基本集会のご案内
〇日曜礼拝(毎週日曜日、毎朝行っています)
第一礼拝(お話は第二礼拝よりも短めです)
*席数はコロナ対策のため間隔を空けている関係で14席程です。
第二礼拝に比べて空席(14席程)は十分あります(駐車場は軽4台程)。
空席状況や駐車場がご心配の方はあらかじめご連絡ください。
午前9時30分~10時頃 *終了時間が10時15分頃まで延長する場合もあります。
【ライブ(録画)配信でもご視聴できます】
*回線不具合等により、配信開始が遅くなる場合や配信ができない場合もあります。時折起こる回線不具合の為、第二礼拝、午後礼拝の配信となる場合もございます。あらかじめご了承ください。
*説教者のみを撮影して配信しています。会衆は映りません。
*視聴される方は↓の写真をクリックしてください。「youtubeで見る」という文字が写真内に出た場合はそちらをクリックしてください。
*回線不具合時には↓こちらをお試しください【少し時間がかかる場合があります】。
第二礼拝 午前10時30分~11時30分頃
(お話は第一礼拝よりも詳しくお話します)
☆諸事情により、どうしても上の時間帯での礼拝出席がかなわず、その他の時間帯での個別の礼拝【早朝(例・朝6時~6時半)礼拝、午後礼拝、夕礼拝(午後8時~8時半)等】の時をご希望の方は、ご遠慮なく、事前にご相談ください。なるべく対応させて頂きます。
☆彡 当教会のコロナ対策方針
☆コロナ感染予防のため(特に高齢者等リスクの高い方への配慮のため)、会堂内のマスク着用の推奨(強制ではありません)、アルコール消毒、換気、密閉、密集、密接を避ける等を引き続き実施します。ご来会の際にはご協力をお願い申し上げます。
☆なお3密防止のため席数(14席程)が限られています。また駐車場も軽自動車4台分(実質2~3台分)と限られています。ご参考までに、現在は午前9時半~の第一礼拝の集会の方が空席が14席程と十分あります。第二礼拝は日によっては空席が4~5席の時もあります。空席状況がご心配の方はあらかじめご連絡頂く事をお勧めしております(特に第二礼拝出席時)。なおご連絡頂かなくても、空席があれば、先着順にてご着席可能です。
☆満席時も、なるべくご着席頂けるように対応させて頂きますが、どうしてもスペースに限りがありますし、コロナ感染対策のため、場合によっては、オンラインでのご参加をお願いする場合もございます。その際は、どうぞ、ご了承ください。事前にお電話頂くと確実です(教会の電話 095(870)7200、あるいは牧師直通携帯;080-6322-5554)。
☆引き続き、コロナ対策の為、ご体調のすぐれない方や、コロナの感染がご心配な方は、ご無理はなさらないで、上の方にあります、「礼拝ライブ配信または録画配信」を用いて、ご自宅にて、主なる神様を礼拝頂ければと存じます。その他、ご心配な点等やご質問等ございましたら、どうぞ、お尋ね下さい。
〇教会学校(子ども) 午前9時半~10時頃
〇聖書研究祈り会 毎週水曜日 午前10時30分~11時30分頃
*各集会は全て無料ですが礼拝では自由献金の時があります(強制ではなく自由です)。
☆「やさしい聖書の学び」(お申し込み随時受付中)*ご都合の良いお時間で聖書を学べます。オンラインでも個別にも対応致します。ご遠慮なくご相談下さい。
*その他、ご質問、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。
☆彡教会周辺の地図はこちら↓
六月 第四主日礼拝
◇礼拝の始まり5分前には心を静めて、静かにお待ちください。
♢讃美歌は心を込めつつ、声は小さめに歌いましょう(コロナ感染対策)。
前 奏
頌 栄 『あめつちこぞりて』(新聖歌60) (起立)
主の祈り (週報左下記載)
祈 祷 司会者 (着席)
信仰告白 使徒信条 (週報右下記載)
聖 書 ガラテヤ2章15~21節(新約376~377頁) 司会者
メッセージ 「キリストが私の内に生きる!」 後藤健一牧師
讃 美 「罪に満てる世界」(新聖歌343)
(起立)
献 金
頌 栄 『父・ 御子・ 御霊』 (新聖歌63)
(起立)
祝 祷 後藤健一牧師
*交読文とSGは割愛し、讃美歌も減らしております(コロナ感染対策)
主の祈り
天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ、
み国を来らせたまえ、みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ、
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ、我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ、
国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり、アーメン。
日本イエス・キリスト教団 信仰告白文 (毎月第一日曜日第二礼拝のみ告白)
わたしたちは信じて、告白します。旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた、誤りのない神のことばであり、キリストをあかしし、福音の真理を示すもので、教会の拠(よ)って立つただ一つの正典です。聖書は、わたしたちに、神と救いについての完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の規準です。
主イエス・キリストによって啓示され、聖書にあかしされた唯一の神は、父と子と聖霊の三位一体の神であり、その本質において同一です。イエス・キリストは、神のひとり子であり、わたしたちを罪から 救うために人となり、身代りとなって十字架にかかり、ただ一度、ご自身を完全な犠牲(いけにえ)として神にささげ、あがないを成就されました。その復活は、永遠のいのちの保証です。天に昇られた 主は、キリストの日に至るまで、わたしたちのためにとりなしておられます。
わたしたちは、神の恵みにより、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、罪をゆるされ、神と和解し、新たに生まれて神の子とされます。わたしたちは、キリストの血によって、すべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマを受け、その内住による全き支配によって、主のかたちに変えられていきます。主は 再び来られ、わたしたちを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて、永遠のみ国をつぐ者とされます。
教会は、キリストのからだであって、神に召された聖徒の集まりです。教会は、公同の礼拝を守り、主の命(めい)にこたえて、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を執り行ない、聖徒をととのえ、主に仕えつつ愛のわざを励み、主が再び来られるのを待ち望みます。わたしたちは、このように信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白します。
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、 生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。
メッセージ聖書箇所・ガラテヤ人への手紙2章15~21節(新約376~377頁)
15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。
16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。
18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章19~20節)
【メッセージ要旨】
1.あらすじと背景(ガラテヤ人への手紙1・1~2・14)
誤った教えに翻弄され、ユダヤ人の様になる事で救われよう(ユダヤ主義)としていたガラテヤ諸教会(1・6~9)。使徒パウロは神のしもべとして、神に対して忠実に、全存在でその誤りを正します(1・10~12)。自分は生粋のユダヤ人出身で同世代よりもユダヤ教に熱心に精進していた(1・13~14)。しかし復活の主イエスから啓示を受けて回心(1・12)。十字架につけられたイエスが実は旧約聖書の預言の成就であり、メシア、救い主キリストと知ったのだと。
パウロが二度目にペテロに面会した時、ペテロはパウロが伝えている福音に対して何の苦言も追加もなし。むしろ交わりの印の右手を差し出し、お互いの使命を確認。両者の受けた福音は完全一致(2・1~10)。本来、教会が拠って立つのもこの一つの福音(1・7)。使徒パウロはこの福音を忠実に堅持します(1・9)。この後ペテロがこの福音の真理に反すると思われる行動をしてもパウロ揺るがず、むしろ大先輩の使徒ペテロを正すほどでした(2・11~14)。
2.イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる(15~19)
パウロは次のように続けます。生粋のユダヤ人で熱心なユダヤ教徒だった私ですら律法を行う事によってではなく、イエス・キリスト信仰によって義と認められると知って、私もイエス・キリストを信じた(2・15~16)、と。このイエス・キリストを信じる信仰によって、義と認められ、神に受け入れられる、という福音の教えに対して、ユダヤ主義者たちは反論します。「それではキリストが律法違反者を生み出す罪の助成者になる」と。それに対して、さらに使徒パウロは反論します。「決してそんなことはありません」(17)と。なぜなら、神の律法の前に全ての人は皆、有罪かつ死刑が確定していて、この私もそうだ、という事を使徒パウロは記しています(18、19)。しかしキリストが私の身代わりに十字架で処刑された。そこで私も共に律法に基づき処刑されたのだ(18、19)。これは罪人が完全に正しい神と共に生きるためでした。そのためには、律法という神の基準に照らして、罪が判明し、そして処罰されなければならなかったのです。しかしその処罰を神の独り子イエス・キリストが十字架で身代わりに受けて下さいました。だからこそ2章19節、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」とパウロ。
3.キリストが私の内に生きる!という圧倒的なすばらしい救い(20,21)
さらに続く20節にて、「しかして、もはや私ではない私が生き、私の内に復活のキリスト(メシア)が生きている」(私訳)、とパウロは告白します。メシア(油注がれた者)とは、旧約聖書にて、王(統治)・大祭司(仲保)・預言者(指導)の三職(任職時に油注ぎ)を兼ねる存在です。そのようなメシア、救い主をユダヤ人達は待ち望んでおりました。そのメシア、キリストがついに来られたのがイエス様なのです!パウロはその事を神の啓示によって知り、回心しました(1・12)。パウロは20節で続けます。「このキリストに対して今、私は肉体において、信仰によって生きている」(私訳)、と。そしてこのキリストは「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子」(20)であり、このお方を信じる信仰によって、私は今、肉体のうちにあって、生きているのだ、と。
イエス・キリストを信じる人の心には、キリストの御霊、ご聖霊が与えられ、来られます(3・14、4・6、5・16、18、22、23)。イエス・キリストは、私達の救いの為に、十字架にかかり身代わりに死なれました。今も天において大祭司としてとりなりし祈って下さっています。へブル7・24,25。「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」。一切の権威をもつ王なるキリスト。天の大法廷でも父なる神にとりなす大祭司キリスト。最善の指導者キリスト。このお方がイエス・キリストを信じ受け入れる者の心に生きる!圧倒的な恵みです。驚くほどの恵みです。アメージンググレイスです。これほどの恵みを私たちは戴いている!だからパウロはこの恵みを無駄にするガラテヤの諸教会の人たちにパウロはびっくり仰天しました(1・6)。そしてパウロは「私は神の恵みを無駄にしません」(2・21)と叫びます。それは旧約聖書をよく学んできたからこそ、旧約聖書をことごとく成就するメシア、キリストが、しかも私の為に身代わりに死なれて復活された神の子が、イエス・キリストを信じる私の内に生きておられる、という事のすごさを知っているからです。
―今週の予定―
☆6月28日(水)聖書研究祈り会 10:30am 会堂一階にて
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