最近教会のお庭で咲いたお花
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中心聖句
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」 (マタイの福音書5章6節)
「幸福ではなく、神とその義を渇き求めよ」マタイ5章6節(新約6頁)
2022年の長崎めぐみ教会の標語として、「主にあって共に幸せになる教会」という標語を掲げさせて頂きました。テーマ聖句はマタイの福音書28・20の主イエス様の御言葉。「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」です。この事を意識しつつ、同じマタイの福音書より、主イエス様の山上の説教を見ております。私たちが真に幸せに生きるために何が必要でしょうか。
イエス様の御人格や御業に触れ、弟子たちや群衆はイエス様についていくようになりました(マタイ4・17~25)。主イエス様のそば近くに弟子たちが集まり、その周りに先の群衆が取り囲んで聴いている中で(5・1)、主イエス様は本当に幸せな人について繰り返し教えてお語りになりました(マタイ5・1~2)。主イエス様の御口から語られる権威ある神の御言葉、神のみ教えです。3~4節。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」。心すなわち霊において貧しい者、すなわち自分の罪や足らなさを自覚している人は、自分の罪や足らなさを悲しみ、救いを求めて、主イエス・キリストに信頼します。そして神のご支配(天の御国)に受け入れられて救われます。そして主イエス様に信頼して生きる中で、神様の愛と恵みと助けと慰めと供給を体験して生きます。だから幸いなのです。この「幸いです」は主イエス・キリストの救いにあずかった人たちだけに与えられる祝福を指しています(ウェスレアン聖書注解p32)。ここには主イエス・キリスト様の弟子の性質と弟子の祝福が示されています。先週は5節に注目しました。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」。柔和な者とは、心の貧しさを悲しみ、救いを求め、主イエスを信じて救われ、慰められて、さらに主とその御旨に信頼して忍耐深く従う人です。そういう人は「地を受け継ぐ」すなわち、さらに神の祝福を受け、神の国の嗣業を受け継ぐのです。
1.幸福を追い求めるのではなく
さて今日は続く6節に注目しましょう。今日は少し刺激的な題をあえてつけさせていただきました。「え?どういうこと!?」と怪訝に思われるかもしれません。どうぞ、上手にお聴きくださればと思います。これは決して、幸せになりたい、という思いを否定する意図ではありません。私も幸せになりたいと思います。また、与えられている様々な恵み、例えば、食べ物や、着る服や、家族や、良い友だちや人間関係、美しい自然、良い仕事や趣味をする中での幸福感を否定するものでもありません。これらもまた、唯一真の神様が与えて下さっているお恵みなのです。
この度、特に申し上げたい事の結論は、すべての人に恵みを与え、愛を与え、救いを与え、幸福を与えて下さる、唯一まことの神様(主イエス・キリスト様)を無視して、また唯一真の神様を抜きにして、真の幸福、永遠の幸福を得る事はできない、という事です。いったい、どういう事でしょうか?どうぞ、しばらく耳を傾け(または読んで)て下されば幸いです。
☆もし、これらを読みながら、またお話を聴いてみて、またご質問のある方、内容に納得のいかない方、どうぞ、ご連絡下さい(080-6322-5554の後藤の携帯まで)。
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(6)。この点、イギリスの有名なキリスト教の説教者D・M・ロイドジョンズは次のように述べています。「聖書によれば、幸福は、決して直接に求めるべきことではない。幸福とは、いつでも何かほかのことを求めた結果与えられるものなのである。」(『山上の説教』p86)。
では何を求めればよいのでしょうか。それがまさに「義に飢え渇く者は幸いです」。ここでの「義」とは「神のとの正しい関係」、「救い」、「きよめ」(キリストのごとくなる事)、さらに神ご自身です。罪のきよめを飢え渇くようになるという事です。そして、その「飢え渇き」は「満ち足りる」ようになるから「幸いです」。
すなわち、教理的な事を言うならば、主イエス様を信じる信仰によって罪赦され義と認められます。さらに罪がきよめられ、罪から解放され、罪に勝利できるように主イエス様が信仰者の中に生きて下さる。主イエス様を信じる人の心には神ご自身である神の聖霊が来て下さり、人生を導き、義の実を結び、義の良い行いを可能として下さいます。そしてキリストの再臨(再び天から来られる)の時に、主イエス様が死後三日目に復活した時のように、永遠に死なない、栄光の体にして、救いを完成し、永遠に完全に義に満ちたらせて下さるのです。だから、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(6)。この幸いは、維持的なものではない、永遠に続く、天国の幸いです。そして、これは、「義」、すなわち、神と神の与える救いを追い求める人に与えられる、永遠に満ち足りる幸いなのです。
2.主なる神とその義とを渇き求めるなら、主が満ち足らせて幸福にして下さる
私たちは幸せになる事を追い求めて、この「義」、すなわち「救い」・「きよめ」・「神ご自身」を飢え渇き求めるのではなく、他のものを追い求めてはいないでしょうか?
この点、ロイドジョンズは次のように述べます。「私たちが真に幸福になりたいのなら、幸いになりたいのなら、義に飢え渇かなければならない。幸いや幸福や経験を、第一においてはならない。そうではなく、それは、義を求める人々に神が与えて下さるものである」(『山上の説教』p88)。私はロイドジョンズ先生のこれらの解説を読んで、「はっ」とし、「なるほど」、と思い、この度のメッセージ題をつけさせて頂きました。
なお、この「飢え渇き」についてロイドジョンズは次のように述べています。「飢え渇くとは・・・私たちの必要の自覚、深刻な必要の自覚という意味である。さらに進んで言えば、私たちの絶対的な必要の自覚、痛みを感じるほどの自分の必要を深く自覚することである。飢え渇くことは、満たされるまで続く」(p92)。
そして、主(唯一真の神様、イエス・キリスト様の意。三位一体の神様の事)とその救いを渇き求める時、主が満足させて下さるのです。主なる神の中にこそ真の幸いがあるからです(詩篇16・2)。主ご自身を信頼して、常に、主とその救いを慕い求めましょう。
(祈り)天の父なる神様。真の幸福は、あなたご自身を求める時に与えられる、あなたからのプレゼントである事を知りました。また、日々のささやかな幸せも、たどっていけば、あなたが私たちを愛して届けて下さっているお恵みである事を感謝致します。私たちの幸福の源泉であり、永遠の幸福を与えて下さる神であるあなたに信頼して、これからも生きてきます。そして、そこまでして私たちを愛して下さるあなたご自身を慕い求めます。私たちの救いであり、義であり、聖であるあなたご自身を常に渇き求めます。満たし続けて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
*メッセージ内容について、分かりづらい所や疑問に思う事等、ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
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