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2025年3月8日土曜日

3月9日(日)礼拝動画配信 ルカの福音書15章11~24節(新約149~150頁) 「救い、回復せずにはおれない父なる神の愛」 

 

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救い、回復せずにはおれない父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

1.イエス様のたとえ話(15110

ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。律法学者、パリサイ人と呼ばれる当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は①100匹の羊と羊飼いのたとえ、②10枚の銀貨と婦人のたとえ、そして、③二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。有名な「放蕩息子」のたとえ話です。このようなお話です。

2.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、この人は幸いにも本心に立ち帰りました。1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、その息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕したことでしょう。そして父に言おうと思っていた事を父に言います。21節。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』…。そして、息子が雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。

「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在そのものを無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛してくださっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改め)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらうのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただけます。それにより、神に義と認められ、神に受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛かと思うのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が、うまくいっていてもそうでなくても、私という存在を常に最高に愛し続けてくださっていることを感謝致します。アーメン。


2025年3月1日土曜日

2025年3月2日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「雅歌に見る、主イエス様の愛」( 雅歌8章6~7節 )(旧約1165頁)

 

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「雅歌に見る、主イエス様の愛」雅歌8章6~7節(旧約1165頁)

 今日は旧約聖書の『雅歌』から、主イエス様の愛について見て参りたいと思います。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によると、『雅歌』はヘブル語での書名は「歌の(中の)歌」、「最高の歌」を意味します。なお「雅歌」という呼び名は漢訳聖書から来ているとの事です。さて、一章の表題には「ソロモンの雅歌」とあります。『雅歌』はダビデ王の子ソロモン王の残した愛の歌であります。

1.     背景

雅歌を読んでいると、「どの言葉を誰が語っているのか」また「その意味するところは何か」を考えさせられます。この点、E・J・ヤングは「これは人間的愛の純潔を語っているばかりではなく、これが正典に編入されている事実そのものから、我々の愛よりも純潔な愛を、我々に思いおこさしめる」と述べています。さらには「雅歌」は「われらの目を、たしかにキリストに向けさせる」とも述べています(同上書「雅歌」)。また、鎌野直人師はこの雅歌について、「…おとめとエルサレム神殿の結びつきがそこここに描かれていることから考えると、この愛の歌は、実際には比喩的に主とイスラエルの結びつき、そして主の都エルサレムやそこにある神殿と民の結びつきを歌ったものであるとも考えられます。もしそうであるとしたら、イスラエルの間に住むことによって、イスラエルを通して諸国に祝福を注ごうと願う主の姿が雅歌に描かれていると理解することも可能です」(『旧約聖書ガイドブック』、「雅歌」p210)と述べています。

神の民イスラエルの民を愛してやまない主なる神。その関係が、この雅歌の男女の愛に現されている。そしてこの関係は新約聖書における、教会と主イエス様の関係と二重写しとなります。さらには、この主イエス様と教会の愛の関係は、夫婦の関係の模範としても適用されます(エペソ5章参照)。この『雅歌』が、神様との関係抜きで生きる空しさからの悔い改め(方向転換)を教える『伝道者の書』の後にあり、また、夫を裏切る妻の様になってしまった神の民イスラエルと、それでもその神の民イスラエルを愛する、良き夫の様な主なる神の愛の姿が描かれる、「預言書」の前に雅歌がある事も意義深くつながります。主なる神と神の民イスラエルの愛し合う姿、さらには、主なる神と神に造られたすべての人間とが愛し合う本来の姿を、この「雅歌」という愛の歌に見ます。

2.雅歌に見る、主イエス様の私たちへの永遠の愛(8・6,7)

7章までを見ると、お互いに愛し合い慕い合いながらも、5章以降、二人は離れ離れになってしまっていました。しかし、この7章で再び出会い、お互いの距離が解消しています。特に、その事が711節の個所の、「さあ」との呼びかけと、「私たちは」との言葉から、わかります。それに、その後、8章5節でも「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上ってくる女の人はだれでしょう」。と二人を見た人たちは言っています。二人は再び一緒になれたのでした。この場面では、二人は、「荒野」(8・5)に一緒にいます。しかし、愛し合う者同士が一緒なら、たとい、そこがどんな環境であっても、「荒野」(5)であっても幸せなのです。私たちも愛する主が一緒なら、いつでもどこでも幸せです。 

再会を果たし、再び一緒になれた、神の民を表す女性は、主なる神を表す男性に次のように述べています。今日の中心個所です。867節。

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません」。(6,7節)

この言葉には、神の民(イスラエル民族、さらにはキリスト教会)を示しているこの女性の、主なる神様を表す男性からもう離れたくない心が表れています。この点、沢村五郎師は「これは常に心に刻み込んで記念していただきたいという願いです」と述べ、また「イエスさまは、永遠にみ手に傷を受けておられます。・・・主は永遠のみ座にあっても傷が残っています。それは私たちへの愛のしるしです。それを見ると、私のために命を捨ててくださった主のご愛を忘れることは決してできません」(『雅歌講話 聖なる愛の歌』p157)、と復活してなお残る、主イエス様の十字架の傷跡について述べています(ヨハネ2027参照)。栄光の復活体で復活されたのにあえて十字架の傷跡を一部残されたのは、私達への永遠の愛の印をご自分に刻印されたからだと信じます。神の永遠の最高の愛で愛され、主と愛し合って生きる!この事がどれほど私達を力強く生きる者とする事でしょう(ローマ8・35~39)!いつも主との愛の交わりで更に強くされましょう!

【祈り】主よ。何ものも主の永遠のご愛から私達を引き離せません!アーメン。



2025年2月22日土曜日

2025年2月23日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「キリスト信仰者の良い実を結ぶ実際生活」(ガラテヤ5・16~26)(新約382頁)

 

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キリスト信仰者の良い実を結ぶ実際生活(ガラテヤ51626)(新約382)

 今朝はイエス様を信じて救われた人の歩み(生活)の実践、実際について学び、確認しましょう。それは、神の言葉(聖書)と神の霊(聖霊)に従う生活です。

1.あらすじと背景

誤った教えに翻弄され、ユダヤ人の様に律法を自分で行う事で救われよう(ユダヤ主義)としていたガラテヤ諸教会(169)。使徒パウロは、神のしもべとして、その誤りを正します(11012)。生粋のユダヤ人で熱心なユダヤ教徒だったパウロですら律法を行う事によってではなく、イエス・キリスト信仰によって義と認められると知り、パウロもイエス・キリストを信じました(21516)。さらにキリストが私(パウロ)の身代わりに十字架で処刑された事。だから私(パウロ)も共に律法に基づき処刑されたのだ(1819)、と続けます。これは罪人が完全に正しい神と共に生きるためでした。しかし、その罪人が受けるべき処罰を、神の独り子イエス・キリストが十字架で身代わりに受けて下さいました。だからこそ219、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」とパウロは続けます。キリストとはメシア(油注がれた者)の事です。旧約聖書にて、王(統治)・大祭司(仲保)・預言者(指導)の三職(任職時に油注ぎ)を兼ねて成就する存在です。そのようなメシア、救い主をユダヤ人達は待ち望んでおりました。そのメシア、キリストがついに来られたのがイエス様なのです。このお方がイエス・キリストを信じて受け入れる者の心に生きて下さいます(20)。しかもキリスト様は「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子」(20)です。ゆえに、パウロは「私は神の恵みを無駄にしません」(21と記します。

ですから使徒パウロは、偽りの教えに騙されて、ユダヤ教に改宗する事で救われようとしていたガラテヤ教会の人々に愕然としつつ(3・1~4)、「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。」(35と迫ります。もちろん、イエス・キリストの福音を信じたから、神の約束の聖霊を受けた事をユダヤ人の信仰の父祖アブラハムの話をもって説明します(3・5~14)。

2.聖霊と聖書(神の言)に教え導かれて、良い実を結ぶ生涯(51626

イエス様を信じて結ばれて約束の聖霊を受けた信仰者に、使徒パウロは、キリストにある真の自由に留まり、再び偽りの教え等の奴隷にならないように命じます(5・1)。律法を行う事では救われない事(5・2~4)、聖霊によって、信仰によって(現在と共に、最終的にも)義とされる望みを持っている事(5・5)、大事なのは「愛によって働く信仰」と示します(5・6)。そしてそのキリストを信じて救われ、罪の奴隷から解放された自由を、再び「肉」(ここでは「神から離れた人間存在」、「罪の奴隷となり、本能的欲望のままに生きる人間」の意味)の働く機会とせず、愛をもって互いに仕え合うように命じます(13)。それは律法全体を通して神が示した事です(14)。「肉」は聖霊に反抗します(17)。その処方箋は16節で「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」、と聖霊により導かれて生活し続ける事だと教えます。

御霊は神の御心のままに生きるように導きます。肉と聖霊に同時には従えません。どちらかです。肉のわざは具体的に1921節。神の国は神の恵みの支配。神の国の王はイエス・キリスト。このお方を主として王として信頼し明け渡し従って生きる、すなわち御霊によって歩む時、その結実は2223節。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。これらは神の聖なる御性質の現われで、神の聖なる律法も反対せず、むしろ承認します(23)。

そのように聖霊に導かれるなら同時に24節。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」。「キリスト・イエスにつく者」とは「キリスト・イエスのもの」という意味。キリストの十字架での贖いにより、キリスト信仰者はキリストと結ばれ、聖霊を受けて、聖霊に導かれて生きる「キリストのもの」となりました。ですからその事を信じて、私は自分の「肉」(神から離れていた自分)を、諸々の悪欲(1921)と共に「十字架につけたのです」と、主のお言葉ですから、私達も信じて、主に明け渡しましょう。

そして更に聖霊に導かれ、キリストに全く信頼し、明け渡してお従いし、聖書のみ言葉に従って前進して参りましょう(2526)。聖書は聖霊に導かれて書かれました。聖書と聖霊は矛盾せず一致して、私たちに神の御心を教え導きます。

【祈り】父なる神様。私達の生活に御霊の実を豊かに結ばせて下さい!アーメン。



2025年2月8日土曜日

2月9日(日)午前9時半~ 礼拝動画配信「主イエス様への信仰によって」ローマ4章18節~5章2節(新約112~113頁)

 


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「主イエス様への信仰によって」ローマ4章18節~5章2節(新約112113)

今朝は主への信仰によって救われた、救われている、という事について見ていきましょう。ローマにいる信徒への使徒パウロの手紙です。イエス・キリストの福音はすべての主イエス様を信じる人に罪とその結果からの救いをもたらすことのできる神の力であることを示します。罪とは、神への不信仰、不従順(不敬虔1・18)からくるあらゆる不正、悪です。それは全人類に蔓延しており、異邦人に神の戒めを教えようとしているユダヤ人も例外ではない、と示します。人は誰も自分の行いでは救われない。だからこそ、救い主イエス様、福音が神から与えられた事を、32124節において示します。神の義を受け取るための唯一の条件は主イエス・キリストを信じる信仰です。

1.信仰の父アブラハムの主への信仰(ローマ4・18~19)

418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』とあります。これはアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている唯一まことの神様を信じ、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)が、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。しかし、アブラムは神と神の約束の御言葉を信頼し続けます。すなわち、19節。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした」。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。『不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。

2.私たちも主を信じ救われて、神との平和に生きる(ローマ4・23~5・2)

 これはアブラハムだけの事ではありません。ローマ4・23~24。『しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。』。私たちがアブラハムのように信仰によって救われ、信仰によって歩み、神の栄光をもう一度現す存在へと回復されるために、神はイエス・キリストを遣わされ、十字架で身代わりに死ぬことを許されたのです25節。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。とある通りです。

そして、イエス・キリストを信じて、罪が赦され、義と認められる(無罪とされる)。罪の奴隷から解放され、愛と恵みの主人であるキリストのもの、神のものとされる。さらにはローマ5・1,2。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。

主イエス・キリストを通して、神様との平和(ヘブル語のシャローム。神の命、祝福、幸いの満ち溢れる状態)の関係が回復します。死んで天国に上げられる前から、この世において、神様との平和な関係がスタートするのです。イエス・キリストを信頼し、信仰している者は、罪が赦され、義と認められた、のです。だから、神との平和の関係を持つことができ、保たれる、のです。

赦すという事がどれほど困難か、という事を私は痛感します。ましてや、イエス様を信じる者の罪を、すべて赦し、きよめる贖いを用意をして、愛するとは、なんという途方もない愛と赦し、恵み、でしょうか。主イエスを信じる者を義とする、すなわち無罪とし、イエス様のように見て、迎え、ご自分の永遠のいのちの交わりに迎えて、与らせるとは何という愛でしょうか。この神の愛、この神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらう、この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛か、と思うのです。それは、キリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです(ルカ15章)。

【祈り】天の父なる神様。私もアブラハムのように絶望的と思えてしまう状況の中でも、それでも、あなたに信仰の目を上げて信頼し続けます。アーメン。

      


2025年2月1日土曜日

2月2日(日)午前9時半~ 礼拝動画配信

 




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【説教要旨】「神の揺るがない愛」イザヤ書431~7(旧約12371238)  

 私たちは、時に、神の愛が実感できないような時や、自分で自分を価値ある存在とは思えない時があるかもしれません。しかし、神からの愛は揺るぎません。今朝は、その事を神様のお言葉、聖書から、確認、確信しましょう。

1あなたは神に造られ、神に愛された、神のもの(1)

1節。だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。とあります。「主」とは、聖書において「はじめに神が天と地を創造された」(創世記11)と記されている、唯一まことの創造主なる神の事です。旧約聖書の創世記にて、イスラエル民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブ(別名;イスラエル)、…と、イスラエル民族、イスラエル王国を奇跡的に創り出し、形成し、保ってこられたお方です。高齢でありながら、子どもがいなかった父祖アブラハムとサラの間に、奇跡的に二人の実の子イサクを生まれさせ、その子から子々孫々が生まれ、イスラエル民族が形成されたのです。

途中、様々な危機がありましたが、神が救い、守り、導き、保って、増やしてくださったのです。まさに神が、息子娘を愛して育てるようにイスラエルを形成します。17節では何度も「私があなたを造った」という神様の切なる愛が記されています。その創造の目的は神の栄光の為です(7)。

さらに、神はイスラエルに言われます。1節後半。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」ここに出て来る、「贖った」という言葉は「買い戻す」という言葉です。ここでの「贖った」は、かつてエジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を救い出した、という意味で用いています。神の力という代価を払ってイスラエルを救い出したという事です。神ご自身が贖い主で、イスラエルをエジプトの奴隷状態から買い戻された(出エジプト)、ご主人様なのです。そして贖ったお方は慈しみ深い、愛のご主人です。だから、「わたしがあなたを贖った」から「恐れるな」です。そしてわたしはあなたの名を呼んだ。奴隷にとって自分の主人がどのような者であるか、自分が誰の所有になるのか、は大きな事でしょう(奴隷制を是認するわけではありません)。主はイスラエルの名前を呼んで贖い出し、人格を愛し尊んで下さるお方なのです。なぜなら神様は愛そのもののお方だからです。しかも、このお方はイスラエルを贖っただけでなく、創造主であり、イスラエルを愛してやまない「生みの親」、「父なる神」(ルカ151124)なのです。この事は、イスラエル民族だけにではなく、私たち、全人類に当てはまります。

聖書を読むと、創造主なる神は、全人類の創造者、生みの親、父なる神なのです。そして、全ての人が救われる事を願っておられます(Ⅰテモテ24。また「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316とあります。父なる神は、神の御子であり神であるイエス・キリスト様をこの世に送られました(クリスマスの意味)。そして、イエス様は、私たち全ての人の罪を身代わりに背負い、十字架で身代わりに死んで下さいました。これが全人類の為に父なる神が用意した「贖い」のための代価です。

その贖いの代価は、神の独り子の命です。父なる神はそれ程、全ての人間一人一人をもれなく最高に愛しておられます!そして、神は私たち一人一人の名を呼んでおられます。そして「あなたは、わたしのもの」と宣言しておられるのです。私たちは「何を所有しているのか」という事よりも、「誰のものなのか」という事を忘れてはなりません。私たちはもれなく「神のもの」です。どんな試練の中でも、神は「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」(5と約束しておられます。試練がどんなに大きくても、たとい死に直面する事があっても、それらよりも、さらに大いなる主は信仰者と共にいて守る事ができます(詩篇23篇)。

2..神の目にあなたは高価で尊い~私たちが神に愛されている理由~(4

この時のイスラエルは神の民としてふさわしくない罪深い状態になっていました。それでも神は愛しているのです。4節に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。とある通りです。これはどこまでも神の一方的な御愛、ご好意、恵みのゆえです。一方的に神がイスラエルを愛し、そして神は全人類を愛しておられます。それは神の独り子なる神、イエス・キリスト様の命を代価としてまで、あなたを滅びから救い、神ご自身の永遠の命を与えるほどの、はてしない愛、最高の愛なのです(ヨハネ316、ガラテヤ220

【祈り】父なる神様。たとい、私があなたの愛がわからず、実感できないような時でも、あなたの愛は揺るがず、私に注ぎ続けられている事を信じて感謝します。


2025年1月25日土曜日

1月26日(日)第一礼拝動画配信

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説教要旨「主イエス様から信仰の目を離さない」ルカ24152(新約112113)

1.主イエス様を見失った、敬虔な信仰者ヨセフとマリア(4149

イエス様の両親はユダヤ三大祭りの過越の祭りには毎年エルサレムに行きました(41)。イエス様が十二歳になられた時も、イエス様の両親は祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから帰路につきました(4243)。しかし少年イエスはエルサレムにとどまっておられたのです。両親はこの時それに気づかず主イエス様を見失ったのです。両親は少年イエスが自分たち一行の中に一緒についてきているものと思って一日の道のり(数十キロ)を行きました。それから少年イエスが見つからなかったので、少年イエスを捜しながらエルサレムまで引き返したのです。そして三日の後に少年イエスが神殿で、旧約聖書の教師たちの真中にすわって話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました(46)。その時、人々は少年イエスの知恵と答えに驚いていたのです(47)。

両親はそんな少年イエスを見て驚き、母マリアは少年イエスに言いました。どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」(48。両親は本当に心配していたのです。するとイエス様は両親に言われました。どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49。イエス様はここで神を自分の父と呼ぶ事でご自身を「神の子」と宣言されたのです。イエス様と父なる神は一体なのです。しかし両親にはイエス様の話された言葉が「理解できなかった」50)。この「理解」という言葉は元々、「合わせる」という意味で、新しい事柄をすでに知っている事柄と合わせて考え理解するという意味です。イエス様の両親はこれまで自分たちに起こった様々な事と、今回のイエス様のお言葉とを合わせて考えることができませんでした。両親は受胎告知の時の天使ガブリエルの言葉(ルカ1313335)や、ヨセフへの天使の言葉(12023)等(21012202832)を合わせて考えるなら、イエス様は神の子であり、神殿はイエス様の父の家である事を理解できたでしょう。

しかし両親はいつの間にか、毎年の祭りの慣習や行き交う人の流れに流されるように、この世に流されたのでしょうか。過ぎ越しの祭りの中心人物であられる神の御子、主キリスト・イエス様を見失ってしまったのです。思慮深い模範的なマリアとヨセフでさえこのような誤りに陥りました。

私たちも、信仰生活に慣れて来る中で、教会生活や諸行事、日々の忙しさの中で、世の中の流れ等で、いつの間にか生ける真の神、主イエス様を心が見失う事のないように、信仰心を主イエス様に向けていきましょう(へブル12・2)。

 

2.両親と一緒にナザレに下られた主イエス様(5152

さて、「神の子」の自覚を持ち、両親にも現わされた主イエス様ですが、その歩みは終始一貫、謙遜でした。51節。それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。神の子であり神であられるお方が、父なる神の家である神殿を離れ、弱さや足らなさもあったヨセフとマリアと一緒に、小さな町ナザレに下ってゆかれ、両親に仕えられたところに、神の子イエス様のへりくだりが現れています。

聖書は親を愛し敬う事を命じています。その人には神様の豊かな祝福がある事が約束されています(エペソ623)。ここで、主イエス様が親を敬う事の模範を示して下さっています。母マリアは敬虔な信仰者でした(ルカ1・26~56)。父ヨセフも御言葉に信頼し神に従順に従う信仰者でした。しかし二人とも神ご自身であられるイエス様から見れば、弱さ、足らなさ、罪のある人間でした。しかし、主イエス様は弱さや罪のある両親を愛し敬い、お仕えになられました。

そしてイエス様は神ご自身でありますが、人として健全に成長し、知恵が増し加わり、背たけも大きくなり、神と人とにいつくしまれたのです(52)。

私たちも主イエス様に倣いたいと思います。両親との関係は最初の人間関係です。父なる神を第一にしつつ、罪を犯すことはしないで、弱さや罪ある両親にも謙遜にお仕えするならば、他の人間関係でも謙遜にお仕えしていくようになります。主イエス様に信頼し倣いつつ、神に第一にお従いしつつ、両親や隣人に謙遜にお仕えしましょう。そのように、父なる神に信頼して第一に従いつつ、弱さや足らなさもある両親や隣人に、愛と謙遜をもってお仕えしていく中で、人として健全に成長し、知恵が増し加わり、神と人とに喜ばれるのです。

【祈り】天の父なる神様。世の生活の中でいつの間にか、主イエス様とその素晴らしさについて、心が見失ったりしませんようにお守り下さい。アーメン。

2025年1月20日月曜日

1月19日(日)第一礼拝録画配信

 

                               ↗途中で回線不調の為、途切れました。

            続きは、予備回線↙にてご視聴をお願い致します。


2025年1月17日金曜日

1月12日(日)午後3時頃~ 臨時礼拝録画配信

           ☆彡美しい長崎の夜景

           ↑礼拝動画録画配信はこちらをクリック
 


2025年1月4日土曜日

1月5日(日)9時半~ 新年主日礼拝 第一礼拝配信

 


(上で視聴できない場合は、少し時間をおいて、下の予備回線をお試しください)


「キリストにあって強くなる教会ピリピ人への手紙4章1113節(新約聖書399p~)

主を賛美致します。皆様、改めまして、主イエス様の御降誕を基準に数えて、2025年、明けまして、おめでとうございます。西暦は、A.D.~年と記されてきましたが、ラテン語の「アンノドミニ (Anno Domini)の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味です。クリスマスのみならず、新年を迎える事も、実は、イエス・キリストの御降誕と関係があるのですね。ですので、「A.D.」、すなわち、「主イエス・キリストの年」の2025年の最初の主日の日曜日に、まず、このようにして、みなさまとご一緒に、主を礼拝する機会が与えられました事、本当に、感謝でございます。

主イエス・キリストを信じる、唯一まことの神の民、神の家族、として、互いに愛し合いながら、共に、父なる神がお迎え下さる天のふるさと、天の家を、共に目指しつつ、今年も、ご一緒に、協力して、前進して参りましょう!

 

1.キリストにあって強くなる必要性

年明けの新年合同礼拝に備え、祈り、み言葉に向き合う中で、私は「ハッ」とさせられた事がありました。それは、私たちのすぐ隣のロシアが今なお、その隣のウクライナと戦闘状態にあるという事が続いている事です。更には、北朝鮮の兵隊がウクライナで戦い、多くの負傷者が出ているという事の重大性について、です。そのニュースを見た時、最初は、多くのニュースの一つとして見ていたのですが、私は、改めて、事の重大さに、はっと気づかされた次第です。改めて、日本の隣国のロシアと北朝鮮が、そのロシアの隣国のウクライナと戦闘状態にあり、死傷者が多数出ている。しかも、日本の隣国ロシアと北朝鮮は核兵器を保有しているという重大性を改めて心に覚え、一刻も早くに戦争を双方が止めるように、少なくとも、全知全能の主に祈り続ける事の必要性を覚えた次第です。

 また、パレスチナ・イスラエル戦争の早期停戦と平和の実現のために、少なくとも、祈り続ける必要を思わされます。さらには、世界の国々の為にも、今、改めて、心の目を覚まして、祈って行く事の大切さを思わされております。

 合わせて、さらには、主イエスにあって、一人一人のキリスト者が、そして、キリスト教会が、信仰や愛や知恵や実践において、さらに強くなる、成長していく必要性を改めて感じております。たとい、試練や困難がやってきても、主と共に乗り越えて行くために、平時から信仰や愛や知恵が養われていく必要を感じています。霊的に眠りこける事のないように、霊的に覚醒して、目を覚まして祈りつつ、普段から、主に信頼していく歩み、主に従っていく、愛を行っていく歩みが、鍛えられる必要を思わされています。普段から、主と共に平和を作り出していく歩みが、いざとなった時にも生きて来るのではないか、と思うのです。普段の主に従う営みが、試練や困難に直面した時の備えとなると信じます。

 

2.使徒パウロの示した模範(ピリピ41113

 使徒パウロは、投獄された獄中(11317)で、次のように記します。

ピリピ41113。「・・・私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」と。パウロは獄中に投獄されている状況や、経済的な問題を抱えながらも、共に親しく御臨在くださり、ご一緒にいて下さる主イエス様に信頼し、より頼みつつ、主の御心を、主と共に、主との共同作業で、行う事できました。そして、信仰者の模範となり、慰め、励ます事ができたのです。

主の年2025年、この使徒パウロを模範として、さらに成長し、鍛えられた信仰者へと、成長させていただくなら、すばらしいなあ、と思うのです。一歩でも二歩でも半歩でも、何とか、成長させていただく、一年となる事を願います。

 その際に、改めて、覚えたい事は、親しく共にいて下さる、力と愛と知恵と謙遜、全ての良きものの源であられる唯一真の神ご自身、主イエス・キリスト様、聖霊の神様に心を向ける事、信頼する事、お従いする事の重要性です。無い事を願いますが、たとい困難や試練に会ったとしても、全知全能で最善以外をなさらない、主なる神様に依り頼み、聴き従って参りましょう。その事によってのみ、私たちは弱くても、主と共にあるので強い、という神の真の強さに生かされます。

【祈り】主なる神様。どんな境遇でも、あなたと共になら、弱い私たちでも、あなたの愛と力と慎みの御霊によって、強く生きていけると信じます。アーメン。