「教会としてきよめられる」エペソ人への手紙5章25~28節(新約p391)
1.教会をきよめる、主イエス・キリスト (25~27)
25節からは夫の責務が示されます。その模範は主イエス・キリスト様です。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(25)。イエス様が十字架で身代わりに死ぬほどに教会を愛されたように、命がけの愛をもって夫は自分の妻を愛しなさいとの勧めです。妻の従順は夫の愛によって育まれます(小畑進)。
命をかけてキリストは教会を愛したのです。そして、教会はキリストの花嫁にたとえられています。イエス様が十字架に身代わりに死ぬほどまでの教会を愛したのは26~27節にある通りです。すなわち、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(結婚の比喩。1・4)ためです。」(26~27)。「水の洗い」とは、「バプテスマの比喩であるが、その本質は神への聖別にある」(新実用聖書注解)。すなわち、悔い改めて神に帰り、キリスト信仰によって内的に神の霊的恵みを受ける事によって、聖霊によって霊的に新しく生まれる事です。「聖なるもの、傷のないもの」とは1・4の「御前の聖なる、傷のない者」という事です。これは旧約のいけにえの条件(レビ1,3,10章)でした。完全ないけにえはキリストです(へブル9・14、Ⅰペテロ1・19)。神は私たちを、この完全ないけにえである、キリストに似た者とするために選ばれました(ロマ8・29)。この聖化の思想は更に5・26~27で、「ご自分の前に立たせる」(結婚の比喩)、きよい花嫁なる教会の姿へと展開します(新実用聖書注解)。キリストが身代わりに死んだのは、教会を聖別する(ご自分のものとして買戻し、取り戻し、救い出し、ご自分のものとする)ため、です。さらにはご自身のみ言葉(見える神の言葉である洗礼を含む)により、きよめ続けるため。そして、汚れなき、きよく、非難されるところのない栄光の教会をご自分のみそばに置くため、でした。
聖書は私たちをきよめるためのことばです。私達をもっと、主イエス様にふさわしい、主イエス様に喜ばれるものとするための、主のみことばなのです。ご自身の宝物を受け継がせるため、神の形の回復、神の御性質をシェアするため、です。何と愛されている事でしょうか。
キリストは御自身にふさわしい存在とするために教会を選び、召し、救い、整えるのです。それは教会を愛しているからです。ご自分のものとして、さらには「自分自身として」と言っても過言ではないほどに、教会を愛しているからです。そのために、イエス様はこの罪に汚れた世に来られ、全ての人を愛して、身代わりに死なれました。それはイエス様を信じる者を救うため、です。すなわち、教会の救いときよめと贖いの為です。
2.教会を愛して養い育てる、主イエス・キリスト(28~29)
夫が妻を愛するその理由。それは、夫と妻の関係の模範である主イエス様と教会の関係が愛だからです。ですから、夫も妻を自分のからだを愛するように愛するのです。「同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」(28~29)。
キリストは自分の体のように私たちを愛して癒し、いたわり、救い、永遠のいのちを与えました。ご自分が十字架で死ぬ程にです。教会は何とキリスト様に愛されている幸いな存在でしょうか。なぜ、そこまでして下さるのでしょうか。『私たちはキリストのからだの部分だからです』(30)とあります。だからキリストは教会をご自分のからだとして、愛して養い育てるのです。
キリストは十字架で身代わりに死なれるほどの命がけの愛で私たち教会を愛して、聖なる栄光の存在へと救い、導き、整えて下さいます。私たちはキリストの花嫁なる教会、キリストのからだの一部として、キリストの愛を受け取り、その愛に応答して、主イエス様に信頼し従って参りましょう。イエス・キリスト様は私たちを愛し、寄り添い、守り導き、育てて下さいます。
(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子イエス様は、花嫁である教会を愛し、きよめ、養い育て、整えて下さる事を感謝します。信じます。アーメン。
0 件のコメント:
コメントを投稿