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2025年5月24日土曜日

5月18日(日)礼拝動画配信「神の家族である教会」エペソ人への手紙2章19~22節(新約386頁)

 

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2025年5月17日土曜日

5月18日(日)礼拝動画配信「教会としてきよめられる」 エペソ人への手紙5章25~28節(新約391頁)

 

            
説教要旨

「教会としてきよめられる」エペソ人への手紙5章25~28(新約p391

1.教会をきよめる、主イエス・キリスト (2527)

25節からは夫の責務が示されます。その模範は主イエス・キリスト様です。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(25)イエス様が十字架で身代わりに死ぬほどに教会を愛されたように、命がけの愛をもって夫は自分の妻を愛しなさいとの勧めです。妻の従順は夫の愛によって育まれます(小畑進)。

命をかけてキリストは教会を愛したのです。そして、教会はキリストの花嫁にたとえられています。イエス様が十字架に身代わりに死ぬほどまでの教会を愛したのは2627節にある通りです。すなわち、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(結婚の比喩。1・4)ためです。」(2627)「水の洗い」とは、「バプテスマの比喩であるが、その本質は神への聖別にある」(新実用聖書注解)。すなわち、悔い改めて神に帰り、キリスト信仰によって内的に神の霊的恵みを受ける事によって、聖霊によって霊的に新しく生まれる事です。「聖なるもの、傷のないもの」とは1・4の「御前の聖なる、傷のない者」という事です。これは旧約のいけにえの条件(レビ1,3,10章)でした。完全ないけにえはキリストです(へブル9・14、Ⅰペテロ1・19)。神は私たちを、この完全ないけにえである、キリストに似た者とするために選ばれました(ロマ8・29)。この聖化の思想は更に5・26~27で、「ご自分の前に立たせる」(結婚の比喩)、きよい花嫁なる教会の姿へと展開します(新実用聖書注解)キリストが身代わりに死んだのは、教会を聖別する(ご自分のものとして買戻し、取り戻し、救い出し、ご自分のものとする)ため、です。さらにはご自身のみ言葉(見える神の言葉である洗礼を含む)により、きよめ続けるため。そして、汚れなき、きよく、非難されるところのない栄光の教会をご自分のみそばに置くため、でした。

聖書は私たちをきよめるためのことばです。私達をもっと、主イエス様にふさわしい、主イエス様に喜ばれるものとするための、主のみことばなのです。ご自身の宝物を受け継がせるため、神の形の回復、神の御性質をシェアするため、です。何と愛されている事でしょうか。

キリストは御自身にふさわしい存在とするために教会を選び、召し、救い、整えるのです。それは教会を愛しているからです。ご自分のものとして、さらには「自分自身として」と言っても過言ではないほどに、教会を愛しているからです。そのために、イエス様はこの罪に汚れた世に来られ、全ての人を愛して、身代わりに死なれました。それはイエス様を信じる者を救うため、です。すなわち、教会の救いときよめと贖いの為です。

 

2.教会を愛して養い育てる、主イエス・キリスト(2829

夫が妻を愛するその理由。それは、夫と妻の関係の模範である主イエス様と教会の関係が愛だからです。ですから、夫も妻を自分のからだを愛するように愛するのです。「同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」(2829)

キリストは自分の体のように私たちを愛して癒し、いたわり、救い、永遠のいのちを与えました。ご自分が十字架で死ぬ程にです。教会は何とキリスト様に愛されている幸いな存在でしょうか。なぜ、そこまでして下さるのでしょうか。『私たちはキリストのからだの部分だからです』(30)とあります。だからキリストは教会をご自分のからだとして、愛して養い育てるのです。

キリストは十字架で身代わりに死なれるほどの命がけの愛で私たち教会を愛して、聖なる栄光の存在へと救い、導き、整えて下さいます。私たちはキリストの花嫁なる教会、キリストのからだの一部として、キリストの愛を受け取り、その愛に応答して、主イエス様に信頼し従って参りましょう。イエス・キリスト様は私たちを愛し、寄り添い、守り導き、育てて下さいます。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子イエス様は、花嫁である教会を愛し、きよめ、養い育て、整えて下さる事を感謝します。信じます。アーメン。

2025年5月10日土曜日

5月11日(日)礼拝動画配信「苦難の中でも主に信頼し続けた義母と嫁」ルツ記1章15~18節(旧約472頁)   

 

説教要旨

苦難の中でも主に信頼し続けた義母と嫁ルツ記1章15~18節(新約174頁)

今日は母の日です。義母ナオミを愛した嫁ルツの主への信仰に注目しましょう。

1.暗黒の時代の中で、何気ない庶民の日常の中で進められていた主の計画

「さばきつかさが治めていたころ」(1)。すなわち、旧約聖書の士師記の時代(前12001050年頃と言われている)で、ルツ記の出来事の年代は前1150頃と言われています(鍋谷)。イスラエル民族が政治的、宗教的に混乱していた時期です。しかも、「この地にききんがあった」(1)。食料危機であり、経済的危機です。そういう状況にあったユダの地からイスラエル人の一組の夫婦が二人の息子を連れて避難し、神の約束の地を出て、異教の地モアブに行き滞在しました(1)

夫エリメレク(私の神は王である、の意)、妻ナオミ(楽しみ、快い、の意)、二人の息子はマフロン(病める者の意)とキルヨン(消え失せる者の意)。二人の息子が生まれた時代は、大変な状況だった事が、二人の息子の名前から想像できます。

さばきつかさが治めていた時代、神が王であるのに、イスラエル人は自分たちの良いと思う事を勝手にしていくようになりました。やがて、異教の他国のように、人間の王を求めていくのです。真の王である神に背を向け、神を見失っていたのでした。イスラエル民族は主によって形成されてきたにもかかわらず、です。

国内の混乱、飢饉を見て、二人は神の約束の地を去る判断したのでしょう。しかし、異国の地モアブ滞在中に、夫エリメレクが死亡(3)。その後、二人の息子それぞれにモアブ人の嫁オルパとルツを迎えます。そして10年間、モアブの地に住みました(4)。しかし、二人の息子はその地で死にます(5)。大変な試練にナオミは遭遇するのです。異教の地で夫と二人の息子を失います。大変な状況です。

そんな時、神様がイスラエルを顧みて、食べ物を与えて下さった事を耳にします。暗やみの中の希望の光です。ナオミは神様に身を避けるようにして、二人の嫁を連れて、神様の約束の地ユダの地に帰ります。しかし、ナオミはその帰る途中(7)、この二人のモアブ人の嫁の今後を考えて、モアブの地の自分の家に帰るように言います(8~9)。しかし、二人はナオミと一緒にユダに行こうとします(10)。しかし、ナオミは二人の嫁を説得し、モアブの地に帰らせようとします(1113)。二人は声をあげて泣きます。そして、弟息子キルヨンの嫁オルパ(参照410)は義母と別れて、モアブの地に帰って行きます(14)。

2.嫁ルツの主への信仰と、義母ナオミへの愛(14~17)

しかし、ルツはナオミにすがりつき離れようとしません(14)。帰らせよう(15)とするナオミに、ルツは告白します。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(1617)。何という主なる神への信仰と、義母への愛でしょうか。彼女もまた、義母のナオミを通して、ナオミの信じる神様、すなわち、唯一真の神を信じていたのです。ナオミはルツの固い決心を見て、もうそれ以上は言いませんでした(18)

ナオミが帰って来たのを故郷ベツレヘムの人たちは驚きます(19)。しかし、自分の状態は「マラ(苦しみの意)」であり、「ナオミ(「楽しみ、快いの意」)と呼ばないでくれ、と言います。自分の名前を逆さにするほどに、苦しい状態にナオミはありました。ナオミは、この苦しみの原因は神様にあると言います(2021)。しかし、彼女はそれでも全能の主なる神に信頼します。神様がこの苦しみをも支配しておられる。だから、この苦しみの解決も全能の主の手の中にあるのです。

ちょうど帰った時は大麦の刈り入れの時が始まる時でした(22)。ルツは義母と自分が食べていくために落穂を拾いに出かけます。その時、義母ナオミは「娘よ、行っておいで」(22)と言いました。ここに血のつながりを越えた義母と嫁の関係を見ます。その後、神様は不思議な導きによってルツを親類のボアズという立派な信仰者との出会いと結婚に導き、二人の間には子が与えられ、ナオミはその子を抱き養い育てます(416)。ナオミは大いに慰められ喜ぶのです。ナオミの回復をここに見ます。本人も信じられなかった祝福。さらに祝福は続きます。その子の子孫として、ダビデ王が生まれ、その子孫として、永遠の王、救い主イエス・キリストがお生まれになります。エリメレクの名の通り「私の神は王である」との名前が実現するのです。220節のナオミの信仰が実現します。

神様はご計画をもって、私たちをも導いて下さっています。どんな試練や困難の中でもあきらめずに、主に信頼し、主イエス様を信じて、従っていきましょう。

【祈り】主よ。どんな試練の中でもあなたに信頼して生きていきます。アーメン。                                     



2025年5月3日土曜日

5月4日(日)礼拝動画配信「復活の主イエス様が与えてくださる喜び」ルカの福音書24章44~53節(新約174頁)


 説教要旨「復活の主イエス様が与えてくださる喜び」ルカの福音書244453節(新約174頁)

今週も先週に続いて、復活後のイエス様のお姿に注目しましょう。

復活の主イエス様にペテロが出会い、そして、エマオという村に向かっていた二人の弟子にも復活の主イエス様が出会ってくださった。そのことを弟子たちが集まって話し合っていました。すると、その弟子達の真ん中にイエス様が現れます(36)。イエス様は取り乱す弟子たちに、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(3839と言われます。さらに、復活後の手足をお見せになりました(40)。それでも、うれしさのあまりに、まだ信じられず、不思議がっている弟子たちに、イエス様は焼き魚を食べる様子を見せられ、幽霊ではなく、復活された肉体もったお方であることをお示しになられました。

1.聖書を悟らせるために心を開かれ、教えられる復活の主イエス(44~47

そして、主イエス様は旧約聖書からキリストの十字架と復活について悟らせます。44節。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」。さらにイエス様は聖書を悟らせるために「彼らの心を開いて」(45言われます。4648節。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」と言われました。イエス様の十字架と復活の証人です。

2.聖霊の約束をして、祝福しながら天に上げられた主イエス様(49~53)

 しかし、生まれながらの彼らの力では到底、主の証人、宣教の働きはできない事であることを主はご存知でした。弟子たちの状況の困難さもご存知でした。イエス様の事を伝える力、神様の助けと力が必要であることもイエス様はご存知でした。ですから、イエス様は「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24・49)と言われたのです。この力とは聖霊の力です。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒18

イエス様は十字架で死なれる前にも弟子たちに教えていました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14・16)。これは、後に、エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が降られる事をイエス様はあらかじめ言われておられたのです。

 また、イエス様は言っておられました。ヨハネ1412・・・わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」 。イエス様は今も目には見えなくても生きておられ、子なる神として最高の天の父なる神の右に座しておられる。しかも、世の人々を救うために、今もご自身も働き、弟子たちをこの世に派遣して共に働いておられる。信仰者を通して、教会を通して、さらに大きくこの世の真っただ中において、ご自身の働きを、さらに大きく展開しておられるのです。

主イエス様は復活されました。主イエス様は生きておられます。そして、やがて、弟子たちの前で天にお帰りになられました。その際、イエス様はベタニア(使徒1・12にはオリーブ山とある)の近くに弟子たちを導き、イエス様は弟子たちのために手を挙げて祝福しながら天にお帰りになられました(5051)。

イエス様は大祭司として今も天においてとりなし、祝福して祈って下さっています。だから、いつでも、ご自身によって神に近づく人々を、完全に救って下さいます(へブル4・14~16、7・24~26)。弟子たちと共にいつもいて、見守って下さっています。いつも助けて下さっています(マタイ28・20)。

ですから、復活の主イエス様を信じた弟子たちは非常な喜びを抱いて、エルサレムに帰ります。そして、いつも宮にいて神を賛美しました(52~53)。共におられる主が喜びと賛美を与えて下さったのです。そして約束通り、聖霊を待ち望む弟子たちに聖霊をお与えくださり、イエス様の復活の証人として下さったのです(使徒2章)。イエス様のお働きは今も世界中で展開され続けています。

【祈り】父なる神様。復活の主イエス様を信じて、喜んで、主を賛美します。アーメン。