説教要旨「不可解な試練の中でも主を信頼する」(創世記22章1~14節)(旧約34~35頁)
思いがけない不可解な試練に遭う時、みなさんはどうされるでしょうか?
アブラハムの生涯は試練の連続でした。一難去ってまた一難。しかし、そういう中でも、アブラハムに幸せな時がやってきました。ついに奇蹟的に、夫婦ともに高齢でありながら、神様の約束どおり、念願の最初の子ども、長男が与えられたアブラハム(21・1~2)。順調に成長する長男。アブラハムの心は喜びと平安で一杯だった事でしょう。将来の夢もふくらんだでしょう。神様の約束の希望の実現を楽しみに、老後の楽しみも一杯だったでしょう。息子が頼もしく、うれしく、喜びだったでしょう。
しかし、ある時、彼に、主からの試練が来ます(22・1)。神様からアブラハムに「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物としてとして献げなさい」(2)。「全焼のささげ物」とは、通常は、動物を殺して全部ささげて祭壇の上で焼いて煙にする事です。何と息子イサクをそのささげ物にしなさい、というのです。耳を疑うような全く理解不能の命令です。殺人は神の御心に反し(9・6)、子を殺す事は親の人情に反し、これまで聞いてきた神様の約束にも反します(17・19)。しかし、何と即座に翌朝早く、アブラハムは行動に移していきます(3)。
モリヤの地に行くアブラハムとイサク(6)。イサクはたきぎを背負って山に登れるほど成長しました。10代中ごろ~20歳くらいでしょうか。そのイサクは、全焼のいけにえの羊がいない事を不思議に思い、父に尋ねます(7)。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」。すると、アブラハムは答えます。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」(8)。アブラハムは「主が備えて下さる」と答えました(8)。この「備える」はラテン語の聖書ではプロヴィデ(Provide)、英語のプロヴィデンス(Providence、「摂理」)の語源との事です(森島豊師)。「先に」(Pro)、「見る」(vide;ビデオの語源)。ここでは「備える」と訳している(森島豊師)。何かに備える時、「先を見て」備える(「Provide」する)(森島豊師)。この点、「アブラハムはここで‥『神が先に見ていて下さる』と言いながら歩み続ける。目に見えない神が、さらに見えなくなるような出来事が身にふりかかってきた。「自分の愛する独り子を殺せ」という、神のお考えが全く分からなくなる出来事が起こった。見えないという事はわからないという事。私たちも神がわからなくなってしまう出来事に直面することがある。…『神様なぜですか!?』という出来事がおこる。アブラハムはそういう神がわからなくなる出来事が起こった中で…「神が必ず見ていて下さる!」と息子に語りながら歩んで行った。私たちには神が見えない。けれども、神は私たちの事が見えているはずだ…神がきっと見ていて下さる。その言葉を心に聴きながら、歩んでいく。他者と一緒に語り合いながら。」(森島豊師)と解説されていました。さて、ついにモリヤの地に着くと、アブラハムは祭壇を築き、そして薪をならべ、イサクを縛り、祭壇の上の薪の上に置きました。そして、主なる神様の言われた通りに手を下そうとしたまさにその時!主の使いがアブラハムを呼び言いました!「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(12)。そして、身代りの羊が与えられたのです(13)!すなわち、アブラハムが目を上げて見ると、「見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた」のでした。主が備えて下さっていました(14)。ですから、アブラハムはその場所の名をアドナイ・イルエ【『主の山には備えがある』の意味。直訳は「彼は見た、(神に)見られている事を、主の山で」(森島豊師)】と名付けました。なお、この雄羊は私たちの身代わりとなって死なれたイエス様のひな型です。さて主は、主に全く信頼し従うアブラハムの信仰が本物である事を確認し、豊かな祝福を約束します。すなわち、「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(16~18)。アブラハムはこの試練を主への信仰による即座の惜しみなき従順をもって乗り越えました。私たちの人生にも時に不可解な、よくわからない、「神様、なぜですか?」と問いたくなるような出来事がありえます。ヨブもそうでした。しかし、その試練も全て神の御手の中にあるからこそ、全てを見通して、必要を備えて、最善をして下さる主に、それでも信頼したいと思います。
(祈り)主よ。不可解な試練の中でもあなたに信頼させて下さい。アーメン。
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