ぐ」。すなわち、さらに神の祝福、神の国の嗣業を受け継ぐのです。
6節では「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」と語られました。「飢え渇く」は強調表現で「渇望」の意。ここでの「義」とは「神のとの正しい関係」、「救い」、「きよめ」(キリストの様に生きる事)、さらに神ご自身です。霊的な飢え渇きは人が本質的に誰もがもっています。その霊的な空洞は唯一真の神によってのみ満たすことできます。そして神によって満ち足らされても、その神の恵みの豊かさ故にさらに神を渇き慕い求めるようになります。そしてその渇望は神によって満足させらて頂けるようになるから「幸いです」。
2.憐れみ深い者を神が憐れまれるから、その人は幸せ(マタイ5・7)
さて今日の本題、イエス様の山上の説教のマタイ5章7節に注目します。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」と語られています。神様の視点からご覧になって本当に幸いな人とは「あわれみ深い者」です。これは憐みの気持ちだけでなく、実際に必要に応える行動を伴う憐みです。神の憐みはご自身の大切な独り子、神の御子イエス様をも与える程の最高の憐みです。これによって神は、神の独り子イエス様を信じる者を、地獄行きからお救いになり、永遠のいのちを与え、天国に迎え入れられます(ヨハネ3・16)。
この神の最高の憐みを受けて、主イエス・キリスト様を信じて、神の憐みを知った人は、神様の愛と赦しを受け取って、「あわれみ深い者」と変えられていき、その愛と憐みは成長、成熟していくのです。それは、主イエス様を信じる人に与えられる、神様の聖霊によって生み出される愛の結実です。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5・22,23)。
そのような「あわれみ深い者」を神様はさらにあわれまれます。例えば、弟がおやつをこぼして泣いている時に、兄が弟に自分のおやつを半分、分けてあげているのを親が見たらどうでしょう。親はいじらしく感じて、その兄にもっと良いものを与えてあげたくなるのではないでしょうか。神は全ての人を最高に愛していますが、神の憐みを受けて隣人を憐れむ者を、神はさらに憐れんで下さいます。
(祈り)天の父なる神様。あなたは独り子イエス様を与えるほどに私たちを愛して憐れんで下さっているのに、私たちがその愛を受けて他の人を愛して憐れむ時、もっと憐れんで恵んで下さるとは不思議です。ただただ感謝します。アーメン。
*メッセージ内容について、分かりづらい所や疑問に思う事等、ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
2022年4月22日金曜日
4月24日(日)第一礼拝動画・説教要旨「全ての人の救いを望まれる神」(ヨナ書4章)
☆4月24日(日)第一礼拝録画配信をご視聴される方は↓の枠内のをクリックしてください。「youtubeを見る」がある場合は、そちらをクリックするとご視聴できます。
今日の中心聖句
「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」(ヨナ書4・10~11)
説教要旨「全ての人の救いを望まれる神」(ヨナ書4章)
1.唯一真の神に逆らったヨナ
ある時、アミタイの子であるヨナに次のような主のことばがありました。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」(1・2)。二ネベはイスラエルの国に対して脅威だったアッスリヤという国の首都。イスラエルの人気の預言者ヨナにとっては敵国の中心地です。二ネベの人たちは悪を行っていました。神様は預言者ヨナにニネベの町への宣教を命じます。しかし、ヨナは神様の命令に逆らって、ニネベに行きません。そして逆方向のタルシシュに行く船に乗って、神に逆らいます。
2.死を覚悟する出来事の中で、悔い改めたヨナ
すると大嵐にその船は合います。神様がその嵐をヨナの舟に合わせたのです(4)。嵐の中で船に乗っていた人たちは、くじを引いて誰のせいでこんな嵐に合ったかを知ろうとします(7)。彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たります(7)。そこで彼らはヨナにいろいろと質問をし、ヨナも答えます(8~10)。その中で自分が神に逆らって来た事を知られ、人々は非常に恐れて、何でそんなことをしたのか(10)言います。海がますます荒れてきたので彼らはヨナに、「海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか」(11)と尋ねます。ヨナは彼らに言いました。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです」(12)人々はさすがにそれはしたくないと思って船を陸に戻そうと努力しますが駄目でした。そこでどうしようもないのでヨナが言う通りにしたのです。すると海は静かになったのです(14~15*【注】もちろん自殺はしてはいけませんし、因果応報の教えを教えているわけでもありません。ここで聖書は起こった事実を記しています)。人々は非常に主を恐れました(16)。海に投げ込まれたヨナは海の中に沈んでいきます。しかし主は大きな魚にヨナを飲み込ませます(17)。ヨナはその魚の中で自分の考えを神様にしていた偶像礼拝を悔い改めます(2・8)。その時、神様は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させます。そしてヨナは再び神様からニネベに行くようにと言われ、ヨナは従います(3・2~4)。するとニネベの民がこぞって悔い改めたのです(5~9)。そして神様も彼らをお赦しになります(10)。
3.唯一真の神の心を教えられるヨナ
しかし不思議なことにヨナは怒り狂うのです(4・1~4)。イスラエル愛国者のヨナは敵国ニネベの救いを喜べなかったのかもしれません。または自分の言ったとおりにならなくて、自分の預言者としての面目が丸つぶれになってしまった事を怒ったのかもしれません。すねて怒るヨナ。そしてニネベの回心した人たちを置いてヨナは町を出ます(5)。そして、この町がどうなるか見てやろうと小屋を作って引きこもり、いじわるの目でそのニネベの町を眺めます(5)。ヨナの心にはニネベの人たちへの愛はありませんでした。神様に従ってお言葉を伝えて、人々が悔い改めて回心したもののニネベの人たちを愛していませんでした。
そこで神様は一つの事を通してヨナを取り扱われます。暑さが厳しい中でストライキし小屋に立てこもるヨナのそばに、神様は、とうごまの木を生えさせます。とうごまの木の日陰で暑さやわらぎ、ヨナは喜びました(6)。しかし神様は翌日の夜明けに虫を送ってそれをかませ、とうごまの木は一夜にして枯れてしまったのです(7)。ヨナは暑さのあまり死を願います(8)。
すると神様は言います。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか」(9)。ヨナは「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と答えます(9)。神様は「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」(4・10~11)と言われます。これが神様の愛の心です。ヨナはこの神様の愛の心を心とすべきだったのです。ヨナはこの度の出来事を通して、この神様の愛の心を教えられました。神様の心は今も同じです。全ての人を愛して救いたいのです。そしてこの神様の愛の心は十字架のイエス様に表されています。イエス様は全ての人の身代わりに死なれたのです。
(祈り)天地万物を治めておられる唯一まことの神様。すべての人を愛しておられる、あなたの大きな愛を感謝致します。イエス様の御名によって、アーメン。
*メッセージ内容について、分かりづらい所や疑問に思う事等、ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
2022年4月10日日曜日
4月17日(日)イースター礼拝説教要旨&動画「復活の主イエス様のご命令とお約束」
教会学校からイースターエッグをもらいました。
イースターおめでとうございます!
☆4月17日(日)第一礼拝録画配信をご視聴される方は↓の枠内のをクリックしてください。「youtubeを見る」がある場合は、そちらをクリックするとご視聴できます。
今日の中心聖句
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章18~20節)
「復活の主イエス様のご命令とお約束」マタイ28章16~20節(新約p64)
本日は、主イエス・キリスト様のご復活を記念するイースター(復活祭)の礼拝です。今朝は十字架で贖いを成し遂げ、死後三日目に復活された主イエス様のみ言葉、マタイの福音書28章16~20節に改めて注目致しましょう。
主イエス様が十字架の上で死なれた後、三日目に復活されました。その後、弟子たちは復活の主イエスに、何度も、お出会いし、生ける主イエス様を信じていきます。
そして弟子達は以前からガリラヤでイエス様に会えると言われていた通り、ガリラヤに行ったのです。そして主イエス様が指定されたガリラヤの山(16)で復活の主イエスにお会いし、主イエスを拝見し礼拝しました(17)。
弟子の中には半信半疑の者もいたようですが、主イエス様はそんな弟子達に近づかれ語られるのです。主イエス様はご自分を裏切り、離れてしまっている者をも顧みて、愛をもって近づき、復活したご自身をお示しになられながら語りかけ、弟子たちの信仰を回復してゆかれました。
1.復活の主イエス様のご命令
その後、主イエス様は弟子たちに命じます。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(18)。
この時、弟子達は困難な中にありました。ローマ帝国、ユダヤの宗教指導者達が敵にまわっていました。民衆もイエス様を十字架につけろと叫んだ直後でした。
しかし、この18節のお言葉が弟子たちの力であり、命であり、守りであり、勝利です。イエス様は天地万物の王で主です。たといローマ帝国とユダヤ宗教指導者たちと民衆が敵対していても勝利はゆるがないのです。一切の権威はキリストにあるのです。父なる神様に全くお従いし、十字架と復活を経て、父から一切の権威を授かったのです。
主イエス様はその権威をもって言われます。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(19~20節前半)。あらゆる国の人々を主イエス・キリストにお従いする弟子にしなさい、という主のご命令です。弟子にするとは、具体的には、福音を宣教する事、洗礼を授ける事と、主イエス様の教えを教え続けることです。
洗礼は、イエス様を信じて救われて、聖霊を頂いて、三位一体の神との霊的交わりに入る事(ローマ6:3、4)のしるしです。洗礼を受けてそれで終わりではなく、続いて、主イエス様の教えを主の御言葉によって学び続け、守り続けるのです。その人は幸いな者になります(マタイ5・2~12)。しかし主イエス様の教えとご命令は自分の力では守れません。ではどうすればいいのでしょうか?
2.復活の主イエス様のお約束
主イエス様はそんな弟子たちに「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節後半)と約束されました。どこでも、いつでもイエス様は信仰者と共にいて下さるのです。この時の弟子たちは、まだ宣教どころではないと思われるような、つまづいたところからやっと起き上がったような弱い弟子達です。
にもかかわらず、いえ、そんな弱い弟子達だからこそ、このお言葉を下さいました。弟子たちがこれから担う使命の重さを主はご存じです。しかし主イエス様と共に担うなら重荷は軽くなるのです(マタイ11・28~30)。
その後、主イエス様は「天に上げられ、神の右の座に着かれ」、その後、「いたるところで福音を宣べ伝えた」弟子達と、主は「ともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」(マルコ16・19~20)のです。
主イエス様は一切の権威をもって父なる神の右の座につき、天で、地上の弟子たちの為に祝福をもってとりなし祈り、今も弟子達と共に働いておられます。
福音宣教も弟子育成も主イエス様と共にするものです。主が共にいつもおられます。イエス様の愛に生かされながら、そのイエス様の愛を証していくのです。愛がなければ一切は無益です。
11使徒達以来、教会は同じ本質的弱さがあります。私たちも弱いからこそ、主イエス様の所に信仰と祈りをもって行くしかありません。しかし、そここそ最も安全安心のところです。
改めて、復活して今も生きておられ、共におられる主に信仰の目を上げて祈り信頼し、主に倣いつつ、主と主のお約束に信頼して、主のご命令にお従いして参りましょう。
困難はありますが主の弟子として生きつつ、福音を宣教し、他の弟子の成長を助けましょう。
(祈り)父なる神様。復活して今も生きておられ、一切の権威のある主イエス様が共にいて下さる事を感謝致します。主と主のお約束に信頼して弟子として歩み、ご命令にお従いして福音宣教に励みます。イエス様の御名によって、アーメン。
*メッセージ内容について、分かりづらい所や疑問に思う事等、ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
2022年4月8日金曜日
4月10日(日)礼拝メッセージ要旨(補足更新)・録画「幸福ではなく、神とその義を渇き求めよ」マタイの福音書5章6節
最近教会のお庭で咲いたお花
☆4月10日(日)第一礼拝録画配信をご視聴される方は↓の枠内のをクリックしてください。「youtubeを見る」がある場合は、そちらをクリックするとご視聴できます。
中心聖句
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」 (マタイの福音書5章6節)
「幸福ではなく、神とその義を渇き求めよ」マタイ5章6節(新約6頁)
2022年の長崎めぐみ教会の標語として、「主にあって共に幸せになる教会」という標語を掲げさせて頂きました。テーマ聖句はマタイの福音書28・20の主イエス様の御言葉。「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」です。この事を意識しつつ、同じマタイの福音書より、主イエス様の山上の説教を見ております。私たちが真に幸せに生きるために何が必要でしょうか。
イエス様の御人格や御業に触れ、弟子たちや群衆はイエス様についていくようになりました(マタイ4・17~25)。主イエス様のそば近くに弟子たちが集まり、その周りに先の群衆が取り囲んで聴いている中で(5・1)、主イエス様は本当に幸せな人について繰り返し教えてお語りになりました(マタイ5・1~2)。主イエス様の御口から語られる権威ある神の御言葉、神のみ教えです。3~4節。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」。心すなわち霊において貧しい者、すなわち自分の罪や足らなさを自覚している人は、自分の罪や足らなさを悲しみ、救いを求めて、主イエス・キリストに信頼します。そして神のご支配(天の御国)に受け入れられて救われます。そして主イエス様に信頼して生きる中で、神様の愛と恵みと助けと慰めと供給を体験して生きます。だから幸いなのです。この「幸いです」は主イエス・キリストの救いにあずかった人たちだけに与えられる祝福を指しています(ウェスレアン聖書注解p32)。ここには主イエス・キリスト様の弟子の性質と弟子の祝福が示されています。先週は5節に注目しました。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」。柔和な者とは、心の貧しさを悲しみ、救いを求め、主イエスを信じて救われ、慰められて、さらに主とその御旨に信頼して忍耐深く従う人です。そういう人は「地を受け継ぐ」すなわち、さらに神の祝福を受け、神の国の嗣業を受け継ぐのです。
1.幸福を追い求めるのではなく
さて今日は続く6節に注目しましょう。今日は少し刺激的な題をあえてつけさせていただきました。「え?どういうこと!?」と怪訝に思われるかもしれません。どうぞ、上手にお聴きくださればと思います。これは決して、幸せになりたい、という思いを否定する意図ではありません。私も幸せになりたいと思います。また、与えられている様々な恵み、例えば、食べ物や、着る服や、家族や、良い友だちや人間関係、美しい自然、良い仕事や趣味をする中での幸福感を否定するものでもありません。これらもまた、唯一真の神様が与えて下さっているお恵みなのです。
この度、特に申し上げたい事の結論は、すべての人に恵みを与え、愛を与え、救いを与え、幸福を与えて下さる、唯一まことの神様(主イエス・キリスト様)を無視して、また唯一真の神様を抜きにして、真の幸福、永遠の幸福を得る事はできない、という事です。いったい、どういう事でしょうか?どうぞ、しばらく耳を傾け(または読んで)て下されば幸いです。
☆もし、これらを読みながら、またお話を聴いてみて、またご質問のある方、内容に納得のいかない方、どうぞ、ご連絡下さい(080-6322-5554の後藤の携帯まで)。
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(6)。この点、イギリスの有名なキリスト教の説教者D・M・ロイドジョンズは次のように述べています。「聖書によれば、幸福は、決して直接に求めるべきことではない。幸福とは、いつでも何かほかのことを求めた結果与えられるものなのである。」(『山上の説教』p86)。
では何を求めればよいのでしょうか。それがまさに「義に飢え渇く者は幸いです」。ここでの「義」とは「神のとの正しい関係」、「救い」、「きよめ」(キリストのごとくなる事)、さらに神ご自身です。罪のきよめを飢え渇くようになるという事です。そして、その「飢え渇き」は「満ち足りる」ようになるから「幸いです」。
すなわち、教理的な事を言うならば、主イエス様を信じる信仰によって罪赦され義と認められます。さらに罪がきよめられ、罪から解放され、罪に勝利できるように主イエス様が信仰者の中に生きて下さる。主イエス様を信じる人の心には神ご自身である神の聖霊が来て下さり、人生を導き、義の実を結び、義の良い行いを可能として下さいます。そしてキリストの再臨(再び天から来られる)の時に、主イエス様が死後三日目に復活した時のように、永遠に死なない、栄光の体にして、救いを完成し、永遠に完全に義に満ちたらせて下さるのです。だから、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(6)。この幸いは、維持的なものではない、永遠に続く、天国の幸いです。そして、これは、「義」、すなわち、神と神の与える救いを追い求める人に与えられる、永遠に満ち足りる幸いなのです。
2.主なる神とその義とを渇き求めるなら、主が満ち足らせて幸福にして下さる
私たちは幸せになる事を追い求めて、この「義」、すなわち「救い」・「きよめ」・「神ご自身」を飢え渇き求めるのではなく、他のものを追い求めてはいないでしょうか?
この点、ロイドジョンズは次のように述べます。「私たちが真に幸福になりたいのなら、幸いになりたいのなら、義に飢え渇かなければならない。幸いや幸福や経験を、第一においてはならない。そうではなく、それは、義を求める人々に神が与えて下さるものである」(『山上の説教』p88)。私はロイドジョンズ先生のこれらの解説を読んで、「はっ」とし、「なるほど」、と思い、この度のメッセージ題をつけさせて頂きました。
なお、この「飢え渇き」についてロイドジョンズは次のように述べています。「飢え渇くとは・・・私たちの必要の自覚、深刻な必要の自覚という意味である。さらに進んで言えば、私たちの絶対的な必要の自覚、痛みを感じるほどの自分の必要を深く自覚することである。飢え渇くことは、満たされるまで続く」(p92)。
そして、主(唯一真の神様、イエス・キリスト様の意。三位一体の神様の事)とその救いを渇き求める時、主が満足させて下さるのです。主なる神の中にこそ真の幸いがあるからです(詩篇16・2)。主ご自身を信頼して、常に、主とその救いを慕い求めましょう。
(祈り)天の父なる神様。真の幸福は、あなたご自身を求める時に与えられる、あなたからのプレゼントである事を知りました。また、日々のささやかな幸せも、たどっていけば、あなたが私たちを愛して届けて下さっているお恵みである事を感謝致します。私たちの幸福の源泉であり、永遠の幸福を与えて下さる神であるあなたに信頼して、これからも生きてきます。そして、そこまでして私たちを愛して下さるあなたご自身を慕い求めます。私たちの救いであり、義であり、聖であるあなたご自身を常に渇き求めます。満たし続けて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
*メッセージ内容について、分かりづらい所や疑問に思う事等、ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。