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2024年5月25日土曜日

6月2日(日)礼拝録画配信「神と共に生きる幸せ」 詩篇16篇1~2節(旧約945ページ)

基本集会のご案内

〇日曜礼拝(毎週日曜日午前)*第一、第二礼拝等のご案内

第一礼拝(お話は第二礼拝よりも短めです)

*席数は第二礼拝に比べて空席(15席程)は十分あります(駐車場は軽4台or普通車2台程。事前にご連絡頂くと駐車場の空きの確認や予約ができて確実です。どうぞ、ご相談下さい)。空席状況や駐車場がご心配の方はあらかじめご連絡ください。

午前930分~10頃 *終了時間が10時15分頃まで延長する場合もあります。

【ライブ(録画)配信でもご視聴できます】

*回線不具合等により、配信開始が遅くなる場合や配信ができない場合もあります。時折起こる回線不具合の為、第二礼拝、午後礼拝の配信となる場合もございます。あらかじめご了承ください。

*説教者のみを撮影して配信しています。会衆は映りません。

*視聴される方は↓の写真をクリックしてください。「youtubeで見る」という文字が写真内に出た場合はそちらをクリックしてください。




*【予備】回線不具合時には↓こちらをお試し下さい
(対応に少し時間がかかる場合があります。10分しても復旧しない場合は、
下の方をスクロールして頂くと出てきます、
礼拝プログラムや説教要旨を用いて各自で礼拝をお捧げになられてください。)


第二礼拝(特別伝道礼拝) 午前1030分~11時45分頃

 (お話は第一礼拝よりも詳しくお話します)

☆諸事情により、どうしても上の時間帯での礼拝出席がかなわず、その他の時間帯での個別の礼拝【早朝(例・朝6時~6時半)礼拝、午後礼拝、夕礼拝(午後8時~8時半)等】の時をご希望の方は、ご遠慮なく、事前にご相談ください。なるべく対応させて頂きます。

☆彡 現在の当教会のコロナ対策方針  

各自で適宜お気をつけください。

☆なお引き続き密は避けるため席数15席程)が限られています。また駐車場も軽自動車4台分(実質2~3台分)と限られています。ご参考までに、現在は午前9時半~の第一礼拝の集会の方が空席が15席程と十分あります。第二礼拝は日によっては空席が4~5席の時もあります。空席状況がご心配の方はあらかじめご連絡頂く事をお勧めしております(特に第二礼拝出席時)。

(教会の電話 095(870)7200、あるいは牧師直通携帯;080-6322-5554)。

☆引き続き、コロナ対策の為、ご体調のすぐれない方や、コロナの感染がご心配な方は、ご無理はなさらないで、上の方にあります、「礼拝ライブ配信または録画配信」を用いて、ご自宅にて、主なる神様を礼拝頂ければと存じます。その他、ご心配な点等やご質問等ございましたら、どうぞ、お尋ね下さい。

〇教会学校(子ども) 午前9時半~10時頃

〇聖書研究祈り会 毎週水曜日 午前1030分~1130分頃

〇こども宿題タイム (基本)毎週木曜日 午後3時~4時半頃 

*各集会は全て無料ですが礼拝では自由献金の時があります(強制ではなく自由です)

*教会学校、聖書研究祈り会、こども宿題タイムはお休みの時もありますので、

 HPで最新情報をお確かめになられるか、お電話等でお尋ねください。


「やさしい聖書の学び」(お申し込み随時受付中)*ご都合の良いお時間で聖書を学べます。オンラインでも個別にも対応致します。ご遠慮なくご相談下さい。

*その他、ご質問、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。


☆彡教会周辺の地図はこちら↓


    ☆礼拝プログラム *第一礼拝はプログラムを一部割愛

◇礼拝の始まり5分前には心を静めて、静かにお待ちください。

♢コロナ感染対策は、各自で、適宜、お気をつけ下さい。

  司会;後藤健一師

前 奏                             

頌 栄      『あめつちこぞりて』(新聖歌60)               (一同起立)

主の祈り   (下記載)                    (起立)

祈 祷                              司会者

信仰告白   使徒信条  (下記載) 

聖 書     詩篇16篇12(旧約945ページ)               司会者

メッセージ   神と共に生きる幸せ                     後藤健一牧師


讃 美    「幸い薄く見ゆる日に」(新聖歌330)          (一同起立)

献金・祈祷                          

                                                                    

頌 栄     父・ 御子・ 御霊』(新聖歌63)                    (一同起立) 

祝 祷                                      牧    

報 告                            牧   師

主の祈り

天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ、

み国を来らせたまえ、みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ、

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ、我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ、

国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり、アーメン。


日本イエス・キリスト教団 信仰告白文 (毎月第一日曜日第二礼拝のみ告白)

 わたしたちは信じて、告白します。旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた、誤りのない神のことばであり、キリストをあかしし、福音の真理を示すもので、教会の拠(よ)って立つただ一つの正典です。聖書は、わたしたちに、神と救いについての完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の規準です。

 主イエス・キリストによって啓示され、聖書にあかしされた唯一の神は、父と子と聖霊の三位一体の神であり、その本質において同一です。イエス・キリストは、神のひとり子であり、わたしたちを罪から 救うために人となり、身代りとなって十字架にかかり、ただ一度、ご自身を完全な犠牲(いけにえ)として神にささげ、あがないを成就されました。その復活は、永遠のいのちの保証です。天に昇られた 主は、キリストの日に至るまで、わたしたちのためにとりなしておられます。

 わたしたちは、神の恵みにより、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、罪をゆるされ、神と和解し、新たに生まれて神の子とされます。わたしたちは、キリストの血によって、すべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマを受け、その内住による全き支配によって、主のかたちに変えられていきます。主は 再び来られ、わたしたちを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて、永遠のみ国をつぐ者とされます。

 教会は、キリストのからだであって、神に召された聖徒の集まりです。教会は、公同の礼拝を守り、主の命(めい)にこたえて、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を執り行ない、聖徒をととのえ、主に仕えつつ愛のわざを励み、主が再び来られるのを待ち望みます。わたしたちは、このように信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白します。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、 生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。


神と共に生きる幸せ詩篇16篇1~2節(旧約945)

表題に「ダビデのミクタム」とあります。「ミクタム」の意味については見解が分かれ「黄金の」、「宝石の」という意味、「ある種の曲調」であるとの説等があります。ダビデにはダビデの人生の曲調がある。そのダビデの曲調で、このダビデが神と共に歩んだ人生の詩篇の歌が奏でられる。ダビデの人生を黄金の人生とした神がそこで歌われます。人生を曲調(メロディー)でたとえるなら、華やかな曲調の時もあるでしょうし、悲しい曲調、重い曲調の時もあるでしょう。単調な、いつもの曲調のようであっても、よくよく耳をすませて聞いてみると、微妙な変化があるのでしょう。ダビデにはダビデの曲調があったように、あなたにはあなたならではの神と共に生きる人生の曲調があるのです。そして、そのダビデという一人の人の人生という曲調の中で賛美され歌われているのが、ダビデを生かし、守り養い、祝福し、幸いにされた、唯一真の神ご自身です。この詩篇16篇は、ダビデの曲調で歌われた、ダビデの人生の幸いの源なる神への賛美です。

1節。「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。」とあります。ダビデは様々な試練のあった波乱万丈の生涯でした。彼はイスラエルの二代目の王に神様によって立てられますが、命狙われる時も度々ありました。ダビデは、その波乱万丈の人生の中で、主なる神の中に逃げ込むようにして、主なる神に拠り頼みつつ生きていきました。そういう中で、ダビデは神に告白しています。2節。「私は、主に申し上げました。『あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。』」。試練があっても、命を狙われるような危険があっても、またどんな時でも、主と共に生きる幸いを喜ぶダビデの信仰と愛の告白です。主ご自身を喜び、主ご自身を幸いとする信仰者の姿です。ここで、「私の幸いは、あなたのほかにはありません。」は「私の幸いは、あなたの上にはありません」、「あなたにまで至りません」とも訳せます。つまり、私の幸いは、あなたご自身を超えるものはない、という意味にもとれます。つまり、あなた(主なる神さまご自身)こそがわたしの最高の幸せです、という愛と信仰の告白です。

ダビデにも家族がいましたし、羊飼い時代に神に守られてきた事、やがて、王に神によってして頂いたこと、苦難の中でも危険から守られた事、財産も与えられ、知恵や力、良き仲間が与えられ、良き部下に恵まれた事、イスラエル王国が敵から守られたこと。それらはどれでも、幸せで感謝でしょう。しかし、ダビデは主に告白します。「あなたこそ、私の主(主人、所有者)。私の幸せは、あなたを超えるものはありません。あなたこそ、最高の私の幸せです」と。もちろん、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」という翻訳もその通りです。「すべての良い贈り物」は神からくるからです。主なる神こそ幸せの唯一の源泉なのです。私たちも、日々、多くの恵みを主から頂いて今日まで生かされています。様々な幸せを神様から頂いていることでしょう。たとえば、愛し合う人が与えられている事、夫婦、家族、友人、良き仕事、同僚、仲間、食べ物、着る物、必要なもの、住まい、財産、立場、健康、学び、仕事、知識、遊び、良い経験などなど。どれも、感謝ですし、どれも当たり前ではありません。

しかし、どんな幸せを私たちが体験し、所有していたとしても、そんな私自身を所有している所有者、主人がおられる。自分の人生は自分のもの。自分のものは自分のもの。実はそうではなくて、自分は主のものである、という事です。「あなたこそ、私の主(主人、所有者、オーナー、王、神です)」という事です。「私は主のものです」という告白です。全ての所有者なる神が、私を所有しておられる。私が富んでいても、貧しくても私は神のものである。神の目にはいつも高価で尊い。富んでいるときは価値が上がって、貧しくなったら価値が下がるわけではない。神の目にはいつも高価で尊い。それは神の御子イエス・キリストの命というかけがえのない最高の代価を支払うほどに、価高い存在という事です。

神の独り子イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、人となってこの世界に来られ、私たち全ての人間の罪を身代わりに背負い、十字架で死んで下さいました。それほどに神は私たちを愛し、イエス様を信じれば救われて、永遠の幸いに入れるようにされました。あなたは主なる神様の故に幸せですか?私たちもダビデのように、どんな状況でも主なる神様に心を向けて、神様から与えられている愛を思う時に、「あなたこそ、私の主(主人、所有者)。私の幸せは、あなたを超えるものはありません。あなたこそ、最高の私の幸せです」と告白できるのです。主と共に、主と私、という幸いな人生を歩ませて頂きましょう。

(祈り)主よ。あなたこそ私たちの幸いです。主ご自身から全ての良い物が与えられていますが、あなたご自身こそ私たちの最高の幸いです。アーメン。


*メッセージ内容、その他、ご質問、ご意見、ご相談などございましたら、メールやお電話にてお尋ねください。【ご連絡先】☎095(870)7200 または 📲080-6322-5554(牧師直通電話) e-mail nagasakimegumich@gmail.com まで。

―今週の予定―

☆6月5日(水)聖書研究祈り会

午前10時半~。LINEでも参加できます。


☆6月6日(木)こども宿題タイム

 午後3時~4時半頃


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