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2025年7月5日土曜日

7月6日(日)第一礼拝動画配信「いつも主イエス様を信じて生きる」 使徒の働き16章25~34節(新約268頁) 

 

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説教要旨「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒162534(新約268p

1.試練の中でも主に信頼し続け、主を賛美したパウロたち(1625

使徒パウロがピリピという都市にいた時の事です。突然、占いの霊に取りつかれた女性がついて来て、パウロ達を困らせ続けます。ついに、パウロはイエス様のお名前によって占いの霊を女から追い出しました(1618)。すると、この女の占いでもうけていた人たちからパウロは恨まれ、役人に訴えられます(1921。町の人々も反対したので、パウロとシラスは何度もムチ打たれ、牢に入れられました。そして厳重に番をするように命じられた看守は二人を奥の牢に入れ、足に足かせをかけます(2224)。良い事をしたのに、かえって苦しい目に合わせられたパウロ達。しかし獄に入れられたにもかかわらず、25節。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」。二人は苦難の中でも神に信頼していたのです。

 

2.人生の危機の中で受け取られた神の祝福(2634)

 すると26節。「すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。」。そして27節。「目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした」のです。ローマ法によると、囚人の脱獄を許した看守は、その囚人に課せられていたのと同じ刑に服することになっていました。看守の人生は突然の地震で一転。不当な法により死に直面させられ、いざ、その死に直面した時、その死の先には何の希望もなかったのです。

しかし、そんな看守の所に希望の声が聞こえたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28とパウロは叫びます。まさか、と思ったでしょう。けれども、その声の通りでした。牢屋の扉が開いているのに、囚人は一人も逃げ出さなかったのです。まさに奇跡です。看守の命は救われたのです。看守は、この突然の地震というハプニングを通して、人生の土台を揺り動かされました。そして、死に直面した時、その先に何の希望も救いも無い事を知ったのです。

それは同じく、死ぬかも知れない状況に置かれてもなお、神に信頼して祈り、神に賛美を捧げ続ける二人の囚人パウロとシラスとは全く違う自分でした。そして看守は、この時、魂の目が覚めて、ひれ伏して二人に「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」(30と尋ねます。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31と伝えます。

ローマ帝国において、主はローマ皇帝だと思われていたようです。救い主はローマ皇帝であり、平和を与え、命を守ってくれるのはローマ帝国だと思われていました。その様に信じていた人たちにとってローマ皇帝は神であり、神の子でありました。けれども大地震を通して、看守は、そのローマ皇帝の支配下にあるローマ帝国の命令が自分に死を迫り、そして、ローマ帝国はその死の先にある絶望、滅びに対して何の力もない事を知ったのです。しかし、今や本当の救い主イエス様を信じるように、と招かれたのです。二人の囚人を苛酷な環境で生かし、強め、喜びを与えているのは、この主イエス・キリスト様である事を知るのです。

さらに、パウロ達は福音宣教、主のみことばの伝道を続けます。32節。「そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った」。すると、3334節。「看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」34なんと、看守とその家族が救われました!そこには大きな喜びがありました。

看守にやってきた突然の人生の危機。けれども、その危機さえも神様の御手の中にありました。それは看守とその家族が神の祝福を受け取り、救われるきっかけとなったのです。パウロとシラスの投獄、大地震さえも、神は益に変えられました。神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)主イエス様は私たちに、どんな時も、絶対絶命のピンチの時でも、希望を与え、絶望から救い、生きる力を与えてくださるお方です。

苦しい惨めな環境におかれても、主を信じる者に力と愛と喜びを与え、御業をなして下さるお方です。主イエス・キリストに信頼して、より頼むなら、人生の土台は決して揺り動かされる事はありません。「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』」(ローマ1011)。

(祈り)父なる神様。主が揺るがない人生の土台となって下さり、感謝致します。


2025年6月26日木曜日

6月29日(日)第一礼拝動画配信「聖書が教える愛と希望」 ヨハネ14章1~6節(新約213p)

 

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説教要旨「聖書が教える愛と希望」ヨハネ14章1~6節(新約213p

今朝はヨハネ14章1~6節を心にとめましょう。以前、英国女王エリザベス2世の国葬でもこの聖書の箇所が、当時のトラス首相によって朗読されました。

この時の弟子たちは、これからイエス様が歩まれる道(十字架へ)について不穏な空気を感じ、先行きが見えず、恐れと不安の中にいたようです。そんな弟子たちに主イエス様は改めてご自身が一体誰であるのかをお示しになったのです。

1.信仰者の心を守り、平安をくださる、主イエス・キリスト(1

1節。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。聖書において啓示されている、唯一まことの絶対者なる神、全知全能の創造主なる神を信じ、また神の子であり神である、主イエス・キリストを信頼し続ける時、神に支えられ平安が与えられて安心し、恐れと不安から守られ、「心を騒がせられること」、「心かき乱されること」から守られます。と共に神に祈る時に平安が与えられる事を聖書は教えています(ピリピ人への手紙4・6,7)。その事を通して聖書の教える唯一まことの神は生きておられる事を知ります。

 

2.神の御許(天国)に居場所を用意して下さった主イエス・キリスト(2~3)

続いて2でイエス様は言います。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」。「住む所」とは「父(唯一まことの神の事)の家」にあります。そこは天国、神の国、父なる神の御許とも言い換えられます。神の身許には多くの住まい、居場所があります。さらに3節。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」。永遠にずっと共にあなたと天国で(この世でも)過ごしたい、という切なる神の愛が表されています。聖書では、その神の愛は、親が子を愛する愛や、新郎が新婦を愛する愛にたとえられています。唯一まことの主なる神は、あなたや私たちにご自分の命を与えるほどに最高に愛して下さっています(ヨハネ316)。ですから、父なる神の御許、天国に私達の永遠の居場所を用意するために、主イエス・キリストはこの後、十字架で死なれます。イエス様以外の全ての人間は皆、「原罪」という罪を抱えて生まれてきます。神の前に罪ある人間は、完全に正しい唯一のまことの神のご支配(神の国)に自分の力では入れません。その原因である「人間の罪」の為に罪なきイエス様が十字架で身代りに死んで下さったのです。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに引き受けて下さったからです。それは救い主イエス様を信じる者の罪が赦され、無罪とされ、罪きよめられ、聖なるイエス様と父なる神の御許でいつも親しくできるようにするためです。神とのお交わりを通して信仰者に、神ご自身のご性質(聖さ・愛、義等)が分け与えられるためです。その証拠としてキリストは死後三日目に復活し、弟子達に現れ、弟子達の前で天に引き上げられ、父なる神の王座のある天にお帰りになりました。そして今も一切の権威をもって天に座しておられます。ですからイエス様は目には見えませんが、イエス様を信じて父なる神に近づく者をいつでも救う事がおできになるのです(へブル72425)。この神の与えて下さった救いに、神からの愛と希望があるのです!

 

3.天国の唯一の道である主イエス・キリスト(4~6)

4節。キリスト様は続けて言われました。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」。その時、弟子のトマスが私たちの思いを代弁しているようにイエス様に聞いてくれています。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と。トマスはここで実際に歩いて行く道路を知ろうとしていましたが、イエス様の回答はトマスのイメージとは違います。すなわち6節。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」。主イエス様はトマスに対して「わたしがその天国の道なのだ」と言われます。イエス様がご自身が天国の道、真理そのもの、永遠の命なのです。イエス様だけが父なる神の御許、唯一の神の家、天国への道です。イエス様はまるで花婿が花嫁をエスコートするように天の家へと導かれます!

(結論)主イエス・キリストこそが「道であり、真理であり、命」です。イエス様だけが唯一まことの父なる神の御許、ただ一つの天国の家への、一本道です!

(祈り)天の父なる神様。唯一まことの永遠の命の道、天国への道、主イエス・キリスト様に信頼して、このお方と共に天国の道を歩んで参ります。イエス様によって、アーメン。


6月22日(日)第一礼拝動画配信「主なる神はおられる」 出エジプト記3章1~6,13,14節(旧約101頁)            

 

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説教要旨

「主なる神はおられる」出エジプト316節(旧約101102)

 神はいるのかいないのか。主なる神は「わたしはある」と宣言しています。

1.神に生かされてきた、モーセの生涯

イスラエル民族(へブル人)がエジプトで生活をしていた時の事。エジプトに新しい王が登場し、へブル人の状況は一変。苦役を課せられます。へブル人の著しい人口増加を恐れた王はイスラエルの男の赤子を川に投げ込んで殺せと命じます。しかしイスラエル人の助産婦たちは神を恐れて従いません。そんな中、あるレビ人の夫婦に男の子が誕生。しかし、その男の子を隠し通せず、しかし殺せず、防水加工をした籠に入れてナイル川のしげみに浮かべます。その男の子の姉は見守り続けますが、そこにエジプト王の娘が通り、彼女に拾われます。その時、モーセの姉の機転によって実母が乳母として王の娘に紹介されます。エジプトの王の娘の子として、実母を乳母として育てられる男の子。

その男の子こそモーセでした。そういう複雑な家庭環境の中でモーセは育ち、やがてエジプトの王宮で、へブル人としてではなく、エジプトの王子としてエジプト最高の教育にて育てられます。モーセは40歳までエジプトのあらゆる学問を極め、言葉にもわざにも力がありました(使徒7・22)。しかし40歳の時、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されるのを止めようとして勢い余ってでしょう、そのエジプト人を殺してしまいます。その後、イスラエル人同士の争いを仲裁しようとした時、拒まれて、「自分をもあのエジプト人のように殺すのか」と言われます。モーセはエジプト人を殺した事が知られたと思い、パロとエジプト人を恐れ、エジプトから逃亡。ミディアンという地方に逃れ、そこで結婚し子どもを授かります。そして、その地で、エジプト人に避けられ嫌われていた「羊飼い」となり、彼のしゅうとの羊を飼う羊飼いとして生きるようになり40年。へブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、エジプトの王(ファラオ)から逃れ、エジプト王国から逃れ、荒野に隠れ、今はミディアン人と共に生き、モーセは80歳に。赤子の時から自分という存在を隠され、いつも隠れて生きてきたモーセ。自分とは何者で自分の人生とは何だったのか?と彼は問うたでしょう。しかし、主はモーセにご計画をもち、必要な教育訓練を荒野で羊を飼う事を通して与えました。

2.「わたしはある」~燃えているのに燃え尽きない燃える柴を通して~

そんなモーセ80歳のある日の事。モーセはミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていました。モーセは羊の群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来ます(140年間モーセは習慣的に羊を飼い続けてきました。しかしこの日はいつもと違いました。主の使いが柴の茂みのただ中の燃える炎の中で彼に現れます。モーセがそれ見ると、なんと燃えているのに柴は燃え尽きません(2)!モーセは「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」と思い見に行きます(3)。主はモーセが今までの進路をそれて燃える柴を見に来るのをご覧になりました。神は柴の茂みに隠れる様にしてモーセに「モーセ、モーセ」と呼びかけられます。モーセは「はい、(私は)ここにおります」とつい答えます(4モーセからは神様は見えませんが神様はモーセの全てをご存知でした。燃える柴を見るためにいつもの道から外れたモーセ。それは主に従う道への軌道修正でした。

そんなモーセに神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5。そこに神が臨在される事のゆえに、その地は神様の聖地となりました。そして神様はモーセに履き物を脱ぐように命じます。「履き物を脱ぐ」とは当時、自分が相手にとってしもべで、服従してそむかない事を示しました。明け渡しです。

そして主はさらにモーセに言われました。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(6)。幼き日々に実母から聞かされていたでしょう、その主がモーセにこの時、御声をかけて下さったのです。その後、神はモーセに「『わたしはある』という者である。」(14と御自身を示されます。天地万物を存在させ、モーセを存在させている神。モーセはこれまで、隠され、隠れて生きてきました。しかし神の前には隠れられませんし、この時、モーセは神の前に出ました。かつてはエジプトの王の娘に川から引き出され、それが彼の名前の由来でした(210)。しかし、この時、神がモーセを神の前に引き出したのです。私たちは『わたしはある』という神様によって創造され存在させられています。主なる神は私たちを愛しておられます。神の前に「わたしはここにいます」と祈り出ましょう!


2025年6月14日土曜日

6月15日(日)第一礼拝動画配信「父なる神の愛」ルカの福音書15・11~24(新約149~150頁)

 

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説教要旨「父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

今日は父の日です。肉親の父、育ててくれた父に思いをはせるとともに、私たち人類の共通の生みの親であります、創造主である、父なる神に心を向けて参りたいと思います。ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は、二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。

1.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。

すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、弟息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕した事でしょう。しかし弟息子は自分が息子として受け入れられるとは思えません。21節。彼は『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』と言い、雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。弟息子の自意識を超えた父の愛の取り扱い!「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!

2.このたとえが教えてくれる、父なる神の愛

これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在を無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛して下さっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改める)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらえるのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただく事により、罪赦され、神に「よし!」と認められ、受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。

キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が自分を良く評価できない時も、私という存在を常に最高に愛し続けて下さる愛を感謝致します。主の愛に信頼します。アーメン


2025年6月7日土曜日

6月8日(日)第一礼拝動画配信「神様に導かれて生きる」使徒2・1~4(新約233~234頁)

 

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説教要旨「神様に導かれて生きる」使徒214(新約233234)

今日は教会歴ではペンテコステ(聖霊降臨日)です。ペンテコステは約束の聖霊が初代の教会に最初に臨まれ、教会が聖霊に満たされた事を記念する日です。今年のペンテコステも、改めて、聖霊が初代教会に豊かにお臨み下さった事を覚えて、また現代の教会にもお臨み下さる事を信じて、心から感謝し喜びましょう。

1.聖霊に導かれて生きる(使徒2・1~4)

使徒214節は聖霊の神様が初代教会に最初に臨まれた時の出来事が記されています。この時の弟子達は苦境の中にありました。イエス様の弟子たちを邪魔して、教会を押しつぶそうとする当時のユダヤ教の宗教指導者たちのプレッシャーや、経済的困難もありました。弟子たちはこのような苦境の中で主に信頼し、主のお言葉に従い、主のお約束の聖霊を待ち望んでいました。共に心合わせて祈り合いながら、約束の聖霊を待ち望んでいました。そこについに主イエス様の約束の聖霊が一人一人に、みんなに満ちて下さったのです(使2・1~4)

「風」は旧約聖書において神の霊を表すものでした。まさに天からの息吹が吹き込まれるようにして聖霊が弟子たちに吹き込まれて教会は息を吹き返しました。ここに炎のような舌が分かれて現れ」(3とあります。一つの御霊が各々に臨んだ事を示しています。「炎」とはモーセが燃える柴で示されたように神ご自身が共におられるご臨在を示すしるしでした。これらの現象は神の霊が弟子たちに臨まれた事を示すしるしとしてこの時、特別に示されたものと思われます。

聖霊の降臨はイエス様の約束の成就です。使徒の働き18節。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。聖霊によって救い主イエス様を証しさせて頂く力が与えられます。迫害の中でも、イエス様と主の愛の教えに従う力が聖霊によって与えられます。そのような生き方は聖霊様とその助けとがどうしても必要です。この時、神に祈り続ける中で、悔い改めて、イエス様に全く信頼し、明け渡し、お従いする心で、主を待ち望む人に聖霊が臨んだのです。もちろんイエス様を信じる人の心に聖霊様はすでに生きておられます。共にいて慰め励まし助けて下さいます。さらには、主に全く信頼し、明け渡して、従う人に、聖霊様が臨まれ、満たされるのです。約束の聖霊に満たされた弟子たちはこの時、「御霊が語らせるままに」話し出しました(4)神様はご自身に信頼し明け渡して従う者を通して、さらに豊かに御業をなされます。主イエスを信じ聖霊が主導されるその導きに明け渡し、従う備えのできている者に聖霊が臨まれ、満たされました。そして、弟子たちは聖霊に導かれつつ、聖霊と共に働きます。それは主イエス様と共に働く事と同じです。

今日、聖霊に満たされたからといって、誰もがこのように外国語が話せたり、異言等の特別な言葉が話せたりするとは限りません。ただ共通する事は「御霊が…ままに」(4生きるという点です。そのように生きる時、どんな時にも聖霊による愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という愛の実が伴います(ガラテヤ52223)。聖霊によって多様な弟子達が一致して宣教の為に立ち上がり、人々の心に、愛をもって、福音を伝える事ができました(14)。ペテロをはじめ弟子達はかつてイエス様を置いて逃亡した人たちでした。ですから、この力は弟子たちのものではなく、まさに聖霊の賜物です(ガラテヤ52223、ヨハネ1426)。御聖霊の働きにより人々が回心します(使徒2・41~47)

御聖霊は日々の幸せにも欠かせないお方です。「肉」(神から離れた人間存在)から出て来る様々な「肉のわざ」と呼ばれる悪しき諸症状(淫行、偶像礼拝・魔術、敵意、争い、ねたみ、憤り、分裂分派、泥酔等。参照;ガラテヤ51921に我らは悩まされますが、御聖霊こそ、それらに効く神の特効薬です(同16節)

2.聖霊に満たされて生きる(エペソ518

「御霊に満たされなさい」(エペソ5・18)と神様は今も聖書を通して、全てのクリスチャンに示しておられます。これは「満たされ続けなさい」という事です。様々な困難や難題に現代に生きる私たちもまた今日、直面しています。だからこそ私達は主イエスとそのお言葉に信頼しつつ、助け主、慰め主であられる、聖霊に助けて頂き、慰めて頂き、励まして頂き、導いて頂きながら、神様の愛と恵みの中で、御霊の満たしとお導きをいつも、共に心を合わせて、祈り続けましょう。悔い改めるべきは悔い改め、主に信頼し明け渡し、主に心を向け心合わせて、従い続けましょう。そこに豊かな愛の実が結ばれていきます。

(祈り)天の父なる神様。いつも私たちを聖霊に満たしてお導き下さい。主に従い、周りを潤し、福音を愛をもって的確に伝える愛の人にして下さい。アーメン。


2025年5月31日土曜日

6月1日(日)礼拝動画配信「私たちに必要なお方」 使徒1・3~8(新約232頁)

 

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【説教要旨】

「私たちに必要なお方」 使徒138(新約232)

今年は教会のカレンダーでは6月8日にペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。聖霊が教会に最初に臨んだ記念日です。改めまして今朝は、主の御霊である御聖霊が初代教会に最初に臨まれる直前の弟子たちの姿に学びたいと思います。

1.主が約束されたご聖霊様とその御力 (1・3~8)

十字架の死後三日目に復活された主イエスが弟子達に40日間にわたって現れ関わり続け(3)、散らされていた弟子たちを召し集めました。弟子達は皆、罪があり、失敗があり、弱さもあり、恐れと不安を抱えていました。しかし、そんな彼らと復活の主イエス様は関わって下さり、彼らを励まし支えて下さいました。そして、主イエス様が天に昇られて見えなくなられた後も、イエス様が共におられると、お約束下さいました(マタイ2820)。そして守り、助け、導いて下さいました。さらに、弟子達に主は、聖霊の約束(使徒1・45)、すなわち、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(4)、「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」(5)、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(8を示されました。「父の約束」である「聖霊のバプテスマ」、すなわち聖霊の満たしです。

「わたしの証人」とはキリストの復活の証人の事です。この後、彼らはイエス様の約束を信じて聖霊を祈り求め続けました。このキリストとその約束を信じ続ける教会の祈りは、教会の生命線のように今日も続いています。私たちも個人で祈り、夫婦、家族、祈祷会や礼拝で、教会で共に祈る、等、祈り続けましょう。

 

2.主に祈り求め続ける者に臨まれる聖霊(1・14,2・4,ルカ11・513

教会はいつも必要なものを抱えています。そもそも人間は神を必要としています。しかし主が「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11・9)とおっしゃって下さっています。全知全能で、全き愛で、最善をなされる主なる神が必要を最善に満たして下さるどころか、ご聖霊によって神ご自身が、今も一緒に歩み導き、お助け下さいます。様々に問題があるように見えても、主が一緒に行って下さるのですから、本当は、もはや、私たちが思い煩う必要は何もないのです。主を信頼して、信仰によって先取りして喜び、感謝し、平安の中に生かされたらよいのです。主は聖霊によって、イエス様を信じる者の心の中に、イエス様が目に見えて共におられた時よりも、さらに近しく、私たちの心のど真ん中にまで来て下さいます。そして、聖霊を主に祈り求め、全き悔い改め、全き信頼、全き明け渡し、全き従順の心の備えができている者に、神様の時に、私たちの心の隅々にまで聖霊が満ちあふれて下さるのです。そこには神の平安も満ちるのです。それが神の約束です(ピリピ468)。私たちは主を信じて、主と結ばれて祈る中で喜びと感謝の生活をする事ができるのです(Ⅰテサロニケ51618)。

 

3.ありのままの今の自分で祈り求める聖霊の恵み

弟子たちは、イエス様が命じられるとおりに、自分の罪と失敗と恥の場でもあった、エルサレムという逃げ出した所、逃げ出したい所で共に心を合わせて祈り、約束の聖霊を待ちました(4)。それはありのままの今の自分で、罪や失敗や恥が主の前にも、お互いの前にもあらわになっていたにもかかわらず、主イエスをそれでも信頼し、主イエスの赦しと愛と忍耐を頂ながら、主が置かれている所で、主に信頼して主の弟子として生きていったという事です。私達もまた、置かれた所、遣わされた生活の現場で、時に、失敗や苦戦や行き詰まる中でも主イエス・キリストを信じ続けて、約束の聖霊に満たされて生きる事を祈り続けましょう。

この聖霊のみが人々を回心に導き、全ききよめ(罪を排除し、成長成熟し続ける全き愛の信仰生涯)へと導き、教会を建て上げる唯一の力です(使徒1・8、エペソ518)。その特質は愛、喜び、平安(平和)…です(ガラ52225)。

困難な時代や状況の中でも、それでも私達は聖霊の神様に信頼し、聖霊の満たし、聖霊の御業を祈り求め続け、主に委ねつつ、お従いして参りましょう。教会を、夫婦を、親子を、家族を、人々を真に生かし保ち、救い、幸福にするのは聖霊の神の御業で、全てが聖霊の恵みです。そこに素晴らしい神の御業がなされ神の愛の実が結ばれていきます。試練の中でも、私たち教会はキリストを信じ、いつも、共に心を合わせて、主に聖霊とそのお働きを祈り求め続けて参りましょう。

【祈り】天の父なる神様。ペンテコステに、聖霊が教会に最初にお臨みになった事を覚えつつ、今も聖霊に満たされて生きる事を祈り求め続けます。アーメン。


2025年5月24日土曜日

5月25日(日)礼拝動画配信「神の家族である教会」エペソ人への手紙2章19~22節(新約386頁)

 

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【説教要旨】

神の家族である教会エペソ人への手紙21922(新約386頁)

異邦人(ユダヤ人以外の人たち)のクリスチャンは、神の選民ユダヤ人とは全く違う環境からクリスチャンになりました。そのため異邦人クリスチャンの中には「自分達はよそ者でお客さん」と感じていた人もいたでしょう。一方、ユダヤ人クリスチャンの中には異邦人クリスチャンを見下してしまっていた人もいたと思います。使徒パウロはそんな異邦人クリスチャンの立場や気持ちや引け目に気づいていたのでしょう。彼は聖霊に導かれつつ、その事について書き送ります。

2章8節には「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも、ただ神の恵みにより、共通の救い主イエス・キリストへの信仰を通して、共通の救いを受けました。その事を確認しつつ、使徒パウロは1112節にて、イエス・キリストを信じる前の異邦人について記します。異邦人は神の選民ユダヤ人のようには唯一真の神を知らない者でした。しかし、異邦人も主イエス様を信じて結ばれる事で神の民に加えられ、選民ユダヤ人クリスチャンと同じく神の民にされたのです(13)。さらに、イエス様は十字架により選民ユダヤ人と異邦人とを隔てていた敵意の壁を取り除きます(14)。と言いますのは、異邦人をユダヤ人と隔てていた律法についての誤った解釈からか、ユダヤ人は異邦人を敵視していました。しかしイエス様が十字架の死によって、父なる神への全人類の罪のための贖いの供え物となって下さり、全人類への神の怒りの刑罰を身代わりに受け、全ての人の罪を背負って身代わりに死ぬ事で律法を成就されました。これにより、誰でもイエス様を信じるなら恵みにより罪赦され、きよめられ、救われるのです。これにより、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁は除かれ、同時に敵意の壁の根拠も除かれたのです。

この事はこのユダヤ人と異邦人をイエス・キリストにあって「一人の新しい人(民)」に創造し平和を実現するためです(15)。そして十字架によって神に対する人間の敵意を含む罪は、キリストと共に十字架において処罰される事により(16)、両者は神と和解する道が開かれました。キリストご自身こそ神と人、人と人との間の、神の平和そのもの(14)。ですから18節。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。主イエス様はご自身によって結ばれた異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンを「一人の人(民)」として、まるで花嫁を父親に紹介する花婿の様に、聖なる父なる神様の御前に導きます。罪人は神の前に出るのは不可能ですが、主イエス様の十字架の血潮による贖いのゆえに、聖霊によって、父なる神様の御側に導かれます。それはユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも同じです。

1.神の家族である教会(19節)

ですから、使徒パウロは異邦人クリスチャンたちに言います、こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです(19)過去や信仰歴やこの世の立場・国籍等が違っても、主キリストと信仰によって結ばれる者は、神の国民、神の家族です!神の家族の一員として、父なる神様と神の家族に迎えられます。

2.キリストを礎石とした、神のみ言葉を土台とする教会(2022節)

さらに使徒パウロは建築物にたとえて教会について描きます。教会の土台は20節。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」。教会の土台は「使徒たちと預言者たち」の宣教の内容、すなわち神の御言葉、福音。その中心は、礎石としての、神の御言葉そのものである主イエス・キリストご自身です。試練の嵐が来ても揺るがない土台は、主イエス・キリストご自身とそのお言葉です(マタイ72425)。

21節。「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります」。主イエス様への信仰者は、主イエス様とそのみ言葉の土台に信頼して密着し、支えて頂きながら、イエス・キリストとその御言葉を土台として、信仰者同士、神によって「ともに」組み合わされ、聖なる宮へと、御霊によって「ともに」建て上げられ、成長発展していきます。唯一真の神様はまるで熟練した職人のように、私たちクリスチャンを用いて、神の建築物として、私たちを整え、組合せ、建て上げて下さいます。22節。「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」。そして教会に主ご自身がお住まい下さり、満ちて下さるのです。

(祈り)天の父なる神様。主イエス様を信じる私たちを、主イエス様の命をもって贖い、救い出して下さり、神の家族に迎えて下さり感謝致します。アーメン。


2025年5月17日土曜日

5月18日(日)礼拝動画配信「教会としてきよめられる」 エペソ人への手紙5章25~28節(新約391頁)

 

            
説教要旨

「教会としてきよめられる」エペソ人への手紙5章25~28(新約p391

1.教会をきよめる、主イエス・キリスト (2527)

25節からは夫の責務が示されます。その模範は主イエス・キリスト様です。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(25)イエス様が十字架で身代わりに死ぬほどに教会を愛されたように、命がけの愛をもって夫は自分の妻を愛しなさいとの勧めです。妻の従順は夫の愛によって育まれます(小畑進)。

命をかけてキリストは教会を愛したのです。そして、教会はキリストの花嫁にたとえられています。イエス様が十字架に身代わりに死ぬほどまでの教会を愛したのは2627節にある通りです。すなわち、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(結婚の比喩。1・4)ためです。」(2627)「水の洗い」とは、「バプテスマの比喩であるが、その本質は神への聖別にある」(新実用聖書注解)。すなわち、悔い改めて神に帰り、キリスト信仰によって内的に神の霊的恵みを受ける事によって、聖霊によって霊的に新しく生まれる事です。「聖なるもの、傷のないもの」とは1・4の「御前の聖なる、傷のない者」という事です。これは旧約のいけにえの条件(レビ1,3,10章)でした。完全ないけにえはキリストです(へブル9・14、Ⅰペテロ1・19)。神は私たちを、この完全ないけにえである、キリストに似た者とするために選ばれました(ロマ8・29)。この聖化の思想は更に5・26~27で、「ご自分の前に立たせる」(結婚の比喩)、きよい花嫁なる教会の姿へと展開します(新実用聖書注解)キリストが身代わりに死んだのは、教会を聖別する(ご自分のものとして買戻し、取り戻し、救い出し、ご自分のものとする)ため、です。さらにはご自身のみ言葉(見える神の言葉である洗礼を含む)により、きよめ続けるため。そして、汚れなき、きよく、非難されるところのない栄光の教会をご自分のみそばに置くため、でした。

聖書は私たちをきよめるためのことばです。私達をもっと、主イエス様にふさわしい、主イエス様に喜ばれるものとするための、主のみことばなのです。ご自身の宝物を受け継がせるため、神の形の回復、神の御性質をシェアするため、です。何と愛されている事でしょうか。

キリストは御自身にふさわしい存在とするために教会を選び、召し、救い、整えるのです。それは教会を愛しているからです。ご自分のものとして、さらには「自分自身として」と言っても過言ではないほどに、教会を愛しているからです。そのために、イエス様はこの罪に汚れた世に来られ、全ての人を愛して、身代わりに死なれました。それはイエス様を信じる者を救うため、です。すなわち、教会の救いときよめと贖いの為です。

 

2.教会を愛して養い育てる、主イエス・キリスト(2829

夫が妻を愛するその理由。それは、夫と妻の関係の模範である主イエス様と教会の関係が愛だからです。ですから、夫も妻を自分のからだを愛するように愛するのです。「同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」(2829)

キリストは自分の体のように私たちを愛して癒し、いたわり、救い、永遠のいのちを与えました。ご自分が十字架で死ぬ程にです。教会は何とキリスト様に愛されている幸いな存在でしょうか。なぜ、そこまでして下さるのでしょうか。『私たちはキリストのからだの部分だからです』(30)とあります。だからキリストは教会をご自分のからだとして、愛して養い育てるのです。

キリストは十字架で身代わりに死なれるほどの命がけの愛で私たち教会を愛して、聖なる栄光の存在へと救い、導き、整えて下さいます。私たちはキリストの花嫁なる教会、キリストのからだの一部として、キリストの愛を受け取り、その愛に応答して、主イエス様に信頼し従って参りましょう。イエス・キリスト様は私たちを愛し、寄り添い、守り導き、育てて下さいます。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子イエス様は、花嫁である教会を愛し、きよめ、養い育て、整えて下さる事を感謝します。信じます。アーメン。

2025年5月10日土曜日

5月11日(日)礼拝動画配信「苦難の中でも主に信頼し続けた義母と嫁」ルツ記1章15~18節(旧約472頁)   

 

説教要旨

苦難の中でも主に信頼し続けた義母と嫁ルツ記1章15~18節(新約174頁)

今日は母の日です。義母ナオミを愛した嫁ルツの主への信仰に注目しましょう。

1.暗黒の時代の中で、何気ない庶民の日常の中で進められていた主の計画

「さばきつかさが治めていたころ」(1)。すなわち、旧約聖書の士師記の時代(前12001050年頃と言われている)で、ルツ記の出来事の年代は前1150頃と言われています(鍋谷)。イスラエル民族が政治的、宗教的に混乱していた時期です。しかも、「この地にききんがあった」(1)。食料危機であり、経済的危機です。そういう状況にあったユダの地からイスラエル人の一組の夫婦が二人の息子を連れて避難し、神の約束の地を出て、異教の地モアブに行き滞在しました(1)

夫エリメレク(私の神は王である、の意)、妻ナオミ(楽しみ、快い、の意)、二人の息子はマフロン(病める者の意)とキルヨン(消え失せる者の意)。二人の息子が生まれた時代は、大変な状況だった事が、二人の息子の名前から想像できます。

さばきつかさが治めていた時代、神が王であるのに、イスラエル人は自分たちの良いと思う事を勝手にしていくようになりました。やがて、異教の他国のように、人間の王を求めていくのです。真の王である神に背を向け、神を見失っていたのでした。イスラエル民族は主によって形成されてきたにもかかわらず、です。

国内の混乱、飢饉を見て、二人は神の約束の地を去る判断したのでしょう。しかし、異国の地モアブ滞在中に、夫エリメレクが死亡(3)。その後、二人の息子それぞれにモアブ人の嫁オルパとルツを迎えます。そして10年間、モアブの地に住みました(4)。しかし、二人の息子はその地で死にます(5)。大変な試練にナオミは遭遇するのです。異教の地で夫と二人の息子を失います。大変な状況です。

そんな時、神様がイスラエルを顧みて、食べ物を与えて下さった事を耳にします。暗やみの中の希望の光です。ナオミは神様に身を避けるようにして、二人の嫁を連れて、神様の約束の地ユダの地に帰ります。しかし、ナオミはその帰る途中(7)、この二人のモアブ人の嫁の今後を考えて、モアブの地の自分の家に帰るように言います(8~9)。しかし、二人はナオミと一緒にユダに行こうとします(10)。しかし、ナオミは二人の嫁を説得し、モアブの地に帰らせようとします(1113)。二人は声をあげて泣きます。そして、弟息子キルヨンの嫁オルパ(参照410)は義母と別れて、モアブの地に帰って行きます(14)。

2.嫁ルツの主への信仰と、義母ナオミへの愛(14~17)

しかし、ルツはナオミにすがりつき離れようとしません(14)。帰らせよう(15)とするナオミに、ルツは告白します。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(1617)。何という主なる神への信仰と、義母への愛でしょうか。彼女もまた、義母のナオミを通して、ナオミの信じる神様、すなわち、唯一真の神を信じていたのです。ナオミはルツの固い決心を見て、もうそれ以上は言いませんでした(18)

ナオミが帰って来たのを故郷ベツレヘムの人たちは驚きます(19)。しかし、自分の状態は「マラ(苦しみの意)」であり、「ナオミ(「楽しみ、快いの意」)と呼ばないでくれ、と言います。自分の名前を逆さにするほどに、苦しい状態にナオミはありました。ナオミは、この苦しみの原因は神様にあると言います(2021)。しかし、彼女はそれでも全能の主なる神に信頼します。神様がこの苦しみをも支配しておられる。だから、この苦しみの解決も全能の主の手の中にあるのです。

ちょうど帰った時は大麦の刈り入れの時が始まる時でした(22)。ルツは義母と自分が食べていくために落穂を拾いに出かけます。その時、義母ナオミは「娘よ、行っておいで」(22)と言いました。ここに血のつながりを越えた義母と嫁の関係を見ます。その後、神様は不思議な導きによってルツを親類のボアズという立派な信仰者との出会いと結婚に導き、二人の間には子が与えられ、ナオミはその子を抱き養い育てます(416)。ナオミは大いに慰められ喜ぶのです。ナオミの回復をここに見ます。本人も信じられなかった祝福。さらに祝福は続きます。その子の子孫として、ダビデ王が生まれ、その子孫として、永遠の王、救い主イエス・キリストがお生まれになります。エリメレクの名の通り「私の神は王である」との名前が実現するのです。220節のナオミの信仰が実現します。

神様はご計画をもって、私たちをも導いて下さっています。どんな試練や困難の中でもあきらめずに、主に信頼し、主イエス様を信じて、従っていきましょう。

【祈り】主よ。どんな試練の中でもあなたに信頼して生きていきます。アーメン。                                     



2025年5月3日土曜日

5月4日(日)礼拝動画配信「復活の主イエス様が与えてくださる喜び」ルカの福音書24章44~53節(新約174頁)


 説教要旨「復活の主イエス様が与えてくださる喜び」ルカの福音書244453節(新約174頁)

今週も先週に続いて、復活後のイエス様のお姿に注目しましょう。

復活の主イエス様にペテロが出会い、そして、エマオという村に向かっていた二人の弟子にも復活の主イエス様が出会ってくださった。そのことを弟子たちが集まって話し合っていました。すると、その弟子達の真ん中にイエス様が現れます(36)。イエス様は取り乱す弟子たちに、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(3839と言われます。さらに、復活後の手足をお見せになりました(40)。それでも、うれしさのあまりに、まだ信じられず、不思議がっている弟子たちに、イエス様は焼き魚を食べる様子を見せられ、幽霊ではなく、復活された肉体もったお方であることをお示しになられました。

1.聖書を悟らせるために心を開かれ、教えられる復活の主イエス(44~47

そして、主イエス様は旧約聖書からキリストの十字架と復活について悟らせます。44節。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」。さらにイエス様は聖書を悟らせるために「彼らの心を開いて」(45言われます。4648節。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」と言われました。イエス様の十字架と復活の証人です。

2.聖霊の約束をして、祝福しながら天に上げられた主イエス様(49~53)

 しかし、生まれながらの彼らの力では到底、主の証人、宣教の働きはできない事であることを主はご存知でした。弟子たちの状況の困難さもご存知でした。イエス様の事を伝える力、神様の助けと力が必要であることもイエス様はご存知でした。ですから、イエス様は「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24・49)と言われたのです。この力とは聖霊の力です。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒18

イエス様は十字架で死なれる前にも弟子たちに教えていました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14・16)。これは、後に、エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が降られる事をイエス様はあらかじめ言われておられたのです。

 また、イエス様は言っておられました。ヨハネ1412・・・わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」 。イエス様は今も目には見えなくても生きておられ、子なる神として最高の天の父なる神の右に座しておられる。しかも、世の人々を救うために、今もご自身も働き、弟子たちをこの世に派遣して共に働いておられる。信仰者を通して、教会を通して、さらに大きくこの世の真っただ中において、ご自身の働きを、さらに大きく展開しておられるのです。

主イエス様は復活されました。主イエス様は生きておられます。そして、やがて、弟子たちの前で天にお帰りになられました。その際、イエス様はベタニア(使徒1・12にはオリーブ山とある)の近くに弟子たちを導き、イエス様は弟子たちのために手を挙げて祝福しながら天にお帰りになられました(5051)。

イエス様は大祭司として今も天においてとりなし、祝福して祈って下さっています。だから、いつでも、ご自身によって神に近づく人々を、完全に救って下さいます(へブル4・14~16、7・24~26)。弟子たちと共にいつもいて、見守って下さっています。いつも助けて下さっています(マタイ28・20)。

ですから、復活の主イエス様を信じた弟子たちは非常な喜びを抱いて、エルサレムに帰ります。そして、いつも宮にいて神を賛美しました(52~53)。共におられる主が喜びと賛美を与えて下さったのです。そして約束通り、聖霊を待ち望む弟子たちに聖霊をお与えくださり、イエス様の復活の証人として下さったのです(使徒2章)。イエス様のお働きは今も世界中で展開され続けています。

【祈り】父なる神様。復活の主イエス様を信じて、喜んで、主を賛美します。アーメン。

2025年4月26日土曜日

2025年4月27日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「あなたを愛して寄り添って下さる神、イエス様」ルカの福音書24章13~32節(新約172頁~)

 

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説教要旨

「あなたを愛して寄り添って下さる神、イエス様」ルカの福音書241332節(新約172頁~)

先週はイエス様のご復活を記念するイースター(復活祭)でした。今朝はその続きを見ましょう。十字架で死んで三日目に復活されたイエス様が顕現されます。

1. 信仰が弱っている者とも共に歩んで下さる主イエス様(1316)

イエス様が十字架で死なれた金曜日の三日後の日曜日の事。イエス様の二人の弟子がエルサレムから11km離れたエマオ村に向かってとぼとぼと歩いていました。二人は女弟子達が知らせた、イエス様のご遺体のない空っぽの墓、イエス様が復活したとの天使のお告げ、について納得できず、その事を真剣に議論し苦悩していました。すると15節。いつの間にか主イエス様が二人の話を共に歩きながらじっと聴いていました。二人の肉眼はイエス様を見ていました。しかし弟子達は気づきません(16)。現に彼らはこの後イエス様と話しています。問題は彼らの信仰の目がふさがれていた事です。それゆえイエス様のみ言葉を忘れ、信じず、霊的暗黒の中でもがいていたのです。そんな彼らと共に主は歩きます。イエス様は私たちの信仰が鈍り、共にいて下さるイエス様に気づかない時も、変わらない愛をもって共に歩んで下さいます!またイエス様は私たちの話、議論を、全て聞いておられる。イエス様は私たちの心もすべて見通しておられる神様です。

 

2. あなたの心を受けとめつつ、愛をもって真理をお語り下さるイエス様(1732

するとイエス様は二人に言いました。「その話は何のことですか?」(17。弟子達は復活のイエス様に気づかず暗い悲しい顔でした。一人が答えました。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(19~24)。するとイエス様は彼らの話をじっと聞いた後に言いました。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」(2526)。それから旧約聖書の預言からキリストについて、すなわち御自身の事について説明します(27)。二人の弟子はその話を聞いて不思議と心が熱くなります(32)。彼らの、復活の主イエスを信じる妨げ、障壁となっていた誤りが、主イエスとの対話の中で、主のみ言葉によって、解消されていったのです。

その二人の弟子の問題は、主イエス様から教えられていた教えの一部分しか信じていなかった事です。それゆえイエス様の十字架と復活に躓いたのです。キリストがなぜローマ帝国に死刑にされるのか、と。しかし二人はイエス様の聖書の解き明かしを聴いているうちに、さらに話を聞きたいと思ったのでしょう。その人に言いました。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(29。そして3人で食事をします。すると先ほどの人がパンをもって神様にお祈りしてから、パンを分けて二人に渡したその時、二人は気づきます。「イエス様だ!」。するとイエス様は彼らには見えなくなりました(31)。イエス様はこの二人の弟子に、イエス様が復活して生きておられる、という事を教えるために現れて下さったのです。彼らはついに復活の主を信じます。

二人の弟子は話し合いました。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32。彼らはイエス様のお話をいつも聴いていたので、イエス様のお話でいつも心が熱くなっていた事を思い出したのです。

イエス様の話を聴いていると神様の愛、希望、信頼が心にわいてくるのです。この時、彼らの心にも力がわいてきたのです。それは今日も同様です(ローマ5・1~5)。私達が愛の冷えた世の罪の影響や自分の罪のために信仰の火が下火になり冷たくなっていても、復活の主イエス様のみ言葉に聴き、主イエス様と交わる時、私たちの信仰と愛と希望の炎が復興するのです。主に聴き続けましょう。

【祈り】復活の主イエス様。あなたは生きておられ、私たちの信仰が下火になっているような時も共に寄り添い、回復に導いて下さり、感謝致します。アーメン。


2025年4月19日土曜日

2025年4月20日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「復活されたイエス・キリスト」ルカの福音書24章1~12節(新約172頁)


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説教要旨「復活されたイエス・キリスト」ルカの福音書24章1~12節(新約172)

今日は教会の暦ではイースター、キリストの復活祭です。先週は十字架で全人類の罪を背負い身代わりに死なれたイエス様のみ言葉に学びました(ルカ23・43)。その後、イエス様は十字架上で息を引き取られました。アリマタヤのヨセフという金持ち(マタイ2757)の議員で、正しい人(50)が、イエス様のご遺体を引き取って、まだ誰も葬ったことのない墓に納めました(53)。その納められる様子をイエス様について来ていた女性の弟子達は見届けていました(55)。それが金曜日の日没頃でした。女性たちは香料と香油を準備して葬りに備えました。金曜日の日没から土曜の日没まで安息日なので戒めに従って休みました。この間は安息日なので死体に触れることができなかったのです。また安息日が土曜の日没に終わった後は暗いので、女性が外を出歩き、真っ暗な墓に行くのは危険でした。それで女性たちが精一杯、早く行ったのが、安息日が終わった翌日の明け方の日曜日の早朝だったのです。その間イエス様のご遺体は土、日と墓に安置されたのです。

 

1.復活したイエス様を見失った女弟子たち(1節~4節前半)

241節。「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た」とあります。十字架からイエス様のご遺体が取り降ろされて、墓に収められた時には、金曜日の日没が迫り、もう安息日が始まる頃だったので、略式の埋葬しかできませんでした。なので、彼女たちは改めて正式な葬りを行う為に、愛するイエス様の墓に来たのでした。金曜日を含めて金、土、日の、三日後の日曜日の明け方早くに駆けつけました(241)。

しかし墓に来てみると、2節。「見ると、石が墓からわきに転がされていた」のです。当時の墓は横穴に大きな石をごろりとフタをした形の墓でした。しかしそのフタの石がわきに転がしてありました。これは天使によるものでした(マタイ282)。そしてルカ24章3節。「そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった」のです。4節では「そのため途方に暮れていると」とあります。「途方にくれる」という言葉は「とまどい」とも訳されます。それはイエス様が葬られた墓に、イエス様のご遺体を求めて来たのに、無かったからです。

2.約束通り復活されたイエス・キリスト(4節後半~12節)

すると4節後半。「見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。」とあります。二人の天使が彼女たちの近くに来たのです。彼女たちは「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」5ます。すると天使たちはこう言いました。5節後半~6節。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」。重要な出来事の証人として、神によって遣わされた天使は二人であった事が示されています。イエス様のご遺体が無いのは、天使が証言するように、死から復活して生きておられるからです。

さらに天使たちは言います。6節後半~7節。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と。彼女たちはイエス様を敬愛し慕うからこそ、イエス様の死を心から悲しみ嘆きました。しかしイエス様が殺される事だけでなく、三日目に復活するというイエス様の約束(ルカ9・22、マタイ27・63)を忘れていた、又は確信していなかったのです。

しかし主イエス様のみ言葉を伝えられて、8節。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」。彼女たちの信仰がイエス様のみことばを聴く事から、回復に導かれます(ローマ1017)。それは天使を通してでしたが、イエス様のみ言葉を思い起こす事によったのです。また復活の主イエスにその後お会いします(マタイ28910)。彼女達は他の男の弟子たちにイエス様の復活を知らせます。

ところが11節。「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」とあります。当時の女性の証言は重んじられていなかった事もあったでしょう。また、主イエスの十字架の死があまりの事だったので、そこからの復活という事が信じられなかったのかもしれません。しかし彼女たちの証は無駄に終わりません。12節。「しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った」とあります。彼女たちの精一杯の証は、三度、主イエス様を知らないと否んだ使徒ペテロを立ち上がらせました。やがてペテロも復活の主イエス様に出会い、復活の主イエス様を証言するようになります。(祈り)天の神様。イエス様は十字架で死んで復活した事を信じます。アーメン。


2025年4月12日土曜日

2025年4月13日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「絶望的な状況でもイエス様に希望がある」 ルカの福音書23章39~43節(新約171頁)

 

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「絶望的な状況でもイエス様に希望がある」ルカの福音書23章3943節(新約171)

今日から教会暦では受難週に入ります。今年は4月20日がイースター。イエス様の御受難を覚えつつ、十字架の主イエス様を信じて救われた原点を覚え、この十字架の主イエス様を信じる者は救われる事を信じて、お伝えしましょう。

先週は、イエス様が十字架につけられているにもかかわらず、十字架上の第1言、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23・34)ととりなし、祈られたところから学びました。今日はその続きです。十字架上の第2言は、信仰者への救いの確約でした。

1.主イエス様の左右に十字架につけられた犯罪人(39~42)

イエス様を中央にして、左右に犯罪人(強盗。マタイ273844参照)たちが十字架につけられました。最初、この二人の犯罪人たちは、周りの人々と共に、イエス様をののしっていました(マタイ2744)。

39節。『十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。』。イエス様をキリストと信じていない者の皮肉です。同時に、誘惑でもありました。十字架の上で、悪魔に用いられて、イエス様に皮肉を放ち、十字架から降りるように誘惑する犯罪人の悪口が浴びせかけられる中で奇跡が起こりました。十字架にはりつけにされているイエス様のそのとなりで、同じく十字架にはりつけにされ、苦しんでいるもう一人の犯罪人が悔い改めたのです。4041節。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」』。

このもう一人の犯罪人は、①神様を信じ、神様の前に恐れをもっていました。そして、②この神様の前に、自分の罪を認めていました。そして、③イエス様が何の悪いこともしなかった、無罪のお方であることを告白するのです。そして、このイエス様は、本当に救い主、キリストであることを信じるのです。そして、その十字架刑の苦しみの最中、まさに、死の直前に、イエス様に告白します。42節。そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』。この点、「その強盗は、もう数時間しか生きられないことを知っていたので、この祈りには、イエスが御国で彼を受け入れてくださる未来の状態に対する信仰が含まれている。」(プランマ―、ウェスレアン聖書注解)と解説されています。

2.絶望と孤独の中で見出した、イエス様にある救いの確約と希望 (43)

イエス様の口からは、犯罪人にとって、息も止まるような驚くべき言葉が出てきました。イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」。十字架上の第2言。「今日」というのは「メシヤとの出会いによって生まれる決定的出来事を表すルカ的用語(2・11)」(熊谷、新実用聖書注解)と解説されています。「この約束には、人の死後も意識は継続することが含まれている。…」(プランマ―、同上)。ここでの「パラダイス」とは「新約聖書においては、この語は、正しい者が死後住むところを指していると思われる」(ウェスレアン聖書注解p355)。この点、「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある」(黙示27、参照・黙示録22・1~5、創世記29とあります。これらから「パラダイス」とは、イエス・キリストを信じる者が死後に入る、神と共に住む天国を表しています。なお、「パラダイスにいます」の「います」は未来形です。神の言葉は必ずその通りになる。この主イエス様から、このように語られ、受け入れられた十字架の強盗は、罪を赦され、義と認められ、神に受け入れられ、神の国に入り、神との親しい交わりにあずかるものとされた。彼は永遠のいのちを得たのです。だから、死後に住むパラダイス、天国の前味を、すでに、この地上でも味わいながら、死後に住むパラダイス、天国にまもなく死後、入る。彼にとって「死」はパラダイスに入る時(未来)となったのです。

彼は、悔い改めてイエス様(福音)を信じた事で、人生が大逆転した。死後にパラダイスに入る希望を得、現在はイエス様と近しい親しいものとされ、孤独と絶望から解放された。隣ではイエス様が共に苦難を担って下さっている。そして、この強盗は、自分では全く気が付いていないけれども、今なお、世界中で、ただ恵みによって、イエス様を信じて救われる事の有名な実例となりました。

(祈り)天の父なる神様。イエス様を信じる人は死後パラダイスに入り、この世でもイエス様と共に、神のご支配の中、生きていける事を感謝します。アーメン。


2025年4月5日土曜日

2025年4月6日(日)第一礼拝動画配信「主イエス様のとりなしの祈り」 ルカの福音書23章32~38節(新約170頁)

 

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「主イエス様のとりなしの祈り」ルカの福音書23章32~38節(新約170)

本日は教会役員任命式が礼拝の中で執り行われます。続いて、教会役員の為にお祈りをお願い致します。今朝は、受難節に入ったこの時期に、イエス様の御受難を覚えつつ、イエス様と共に、キリストの弟子として生きる上で欠かせない「赦し」、他者を愛していくために必要な「とりなしの祈り」について見ましょう。

1.全き愛に生き、全人類の救いの為に奔走されたイエス様になされた仕打ち

主イエス様が十字架にかけられる際、他にも二人の犯罪人が、イエス様と共に死刑にされるために引かれます(32)。「どくろ」(ラテン語でゴルゴダ)と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエス様と犯罪人とを十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に(33)。イエス様は何の悪いこともしていないのに、むしろ全き愛に生きられたのに、犯罪者に挟まれる形で、その真ん中に十字架の上にはりつけにされたのです。全人類の救い主を、イエス様を信じない人々は十字架にくぎ付けにし、極悪人に仕立てたのです。主イエス様は人々の救いの為に奔走し、尽くされたのに、人々はイエス様を十字架に追いやります。

2.敵をも愛してとりなし祈る、主イエス様の愛(34)

しかし、イエス様はそれでも自分を殺す者をも愛され祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34)。イエス様は、このような驚くべき、敵をも愛する愛をもって、とりなしの祈りをされたのです。

その後、イエス様を十字架につける人々はくじを引いて、イエスの着物を分けました(34)。イエス様は何も着るものがありませんでした。民衆はそばに立ってながめていました。指導者たちもあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」(35。兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出します(36)。そして、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです(37)。

しかし、イエス様はそれらの愚弄、挑発を受けているのにもかかわらず、十字架から降りませんでした。降りることができなかったのではありません。降りようと思えば降りることがおできになるのですが、決して降りようとはされなかった。なぜなら、イエス様は、この時、全人類を罪と罪の刑罰である地獄から救うために、全人類の罪を身代わりに背負って、父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受けておられたからです。それによって、イエス様を信じる者を救うためです。ここにもご自分の敵たちのために身代わりに死ぬ愛が示されます。

悪魔は罪人をあおって、イエス様を必死に挑発し、必死に十字架からおろそうと働きかけましたが、イエス様は決して挑発に乗らず、十字架にはりつけにされたままとなってくださったのです。イエス様が十字架から降りなかったから、主イエス様を信じる私たちは救われるのです。十字架の死は失敗ではなく成功です。

さて、「これはユダヤ人の王」と書いた札も十字架の主イエスの頭上に掲げてありました(38)。これはピラトが書いた罪状書きです。イエス様がローマ総督ピラトの尋問を受けられた時(マタイ27・1114)、ピラトが「あなたはユダヤ人の王ですか」(11と問うと、イエス様は「そのとおりです」と言われました。ピラトは、イエス様は死刑になるような罪を犯しておらず、祭司長、長老たちがねたみのために、イエス様を引き渡してきたことを見抜いていました。

祭司長たちはこのピラトの書いた罪状書きを見て、「ユダヤ人の王と自称していた、と書いてくれ」と要求しますが(ヨハネ1921)、ピラトはそれを許さず、このように書かせました(ヨハネ19・22)。この看板の通り、イエス様はまことのユダヤ人の王でした。さらに言えば、神の国の王、天国の王、永遠の王、天地万物の主なる神、救い主なのです。しかし、民はユダヤ人の真の王であられる、イスラエルの主なる神を拒んで、信じ受け入れずに、十字架の死刑に処したのです。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。主イエス・キリスト様を信じないユダヤ人たちは、イエス様が真のユダヤ人の王である、と正直に言われた事を、偽りとして訴えて、それを罪状としたのです。罪人の愚かさの暴露です。

ここに記されている人間の罪は、私たちの内にある罪の性質でもあります。人間の罪が、イエス様を十字架につけたのです。しかし、イエス様は、そんな罪人たちを愛されました。その証拠に、イエス様は、十字架上で、人類の赦しを、とりなし、祈られました。そして人類の為に、身代わりに死んでくださいました。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子、主イエス様が罪人である私たちのために、十字架でとりなし祈り、身代わりに死んで下さった事を感謝致します。