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2025年 クリスマス諸集会のご案内

 

2025年11月30日日曜日

2025年11月30日(日)礼拝動画配 *回線不具合のため説教要旨のみ

 

絶望の闇に輝く神の希望の光イザヤ書9章1~7(旧約p1180~)

イザヤの時代、イスラエル統一王国は南北に分断。特に北イスラエルはアッスリヤ帝国に侵略され絶望的な状態に(8・22)。そんな民に対する希望の預言が9章1~7節です。さらにこれは全ての人に対するメッセージでもあります。

1.救いの希望の約束(12)

その後の事については912節。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱しめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川の川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」とあります。「先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱しめを受けた」とありますが、これはアッスリヤ帝国によって占領されたナフタリとゼブルンの地域の事です。「海沿いの道」、「異邦の民のガリラヤ」、「ヨルダン川の川向こう」とは、アッスリヤの占領により、アッスリヤ直轄地となった地のことです。

2.真の平和をもたらす救い主の約束(3~7節)

3節にあなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。とあります。絶望的な死の陰にある民に、この3節のような収穫と戦利品を受ける時のような喜びが与えられる根拠・理由は、第一に主に信頼する者に与えられる罪と悪魔からの解放(4節)。第二に主なる神が、敵から守り、戦争を終らせ、平和を与えられる事(5節)。そして第三の根拠が6~7節です。

6節。ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。イスラエルの民、さらには全人類のために神が「ひとりのみどりご」(赤ちゃん)をお与えになる。この方は、「不思議な助言者」。これは「驚異、非凡」なる「相談者、預言者」の意味です。「不思議」とは「人間の力をはるかに超えた神による驚異的な働き」。この方は「不思議な助言者」でありながら同時に王なのです。すなわち助言者を必要としない王。私たちを王として守り導きつつ、神ご自身による人間の力や知恵を超えた驚異的で適切な助言をして下さるのです。②「力ある神」。神以上に力ある勇者はおられません。今も、歴史を動かす主なる神です。③「永遠の父」。自分の子どもを愛する父親のように憐みに満ちた保護者です。④「平和の君」。このお方の支配下において、真に平和な支配をもたらされます。この「平和」とはヘブル語でシャロームです。シャロームとは、「健康であり、平安であり、健全さであり、安全であり、欠けるところのない」全き状態です。良きもので満たされている状態です。公には戦争の無い状態であり、個人的には平安と安心の状態です。イエス・キリストはその平和を永遠に確立し、もたらしてくださる王であるお方です。

まさに7節。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。とあります。このお方の統治は平和による永遠の統治です。しかも、不正不義を許さず、公正と正義によって国をいつまでも確立されます。「さばき」とは判断においてまっすぐで正しいこと。「公平」という意味もあります。不公平がない真の正義の政治がその王国ではなされるのです。「正義」とは、神のご意志であり、神の基準である神の御言葉に対して、道徳的にも、倫理的にも、あてはまる事、です。

当時の現実のユダの国の姿を見て、亡国の運命にあるイスラエルを見ていては、決してその延長線上に、このような王国は描けません(鍋谷)。しかし、イザヤはそれが絶対に実現すると保証します。なぜなら、これは神から出た事だからです。主導権は主にあるのです。ですから、そのような救いの御業を、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。と保証し、宣言しています。それは、王であり神である「ひとりのみどりご」が、ダビデの王座に座し、「さばきと正義」によって統治することによって実現します。そして、「その平和は限りなく」、なんと、今よりとこしえまで続くのです。王である神は揺るがないのです。この「熱心」とは「ねたみ」とも訳される強い感情の言葉。神の民に対する主の愛とあわれみの激しい熱意がこの事を必ず来たらせるので、これを阻止できるものは何もないとの宣言です(鈴木昌師)。主が救ってくださり、その救いを全うしてくださるのです。「人間の側の不可能を超えて、〈万軍の主の熱心〉が救いを達成する」(鍋谷師)。これは、主イエス様によって実現するのです(ピリピ16)。

(祈り)主よ。どんな時も主イエス様とみ言葉に信頼し期待し従います。アーメン。

2025年11月24日月曜日

2025年11月24日(日)第一礼拝配信「主イエス様と共に働き、共に喜ぶ」ヨハネ4・27~42(新約183~184頁)

 

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主イエス様と共に働き、共に喜ぶヨハネ4・2742(新約183184)

 今朝は、イエス様とサマリアの女性の対話のその後について見ましょう(詳しい対話内容はこちらをクリック⇒「日本イエス・キリスト教団   長崎めぐみ教会: 11月19日(日)礼拝録画配信 「あなたを熱く望んでおられる父なる神」ヨハネの福音書4章15~26節(新約182~183頁)」)。

1.神様の目から見て誰もが高価で尊い存在(35

 イエス様はサマリア人の女性との対話を通じて彼女を救いに導かれました(626)。その時、弟子たちが買い物から帰ってきました(27)。サマリアの女性は水をくみに井戸に来たのに、水瓶を置いて人々にイエス様の事を伝えに行きました(2829)。そして人々が続々とイエス様のところに集まってきます(30)。イエス様はそんな彼らを眺めながら弟子たちに言います。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」35。「色づいて」とは、「輝いて光っている」という意味もある言葉です。ユダヤ人たちはサマリア人を汚い存在、敵と見ていました。しかし、イエス様からご覧になって、イエス様に救いを求めて来るサマリア人たちは、光り輝く宝石のような、神の愛が結実した尊い存在なのです。そもそも神様の目には、全ての人が、御子イエス様が身代わりに死なれる程に、尊い存在なのです(イザヤ434、ヨハネ316)。

 

2.神様の御心を行う者に与えられる喜び(3236

イエス様は弟子たちに「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。…わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」(3234と話されます。イエス様がこの地上に来られたのは、父なる神の御心を行うため。それは人々の魂の救いのためです。イエス様がこの後、十字架におかかりになられたのも、その後、復活し、天に昇られ、そこから約束の聖霊を弟子たちにお注ぎになられたのもそのためです。すべての人の救い、一人の人の救い、これはイエス様が切に渇き求めている事なのです。そして一人の人の救いがなされると、天において、大きな喜びがあるのです(ルカ15章)。

イエス様は旅の疲れがありました。昼ご飯抜きの状態でした。結局、水も飲めず、のどはカラカラだったかもしれません。しかしイエス様は父なる神の御心を行うという食べ物をいつも持っておられ、それをこの時も召し上がられました。ですから、イエス様の霊魂は喜び満足しておられたのです。それはまだ、この時は弟子たちの知らないものでした。しかし、やがて彼らも神の御心を行い、福音を、イエス・キリストの救いを伝えていくようになるのです。私たちも神の御心を行う時に喜びが与えられます。イエス様や預言者たちが蒔いた種の刈り取りを弟子達がしました(42)。それは弟子たちが苦労しなかったものです。労苦して、み言葉の種をまいてきた、預言者やイエス様、神様がおられたのです。この時もイエス様が種まきをして多くの人たちが救いを求めて集まってきました。刈り取った人とはサマリアの女かもしれません。彼女は救われて、永遠の命を受ける人たちを集めてきました。「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者が共にともに喜ぶためです」(36と主は言われました。隣人に神の愛を示し福音を伝える。これは神の御心。神の御心を行う者に、神様からのお報いがあり、神様から与えられる喜びがあります。

 

3.広がりゆく救い(3942

39節。『さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した。」と証言した女のことばによって、イエスを信じた』とあります。イエス様と向き合って語らい、イエス様を知った事を素直に語り続けたこのサマリアの女性。その彼女の素朴ながらも、真実で継続的な証言の言葉が神に用いられました。41節。「そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」。サマリアの人たちは何か奇跡を体験したわけではありません。サマリアの女性の証言を聴いて導かれ、主イエス様のみ言葉を聴いて信じたのです。イエス様が敵対関係、怨念関係を乗り越えて、サマリアの地に滞在して下さった事も彼らの心に届いたのでしょう。奇跡も体験していないのにイエス様の愛とみ言葉によってイエス様を信じた。これは素晴らしい信仰です。さらに素晴らしいのは42節。『そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」』 。彼らは確かにサマリアの女の話を聞いてイエス様を信じました。しかしその後、直接イエス様と向き合い、自ら直接イエス様のみ言葉を聴く中で、「この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」と告白するに至ったのです。主と直接、よく向き合う大切さを教えられます。

【祈り】主なる神様。主と共に働き、共に喜ぶ者とさらにして下さい。アーメン。

2025年11月15日土曜日

2025年11月16日(日)第一礼拝配信「悔い改めて救い主イエス様を信じる」マルコの福音1章14~15節(新約65p)

 

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第一礼拝説教要旨(後藤健一)

悔い改めて救い主イエス様を信じる」マルコの福音11415節(新約65p)

マルコ1章1節には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。これはマルコの福音書全体を示しているものと思われます。マルコの福音書には主イエス・キリスト様のことばや行いなどについて記されています。主イエス・キリストご自身について記されています。さて福音とは「良いおとずれ」の意味で主イエス・キリストご自身についての知らせです。

マルコの福音書1章14~15節をご覧ください。『ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」』とあります。イエス様の道備えであった、バプテスマのヨハネが捕らえられるというショックな出来事の後にもかかわらず、主イエス様はガリラヤ地方に行き、神の福音を伝えました。「神の国」とは「神の王国、支配、王権」という意味です。神は愛のお方ですから、神の愛の支配、神の恵みの支配、それが神の国です。それがイエス・キリストの到来によって、すぐそこにまで近づいた、のです。永遠から存在しておられる神であるイエス・キリストが、神に選ばれた処女マリヤのおなかの中に、神の霊である聖霊によって、奇跡によって、お宿りになり、そして、私たちと同じように、人間の赤ちゃんとなって、この世界に生まれてきてくださったのです。この罪にまみれた世界に、神が神でありながら、同時に人となって、来てくださったのです。それは、私たちを神の国、天国に救い入れるためでした。その神の国に入るために、主イエス様は「悔い改めなさい」、そして「福音を信じなさい」と命じられています。

.悔い改めて、神に心を向ける

悔改めとは、罪と罪の生活と決別する心をもって、神に心を向けることです。神に背を向ける人生から、神に心を向けて神に立ち返る決心です。悔い改めは救われるために必要不可欠です。でも、神様のところに帰ろう、と思っても、自分の力では、どうやって帰ればいいのかわかりませんし、帰れません。天国までどうやっていけばいいのか。天国は私たちには見えません。また神の国に永遠に住めるのは、神の国の王の許可を頂いたものだけです。

しかし、神の国、天国の全権をもっておられる神の国の王であるイエス・キリストが、お迎えに来て下さいました。「ついに、天国が近づいたよ、こっちを向いて、こっちに来て、私を信じて、天国に入りなさい」とイエス様は言われるのです。もし、神様にそっぽを向いていたなら、神様の方に向きなおり、方向転換して、神様の方に行く心をもつことが悔い改めです。

 

2.福音(主イエス・キリスト様)を信じる

悔い改めて父なる神に立ち返る人に、父なる神は救い主イエス・キリストを示されます。このお方は罪人を愛し、罪人が赦されるために十字架で身代わりに死なれました。神の子として回復されるための全てを、父なる神はイエス・キリストによって備えて下さいました。あとはイエス・キリストを信じれば、父なる神のみもとに帰り、神の子として受け入れられ、神の子として回復していただけるのです。福音とはイエス・キリストご自身です。父なる神が人類の救いのためにお送りくださった唯一真の救い主です。このお方以外に救いはありません。このお方が父なる神のみもとに帰る一本道です(ヨハネ146)。天国の道を神の方で用意し送ってくださいました。イエス・キリストは生きた天国への道です。同時に天国そのものです。天国の王ですから。そのお方が迎えに来て下さったのです。

イエス・キリストが私たちの罪、汚れを全てその身に負われて、十字架で身代わりに、父なる神の怒りの刑罰を一身にお受け下さいました。そして身代わりに汚れなき血を流し死んで下さいました。それゆえに、悔い改めて神に立ち返り、イエス様を信じる者は罪を赦されて、神の国に入国する事が許可されるのです。罪と罪の生活と決別する心をもって神に心を向け、神の国の王であられる主イエス様を信じて心にお迎えしましょう。主イエス様は罪を赦し、罪から救って下さいます。そして、イエス様にお従いしましょう。

 

(祈り)唯一まことの神様。私達を罪と滅びから救うために、あなたの大切な神の独り子イエス・キリスト様をこの世にお送り下さり、救いを成就して下さり感謝致します。悔い改めてイエス様を信じます。イエス様の名によって。アーメン。

           



2025年11月8日土曜日

2025年11月9日(日)第一礼拝配信「不可解な試練の中でも主を信頼する」創世記22章1~14節(旧約聖書p35~36)

 

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説教要旨「不可解な試練の中でも主を信頼する」
(創世記22章1~14節)(旧約34~35頁)

 思いがけない不可解な試練に遭う時、みなさんはどうされるでしょうか?

 アブラハムの生涯は試練の連続でした。一難去ってまた一難。しかし、そういう中でも、アブラハムに幸せな時がやってきました。ついに奇蹟的に、夫婦ともに高齢でありながら、神様の約束どおり、念願の最初の子ども、長男が与えられたアブラハム(21・1~2)。順調に成長する長男。アブラハムの心は喜びと平安で一杯だった事でしょう。将来の夢もふくらんだでしょう。神様の約束の希望の実現を楽しみに、老後の楽しみも一杯だったでしょう。息子が頼もしく、うれしく、喜びだったでしょう。

しかし、ある時、彼に、主からの試練が来ます(22・1)。神様からアブラハムに「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物としてとして献げなさい」()。「全焼のささげ物」とは、通常は、動物を殺して全部ささげて祭壇の上で焼いて煙にする事です。何と息子イサクをそのささげ物にしなさい、というのです。耳を疑うような全く理解不能の命令です。殺人は神の御心に反し(9・6)、子を殺す事は親の人情に反し、これまで聞いてきた神様の約束にも反します(17・19)。しかし、何と即座に翌朝早く、アブラハムは行動に移していきます()

 モリヤの地に行くアブラハムとイサク()。イサクはたきぎを背負って山に登れるほど成長しました。10代中ごろ~20歳くらいでしょうか。そのイサクは、全焼のいけにえの羊がいない事を不思議に思い、父に尋ねます()「火と(たきぎ)はありますが、全焼のささげにする羊はどこにいるのですか。すると、アブラハムは答えます。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」(8)。アブラハムは「主が備えて下さる」と答えました()。この「備える」はラテン語の聖書ではプロヴィデ(Provide)、英語のプロヴィデンス(Providence、「摂理」)の語源との事です(森島豊師)。「先に」(Pro)、「見る」(vide;ビデオの語源)。ここでは「備える」と訳している(森島豊師)。何かに備える時、「先を見て」備える(「Provide」する)(森島豊師)。この点、「アブラハムはここで‥『神が先に見ていて下さる』と言いながら歩み続ける。目に見えない神が、さらに見えなくなるような出来事が身にふりかかってきた。「自分の愛する独り子を殺せ」という、神のお考えが全く分からなくなる出来事が起こった。見えないという事はわからないという事。私たちも神がわからなくなってしまう出来事に直面することがある。…『神様なぜですか!?』という出来事がおこる。アブラハムはそういう神がわからなくなる出来事が起こった中で…「神が必ず見ていて下さる!」と息子に語りながら歩んで行った。私たちには神が見えない。けれども、神は私たちの事が見えているはずだ…神がきっと見ていて下さる。その言葉を心に聴きながら、歩んでいく。他者と一緒に語り合いながら。」(森島豊師)と解説されていました。さて、ついにモリヤの地に着くと、アブラハムは祭壇を築き、そして(たきぎ)をならべ、イサクを縛り、祭壇の上の(たきぎ)の上に置きました。そして、主なる神様の言われた通りに手を下そうとしたまさにその時の使いがアブラハムを呼び言いました「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(12)。そして、身代りの羊が与えられたのです(13)!すなわち、アブラハムが目を上げて見ると、「見よ、一匹の雄羊が角を(やぶ)引っかけていたアブラハム行ってその雄羊を取りそれを自分息子の代わりに全焼ささとした」のでした。主が備えて下さっていました(14)。ですから、アブラハムはその場所の名をアドナイ・イルエ【『主の山には備えがある』の意味。直訳は「彼は見た、(神に)見られている事を、主の山で」(森島豊師)】と名付けました。なお、この雄羊は私たちの身代わりとなって死なれたイエス様のひな型です。さて主は、主に全く信頼し従うアブラハムの信仰が本物である事を確認し、豊かな祝福を約束します。すなわち、「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(1618。アブラハムはこの試練を主への信仰による即座の惜しみなき従順をもって乗り越えました。私たちの人生にも時に不可解な、よくわからない、「神様、なぜですか?」と問いたくなるような出来事がありえます。ヨブもそうでした。しかし、その試練も全て神の御手の中にあるからこそ、全てを見通して、必要を備えて、最善をして下さる主に、それでも信頼したいと思います。

(祈り)主よ。不可解な試練の中でもあなたに信頼させて下さい。アーメン。


2025年11月1日土曜日

2025年11月2日(日)第一礼拝配信 マタイの福音書18章1~5節(新約聖書p36) 「小さい子どものように主なる神様を信頼する」 

 


説教要旨「小さい子どものように主なる神様を信頼する」マタイ1815節(新約36)

 本日は子ども祝福式です。今一度、子どもたちを愛されたイエス様に心を向けたいと思います。イエス様の受難予告の後、弟子たちはお互いの間で誰が一番偉いか?と議論し、イエス様に尋ねます。1節。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」。この問いに対するイエス様の答えが2~5節です。

1.天国に入るためには?(23)

 まず2~3です。イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。。ここで、イエス様は、「自分が一番偉い」とお互いがはりあって、お互いを支配しようといた弟子達に対し、幼い子を呼び寄せて御自分の側で真ん中に立たせ、「向きを変えて」つまり「悔い改めて」、「心を入れ替えて」、「子どもたちのように」ならないならば、天の御国で一番になるどころか、その天の御国に入ることさえできないよ、と言われたのです。一体どういうことでしょうか。「小さい子ども」は保護者に頼って生きています。一人では生きていけない弱くて小さい存在です。いばろうにもいばれません。もちろん、小さい子も罪びとですので、わがままな心はもっていますが、彼らは自分の弱さ、小ささを体験的に知っていて、保護者が必要である事を知っているのです。

さて「天の御国」とは神様の恵みの支配の事を表します。天国の王様は天の父なる神様であり、その御子イエス様です。この幼な子のように、主に保護してもらわなければ(救ってもらわなければ)自分では生きていけない、その事を自覚している人こそ、イエス様により頼み、イエス様の愛と恵みの支配を心から受け入れ、そして天国に入るのです。一方で「自分が一番偉い」と思い込んで、他の人を支配しようとする心は、天の御国においてふさわしくありません。それは天の御国の王である主の御支配に反する事だからです。

ですから「自分が一番偉い」と思って、ほかの人を支配しようとする心の向きを変えて、そういう生き方、考え方を変えて、そして、幼な子のように、自分の無力、自分の罪深さ、神の前に自分の力では到底立ちえない、立場無き身であることを素直に認めて、悔い改めて、イエス様の前に自分を低くする事が必要です。そして、ただイエス様の愛と恵みの支配(救い)に寄りすがって救って頂く事が、そもそも、天の御国で生きるために、全ての人、全てのキリストの弟子に必要不可欠な事なのです (3、参照;ルカ151124)

2.天国で一番偉い人は?(4)

 さらにイエス様は弟子たちの質問に答えます。4節。「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。自分の無力さ、立場の無さを認め、素直に、イエス様の愛と恵みの支配を受け入れる人が天国に入ります。天国はそういう人達の国なのです。そういう人たちは、イエス様を王様としている人です。神の前に、子どものようにへりくだる人です。そして、イエス様に信頼して従う人です。そういう人は謙遜な人になります。なぜなら、イエス様が謙遜な方だからです。イエス様こそ十字架の上で私達の全ての罪と汚れと呪いを背負い、父なる神から身代わりに罰を受けて一番自分を低くして下さった(劣った地位を受け入れた)方で、天国で一番偉いのです。私たちはこのお方に倣い聴き従うべき存在なのです。

3.イエス様を真ん中にして、子どもを含めて、おたがいを大切に(5)

さらにイエス様は言われました。5節。また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。。ここで、「このような子ども」とありますが、これは悔い改めて、こどものように自分の無力を認めて、イエス様を王様として心に迎えたキリストの弟子の事です。キリストの弟子は、自分の罪深さを認め、神の前に自分の力では立てない事を認めて、自分の小ささを認めています。へりくだっています。ですから、この世においては軽んじられたりしやすいでしょう。しかし、イエス様を心の王座にお迎えしている人なのです。ですから、このような、幼な子のようにイエス様を心の王座にお迎えしている人を、イエス様の名のゆえに受け入れる人は、イエス様を受け入れるのです。主にある兄弟姉妹、互いに主を中心にして、愛し合う事が大切であることを教えられます。

(祈り)主よ。私たちは皆、幼子のように弱く小さい者です。ただあなたの恵みによって生かされ、主イエスを信じて救って頂いた恵みを感謝致します。私達も主イエス様に倣って生きられますように。アーメン。出典:©2017 新日本聖書刊行会