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2025年8月31日日曜日

2025年8月31日(日)第一礼拝配信「主イエスのおことばを守る幸い」ヨハネの福音書14章20~24節(新約聖書p214~215)

 

説教要旨「主イエスのおことばを守る幸いヨハネの福音書14章2024節(新約聖書p214215

 今朝は主イエス様がいよいよ十字架刑に処せられる直前の告別説教から学びましょう。ここに主イエス様のお言葉を守る者の幸いについて記されています。

1.イエス様を愛して信じる者にご自身を現わされる主なる神(2021)

20節。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。。「その日」とは、聖霊が降るペンテコステ以降の事。その日には聖霊が信仰者の中に来られる。これにより三位一体唯一の神である父と子と聖霊の神が、主にあって、主イエス様を信じる者の中におられる事がわかるのです。21節。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14・1)等の主イエス様の戒めを守っている人なら、その人はイエス様の愛を知りイエス様を信じて愛するようになった人です。イエス様の愛に応答している人です。イエス様を信じているからイエス様の言葉を遵守実行します。

もともと父なる神は御子イエス様をお与えになるほどにすべての人を愛しておられます。さらに、その愛に応えて父なる神に立ち帰り、イエス様を信じて救われ神の子となり、聖霊を受けその導きにしたがってイエス様のお言葉を遵守し、すなわち父なる神の教えを遵守する人を父なる神はさらに愛されます。イエス様の戒めを遵守し、イエス様を愛する人を父なる神様はさらに愛して下さいます。そしてイエス様もその人をさらに愛し、ご自身を彼に現されます(主が親しくご臨在される)!何とも深遠な神の愛です。神様のもともとの愛の高さがあまりにも高いので、イエス様を与えるほどの最高の愛で愛して下さっているのに、さらにその教えを守る人を愛する、というその愛の高さを表現しきれません。イエス様のことばを守る人は神様との親しい愛の交わりにさらに深く入るようになるという事でしょう。一方的に愛される事も幸いですが、さらに「愛し合う」事はもっと幸いだと思うのです。私たちは主なる神に愛されるだけでなく、主なる神を信じ、主なる神を愛して、主なる神の教えを遵守実行し、兄弟姉妹同士が愛し合い、隣人を愛していくときに、主の愛をフルに体験的に知るのだと思うのです。

2.神の宮としての教会が建てられ、そこに主が住む幸い(22~24

さて、22節。イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか」』すると、23節。『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」』イエス様を信じて愛する者にご自身を示される父なる神とイエス様が、その人を聖霊の宮として建てられます(第一コリント61920)。そして、そこにお住まいになるのです。主がその人のうちに来て下さるだけでも幸いですが、住んで下さるのです。

一方で24節。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。イエス様を愛さない人はイエス様のことばを守りません。そしてそれはイエス様を遣わした父なる神のことばを守っていないという事なのです。

イエス様がご召天後、肉眼では見えなくなりますが、もう一人の助け主なる聖霊様が弟子たちを教え導くようになるのです(2526)。この説教の後、イエス様が父なる神に服従して、十字架にかかり、三日目に復活させられ、弟子たちに現れ、天に昇り、天の王座に着座されます。そこから、約束の聖霊をペンテコステの時以降、注ぎ続けて下さり、特に教会を通してご自身が生きておられる事をお示しになります。イエス様はそれらの事を通して、これからも、御自分をこの世において明らかにされるのです。これがユダへの回答です。そしてイエス様を信じる者が起こされていくのです。この事は、実際、歴史を見れば明らかです。

ですから、弟子たちはこれからイエス様が十字架にかけられ墓に葬られますが、恐れ惑わされる必要はなかったのです(14・1参照)。イエス様のご復活後、天にお帰りになり肉眼には見えなくなりますが、イエス様を十字架につけた人がまだ周りにたくさんいたとしても、主を信じる信仰により、恐れ惑わされる必要はないという現実を、イエス様はこの14章にてねんごろにお語りになりました。

(祈り)父、子、聖霊の三位一体唯一の主なる神様。不信仰の時でも寄り添って下さるのみならず、主に信頼する時には心の内に来て下さり、さらには主と主のお言葉(聖書)に聴き従う時に親しくご臨在下さる事を感謝します。アーメン。


2025年8月23日土曜日

8月24日(日)第一礼拝配信「苦難や試練の中でも主に希望がある」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

 
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説教要旨「苦難や試練の中でも主に希望があるヨブ記1章1322(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたいと思います。私達は理由のわからない苦難や試練に遭う時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難や試練(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12ヨブを信頼してサタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。「どうして?」と思うような試練が起こる事もあり得ます。しかし、どんな試練の中でも、ヨブのように神に祈り、神を礼拝する恵みがいつも備えられています。

 

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブに病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや、子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。425節は、苦難の中でその神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍です。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。

信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦しみ。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難や試練の中でも、主ご自身こそ私たちの希望であり救いです。主は私たちを常に最高に愛し最善をして下さいます(ローマ828)。どんな状況でも神のご主権に委ねつつ主を讃美し礼拝する者として頂きましょう。

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。


2025年8月15日金曜日

8月17日(日)礼拝動画配信「すべての人を愛する父なる神の愛に倣う」マタイ5・43~48(新約9頁)

 

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説教要旨「すべての人を愛する父なる神の愛に倣うマタイ5・4348(新約9)

 815日で終戦80年を迎え、改めて不戦の心を新たにしたいと思います。

1.父なる神の子ども(クリスチャン)らしさ ~敵をも愛する愛~(4345

43節。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」とイエス様は言われました。これが当時のユダヤ人たちの常識的な解釈、教えでした。ですから「自分の敵は憎め」というように教えられていたのです。しかし聖書にはどこにも「自分の敵を憎め」とは教えていません。神様は「隣人を愛せよ」と教えています(レビ1918)。旧約聖書の出エジプト記23・4~5には敵の迷っている牛やろばを助けるように命じる規定すらあります。しかし当時のユダヤ人社会の教えは「隣人」とは「同胞であるユダヤ人だけ」を指すと解釈し、「他のあらゆる民族を、異邦人であり敵であると思え」と解釈されていました。隣人愛の対象から、これらの「敵」は除外されていたのです。私たちの常識や考えの中に、聖書が本当に言っている事と違う事が混ざっているところはないでしょうか。実際生活、現状とつじつまの合うように、聖書の教えをどこかで薄めている事はないでしょうか。もし、そういうところがあるならば、聖書の教えに照らして、悔い改めていかねばなりません。

この点、主イエス様は神の権威をもって言います。44節。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ6・2728では「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とあります!主イエス様の教えは当時の常識にとらわれず、神様の御心をはっきりと示しました。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、は聖書の教えであり、その正しい解釈は敵をも愛する愛でした。イエス様は本来の神の教えを明確に示しました。隣人から敵を排除するのではなく、全ての人を愛する愛(ヨハネ316。これが聖書の教える隣人愛です。

そして主イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じた直後に言われました。45節。口語訳では「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」。「なる」と訳されている言葉は「…であることを示す」、「…らしくする」とも訳せます。また「こうして」〈口語〉と訳された言葉は「…するために」とも訳せます。「子」は「性質の所有者、所属者」という意味もあります。そこで私は次のように私訳しました(ご参考まで)。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天にいますあなたがたの父の子どもとしての性質を持つ者らしくするために」。イエス・キリストを信じて、神の子としての性質を聖霊によって頂いたものにふさわしく、父の子らしさが現れるのは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る時なのです。なぜでしょうか?それは主なる神がそのようにしているからです。45節後半。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。。主イエス様は十字架の上で自分を殺す者達のために、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ2334ととりなし祈りました。敵を愛し迫害する者のために祈ったのです。主であり、師であり、父なる神の実子であるイエス様がそうされました。神の御子イエス様は父なる神の御心のみを行われます(ヨハネ519)。これは私たちの模範です。この愛こそ、父なる神の子どもとしての性質を持つ者たちにふさわしいのです。父なる神とその御子がそうだからです。

 

2.天の父が完全であるように完全であれとはどういう事?(4648

続いて4647節。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。」。しかし敵をも愛し、迫害する者のために祈るのは、まぎれもなく、父なる神の子であるしるしです。それは父なる神がそうだからです。48節。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ルカ6・36では「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」とあります。私たちも神の憐みを頂いた者として、父なる神のご性質を聖霊によって与えられた神の子ども達らしく、天の父なる神様の様に、「あわれみ深い」という意味において「全き」愛の人であらせて頂き、人を差別せず、愛しましょう。

(祈り)天の父なる神様。あなたからの恵みを感謝します。私を、父なる神の子どもらしく、イエス様の様な、憐れみ深い、愛の人として下さい。アーメン。

2025年8月9日土曜日

8月10日礼拝配信「平和をつくる者は幸い」マタイ5章3~9節(新約聖書p6)

 



説教要旨「平和をつくる者は幸い」マタイ5章3~9節(新約聖書p6)

 8 月6 日には広島に、8 月9 日には長崎に、それぞれ原爆が投下され今年で
80年。被爆者が次々と息を引き取られ、その体験を直接お聴きできなくなる時
が迫っています。しかし核兵器の脅威と核戦争のリスクは今なお残り続けていま
す。被爆による後遺症等で心身が傷ついている方のお慰めと癒しと平安を祈りつ
つ、「平和をつくる者」にしていただきたいという思いを新たにさせられます。
今朝、改めて、主イエス様の山上の説教、特に5 章9節に注目します。

1.今日の御言葉の背景(マタイ5・1~8)
 主イエス様は、3~4節で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たち
のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
と語られます。まず自分の罪や足らなさという心の貧しさを自覚し、それを悲し
み、救いを求めて主イエス様に信頼します。そして神のご支配(天の御国)に受
け入れられて救われます。そして主なる神からの慰めを受けます。だから幸いな
のです。この「幸いです」は主イエス・キリストの救いにあずかった人たちだけ
に与えられるキリストの弟子の性質と祝福を指しています(ウェスレアン聖書注解
p32)。イエス様は全ての人をその幸いに招いておられます(マタイ11・28~30)。
 5 節では「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と語ら
れます。柔和な者とは主イエスを信じて救われ、神に慰められ、神とその御旨に
信頼して忍耐深く従う人です。その人は「地を受け継ぐ」。すなわち、神の国の
嗣業を受け継ぐのです。6 節は「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち
足りるからです」。「飢え渇く」は強調表現で「渇望」の意。ここでの「義」と
は「神のとの正しい関係」、「救い」、「きよめ」(キリストの様に生きる事)、
さらに神ご自身です。霊的渇望は本質的に誰もが抱えていて、唯一真の神によっ
てのみ満たすことできます。そして神の恵みの豊かさ故に、さらに神を慕い求め
るようになります。そしてその渇望は神によって満たされるので「幸いです」。
 7 節。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」
と語られます。これは憐みの気持ちだけでなく、実際に、必要に応える行動を伴
う憐みです。神の憐みは神の独り子イエス様をも与える程の最高の憐みです(ヨ
ハネ3・16)。主イエス・キリスト様を信じて、この神の憐みを知った人は、神
様の愛と赦しを受け取って「あわれみ深い者」と変えられていきます。その「あ
われみ深い者」を神様はさらに憐れんでお恵み下さり、良くして下さいます。
 8 節。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」。「神を見
る」とは第一に、この世で、心で霊的・人格的に神を知るという事です。第二に、
天国で神と顔を合わせて見るという事です。「神を見る」人とは「心のきよい者」
です。罪は神との関係を損ない、神を知る事を妨げます(イザヤ59・2)。人はそ
の罪の故に「心のきよい者」に自分の力でなれません。しかし主なる神はその解
決として、独り子の神である主イエス様をこの罪の世に遣わします。独り子なる
神、主イエス様は私たち全人類の罪を身代わりに背負って、十字架で父なる神の
怒りの刑罰を身代わりに受け血を流して死なれます。この主イエス様の十字架の
死によって主イエス様を信じる者の罪が赦され、きよめられる道が開かれました。
 主イエス様を信じて心に主イエス様を主として王としてお迎えする時から御
子イエスの血は罪をきよめ続け(Ⅰヨハネ1・7)、同時に、その人の心の中に
神の聖霊が宿り、心をきよめてゆかれます。そしてその人も聖霊のお導きとお働
きとにより、自らの二心を悔い改めて一心に主なる神を求める時、「心のきよい
者」と神がして下さり、この世でも神を霊的人格的に知り、幸いになります。

2.平和をつくる者は幸い(マタイ5・9)
 1~8節を踏まえて9節。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子
どもと呼ばれるからです」。「平和」とはヘブル語で「シャローム」で「人間の
最高の幸福をつくり出すすべてのもの」とユダヤ人は理解していました。この「平
和」の根源は神にあり、父なる神に遣わされた主イエス様はまさに「平和をつく
る者」です(ローマ5・1,エペソ2・15~18)。主イエス様を信じる者は、
主イエス様の十字架での身代わりの死の故に、罪の赦し、神との和解と平和にあ
ずかります。そして聖霊によって神とその御旨に従う「柔和な者」(5)となり、
神と共に働いて「平和をつくる者」とされ「神の子ども」と呼ばれる様になるの
で幸いです。「神の子ども」とは「父なる神の性質を持つ者」の意味です。その
最たるお方は、主イエス様であり、私たちの最高の模範です。
(祈り)主なる神様。イエス様を信じる者にあなたとの平和を与え下さり感謝します。どう
か私たちをさらにあなたの子どもにふさわしい「平和をつくる幸いな者」にして下さい。

2025年8月3日日曜日

8月3日(日)第一礼拝動画配信「御子イエス様の血潮の効力」ヨハネの手紙第一1章5節~2章2節(新約478頁)

 

説教要旨「御子イエス様の血潮の効力(ヨハネの手紙第一1章5節~22節)

このヨハネの手紙の最大の関心事は、この手紙の読者である、「愛する」信仰者たちを守り、クリスチャンとしての信仰と生き方を堅固なものにしようとする事でした。それは当時、誤った教えが教会を惑わしていたからでした。その教えは、イエス・キリストが神であると同時に完全に人間であることを否定する教えでした。「人間の外観をとっているが見せかけで、人間のように思えたのだ」という異端的教えだったのです。ですから、ヨハネは、人となられた神であるイエス様をよく観察した、その肉声を聞いた、さらによくさわった、とまで言うのです。これによって異端的教えの偽りを示すのです(1~4)。

さらに、5節。「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということですとあります。主なる神のご性質は「光」と表されるように、悪や不義と対比される完全なきよさであり、義と愛を示します。そして、道徳的内容を含む真理そのものである聖なる神の真理の光です。この聖なる主の栄光の前に出る時に、己の罪に気づくのです。使徒ヨハネはこのように示しつつ、身体の行いで罪を犯し続けても精神は汚れない、という偽りの教えをする者たちの誤りを示します。6節。「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていませんと。神のご性質はきよさ。なのに、この神と交わりがあるのだと言いながら、もし「闇の中を歩んでいる」、すなわち、習慣的に罪を犯し続けながら、罪を認めず、悔い改めないなら、それは真理を行ってはいない、とその偽りの教えの誤りを指摘するのです。

そして7節で真理を伝えます。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。「神は光」です。この神と交わりをもつとは、神の前に誠実に神と共に生きるという事です。そのためには自分の罪のために身代わりに十字架で血を流し死なれた主イエス様を信じる必要があります。そして主イエスの血によって罪からきよめて頂きながら生活するのです。さらに、イエス様を信じて歩む者同士も神の光の中で共に歩む中で、主にあって互いに愛し合う、きよい愛の実を結んでいくのです。

さて、使徒ヨハネは8節でも、罪はないと主張する偽りの教えの間違いを示し、9節で真理を示します。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」きよい神の光の御前に自分の罪を認めて、主イエス様を信じるなら、神はその罪を赦し、すべての悪と不義から信仰者をきよめて下さるのです。その罪の赦しときよめは、どこまでもイエス様が十字架ですべての人の罪を背負い、身代わりに血を流し、死んだ事を根拠とします(7)。

一方で、2・1~2で「どうせ赦される」と罪を甘く見る誤り(1a)や、「罪を犯したら復帰できない」という厳格過ぎる誤りも正します(1b)。

【祈り】主よ。イエス様の十字架の血による罪の赦しときよめを感謝します。