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2025年10月25日土曜日

2025年10月23日木曜日

美しい長崎の夕焼けと教会

 

        美しい長崎の夕焼け

        夕焼けの教会と虹(左上)

2025年10月18日土曜日

2025年10月19日第一礼拝「心渇く者は主イエス様のところへ」ヨハネ7章37~39節(新約p194)

 

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説教要旨「心渇く者は主イエス様のところへ」ヨハネ7章37~39節(新約p194

 心、魂の渇きを感じる時、真にその渇きを癒せるのは主イエス様です。 

1.誰でも渇いているなら、主イエスのもとに来て飲みなさい(37

37節には「さて、祭りの終わりの大いなる日に」とあります。「祭りの終わりの大いなる日」とは「仮庵の祭りの第七日目であろう」と言われています。祭りの期間、祭司は朝ごとに神殿の丘を下ってシロアムの池で黄金の水差しで水を汲み、祭壇に注ぐ儀式がありました。7日目には祭壇を七周してから水を注ぐのです。その場には群衆が押し寄せ、神殿の音楽に併せ「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」(イザヤ12・3)が合唱され、終末の希望を人々はその注がれる水の中に見たのです。そういう背景の中で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と主イエスは立って大声で叫ばれたのです。イエス様はご自身こそが、魂の渇きを癒す、救いの井戸だとお示しになっております。その井戸には救いの源泉があるということです。イエス様は、救いの源泉である、ご自身のもとに来なさい、そして、飲みなさい、と言われます。

対象者は誰でしょう。「誰でも渇いているなら」とありますように、対象は「誰でも」であり、「渇いている」人。これは、霊的な渇きです。その霊的な渇きを、主イエスは潤す事ができるのです。「わたしのもとに来て飲みなさい」。祭壇に水が注がれるところに、人々が押し寄せたように、主イエスのもとに、魂の渇きを潤す生ける水が流れ続けている。その主イエスのもとに、「来て」「飲む」ことが渇きを潤すために必要です。「飲む」は現在形が用いられているので「飲み続ける」とも訳す事ができる。一度、イエス様に潤されたら、イエス様から離れるのではなく、いつでも、渇くならば、何度でも、イエス様に潤し続けて頂く事が必要です。つまり、イエス様のもとにとどまり続ける事が必要なのです。これは、イエス様と言うぶどうの木の幹に、私たち枝が、信仰をもってつながり続ける時に、イエス様から流れて来る養分、聖霊によって、愛の実を結ぶことに通じます。

2.主イエスを信じ続ける者の心の奥底から流れ出る生ける水の川々(38

具体的に、イエス様のところに、「来て」、「飲む」とはどういう事か。38節。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。主イエスを「信じる者」、すなわち、現在形なので今から「信じ続ける者」。一度、信じて潤されたからといって、イエス様を信じるのをやめるならばすぐに魂は渇く。イエス様をどんな状況でも信頼し続ける事。イエス様の身許に信頼を寄せてとどまり続ける中で、魂の霊的渇きは主イエスによって潤され癒され続けるのです。さらに主イエスを信じる者には、主イエスという源泉から流れくる生ける水の川(「川」は複数形)、すなわち「聖霊」が、イエス様を信頼し続ける人を満たし、良い愛の実を結びます。さらには周りの人をも潤していく様になるのです。 自分だけ潤され幸いになる事を越えて周りの人々にもその流れは及び、隣人を愛して潤すようになるのです。

3.主イエスを信じた者が受ける聖霊(39

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」。ここに、「生ける水の川」は聖霊を指す事が記されています。それは、イエス様が、十字架で死に、復活し、栄光のからだに変えられ、天に昇られた後に注がれる、ペンテコステの聖霊を指しています。そして、今、主イエスは栄光を受けておられるのです。だから、「イエスを信じる者」は、聖霊を受ける事ができる。「イエスを信じる者」の「信じる」は、信じた、とも訳せる。イエス様を信じた者に与えられる聖霊、です。そして、この聖霊なる神様、別名「キリストの御霊」はその人を愛の実を結ぶように導きます。

主イエスが昇天後、御父と共に注がれた、約束のペンテコステの聖霊を受けた弟子たちは、楽な状況ではありませんでした。危機的状況だったのです。しかし、主イエスを信頼し、み言葉を信頼し続けました。その中で、彼らは、聖霊に満たされ、危機的状況の中でも、主イエスを大胆に証し続けました。そして、彼らを通して、主イエスは宣教され続け、多くの人が、主イエスを信じ、そして、彼らもまた、聖霊にあずかり、救われていったのです。まさに、イエス様を信じた人、信じ続ける人に聖霊が与えられ、満たされ、あふれて、主イエスからの聖霊による流れが、その人を通して、その人の周囲に影響していくさまをあらわしているのです。38節。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とある通りです。

(祈り)主よ。私をも、聖霊の通り良き通路となし、周囲を潤して下さい。アーメン。


2025年10月11日土曜日

2025年10月12日第一礼拝「豊かな実を結ぶ人生のために」ヨハネの福音書15章1~5節(新約p215~)

 

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説教要旨「豊かな実を結ぶ人生のために」ヨハネの福音書151~5節(新約p215~)

今朝は十字架の直前に主イエス様が愛弟子達に語られた説教に学びます。

1.成長させて下さる神様 ~主の御言葉と試練等による取り扱い~(1~3)

主イエス様は愛弟子達に言われます。1節。わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」。また5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。と言われました。イエス様を信じてイエス様に従っていく弟子たちは、イエス様というぶどうの木の枝のようなものです。ぶどうの枝はぶどうの幹にしっかりとつながっていると、そこから栄養分が流れてきて、ぶどうの実を結びます。そして良い実がなるためには手入れが必要です。同じようにイエス様を信じ従っていく弟子達が、聖霊による愛の実を結ぶように天の父なる神様は教え導いて下さるのです。2節を見るとわたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除きとあります。ここは農夫が実を結ぶように必要な手入れ(剪定や支え等)をして下さると理解したいと思います。時に神様は苦痛を伴う取り扱いを与える場合もあります。しかしそれはただもっと多く実を結ぶためです。罪を犯す事は、神様が愛の実を豊かに結ばせるために妨げになります。主は悔い改めに導かれることによって、さらに豊かな愛の実を主は結ばせるのです。

2節後半。実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。。主は成長している弟子はもっと成長するために、さらに教え導かれるのです。神様のみ言葉によって手入れがなされるのです。キリストの弟子も成長段階に応じた神様の取り扱いがなされるのです。神様は耐えられない試練は与えません。クリスチャンに与えられる試練は、神様がその試練を通して、さらに成長させ、さらに愛の人に変えるためです。主を忍耐しつつ信じ続ける信仰の訓練でもあるのです。御言葉に立てば時に試練はありますが成長があるのです。

イエス様はあなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」(3と言われました。父なる神様は、聖書のみ言葉、神のみ言葉によって、私たちを手入れして下さり、「もっと多くの実を結ぶ」キリストの弟子とされます。主なる神様の御言葉に信頼して聴き従って参りましょう。

 

2.さらなる成長のために~キリストに信頼し続け、聖霊を祈り求める~48

 さらにイエス様は実を結ぶ人生のために必要な事を話されました。45節。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」。「とどまる」
とは口語訳では「つながる」と訳されます。ここでは「信頼する」という事でしょう。イエス様はイエス様に信頼する者につながり、とどまって下さるのです。イエス様に信頼し続ける人は多くの実を結ぶと約束されています。なぜならイエス様とつながり、イエス様が心に宿り、住んで下さっているからです。「実」とは「御霊の実」(ガラ52223)、愛(第一コリント131813141)の実、キリストの弟子の結実です。キリストに信頼し、神の言葉に従う時、愛の実が結ばれます。イエス様を信じてとどまる以外に神様による愛の実を結ぶ事はできないのです。6節は厳粛です。だからこそ主は「わたしにとどまりなさい」と愛故に命じます。

7節に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。とあります。ここでは実を結ぶために必要不可欠な聖霊を祈り求める事で、聖霊が注がれてさらに実を結ぶ事を教えています(ルカ1113。これは主イエスを信じ受け入れ、主の御言葉を信じる人へのイエス様の約束です。そういう人のお祈りに神様は最善の形で答えて下さいます。それはその人がイエス様を信じ、神様の言葉に従い、愛の実を結ぶ事と矛盾しない形で最善に答えられます。その事を確信して神様に祈り続けましょう。そして聖霊の実である愛の実を通して農夫である父なる神の栄光が現わされるのです。8節。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。とある通りです。ここで「わたしの」とは「イエス様のもの」という意味です。「イエス様のものである弟子となる」という事です。イエス様のものである弟子達となったら主に栄光が帰されます!その事を祈り求め続けましょう。

(祈り)主よ。私にキリストの弟子としての愛の実を結ばせて下さい。アーメン。


2025年10月3日金曜日

2025年10月5日(日)第一礼拝配信

 

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2025年9月28日日曜日

2025年9月28日(日)第一礼拝配信「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19章1~10節(新約157頁)

 

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「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19110節(新約157頁)

今朝は有名な聖書の話で、イエス様と出会った取税人の頭ザアカイのお話です。

1.ザアカイの友となられた主イエス様(1~7)

エリコの町にザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで金持ちでした()。ザアカイはユダヤ人でしたが同じユダヤ人からは嫌われていたようです。というのはユダヤ人を支配していたローマ帝国の出先機関としてユダヤ人から税金を集めていたからです。また取税人の中には、ローマ帝国の権力を背景にして不当な利益を得ていた者もあったようです。ザアカイがそうだったかはわかりません。でも、少なくとも、そのように見られていたようです(7節参照)。

さて、イエス様がエリコの町をお通りになった時 ()、イエス様の周りには多くの人々が集って来ました。病気を癒し悪霊を追い出し、神様のメッセージを伝える人気絶頂のイエス様。人々は様々な願いをもってイエス様の所に集まります。ザアカイは評判のイエス様がどんな方か見ようとしますが、背が低かったのと群衆のため見ることができません()。誰もザアカイをイエス様の見える所に通してくれません。それでザアカイは先回りしていちじく桑の木に登り()、イエス様を見下ろしていたのです。しかし、彼はそれ以上、近づけませんでした。

しかし主イエス様はザアカイの全てをご存じの上で、あえてザアカイの上った木の下に来られて(4)、上を見上げてザアカイに言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」()。「ザアカイ」の名前の意味は日本語でいえば「清」。でも、この後見るとザアカイは皆から、「罪人」と呼ばれていたようです。人々はザアカイを見ると、「ザアカイだ!お金を取られる!」と思って逃げて近寄らなかったかもしれません。しかしイエス様は通り過ぎないで名前を呼んで家に泊まりに来てくれました。

一方、ザアカイはイエス様に近づきたいと思っていても、自分からはできませんでした。ザアカイは木の上からイエス様を見下ろすしかできなかったのです。けれどもイエス様の方から近づいて下さり、わざわざ、ザアカイの木の下まで来てくださって、上を見上げて名前を呼んでくださいました。ザアカイがしたくてもできなかった事をイエス様はザアカイにして下さったのです。イエス様の方からザアカイの友となって下さったのです。ザアカイにとってそのイエス様の愛の行いは、まさに、福音、救いそのものを見た時だったはずです。

ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えました()

 

2.主イエス様に救われ、祝福されたザアカイと家族(810

しかし、イエス様はザアカイの家に行く事で周囲のユダヤ人から今度は悪口を言われて評判ガタ落ち。「あの人は罪人のところに行って客となった」()。罪人の家に入り、汚れたという評価でしょう。しかし、このイエス様の愛に触れてザアカイは立ち上がります。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」()。彼は主イエスを信じて救われたのです。その結果として良いわざ、愛の行いの実が結ばれたのでした。そして、他の人の事も大切にするようになりました。イエス様は彼に「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(910と言われました。「アブラハム」とはユダヤ人たちから信仰の父と敬われている人で、神への信仰のゆえに、神の祝福を約束された人でした。聖書にはイエス・キリストを信じる者こそがアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ事が書いています(ガラテヤ3・7,9)。イエス様を信じる者はアブラハムの祝福を受け継ぐアブラハムの子孫とされ神の子とされるのです。イエス様はご自分が汚されるどころか、ザアカイを救い清めて祝福を受け継ぐ人にされました。ユダヤ人なのに部外者にされていたザアカイがこの人もアブラハムの子なのですから」とイエス様から宣言された時どれほど嬉しかったことでしょう。イエス様はザアカイの様に「失われた」罪人を捜し出して救うために天から来られたのです。聖書を読むならば、全ての人は完全に清い神様の前には、もれなく罪人です。しかしイエス様は今、友となるべく全ての人の名前を愛して呼んで下さっています。

今、全ての人を愛して友となって下さる救い主イエス様を信じて心にお迎えするならば、その人は救われ、家族にも祝福が及ぶ事でしょう。そして家族もイエス様を信じるなら救われます。そして主イエス様の愛に心満たされます。そして主を愛し、隣人を愛する事に心の目が開かれるのです。ご一緒に祈りましょう。

(祈り)父なる神様。罪人の私の為にイエス様をお送り下さり感謝します。イエス様を私の心にお迎えします。私も清い愛の人にして下さい。イエス様のお名前によって。アーメン。 

2025年9月20日土曜日

2025年9月21日(日)第一礼拝配信「疲れて重荷のある人を招かれるイエス様」マタイの福音11章25~30節(新約21p)

 

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説教要旨「疲れて重荷のある人を招かれるイエス様マタイの福音112530節(新約21p)

私たちの人生において幸いな時もありますし、単調な時もありますし、疲れる時もありますし、試練の時もあります。そのような人生の様々な出来事の中で、クリスチャン生涯を生き、信仰生活を歩み続けていくために大切な事を学びます。

1.父なる神との交わりの中に生きた主イエス様に学ぶ(2527

今朝の聖書の箇所は主イエス様の奇跡の数々にもかかわらず、悔い改めなかった人々を、主イエス様は愛するがゆえに、そのままでは滅びてしまう事に嘆き悲しみ憐れまれます(マタイ112024)。時に、伝道しても信じてもらえない、というやがて弟子たちが直面する試練、嘆き悲しみを、イエス様ご自身こそ誰よりも体験しておられ知っておられます。それ以外のあらゆる苦難もご存じです。それは同じような苦難に直面する私たちの慰めです。主イエス・キリストに対する熱心な求道と拒絶という二つの反応を受けて、主イエス様は父なる神に祈ります(25)。「ほめたたえます」はイエス様が父なる神の御心に全面的に従っておられる事を示します。さっきまで嘆き悲しみ、愛するがゆえに悔い改めない街々を責めておられたのに一転、父なる神への賛美を表しました。ここにどんな時もクリスチャンとしての歩みや奉仕を続ける秘訣があります。私たちもクリスチャンとして生きる中で試練に直面し、悲しみ嘆く中でも父なる神との交わりの中に生き続ける中で支えられ、慰め励まされ、新しい力と愛と知恵を頂き、人生の歩みや、クリスチャン生活を疲れ果てずに、継続することができるのです。モーセやイサクという旧約聖書における信仰者もそうでした。信仰生活、奉仕、夫婦・親子・家族関係、仕事、人間関係等、生きる事全てにおいて主が必要です。

25節後半。これらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」。「これらのこと」とは福音の真理であり、主イエス・キリスト様ご自身の事です。「知恵ある者や賢い者とは、ここでは、高慢に陥ってしまい、福音であるイエス様を受け入れず拒絶していた人々です。そういう中でも幼子のように心を開いて救い主イエス様を信じる人もいました。それは神がなさった事でした。26そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」。イエス様は、先の嘆き悲しみの中で、同時にそれでも、父なる神に信頼し明け渡し、「そうです、父よ」とその御心に全面的に同意して従われます。

27節。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」。ここで、すべてのこととは「神の国の福音の啓示のすべて」という事です。それを父なる神からイエス様は渡されているのです。ですから、主イエス様が知らせて下さらなければ、父なる神を知る事ができないのです。主から教えられるために必要なのは謙遜です。

 

2.主イエス・キリスト様とつながり、学び、合わせて、共に生きる(2830

そして父なる神との交わりをしつつ、主イエス様はあきらめずに、常にすべての人を招き続けます。愛しているからです。28節。すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」。わたしのもとに来なさい」。ここに父なる神を真に知らせていただける場所があり、父なる神との親しい交わりがあり(第一ヨハネ1・3,4)、罪のゆるし、きよめ、神の国、安息、癒し、救い、永遠の命、知恵、愛と力の源泉、真の宝があります。イエス・キリストを信頼し、神に立ち返る時に、罪の重荷は取り除かれ、人生の重荷は主イエスが共に担って下さり、共に歩んで下さり、人生を守り導いて下さるのです。2930節。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」。「くびき」とありますがこれは強い牛と弱い牛をつなげる道具です。イエス様が強い牛、弟子が弱い牛にたとえられ、自分だけでは負いきれない重荷も主イエスが共に担ってくださるので重荷が軽くなるという事です。また主イエスの弟子になる事も意味します。イエス様は真実なお方で、ご自分に信頼して、ご自分の弟子となる者の魂や人生に、真の安息を必ず与えて下さるお方です。だからこそご自分のことを偽る事ができず、ご自分の事を「わたしは心が柔和でへりくだっていると言われたのでした(エレミヤ3・12参照)。

(祈り)天の父なる神様。人生の重荷や苦難の中で、時に嘆き悲しみ疲れる事もありますが、どんな時も、主が共に重荷を負って支えて下さり、お交わりの中で慰め励まし、立ち上がらせて下さり感謝です。イエス様によって、アーメン。

2025年9月6日土曜日

2025年9月7日(日)第一礼拝配信「聖書が教える良いお知らせ」ヨハネの福音書3章1~16節(新約聖書p179~180)

 

           

説教要旨「聖書の教える良いお知らせ」ヨハネ3・116(新約179180)

 この分厚い聖書を一言で言えば、このヨハネ316節であると言われるほど、聖書の中心的メッセージがこのヨハネ316節です。今朝、改めてこの箇所から聖書の良い知らせを確認しましょう。

1.神から新しく生まれる ~神の子どもとして生きる~(111

ある夜、ユダヤ人の指導者でパリサイ人のニコデモという人がイエス様を訪ねて来ました(12)。パリサイ人とは旧約聖書の律法を厳守しようと努力をしていた、厳格なユダヤ教の一派です。さらに彼はユダヤ人の最高法廷の71人の議員の一人。夜に来たのは世間体があったのかもしれません。彼はイエス様に尋ねます。2節。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。彼にイエス様はお答えになりました。まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3。「新しく」とは「もう一度」や「神から」という意味もあります。「神の国」、天国では神の御心が行われます。そのため神の国に生きる者は誰でも新しく生まれる必要があるのです。

ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4と問います。先の「新しく生まれ」と言われた言葉を、ニコデモは「もう一度、肉体的に生まれる」と解釈したのです。しかし主イエス様の真意は、「神から」、すなわち、霊的に生まれる事にありました。これはユダヤ教や、その他の宗教、全ての人間の力では不可能。ニコデモはまずこれを認める必要がありました。

イエス様はその事を教えようとされます。5節。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」。ここで「水」とは「悔い改め」(神への心と生活の方向転換)を意味します。主イエス様は「聖霊によって生まれる」という事を肉体的誕生とは区別して話している事を示しつつ(6)、あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(78と言われます。風は目には見えませんが音やその影響でわかるように、目に見えない聖霊の神の働きにより、人は悔い改めて(神に立ち帰り)、十字架で身代わりに死なれた救い主イエス様を信じて、神の霊である聖霊によって霊的に新しく生まれ、神の国に入り、神の家族の一員となります(エペソ219。ニコデモはそのようなことがあり得るでしょうか。」(9と答えます。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。…」(1011とイエス様。

 

2.神から新しく生まれ、永遠の命を持つために必要なのは信仰(1216

イエス様は彼にだれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」(1314と言われます。民数記2149節で、神様につぶやいたイスラエルの民達が、神様から送られた毒蛇にかまれて苦しんでいた時、神様は指導者モーセに青銅の蛇を旗竿につるすように命じ、その青銅の蛇を仰ぎ見るならば救われると示されました。その事を信じて青銅の蛇を仰ぎ見た人たちは毒が消えたのです。その様に、この後、「人の子」すなわちイエス様が、この青銅のへびのごとくに十字架につるされます。それは主イエスを信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため(15)に、全人類の罪を身代わりに背負い、父なる神からの怒りの刑罰を受けるためだったのです。

イエス様が十字架にかけられた時、ニコデモはあの夜、語られた事、そして旧約聖書を通して学んできた事の成就をイエス様に見たのでしょう。ニコデモがどの段階でイエス様とその御言葉を信じて、聖霊によって新しく生まれたかはわかりません。しかし、まさに風がどこから来てどこに行くかわからないように、イエス様をキリスト(救い主)と信じた時に彼の心は聖霊によって新しく生まれ、神からのいのち、「永遠のいのち」を得ました。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)。この「永遠のいのち」にキリスト様による救いの全てが含まれます。主イエス様を信じましょう。

【祈り】父なる神様。私たちを大切な存在として愛し、あなたの独り子、救い主イエス様を信じて受け入れる者には、永遠の命をくださり感謝致します。



2025年8月31日日曜日

2025年8月31日(日)第一礼拝配信「主イエスのおことばを守る幸い」ヨハネの福音書14章20~24節(新約聖書p214~215)

 

説教要旨「主イエスのおことばを守る幸いヨハネの福音書14章2024節(新約聖書p214215

 今朝は主イエス様がいよいよ十字架刑に処せられる直前の告別説教から学びましょう。ここに主イエス様のお言葉を守る者の幸いについて記されています。

1.イエス様を愛して信じる者にご自身を現わされる主なる神(2021)

20節。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。。「その日」とは、聖霊が降るペンテコステ以降の事。その日には聖霊が信仰者の中に来られる。これにより三位一体唯一の神である父と子と聖霊の神が、主にあって、主イエス様を信じる者の中におられる事がわかるのです。21節。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14・1)等の主イエス様の戒めを守っている人なら、その人はイエス様の愛を知りイエス様を信じて愛するようになった人です。イエス様の愛に応答している人です。イエス様を信じているからイエス様の言葉を遵守実行します。

もともと父なる神は御子イエス様をお与えになるほどにすべての人を愛しておられます。さらに、その愛に応えて父なる神に立ち帰り、イエス様を信じて救われ神の子となり、聖霊を受けその導きにしたがってイエス様のお言葉を遵守し、すなわち父なる神の教えを遵守する人を父なる神はさらに愛されます。イエス様の戒めを遵守し、イエス様を愛する人を父なる神様はさらに愛して下さいます。そしてイエス様もその人をさらに愛し、ご自身を彼に現されます(主が親しくご臨在される)!何とも深遠な神の愛です。神様のもともとの愛の高さがあまりにも高いので、イエス様を与えるほどの最高の愛で愛して下さっているのに、さらにその教えを守る人を愛する、というその愛の高さを表現しきれません。イエス様のことばを守る人は神様との親しい愛の交わりにさらに深く入るようになるという事でしょう。一方的に愛される事も幸いですが、さらに「愛し合う」事はもっと幸いだと思うのです。私たちは主なる神に愛されるだけでなく、主なる神を信じ、主なる神を愛して、主なる神の教えを遵守実行し、兄弟姉妹同士が愛し合い、隣人を愛していくときに、主の愛をフルに体験的に知るのだと思うのです。

2.神の宮としての教会が建てられ、そこに主が住む幸い(22~24

さて、22節。イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか」』すると、23節。『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」』イエス様を信じて愛する者にご自身を示される父なる神とイエス様が、その人を聖霊の宮として建てられます(第一コリント61920)。そして、そこにお住まいになるのです。主がその人のうちに来て下さるだけでも幸いですが、住んで下さるのです。

一方で24節。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。イエス様を愛さない人はイエス様のことばを守りません。そしてそれはイエス様を遣わした父なる神のことばを守っていないという事なのです。

イエス様がご召天後、肉眼では見えなくなりますが、もう一人の助け主なる聖霊様が弟子たちを教え導くようになるのです(2526)。この説教の後、イエス様が父なる神に服従して、十字架にかかり、三日目に復活させられ、弟子たちに現れ、天に昇り、天の王座に着座されます。そこから、約束の聖霊をペンテコステの時以降、注ぎ続けて下さり、特に教会を通してご自身が生きておられる事をお示しになります。イエス様はそれらの事を通して、これからも、御自分をこの世において明らかにされるのです。これがユダへの回答です。そしてイエス様を信じる者が起こされていくのです。この事は、実際、歴史を見れば明らかです。

ですから、弟子たちはこれからイエス様が十字架にかけられ墓に葬られますが、恐れ惑わされる必要はなかったのです(14・1参照)。イエス様のご復活後、天にお帰りになり肉眼には見えなくなりますが、イエス様を十字架につけた人がまだ周りにたくさんいたとしても、主を信じる信仰により、恐れ惑わされる必要はないという現実を、イエス様はこの14章にてねんごろにお語りになりました。

(祈り)父、子、聖霊の三位一体唯一の主なる神様。不信仰の時でも寄り添って下さるのみならず、主に信頼する時には心の内に来て下さり、さらには主と主のお言葉(聖書)に聴き従う時に親しくご臨在下さる事を感謝します。アーメン。


2025年8月23日土曜日

8月24日(日)第一礼拝配信「苦難や試練の中でも主に希望がある」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

 
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説教要旨「苦難や試練の中でも主に希望があるヨブ記1章1322(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたいと思います。私達は理由のわからない苦難や試練に遭う時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難や試練(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12ヨブを信頼してサタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。「どうして?」と思うような試練が起こる事もあり得ます。しかし、どんな試練の中でも、ヨブのように神に祈り、神を礼拝する恵みがいつも備えられています。

 

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブに病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや、子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。425節は、苦難の中でその神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍です。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。

信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦しみ。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難や試練の中でも、主ご自身こそ私たちの希望であり救いです。主は私たちを常に最高に愛し最善をして下さいます(ローマ828)。どんな状況でも神のご主権に委ねつつ主を讃美し礼拝する者として頂きましょう。

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。


2025年8月15日金曜日

8月17日(日)礼拝動画配信「すべての人を愛する父なる神の愛に倣う」マタイ5・43~48(新約9頁)

 

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説教要旨「すべての人を愛する父なる神の愛に倣うマタイ5・4348(新約9)

 815日で終戦80年を迎え、改めて不戦の心を新たにしたいと思います。

1.父なる神の子ども(クリスチャン)らしさ ~敵をも愛する愛~(4345

43節。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」とイエス様は言われました。これが当時のユダヤ人たちの常識的な解釈、教えでした。ですから「自分の敵は憎め」というように教えられていたのです。しかし聖書にはどこにも「自分の敵を憎め」とは教えていません。神様は「隣人を愛せよ」と教えています(レビ1918)。旧約聖書の出エジプト記23・4~5には敵の迷っている牛やろばを助けるように命じる規定すらあります。しかし当時のユダヤ人社会の教えは「隣人」とは「同胞であるユダヤ人だけ」を指すと解釈し、「他のあらゆる民族を、異邦人であり敵であると思え」と解釈されていました。隣人愛の対象から、これらの「敵」は除外されていたのです。私たちの常識や考えの中に、聖書が本当に言っている事と違う事が混ざっているところはないでしょうか。実際生活、現状とつじつまの合うように、聖書の教えをどこかで薄めている事はないでしょうか。もし、そういうところがあるならば、聖書の教えに照らして、悔い改めていかねばなりません。

この点、主イエス様は神の権威をもって言います。44節。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ6・2728では「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とあります!主イエス様の教えは当時の常識にとらわれず、神様の御心をはっきりと示しました。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、は聖書の教えであり、その正しい解釈は敵をも愛する愛でした。イエス様は本来の神の教えを明確に示しました。隣人から敵を排除するのではなく、全ての人を愛する愛(ヨハネ316。これが聖書の教える隣人愛です。

そして主イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じた直後に言われました。45節。口語訳では「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」。「なる」と訳されている言葉は「…であることを示す」、「…らしくする」とも訳せます。また「こうして」〈口語〉と訳された言葉は「…するために」とも訳せます。「子」は「性質の所有者、所属者」という意味もあります。そこで私は次のように私訳しました(ご参考まで)。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天にいますあなたがたの父の子どもとしての性質を持つ者らしくするために」。イエス・キリストを信じて、神の子としての性質を聖霊によって頂いたものにふさわしく、父の子らしさが現れるのは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る時なのです。なぜでしょうか?それは主なる神がそのようにしているからです。45節後半。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。。主イエス様は十字架の上で自分を殺す者達のために、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ2334ととりなし祈りました。敵を愛し迫害する者のために祈ったのです。主であり、師であり、父なる神の実子であるイエス様がそうされました。神の御子イエス様は父なる神の御心のみを行われます(ヨハネ519)。これは私たちの模範です。この愛こそ、父なる神の子どもとしての性質を持つ者たちにふさわしいのです。父なる神とその御子がそうだからです。

 

2.天の父が完全であるように完全であれとはどういう事?(4648

続いて4647節。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。」。しかし敵をも愛し、迫害する者のために祈るのは、まぎれもなく、父なる神の子であるしるしです。それは父なる神がそうだからです。48節。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ルカ6・36では「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」とあります。私たちも神の憐みを頂いた者として、父なる神のご性質を聖霊によって与えられた神の子ども達らしく、天の父なる神様の様に、「あわれみ深い」という意味において「全き」愛の人であらせて頂き、人を差別せず、愛しましょう。

(祈り)天の父なる神様。あなたからの恵みを感謝します。私を、父なる神の子どもらしく、イエス様の様な、憐れみ深い、愛の人として下さい。アーメン。

2025年8月9日土曜日

8月10日礼拝配信「平和をつくる者は幸い」マタイ5章3~9節(新約聖書p6)

 



説教要旨「平和をつくる者は幸い」マタイ5章3~9節(新約聖書p6)

 8 月6 日には広島に、8 月9 日には長崎に、それぞれ原爆が投下され今年で
80年。被爆者が次々と息を引き取られ、その体験を直接お聴きできなくなる時
が迫っています。しかし核兵器の脅威と核戦争のリスクは今なお残り続けていま
す。被爆による後遺症等で心身が傷ついている方のお慰めと癒しと平安を祈りつ
つ、「平和をつくる者」にしていただきたいという思いを新たにさせられます。
今朝、改めて、主イエス様の山上の説教、特に5 章9節に注目します。

1.今日の御言葉の背景(マタイ5・1~8)
 主イエス様は、3~4節で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たち
のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
と語られます。まず自分の罪や足らなさという心の貧しさを自覚し、それを悲し
み、救いを求めて主イエス様に信頼します。そして神のご支配(天の御国)に受
け入れられて救われます。そして主なる神からの慰めを受けます。だから幸いな
のです。この「幸いです」は主イエス・キリストの救いにあずかった人たちだけ
に与えられるキリストの弟子の性質と祝福を指しています(ウェスレアン聖書注解
p32)。イエス様は全ての人をその幸いに招いておられます(マタイ11・28~30)。
 5 節では「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と語ら
れます。柔和な者とは主イエスを信じて救われ、神に慰められ、神とその御旨に
信頼して忍耐深く従う人です。その人は「地を受け継ぐ」。すなわち、神の国の
嗣業を受け継ぐのです。6 節は「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち
足りるからです」。「飢え渇く」は強調表現で「渇望」の意。ここでの「義」と
は「神のとの正しい関係」、「救い」、「きよめ」(キリストの様に生きる事)、
さらに神ご自身です。霊的渇望は本質的に誰もが抱えていて、唯一真の神によっ
てのみ満たすことできます。そして神の恵みの豊かさ故に、さらに神を慕い求め
るようになります。そしてその渇望は神によって満たされるので「幸いです」。
 7 節。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」
と語られます。これは憐みの気持ちだけでなく、実際に、必要に応える行動を伴
う憐みです。神の憐みは神の独り子イエス様をも与える程の最高の憐みです(ヨ
ハネ3・16)。主イエス・キリスト様を信じて、この神の憐みを知った人は、神
様の愛と赦しを受け取って「あわれみ深い者」と変えられていきます。その「あ
われみ深い者」を神様はさらに憐れんでお恵み下さり、良くして下さいます。
 8 節。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」。「神を見
る」とは第一に、この世で、心で霊的・人格的に神を知るという事です。第二に、
天国で神と顔を合わせて見るという事です。「神を見る」人とは「心のきよい者」
です。罪は神との関係を損ない、神を知る事を妨げます(イザヤ59・2)。人はそ
の罪の故に「心のきよい者」に自分の力でなれません。しかし主なる神はその解
決として、独り子の神である主イエス様をこの罪の世に遣わします。独り子なる
神、主イエス様は私たち全人類の罪を身代わりに背負って、十字架で父なる神の
怒りの刑罰を身代わりに受け血を流して死なれます。この主イエス様の十字架の
死によって主イエス様を信じる者の罪が赦され、きよめられる道が開かれました。
 主イエス様を信じて心に主イエス様を主として王としてお迎えする時から御
子イエスの血は罪をきよめ続け(Ⅰヨハネ1・7)、同時に、その人の心の中に
神の聖霊が宿り、心をきよめてゆかれます。そしてその人も聖霊のお導きとお働
きとにより、自らの二心を悔い改めて一心に主なる神を求める時、「心のきよい
者」と神がして下さり、この世でも神を霊的人格的に知り、幸いになります。

2.平和をつくる者は幸い(マタイ5・9)
 1~8節を踏まえて9節。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子
どもと呼ばれるからです」。「平和」とはヘブル語で「シャローム」で「人間の
最高の幸福をつくり出すすべてのもの」とユダヤ人は理解していました。この「平
和」の根源は神にあり、父なる神に遣わされた主イエス様はまさに「平和をつく
る者」です(ローマ5・1,エペソ2・15~18)。主イエス様を信じる者は、
主イエス様の十字架での身代わりの死の故に、罪の赦し、神との和解と平和にあ
ずかります。そして聖霊によって神とその御旨に従う「柔和な者」(5)となり、
神と共に働いて「平和をつくる者」とされ「神の子ども」と呼ばれる様になるの
で幸いです。「神の子ども」とは「父なる神の性質を持つ者」の意味です。その
最たるお方は、主イエス様であり、私たちの最高の模範です。
(祈り)主なる神様。イエス様を信じる者にあなたとの平和を与え下さり感謝します。どう
か私たちをさらにあなたの子どもにふさわしい「平和をつくる幸いな者」にして下さい。

2025年8月3日日曜日

8月3日(日)第一礼拝動画配信「御子イエス様の血潮の効力」ヨハネの手紙第一1章5節~2章2節(新約478頁)

 

説教要旨「御子イエス様の血潮の効力(ヨハネの手紙第一1章5節~22節)

このヨハネの手紙の最大の関心事は、この手紙の読者である、「愛する」信仰者たちを守り、クリスチャンとしての信仰と生き方を堅固なものにしようとする事でした。それは当時、誤った教えが教会を惑わしていたからでした。その教えは、イエス・キリストが神であると同時に完全に人間であることを否定する教えでした。「人間の外観をとっているが見せかけで、人間のように思えたのだ」という異端的教えだったのです。ですから、ヨハネは、人となられた神であるイエス様をよく観察した、その肉声を聞いた、さらによくさわった、とまで言うのです。これによって異端的教えの偽りを示すのです(1~4)。

さらに、5節。「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということですとあります。主なる神のご性質は「光」と表されるように、悪や不義と対比される完全なきよさであり、義と愛を示します。そして、道徳的内容を含む真理そのものである聖なる神の真理の光です。この聖なる主の栄光の前に出る時に、己の罪に気づくのです。使徒ヨハネはこのように示しつつ、身体の行いで罪を犯し続けても精神は汚れない、という偽りの教えをする者たちの誤りを示します。6節。「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていませんと。神のご性質はきよさ。なのに、この神と交わりがあるのだと言いながら、もし「闇の中を歩んでいる」、すなわち、習慣的に罪を犯し続けながら、罪を認めず、悔い改めないなら、それは真理を行ってはいない、とその偽りの教えの誤りを指摘するのです。

そして7節で真理を伝えます。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。「神は光」です。この神と交わりをもつとは、神の前に誠実に神と共に生きるという事です。そのためには自分の罪のために身代わりに十字架で血を流し死なれた主イエス様を信じる必要があります。そして主イエスの血によって罪からきよめて頂きながら生活するのです。さらに、イエス様を信じて歩む者同士も神の光の中で共に歩む中で、主にあって互いに愛し合う、きよい愛の実を結んでいくのです。

さて、使徒ヨハネは8節でも、罪はないと主張する偽りの教えの間違いを示し、9節で真理を示します。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」きよい神の光の御前に自分の罪を認めて、主イエス様を信じるなら、神はその罪を赦し、すべての悪と不義から信仰者をきよめて下さるのです。その罪の赦しときよめは、どこまでもイエス様が十字架ですべての人の罪を背負い、身代わりに血を流し、死んだ事を根拠とします(7)。

一方で、2・1~2で「どうせ赦される」と罪を甘く見る誤り(1a)や、「罪を犯したら復帰できない」という厳格過ぎる誤りも正します(1b)。

【祈り】主よ。イエス様の十字架の血による罪の赦しときよめを感謝します。


2025年7月26日土曜日

7月27日(日)礼拝動画配信「疲れを覚える時も、主に信頼する」イザヤ書40章27~31節(旧約p1232)

 


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説教要旨

疲れを覚える時も、主に信頼する」イザヤ書402731節(旧約p1232

イザヤ書40章は、紀元前700年代のイザヤが、紀元前536年ごろの事をあらかじめ見越した上で、ペルシャ帝国のクロス王によって70年にもおよぶバビロン捕囚から解放される時の事を前もって予告した神のメッセージであると言われております。イザヤがこの書を書いた時にはまだバビロン捕囚は起こっていませんでしたが、やがて預言通り、南のユダの民がバビロン帝国に連れて行かれ捕囚に。しかし神様のご計画の中で70年のバビロン捕囚の期間を終えた時、神はクロス王率いるペルシャ帝国により、神の民は解放され自分の祖国に帰ります。その時の事を、神は預言者イザヤを通して予告しつつ、民への慰めのメッセージをあらかじめお語りになったのが、このイザヤ書40章と言われています。

1.主なる神の慰め(救い)(1~5)

1節。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──」。「慰めよ」とはヘブル語で「ナホーム」。この言葉はもともと「悲しむ」とか「悔い改める」という意味です。神の前に自分の罪深さに本当に気が付いて、自らの力の無さ、小ささ、足りなさに悲しみを覚えるというのがこの「ナホーム」の意味。そして神の前に悔い改める時に神がその人の心にお与えになるのが「慰め」です(小林)。この「慰め」は「救い」という意味です(参照;マタイ5・4)。

2節。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」。まるで牢獄から「あなたの罪はもう問われないから出てもいい」と言われるような情景(小林)です。その事がバビロン捕囚の後にあるとの予告です。バビロン捕囚が長く70年も続き、解放される希望を失っていたような神の民に、主は事前に、「その労苦は終わり、その咎は償われた」と語らせたのです。

34節。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」』。これは解放者である神が神の民を率いてバビロンから解放して下さるからそれにふさわしい道を備えよ、という意味です。また、後にバプテスマのヨハネが悔い改めを民に伝え、イエス・キリストを信じる心備えをさせた言葉です。5節。「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる」。神の約束通り歴史上においてユダヤ民族はペルシャのクロス王によりバビロン捕囚からの解放が起こります。さらに言えばイエス・キリストの十字架による救いも歴史上の本当の出来事です。これにより全ての人の救いの道が開かれたのです。

2.主を待ち望む者は新しく力を受ける(2731

しかし神の民は偶像に囲まれる中、バビロン捕囚が長引くと言って、やがて主を見失い、「自分たちは神に見捨てられた孤児なのだ」と嘆き希望を失います。しかし主は言われます。2728節。『イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」』。「地の果てまで創造した方」である主は、日本を含め全地を治めるお方です。また、このお方は他の何物も比較にならない、無限の力を持つ愛の大牧者です(626)。そして29節。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」お方なのです。元気の象徴でもある「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる」(30)。しかし主を待ち望む(信頼してより頼む)者はこのお方から新しい力を頂きながら生かされます。31節。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」。『「わし」という鳥は…10年に一度羽替えをするそうです。新しい羽にされて力強く飛んでいくのです。その羽が古くなってきますと彼らは羽を落とすのです。その新しい羽が生え替わってくるのを待って、ついに新しい羽で覆われて、今まで飛べなかった高さを越えて飛んでいくことができる』(小林和夫)。その様に、主を待ち望む時に神からの聖霊による新しい力(使徒18)が与えられ、自分では越えられない試練を乗り越えさせて頂けます。主を信じて待ち望みましょう。

(祈り)主よ。たとい苦難が長引くような時も、疲れる時も、あきらめないであなたに信頼し続け、大牧者なるあなたから、いつも新しい力と愛と知恵を頂きながら、あなたの慰めと救いと守りの中であなたと共に生きていきます。アーメン。


2025年7月23日水曜日

7月20日(日)第一礼拝動画配信「主ご自身が私達と共に行く」出エジプト記33章11~17節(旧約160頁~)

 

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           ご容赦をお願い致します。

【説教要旨】

「主ご自身が私達と共に行く出エジプト記33章1117節(旧約160頁~)   

 今朝は、信仰者と共にいて安息を与え、導いて下さる主のお言葉に注目します。

1あなたを愛する主なる神様(12

3312節はモーセのとりなしの祈りです。神に罪を犯したイスラエル民族をとりなし、神がモーセとだけでなく民とも共に歩んで下さるようにという切実な祈りです。そこには民を愛するモーセの愛があります。すると主は、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(14と言われます。12節で主はモーセに「あなたは特にわたしの心にかなっている」と語られています。これは「お前(モーセ)は恵みを見出した、私()の目の中に」と訳すことができます。神様がモーセを見る時の目は、ご好意の目でした。主はモーセを愛して共におられました。神様は私達にも愛と恵みを注いでくださるお方です(イザヤ434)。それは神の独り子イエス・キリストを与えるほどの大きな愛です(ヨハネ3・16)。

2.共にいて安息を与える主なる神様(1317

主はモーセに「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」3314と言われました。主イエス・キリストの別の呼び名は「インマヌエル」、「神は私たちと共におられる」(マタイ123)という意味です。罪の世に真の神であるイエス様が真の人となられて来て下さいました。そして言われました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14・6)。イエス様は信仰者と共にいて導いて下さいます(マタイ28・20)。イエス様ご自身が道です。しかも、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…」(マタイ11・28~30)と言われました。今日、モーセにのみならず、全ての人にこの招きがなされています。重荷を共に負って下さる主イエス様に、共に重荷を負っていただいて、安息を頂きましょう。その際、不要な重荷(罪の重荷)はイエス様がすでに全て取り除き、十字架の上で、身代わりに死んで下さいました。イエス様を信じて結ばれるなら、主によって罪の重荷は全て降ろさせていただけるのです。イエス様を信じて、全ての罪の重荷を明け渡しましょう。そこに、安息があります。

しかし私たちもモーセの様にさらに15節に進みたいと思うのです。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(15。モーセは民の罪のために神の前にとりなし祈りました(12131516)。モーセがこのような祈りができたのは神の愛を知っているからであり神の愛を体現しているからです。ここまで民を愛していたのです。

この祈りは神様の御心にかないました。神様はおっしゃいました。17節。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから」。この祈りは主イエス様の祈りに通じます。イエス様には全く罪がありませんでした(へブル415)。にもかかわらず主イエス様は私たち罪人のためにとりなし祈り(ルカ2334)、私たちのすべての罪を背負って身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです(マタイ2746)。このイエス様のとりなしの祈りと身代わりの死のゆえに、イエス様を信じる者はイエス様と一つとされる事で罪赦され(ローマ42425)、罪の奴隷と重荷から解放されて(ローマ667)、主に礼拝を捧げ(ローマ121)、主にお近づきできます(エペソ218)。主と共に歩めます(マタイ112830)。主にお仕えできるのです(へブル914)。そして天国の安息に入れて頂けるのです(ヨハネ316)。全ては神の恵みです(Ⅰコリント1510)。

人生の荒野のような時も、主イエス・キリストと信仰によって結ばれている私たちと共に主は行って下さるのです。燃え尽きやすい柴(出32)のような、もろい土の器(Ⅱコリント57)のような、弱いわれらと共に主がおられる。主が共におられる事こそ救いです。主が私達を守り支え、安息を下さるのです。

私たちも主イエス様を知らない方々が主イエス様の救いに導かれ、共に主を礼拝する礼拝の民に加えられるようにとりなし祈り、愛し、伝道する重荷を主と共に負いたいと思うのです。主と共になら、弱い私たちにも負えると信じます。

主イエス様を信じる私たちと共に、主なる神様がいる事(マタイ28・20)を信じましょう。共にいて安息(救い)を下さる主に信頼して参りましょう。

【祈り】天の父なる神様。全てをご存知の上で、私達と共にいて救いに導き、安息を与え、主の御業を成して下さる事を信じて感謝致します。アーメン。


2025年7月12日土曜日

7月13日(日)第一礼拝動画配信「神様から祝福される人生」 創世記26章23~25節(旧約45頁)

 

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説教要旨「神様から祝福される人生創世記262325(旧約45)

1.神のみ言葉を信じる中にある祝福(26・1~12

イサクの時代、その父アブラハムの時代にもあったのですが、飢饉がありました(1)。そこでイサクはゲラルという所に行きました。さらにイサクは父と同様、エジプトに身を寄せようとしたようです。当時、飢饉の時には肥沃なエジプトに下るのが当時の常識だったようです。しかし唯一まことの神様はイサクに現われて仰せられます。エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす」(23。主のみ言葉通りにイサクがその地に留まり、種を蒔くと、その年に百倍の収穫を見ます(12)(当時の農業では2540倍でも豊作)。その理由は「主が彼を祝福された」(12からでした。主と主のみ言葉に信頼して従う中に、試練の中でも、主の祝福を見ます。

2.神と共に、神を第一として生きる(1325

こうしてイサクは非常に裕福になりました。しかし現地のペリシテ人たちはイサクをねたみます(1314)。それでペリシテ人はイサクの父アブラハムの時代に掘られた全ての井戸をふさぎます(15)。しかしイサクは戦争をせずにそこを去ってゲラルの谷間に天幕を張りそこに住みます(17)。イサクは井戸を再び掘りました。そして湧き水の出る井戸を見つけました(19)。どんなに財産があっても水がなかったら生きていけません。生きていくために水が必要です。本当に喜んだ事でしょう。ところがゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争ったのです(20)。イサクは戦争をせずにその地を離れます。昔の井戸掘りですから機械もない中です。井戸掘りは20~40mも掘るという大事業だそうです。しかもめったと水が出るものではないそうです。そういう中でやっと水が出たのに奪われる。これは大きな試練です。もう一度同じような事がありました。しかしイサクは争わず、そこから移って他の井戸を掘ります。その井戸については争いがなかったのでその名をレホボテ(自由の地、広々とした地)と呼びました。レホボテはゲラルよりもさらに南に40キロのエジプトに近い場所。約束の地からはみ出たのかもしれません。だからでしょうか、イサクはそこから北東およそ30キロのイスラエルの最南端(参照;Ⅰサム3:20)、ベエル・シェバに上りました(23)。最南端ですからぎりぎり約束の地という所でしょう。そこはかつて父アブラハムが主の名によって祈った所でした(2133)。試練の中で亡き父を慕い求めていたのかもしれません。

しかしその夜、主ご自身がイサクに現われて仰せられます。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに」(24。父アブラハムを支え守り導き祝福して下さった主ご自身からの御声。イサクはどれほど心強く嬉しかった事でしょうか。イサクはそこに祭壇を築き主の御名によって祈ります。まず礼拝を捧げたのです。そして彼はそこに天幕(生活の拠点、家庭)を張り、イサクのしもべ達はそこに井戸を掘りました(仕事、そこに長く住む事の現れ)(25)。神第一の信仰生活です(参照;Ⅰ列王記17116「かめの粉と壺の油」の奇跡、マタイ63133)。

イサクは神に信頼し従う中で神に祝福を受けました。その根底にあるのは、「アブラハムのゆえに」。主とアブラハムとの契約のゆえに、イサクは主に祝福されたのです。私たちもイエス・キリストの十字架の血による契約のゆえに、ただ神の恵みにより、イエス様を信じる信仰によって、「キリストにあって」神の祝福にあずかります(ローマ42551、エペソ248、ヨハネ155、ガラテヤ314)。さて、イサクは試練の中で特に問題の無いレホボテに留まる事もできましたが、さらにベエル・シェバに上ってきた時、主が臨まれました。地味ですがそこに父亡き後、父アブラハムから継承した信仰が現われています。彼は誰に強制されたわけでもなく、神に従い自らを捧げます。それは主が共におられるという主の臨在の恵みの故でした。やがて敵対していた人達もイサクの祝福の歩みを見て、イサクと共に神がおられる事を認め(28)、彼の土地を認め、和平を結びます(2831)。奇しくもかつて父もこの地で和平条約を締結(2132)。ちょうどその日、掘っていた井戸から水が出たとの報告(32)。イサクは父と同じ試練を通して、神と共に生きる父と同じ信仰と祝福に導かれたのです。

【祈り】父なる神様。主を信じて従う祝福された生活をさせて下さい。アーメン。


2025年7月5日土曜日

7月6日(日)第一礼拝動画配信「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒の働き16章25~34節(新約268頁) 

 

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説教要旨「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒162534(新約268p

1.試練の中でも、神に信頼し続け、神を賛美したパウロたち(1625

使徒パウロがピリピという都市にいた時の事です。突然、占いの霊に取りつかれた女性がついて来て、パウロを困らせ続けます。ついに、パウロはイエス様のお名前によって占いの霊を女から追い出しました(1618)。すると、この女の占いでもうけていた人たちからパウロは恨まれ、役人に訴えられます(1921。町の人々も反対したので、パウロとシラスは何度もムチ打たれ、牢に入れられました。そして厳重に番をするように命じられた看守はふたりを奥の牢に入れ、足に足かせをかけます(2224)。良い事をしたのに、かえって苦しい目に合わせられたパウロ達。しかし獄に入れられたにもかかわらず、25節。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」。二人は苦難の中でも神に信頼していたのです。

 

2.人生の危機の中で受け取られた神の祝福(2634)

 すると26節。「ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」。そして27節。「目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。」のです。ローマ法によると、囚人の脱獄を許した看守は、その囚人に課せられていたのと同じ刑に服することになっていました。看守の人生は突然の地震で一転。死に直面させられました。そして、いざ、その死に直面した時、その死の先には何の希望もなかったのです。

しかし、そんな看守の所に希望の声が聞こえたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28とパウロは叫びます。まさか、と思ったでしょう。けれども、その声の通りでした。牢屋の扉が開いているのに、囚人は一人も逃げ出さなかったのです。まさに奇跡です。看守の命は救われたのです。看守は、この突然の地震というハプニングを通して、人生の土台を揺り動かされました。そして、死に直面した時、その先に何の希望も救いも無い事を知ったのです。

それは同じく、死ぬかも知れない状況に置かれてもなお、神に祈り、神に賛美を捧げる、二人の不思議な囚人パウロとシラスとは全く違う自分でした。そして、看守はこの時、二人に、救われるために何をしなければならないのかを尋ねます。

看守はひれ伏して二人に「救われるために何をしなければなりませんか。」(30と尋ねます。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31と伝えます。ローマ帝国において、主はローマ皇帝です。救い主はローマ皇帝であり、平和を与え、いのちを守ってくれるのはローマ帝国でした。彼らにとってローマ皇帝は神であり、神の子でありました。けれども地震を通して、看守は、そのローマ皇帝の支配下にあるローマ帝国の命令が、自分に死を迫り、そして、ローマ帝国は、その死の先にある絶望、滅びに対して何の力もない事を知ったのです。しかし、今や本当の救い主イエス様を信じるようにと招かれたのです。二人の囚人を苛酷な環境で生かし、強め、喜びを与えているのは、このイエス・キリストである事を知るのです。

さらに、パウロ達は伝道を続けます。32節。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」。すると、3334節。「看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(34なんと、看守とその家族が救われました!そこには大きな喜びがありました。

看守にやってきた突然の人生の危機。けれども、その危機さえも神様の御手の中にありました。それは看守とその家族が神の祝福を受け取り、救われるきっかけとなったのです。パウロとシラスの投獄・大地震さえも、神は益に変えられました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)主イエス様は私たちに、どんな時も、絶対絶命のピンチの時でも、希望を与え、絶望から救い、生きる力を与えてくださるお方です。苦しい、惨めな環境におかれても、主を信じる者に力と愛と喜びを与え、御業をなして下さるお方です。主イエス・キリストにより頼むなら、人生の土台は決して揺り動かされる事はありません(Ⅰペテロ26

主イエス様に信頼して、家族に仕え、主を証ししていきましょう。

(祈り)父なる神様。あなたが私達の人生の土台となって下さり、感謝致します。