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2025年4月26日土曜日

2025年4月27日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「あなたを愛して寄り添って下さる神、イエス様」ルカの福音書24章13~32節(新約172頁~)

 

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説教要旨

「あなたを愛して寄り添って下さる神、イエス様」ルカの福音書241332節(新約172頁~)

先週はイエス様のご復活を記念するイースター(復活祭)でした。今朝はその続きを見ましょう。十字架で死んで三日目に復活されたイエス様が顕現されます。

1. 信仰が弱っている者とも共に歩んで下さる主イエス様(1316)

イエス様が十字架で死なれた金曜日の三日後の日曜日の事。イエス様の二人の弟子がエルサレムから11km離れたエマオ村に向かってとぼとぼと歩いていました。二人は女弟子達が知らせた、イエス様のご遺体のない空っぽの墓、イエス様が復活したとの天使のお告げ、について納得できず、その事を真剣に議論し苦悩していました。すると15節。いつの間にか主イエス様が二人の話を共に歩きながらじっと聴いていました。二人の肉眼はイエス様を見ていました。しかし弟子達は気づきません(16)。現に彼らはこの後イエス様と話しています。問題は彼らの信仰の目がふさがれていた事です。それゆえイエス様のみ言葉を忘れ、信じず、霊的暗黒の中でもがいていたのです。そんな彼らと共に主は歩きます。イエス様は私たちの信仰が鈍り、共にいて下さるイエス様に気づかない時も、変わらない愛をもって共に歩んで下さいます!またイエス様は私たちの話、議論を、全て聞いておられる。イエス様は私たちの心もすべて見通しておられる神様です。

 

2. あなたの心を受けとめつつ、愛をもって真理をお語り下さるイエス様(1732

するとイエス様は二人に言いました。「その話は何のことですか?」(17。弟子達は復活のイエス様に気づかず暗い悲しい顔でした。一人が答えました。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(19~24)。するとイエス様は彼らの話をじっと聞いた後に言いました。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」(2526)。それから旧約聖書の預言からキリストについて、すなわち御自身の事について説明します(27)。二人の弟子はその話を聞いて不思議と心が熱くなります(32)。彼らの、復活の主イエスを信じる妨げ、障壁となっていた誤りが、主イエスとの対話の中で、主のみ言葉によって、解消されていったのです。

その二人の弟子の問題は、主イエス様から教えられていた教えの一部分しか信じていなかった事です。それゆえイエス様の十字架と復活に躓いたのです。キリストがなぜローマ帝国に死刑にされるのか、と。しかし二人はイエス様の聖書の解き明かしを聴いているうちに、さらに話を聞きたいと思ったのでしょう。その人に言いました。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(29。そして3人で食事をします。すると先ほどの人がパンをもって神様にお祈りしてから、パンを分けて二人に渡したその時、二人は気づきます。「イエス様だ!」。するとイエス様は彼らには見えなくなりました(31)。イエス様はこの二人の弟子に、イエス様が復活して生きておられる、という事を教えるために現れて下さったのです。彼らはついに復活の主を信じます。

二人の弟子は話し合いました。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32。彼らはイエス様のお話をいつも聴いていたので、イエス様のお話でいつも心が熱くなっていた事を思い出したのです。

イエス様の話を聴いていると神様の愛、希望、信頼が心にわいてくるのです。この時、彼らの心にも力がわいてきたのです。それは今日も同様です(ローマ5・1~5)。私達が愛の冷えた世の罪の影響や自分の罪のために信仰の火が下火になり冷たくなっていても、復活の主イエス様のみ言葉に聴き、主イエス様と交わる時、私たちの信仰と愛と希望の炎が復興するのです。主に聴き続けましょう。

【祈り】復活の主イエス様。あなたは生きておられ、私たちの信仰が下火になっているような時も共に寄り添い、回復に導いて下さり、感謝致します。アーメン。


2025年4月19日土曜日

2025年4月20日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「復活されたイエス・キリスト」ルカの福音書24章1~12節(新約172頁)


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説教要旨「復活されたイエス・キリスト」ルカの福音書24章1~12節(新約172)

今日は教会の暦ではイースター、キリストの復活祭です。先週は十字架で全人類の罪を背負い身代わりに死なれたイエス様のみ言葉に学びました(ルカ23・43)。その後、イエス様は十字架上で息を引き取られました。アリマタヤのヨセフという金持ち(マタイ2757)の議員で、正しい人(50)が、イエス様のご遺体を引き取って、まだ誰も葬ったことのない墓に納めました(53)。その納められる様子をイエス様について来ていた女性の弟子達は見届けていました(55)。それが金曜日の日没頃でした。女性たちは香料と香油を準備して葬りに備えました。金曜日の日没から土曜の日没まで安息日なので戒めに従って休みました。この間は安息日なので死体に触れることができなかったのです。また安息日が土曜の日没に終わった後は暗いので、女性が外を出歩き、真っ暗な墓に行くのは危険でした。それで女性たちが精一杯、早く行ったのが、安息日が終わった翌日の明け方の日曜日の早朝だったのです。その間イエス様のご遺体は土、日と墓に安置されたのです。

 

1.復活したイエス様を見失った女弟子たち(1節~4節前半)

241節。「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た」とあります。十字架からイエス様のご遺体が取り降ろされて、墓に収められた時には、金曜日の日没が迫り、もう安息日が始まる頃だったので、略式の埋葬しかできませんでした。なので、彼女たちは改めて正式な葬りを行う為に、愛するイエス様の墓に来たのでした。金曜日を含めて金、土、日の、三日後の日曜日の明け方早くに駆けつけました(241)。

しかし墓に来てみると、2節。「見ると、石が墓からわきに転がされていた」のです。当時の墓は横穴に大きな石をごろりとフタをした形の墓でした。しかしそのフタの石がわきに転がしてありました。これは天使によるものでした(マタイ282)。そしてルカ24章3節。「そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった」のです。4節では「そのため途方に暮れていると」とあります。「途方にくれる」という言葉は「とまどい」とも訳されます。それはイエス様が葬られた墓に、イエス様のご遺体を求めて来たのに、無かったからです。

2.約束通り復活されたイエス・キリスト(4節後半~12節)

すると4節後半。「見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。」とあります。二人の天使が彼女たちの近くに来たのです。彼女たちは「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」5ます。すると天使たちはこう言いました。5節後半~6節。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」。重要な出来事の証人として、神によって遣わされた天使は二人であった事が示されています。イエス様のご遺体が無いのは、天使が証言するように、死から復活して生きておられるからです。

さらに天使たちは言います。6節後半~7節。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と。彼女たちはイエス様を敬愛し慕うからこそ、イエス様の死を心から悲しみ嘆きました。しかしイエス様が殺される事だけでなく、三日目に復活するというイエス様の約束(ルカ9・22、マタイ27・63)を忘れていた、又は確信していなかったのです。

しかし主イエス様のみ言葉を伝えられて、8節。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」。彼女たちの信仰がイエス様のみことばを聴く事から、回復に導かれます(ローマ1017)。それは天使を通してでしたが、イエス様のみ言葉を思い起こす事によったのです。また復活の主イエスにその後お会いします(マタイ28910)。彼女達は他の男の弟子たちにイエス様の復活を知らせます。

ところが11節。「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」とあります。当時の女性の証言は重んじられていなかった事もあったでしょう。また、主イエスの十字架の死があまりの事だったので、そこからの復活という事が信じられなかったのかもしれません。しかし彼女たちの証は無駄に終わりません。12節。「しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った」とあります。彼女たちの精一杯の証は、三度、主イエス様を知らないと否んだ使徒ペテロを立ち上がらせました。やがてペテロも復活の主イエス様に出会い、復活の主イエス様を証言するようになります。(祈り)天の神様。イエス様は十字架で死んで復活した事を信じます。アーメン。


2025年4月12日土曜日

2025年4月13日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「絶望的な状況でもイエス様に希望がある」 ルカの福音書23章39~43節(新約171頁)

 

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「絶望的な状況でもイエス様に希望がある」ルカの福音書23章3943節(新約171)

今日から教会暦では受難週に入ります。今年は4月20日がイースター。イエス様の御受難を覚えつつ、十字架の主イエス様を信じて救われた原点を覚え、この十字架の主イエス様を信じる者は救われる事を信じて、お伝えしましょう。

先週は、イエス様が十字架につけられているにもかかわらず、十字架上の第1言、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23・34)ととりなし、祈られたところから学びました。今日はその続きです。十字架上の第2言は、信仰者への救いの確約でした。

1.主イエス様の左右に十字架につけられた犯罪人(39~42)

イエス様を中央にして、左右に犯罪人(強盗。マタイ273844参照)たちが十字架につけられました。最初、この二人の犯罪人たちは、周りの人々と共に、イエス様をののしっていました(マタイ2744)。

39節。『十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。』。イエス様をキリストと信じていない者の皮肉です。同時に、誘惑でもありました。十字架の上で、悪魔に用いられて、イエス様に皮肉を放ち、十字架から降りるように誘惑する犯罪人の悪口が浴びせかけられる中で奇跡が起こりました。十字架にはりつけにされているイエス様のそのとなりで、同じく十字架にはりつけにされ、苦しんでいるもう一人の犯罪人が悔い改めたのです。4041節。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」』。

このもう一人の犯罪人は、①神様を信じ、神様の前に恐れをもっていました。そして、②この神様の前に、自分の罪を認めていました。そして、③イエス様が何の悪いこともしなかった、無罪のお方であることを告白するのです。そして、このイエス様は、本当に救い主、キリストであることを信じるのです。そして、その十字架刑の苦しみの最中、まさに、死の直前に、イエス様に告白します。42節。そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』。この点、「その強盗は、もう数時間しか生きられないことを知っていたので、この祈りには、イエスが御国で彼を受け入れてくださる未来の状態に対する信仰が含まれている。」(プランマ―、ウェスレアン聖書注解)と解説されています。

2.絶望と孤独の中で見出した、イエス様にある救いの確約と希望 (43)

イエス様の口からは、犯罪人にとって、息も止まるような驚くべき言葉が出てきました。イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」。十字架上の第2言。「今日」というのは「メシヤとの出会いによって生まれる決定的出来事を表すルカ的用語(2・11)」(熊谷、新実用聖書注解)と解説されています。「この約束には、人の死後も意識は継続することが含まれている。…」(プランマ―、同上)。ここでの「パラダイス」とは「新約聖書においては、この語は、正しい者が死後住むところを指していると思われる」(ウェスレアン聖書注解p355)。この点、「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある」(黙示27、参照・黙示録22・1~5、創世記29とあります。これらから「パラダイス」とは、イエス・キリストを信じる者が死後に入る、神と共に住む天国を表しています。なお、「パラダイスにいます」の「います」は未来形です。神の言葉は必ずその通りになる。この主イエス様から、このように語られ、受け入れられた十字架の強盗は、罪を赦され、義と認められ、神に受け入れられ、神の国に入り、神との親しい交わりにあずかるものとされた。彼は永遠のいのちを得たのです。だから、死後に住むパラダイス、天国の前味を、すでに、この地上でも味わいながら、死後に住むパラダイス、天国にまもなく死後、入る。彼にとって「死」はパラダイスに入る時(未来)となったのです。

彼は、悔い改めてイエス様(福音)を信じた事で、人生が大逆転した。死後にパラダイスに入る希望を得、現在はイエス様と近しい親しいものとされ、孤独と絶望から解放された。隣ではイエス様が共に苦難を担って下さっている。そして、この強盗は、自分では全く気が付いていないけれども、今なお、世界中で、ただ恵みによって、イエス様を信じて救われる事の有名な実例となりました。

(祈り)天の父なる神様。イエス様を信じる人は死後パラダイスに入り、この世でもイエス様と共に、神のご支配の中、生きていける事を感謝します。アーメン。


2025年4月5日土曜日

2025年4月6日(日)第一礼拝動画配信「主イエス様のとりなしの祈り」 ルカの福音書23章32~38節(新約170頁)

 

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「主イエス様のとりなしの祈り」ルカの福音書23章32~38節(新約170)

本日は教会役員任命式が礼拝の中で執り行われます。続いて、教会役員の為にお祈りをお願い致します。今朝は、受難節に入ったこの時期に、イエス様の御受難を覚えつつ、イエス様と共に、キリストの弟子として生きる上で欠かせない「赦し」、他者を愛していくために必要な「とりなしの祈り」について見ましょう。

1.全き愛に生き、全人類の救いの為に奔走されたイエス様になされた仕打ち

主イエス様が十字架にかけられる際、他にも二人の犯罪人が、イエス様と共に死刑にされるために引かれます(32)。「どくろ」(ラテン語でゴルゴダ)と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエス様と犯罪人とを十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に(33)。イエス様は何の悪いこともしていないのに、むしろ全き愛に生きられたのに、犯罪者に挟まれる形で、その真ん中に十字架の上にはりつけにされたのです。全人類の救い主を、イエス様を信じない人々は十字架にくぎ付けにし、極悪人に仕立てたのです。主イエス様は人々の救いの為に奔走し、尽くされたのに、人々はイエス様を十字架に追いやります。

2.敵をも愛してとりなし祈る、主イエス様の愛(34)

しかし、イエス様はそれでも自分を殺す者をも愛され祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34)。イエス様は、このような驚くべき、敵をも愛する愛をもって、とりなしの祈りをされたのです。

その後、イエス様を十字架につける人々はくじを引いて、イエスの着物を分けました(34)。イエス様は何も着るものがありませんでした。民衆はそばに立ってながめていました。指導者たちもあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」(35。兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出します(36)。そして、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです(37)。

しかし、イエス様はそれらの愚弄、挑発を受けているのにもかかわらず、十字架から降りませんでした。降りることができなかったのではありません。降りようと思えば降りることがおできになるのですが、決して降りようとはされなかった。なぜなら、イエス様は、この時、全人類を罪と罪の刑罰である地獄から救うために、全人類の罪を身代わりに背負って、父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受けておられたからです。それによって、イエス様を信じる者を救うためです。ここにもご自分の敵たちのために身代わりに死ぬ愛が示されます。

悪魔は罪人をあおって、イエス様を必死に挑発し、必死に十字架からおろそうと働きかけましたが、イエス様は決して挑発に乗らず、十字架にはりつけにされたままとなってくださったのです。イエス様が十字架から降りなかったから、主イエス様を信じる私たちは救われるのです。十字架の死は失敗ではなく成功です。

さて、「これはユダヤ人の王」と書いた札も十字架の主イエスの頭上に掲げてありました(38)。これはピラトが書いた罪状書きです。イエス様がローマ総督ピラトの尋問を受けられた時(マタイ27・1114)、ピラトが「あなたはユダヤ人の王ですか」(11と問うと、イエス様は「そのとおりです」と言われました。ピラトは、イエス様は死刑になるような罪を犯しておらず、祭司長、長老たちがねたみのために、イエス様を引き渡してきたことを見抜いていました。

祭司長たちはこのピラトの書いた罪状書きを見て、「ユダヤ人の王と自称していた、と書いてくれ」と要求しますが(ヨハネ1921)、ピラトはそれを許さず、このように書かせました(ヨハネ19・22)。この看板の通り、イエス様はまことのユダヤ人の王でした。さらに言えば、神の国の王、天国の王、永遠の王、天地万物の主なる神、救い主なのです。しかし、民はユダヤ人の真の王であられる、イスラエルの主なる神を拒んで、信じ受け入れずに、十字架の死刑に処したのです。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。主イエス・キリスト様を信じないユダヤ人たちは、イエス様が真のユダヤ人の王である、と正直に言われた事を、偽りとして訴えて、それを罪状としたのです。罪人の愚かさの暴露です。

ここに記されている人間の罪は、私たちの内にある罪の性質でもあります。人間の罪が、イエス様を十字架につけたのです。しかし、イエス様は、そんな罪人たちを愛されました。その証拠に、イエス様は、十字架上で、人類の赦しを、とりなし、祈られました。そして人類の為に、身代わりに死んでくださいました。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子、主イエス様が罪人である私たちのために、十字架でとりなし祈り、身代わりに死んで下さった事を感謝致します。