2025年12月27日土曜日

2025年12月28日(日)第一礼拝動画配信「苦難の中でも主と共に生きる幸いがある」 マタイの福音書2章13~23節(新約p3)

 

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説教要旨「苦難の中でも主と共に生きる幸いがある」マタイ2章1323(新約p3

1.主への賛美と感謝(ルカ2章25~31)

 この聖書の箇所はクリスマスメッセージ(ルカ2120)の続きです。羊飼いたちの礼拝後、生後40日目にはエルサレムにて、主の教えの通りに、幼子をささげます(2224)。その時の出来事です。ここに主への賛美と感謝があります。

   シメオンの賛美(2531)

25節にエルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた」とあります。シメオンは神様から主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられて」(26)いました。彼は聖霊に導かれて、神殿に連れてこられた幼子イエス様にお会いしました(27)。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言います。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです」(2930)。シメオンの心は、たとい今、自分が死んでも、心安らかにこの世を去れる心となりました。それは、彼が神の御救いを見たからです。神の御救いとは主イエス様ご自身です。イエス様はイスラエルの救い主だけでなく、私たち異邦人の救い主でもあるのです(3132)

   アンナの感謝(3638)

さて、「アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」(3637)とあります。彼女は祈り深い、神に仕える敬虔な信仰者でした。彼女は短い夫婦生活の後、未亡人になるという喪失の悲しみを経験し、やもめとして過ごしました。そして84歳で救い主イエス様にお出会いしました。彼女は救い主イエス・キリスト様のゆえに「神に感謝をささげ」ました(38)。それは待ち望み続けた「エルサレムの贖い」をしてくださる方がイエス様だからです。さらに彼女はイエス様を人々に伝えたのです(38)。私達も苦難や悲しみを抱えていても、それでも、私たちを救い、救いを完成される、救い主イエス・キリストご自身を今、信じて仰ぎ、感謝、賛美致しましょう。

2.油断せずに主に聴き従う(マタイ2章1323)

マタイ2112クリスマス礼拝でご一緒に見ました。東方の博士たちを不思議な星が導いて、救い主である幼子イエスまで導きました。博士たちはイエス様を礼拝し、贈り物をささげました (11)。そのような、心温まる出来事の後、主の御使いから神の言葉がマリヤの夫ヨセフに与えられます。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています」(13) 。そこで、「ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、 ヘロデが死ぬまでそこにいた」(1415)のです。一方、ヘロデ王はイエス様を殺そうとしていました(マタイ281316)。しかし、博士たちは主に示しを受けてヘロデの所には戻りませんでした(12)。すると、「ヘロデは、…激しく怒った。そして人を遣わし、…ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。…」(16)のです。嬉しい喜びと感動のクリスマス直後の試練…。しかし主が守ります。そして再びエジプトにいるヨセフに主の御使いが現れました。「立って、幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」(20)。ヨセフは主のお導きに従います。「そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。」(21)このように従順に主に従い続けてきたヨセフでしたが、「アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れ」(22)ます。しかし、ヨセフはそのような恐れを抱く状況の中でも主に信頼し、祈りつつ、主の警告に従い(22)、ガリラヤ地方に退き、ナザレ村に行って住みます(2223)。これらの出来事は父なる神様が事前に預言していた通りでした (15,17,23)。苦難を含めて、全ての事は全知全能の神様の計り知れない御摂理の御手の中にあるのです。その中で父なる神は、幼子イエス様の父として、神に信頼して聞き従い、神と共に歩むヨセフを用いられました。ヨセフは私たちの信仰の模範です。試練や苦難の中でさえも最善に守り導き、その中でも幸いを与える事のできる神を信じてお従いしましょう。この年末年始、主を信じ仰ぎ祈り、主に感謝しつつ、偶像礼拝等の罪は油断なく避けつつ過ごしましょう(Ⅰコリント101314)。

(祈り)主なる神様。主に感謝しつつも、油断せず、この世の旅路を歩みます。アーメン。


2025年12月23日火曜日

2025年12月20日土曜日

12月21日 礼拝動画配信「天地に輝く主の栄光」ルカの福音書2章8~20節(新約p110)*回線不具合のため説教要旨のみです。

説教要旨「天地に輝く主の栄光」ルカの福音書2章8~20節(新約p110

先週はルカの福音書217節にて、イエス様が御降誕後、飼葉桶に寝かされた所でした。救い主キリストなのにどうして?神様はなぜ、そんな状況になるのをお許しになったのか?しかし神様には深い御心があったのです。

1.羊飼いたちにとってのしるしとなった、飼い葉おけのキリスト(812

さてイエス様が御降誕された夜、羊のお世話をしていた羊飼い達の所に、突然、天使がやってきました。天使によって神様の栄光があたりを照らしたので羊飼い達は「この上もなく」恐れました。しかし、彼らに天使は言いました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」(10)。「この民全体」とありますが、この大きな喜びはユダヤ人だけでなく全世界の人の喜びでもあります。この上もない恐れにある羊飼いたちに、この上もない喜びの福音が与えられました。

この知らせを聞いた羊飼いたちは、羊を飼って生活をするため、宗教家たちが作った規則を守るのが難しかったのです。周りの人から、「汚い」、「悪い人達」と見られて、嫌われて、みんなから仲間外れにされていた人たちでした。裁判で証言する事もゆるされませんでした。しかし、神様は、この羊飼いたちに、一早く、この知らせを教えてくれたのです。それによって、神様は全ての人にこの良い知らせを伝える、という事を示したのです。

その良い知らせとはこれです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(11)。この当時、「救い主」という名前はローマの王様を呼ぶときに使われていましたが本当の救い主(「癒し主」の意味もあり)はイエス様だという事を天使(医者ルカも)は示します。主というのは神様という事です。「キリスト」とは私たちを完全に救ってくださる救い主の事です。神であり救い主であるキリストが今日、赤ちゃんとなってお生まれになった。キリストは全く神でありながら全く人となって来られたお方です。それは私たちの救いのためでもあります。

さらに天使は言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」(12)。なんと、その救い主が、動物のえさ箱に寝かされているというのです。そして、天使達の言う事は本当でした。いつも、羊を飼いながら、家の外で、羊と一緒に夜も昼も寒い時も生活をしていた羊飼いたちにとっては、動物小屋に寝ている救い主イエス様を身近に感じたはずです。

主は愛の冷えた世の状況すらも、全てを神の益の為に用いられました。天の王座から、誰でもお会いできる家畜小屋の飼い葉おけにまで、神である救い主は、降りて来て下さいました。これによって、羊飼いたちがキリストと出会う機会となったのです。このキリストの愛と謙遜が輝く時となりました。

2.天の父なる神に栄光、地の御心にかなう人々に平和(1320

イエス様の御降誕というあまりの出来事の故に、天使たちも神を賛美せずにはおれなかったのでしょう。また、「平和がみこころにかなう人々にあるように」と祝福せずにはおれなかったのでしょう。「みこころにかなう」とは「神に喜ばれる」の意味。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」(へブル116)(その他、へブル1038を参照)。神の御心にかなう人、神に喜ばれる人とは、イエス・キリストを信じて、神の救いの恵みを受け取る人です。そして、イエス様を信頼して生きていく人です。そういう人に(の中に)「平和」と天使は歌いました。「平和」とはギリシャ語ではエイレーネーで、ヘブル語でいえばシャロームです。①平和、泰平、和睦、融和、安全、②平和、安泰、無事、幸福、③神の国の内容に従ってキリストによる救いの内容をなすもの、の意味です。命や幸福があふれる言葉です。イエス様にこのシャロームがあります。永遠の命、全き愛、限りない神の愛、世が与える事のできない全き平安、知恵、力、聖霊の満たし、安息…。イエス様に信頼して生きる人の心には神からの愛、喜び、平安が与えられ、人を愛し、平和を造り出す人になっていきます。それは聖霊によるのです(ガラテヤ5章)。

羊飼いたちの前から天使が消えても、彼らは、神の御言葉がその通りになった事のゆえに、神を賛美しています。彼らの帰るところは相変わらず、差別される羊飼いとしての生活です。しかし、彼らの心に天からの喜び、キリストから来る平和が満ちました。彼らはキリストを信じて救われたのです。

【祈り】天の父なる神様。私たちにも救い主、主イエス・キリスト様による救いと平和をお与え下さり感謝です!主に栄光がありますように!アーメン。


2025年12月13日土曜日

2025年12月14日(日)礼拝動画配信 「試練の中でご降誕されたイエス様」ルカの福音書2章1~7節(新約p110)

 

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試練の中でご降誕されたイエス様ルカの福音書2章1~7節(新約p110

アドベント第三週。続いて救い主イエス様の御降誕について心を向けましょう。

1.神の預言の約束の成就(2・1~7、ミカ5・2)

今からおよそ2025年前の事です。ローマ帝国の皇帝アウグストゥス(前27~後14年在位)が勅令を出します。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。」(13)。第一回の最初の人口調査は前8~後6年頃の長きにわたって行われたとも言われています。ユダヤ民族の場合は自分の家系であり血筋でもある、先祖の町に帰らなければなりませんでした。そのため、4,5節。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。とあります。主イエス様の母マリアのいいなずけの夫で、イエス様の法的社会的な父親となるヨセフも住民登録の為に自分の先祖の町ベツレヘムに帰りました。彼はダビデ王家の家系・血筋だったからです(Ⅰサムエル161、マタイ1118)。しかし彼はこの時、ガリラヤ地方のナザレに住んでいたので、そこから旅をします。

その時、彼はいいなずけの妻マリアを連れていきました。マリアは妊娠中で胎内には赤ちゃんがいました。その子は神様の力で奇跡的に処女マリアの胎にお宿りになった、神様の子であり神様であるイエス様でした(ルカ12638)。

ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでは140キロの長旅。出産間近のマリアと胎児にとって命がけの旅。ベツレヘムの町でも、住民登録の為に人が多く帰って来ており(3)、宿屋には泊まれる場所がありません。しかも誰も、今にも子どもが生まれそうな妊婦に部屋を譲る人がいませんでした。そんな時に赤ちゃんが産まれてきました。6,7節。ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからであるそれで母マリアは初産なのに、最初の子である赤ちゃんイエス様をこのような形で出産し、布にくるみ、動物のえさ箱に寝かせるしかありませんでした。神様、なぜ、よりによってこんな時に…!? でも、それが神の時(タイミング)だったのです。胎児のイエス様始め、マリア、ヨセフにとって大変な試練の時でしたが、旧約の預言ミカ5・2の通り、イエス様はユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。ローマ皇帝の一方的な命令さえも用いて、主はご自身の約束を成就されたのです。

2.飼い葉おけに寝かされたイエス様に見る謙遜(7)

でもなぜ、神の子、キリストであるイエス様は天地万物の王であるのに飼い葉おけに寝かされる事を主は許されたのでしょうか。神様はこの事さえも神の目から見た益になさいます(ローマ828)。すなわち、8節以降で、当時、社会から疎外されていた羊飼い達にとって、キリストご降誕のしるしとして、この飼い葉おけに寝かされた事すらも主に用いられます。それは今日も、全ての人の救い主キリスト様のご降誕のしるし、福音の良い知らせのしるしとなっています。

すなわち、飼い葉おけに寝かされたキリスト様のお姿に、救い主キリスト様の十字架に至る謙遜を見ます。救い主キリストは神でありながら、人間の赤ちゃんとなってこの世界に来て下さっただけでなく、飼い葉おけに寝かされる事も受け入れて下さいました。世間の冷たさにさらされても、それでも、この罪の世にとどまって下さったのです。人となられた神であるイエス・キリストには全く罪がありませんでした。しかし私達罪人を救うために主イエス・キリストはこの罪の世に、人となって来て下さったのです。しかも、十字架で全人類の身代わりに死ぬために神の御子は人間となられたのです(ピリピ259)。十字架の死に至るまでの主イエスの謙遜!このイエス様の謙遜と愛のゆえに、主イエス・キリストを信じる者が救われる、救いの道が開かれたのです(ヨハネ316)。

主イエス・キリスト様は飼い葉おけにお宿り下さったように、神の御前に罪のある私たち人間の心の中にもお宿り下さいます。こんなに罪深く、弱い、私たちのうちにも、イエス様を信じて心を開くならば、キリストは喜んで私たちの心の中に来て下さるのです。そしてそこに生き、住み、治め、きよめて下さいます。イエス様を心の片隅に追いやるのでなく、心の王座にお迎えし、礼拝しましょう。

(祈り)イエス・キリストの父なる神様。私たちにあなたの大切な独り子、神の御子イエス様をお遣わし下さり感謝致します。どうぞ、主イエス様、私の心の中にお宿り下さい。そして私の人生を主として王として導いて下さい。アーメン。



2025年12月6日土曜日

2025年 クリスマス諸集会のご案内

 


2025年12月7日(日)礼拝動画配信「主と主のみ言葉を信じる時に見えてくるもの」マタイの福音書1章18~25節(旧約p1~2)

 

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         *回線不具合のため、途中までとなっております。ご了承ください。


「主と主のみ言葉を信じる時に見えてくるもの」マタイ1章18~25節(新約p12

アドベント(待降節)第二週目に入りました。今朝も主イエス様の御降誕を記念するクリスマスに備えつつ、イエス様のご降誕について見て参りましょう。

1.聖霊によって処女マリアの胎に宿られた主イエス様(1820)

18節。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」。すでに婚約していたイエス様の母となるマリアとその婚約者の夫ヨセフ。しかし二人が同棲する前にマリアの胎に子がいる事が判明します。その妊娠は「聖霊によって」とあります。マリアはその事をヨセフよりも先に天使から告知されていました(ルカ12638)。その妊娠は全能の神による奇跡でした。マリアはその事を受け入れ、主に自分自身を委ねます。「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」(ルカ138。ここに神への全き信頼を見ます。人は誰も主イエスが聖霊によってマリアの胎盤に受胎した瞬間を見てはいませんが、マリアはその現実が自分の体になり、妊娠する事を実体験しました。

一方、マリアの婚約者の夫ヨセフは自分があずかり知らない、マリアの妊娠を聴いて苦悶します。そして19節。「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」。婚約中に婚約者以外の他の男性と関係をもつなら、それは旧約聖書の律法違反であり、姦淫と同じになります(申命記222224)。ヨセフは神を敬う正しい人でしたので自分のあずかり知らない妊娠をしたマリアを妻にめとるわけにいきません。そして当時の律法解釈、申命記241に基づいて離婚状を書いて内密に離縁する事にしたのです。それはマリアが人々にさらしものにされる事から守ろうとしたのです。ヨセフはマリアを愛していました。しかし決断したのに彼は「このことを思い巡らしていた」20。「マリアがそんな事をするだろうか…しかしなぜ妊娠するのだ…神の御心はどこにあるのか」と苦悩していたのでしょう。そんな時、20節。『彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」』神は夫のヨセフにもマリアの胎の子が聖霊による事を教えて下さいました。不可解な事も、主なる神様と主の御言葉を信じていく時に、見えてくるものがあります。

2.ご自分民を諸々の罪から救う王、主イエス様(21)

さらに神の使いはヨセフに告げます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」(21「罪」とは原語では複数形ですので「諸々の罪」とも訳せます。私たち人類を不幸のどん底に突き落としてきた、その諸々の罪から御自分の民をお救い下さる救い主がマリアからお産まれになる。ですから、20節。「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と天使は告げます。ヨセフは主の御言葉の通りにします(2425)。

3.共にいて、親しく交わって下さる主イエス様(2223

しかも、2223節。『このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。』。このイエス様のご降誕についてはイザヤ書714節の預言の成就でありました。危機的状況の中で、主の方から恵みによってユダの国に与えられた主からの「インマヌエル」預言。その預言の全貌がついに実現したのでした。人類のもろもろの罪から救って下さる救い主が、この罪深き世に、神でありながら同時に人間となってお越し下さった!困難な世でも、主イエス様を信じ受け入れる者と共に生き、寄り添い、その中に生きて下さり、親しい交わりを持って下さり、ご自身の永遠の命をもって生かして下さる為です(Ⅰヨハネ1・3、黙示録320

その後、主イエス様は十字架でわれらの罪を身代わりに背負って、身代わりに死なれます。そのために、ご降誕下さいました。ですから罪からの救い主イエス・キリスト様を信じて受け入れる時から、罪から救う力が働き、神の永遠の命がその人を真に生かします。そして罪の病とその結果である罪の生活と永遠の滅びから救われます。御子イエス様が身代わりに死ななければならないほどに罪深い場所が人間の心です。そんな心の真ん中に、罪なき聖なるイエス様が来て下さいます。そして罪に勝利し、愛に生きる人生を送らせて下さるのです。それは人類の全てのもろもろの罪を、主イエス様がすべて身代わりに背負って十字架で死んで下さったから成就した救いです。そして神の聖霊による神の御業です。

(祈り)主よ。この罪の世界に来てくださり、十字架で救いを成就し、あなたを信じる私の心の中にも来て、共にいて、親しい交わりに入れて下さり感謝します。アーメン。



2025年11月30日日曜日

2025年11月30日(日)礼拝動画配 *回線不具合のため説教要旨のみ

 

絶望の闇に輝く神の希望の光イザヤ書9章1~7(旧約p1180~)

イザヤの時代、イスラエル統一王国は南北に分断。特に北イスラエルはアッスリヤ帝国に侵略され絶望的な状態に(8・22)。そんな民に対する希望の預言が9章1~7節です。さらにこれは全ての人に対するメッセージでもあります。

1.救いの希望の約束(12)

その後の事については912節。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱しめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川の川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」とあります。「先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱しめを受けた」とありますが、これはアッスリヤ帝国によって占領されたナフタリとゼブルンの地域の事です。「海沿いの道」、「異邦の民のガリラヤ」、「ヨルダン川の川向こう」とは、アッスリヤの占領により、アッスリヤ直轄地となった地のことです。

2.真の平和をもたらす救い主の約束(3~7節)

3節にあなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。とあります。絶望的な死の陰にある民に、この3節のような収穫と戦利品を受ける時のような喜びが与えられる根拠・理由は、第一に主に信頼する者に与えられる罪と悪魔からの解放(4節)。第二に主なる神が、敵から守り、戦争を終らせ、平和を与えられる事(5節)。そして第三の根拠が6~7節です。

6節。ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。イスラエルの民、さらには全人類のために神が「ひとりのみどりご」(赤ちゃん)をお与えになる。この方は、「不思議な助言者」。これは「驚異、非凡」なる「相談者、預言者」の意味です。「不思議」とは「人間の力をはるかに超えた神による驚異的な働き」。この方は「不思議な助言者」でありながら同時に王なのです。すなわち助言者を必要としない王。私たちを王として守り導きつつ、神ご自身による人間の力や知恵を超えた驚異的で適切な助言をして下さるのです。②「力ある神」。神以上に力ある勇者はおられません。今も、歴史を動かす主なる神です。③「永遠の父」。自分の子どもを愛する父親のように憐みに満ちた保護者です。④「平和の君」。このお方の支配下において、真に平和な支配をもたらされます。この「平和」とはヘブル語でシャロームです。シャロームとは、「健康であり、平安であり、健全さであり、安全であり、欠けるところのない」全き状態です。良きもので満たされている状態です。公には戦争の無い状態であり、個人的には平安と安心の状態です。イエス・キリストはその平和を永遠に確立し、もたらしてくださる王であるお方です。

まさに7節。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。とあります。このお方の統治は平和による永遠の統治です。しかも、不正不義を許さず、公正と正義によって国をいつまでも確立されます。「さばき」とは判断においてまっすぐで正しいこと。「公平」という意味もあります。不公平がない真の正義の政治がその王国ではなされるのです。「正義」とは、神のご意志であり、神の基準である神の御言葉に対して、道徳的にも、倫理的にも、あてはまる事、です。

当時の現実のユダの国の姿を見て、亡国の運命にあるイスラエルを見ていては、決してその延長線上に、このような王国は描けません(鍋谷)。しかし、イザヤはそれが絶対に実現すると保証します。なぜなら、これは神から出た事だからです。主導権は主にあるのです。ですから、そのような救いの御業を、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。と保証し、宣言しています。それは、王であり神である「ひとりのみどりご」が、ダビデの王座に座し、「さばきと正義」によって統治することによって実現します。そして、「その平和は限りなく」、なんと、今よりとこしえまで続くのです。王である神は揺るがないのです。この「熱心」とは「ねたみ」とも訳される強い感情の言葉。神の民に対する主の愛とあわれみの激しい熱意がこの事を必ず来たらせるので、これを阻止できるものは何もないとの宣言です(鈴木昌師)。主が救ってくださり、その救いを全うしてくださるのです。「人間の側の不可能を超えて、〈万軍の主の熱心〉が救いを達成する」(鍋谷師)。これは、主イエス様によって実現するのです(ピリピ16)。

(祈り)主よ。どんな時も主イエス様とみ言葉に信頼し期待し従います。アーメン。

2025年11月24日月曜日

2025年11月24日(日)第一礼拝配信「主イエス様と共に働き、共に喜ぶ」ヨハネ4・27~42(新約183~184頁)

 

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主イエス様と共に働き、共に喜ぶヨハネ4・2742(新約183184)

 今朝は、イエス様とサマリアの女性の対話のその後について見ましょう(詳しい対話内容はこちらをクリック⇒「日本イエス・キリスト教団   長崎めぐみ教会: 11月19日(日)礼拝録画配信 「あなたを熱く望んでおられる父なる神」ヨハネの福音書4章15~26節(新約182~183頁)」)。

1.神様の目から見て誰もが高価で尊い存在(35

 イエス様はサマリア人の女性との対話を通じて彼女を救いに導かれました(626)。その時、弟子たちが買い物から帰ってきました(27)。サマリアの女性は水をくみに井戸に来たのに、水瓶を置いて人々にイエス様の事を伝えに行きました(2829)。そして人々が続々とイエス様のところに集まってきます(30)。イエス様はそんな彼らを眺めながら弟子たちに言います。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」35。「色づいて」とは、「輝いて光っている」という意味もある言葉です。ユダヤ人たちはサマリア人を汚い存在、敵と見ていました。しかし、イエス様からご覧になって、イエス様に救いを求めて来るサマリア人たちは、光り輝く宝石のような、神の愛が結実した尊い存在なのです。そもそも神様の目には、全ての人が、御子イエス様が身代わりに死なれる程に、尊い存在なのです(イザヤ434、ヨハネ316)。

 

2.神様の御心を行う者に与えられる喜び(3236

イエス様は弟子たちに「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。…わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」(3234と話されます。イエス様がこの地上に来られたのは、父なる神の御心を行うため。それは人々の魂の救いのためです。イエス様がこの後、十字架におかかりになられたのも、その後、復活し、天に昇られ、そこから約束の聖霊を弟子たちにお注ぎになられたのもそのためです。すべての人の救い、一人の人の救い、これはイエス様が切に渇き求めている事なのです。そして一人の人の救いがなされると、天において、大きな喜びがあるのです(ルカ15章)。

イエス様は旅の疲れがありました。昼ご飯抜きの状態でした。結局、水も飲めず、のどはカラカラだったかもしれません。しかしイエス様は父なる神の御心を行うという食べ物をいつも持っておられ、それをこの時も召し上がられました。ですから、イエス様の霊魂は喜び満足しておられたのです。それはまだ、この時は弟子たちの知らないものでした。しかし、やがて彼らも神の御心を行い、福音を、イエス・キリストの救いを伝えていくようになるのです。私たちも神の御心を行う時に喜びが与えられます。イエス様や預言者たちが蒔いた種の刈り取りを弟子達がしました(42)。それは弟子たちが苦労しなかったものです。労苦して、み言葉の種をまいてきた、預言者やイエス様、神様がおられたのです。この時もイエス様が種まきをして多くの人たちが救いを求めて集まってきました。刈り取った人とはサマリアの女かもしれません。彼女は救われて、永遠の命を受ける人たちを集めてきました。「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者が共にともに喜ぶためです」(36と主は言われました。隣人に神の愛を示し福音を伝える。これは神の御心。神の御心を行う者に、神様からのお報いがあり、神様から与えられる喜びがあります。

 

3.広がりゆく救い(3942

39節。『さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した。」と証言した女のことばによって、イエスを信じた』とあります。イエス様と向き合って語らい、イエス様を知った事を素直に語り続けたこのサマリアの女性。その彼女の素朴ながらも、真実で継続的な証言の言葉が神に用いられました。41節。「そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」。サマリアの人たちは何か奇跡を体験したわけではありません。サマリアの女性の証言を聴いて導かれ、主イエス様のみ言葉を聴いて信じたのです。イエス様が敵対関係、怨念関係を乗り越えて、サマリアの地に滞在して下さった事も彼らの心に届いたのでしょう。奇跡も体験していないのにイエス様の愛とみ言葉によってイエス様を信じた。これは素晴らしい信仰です。さらに素晴らしいのは42節。『そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」』 。彼らは確かにサマリアの女の話を聞いてイエス様を信じました。しかしその後、直接イエス様と向き合い、自ら直接イエス様のみ言葉を聴く中で、「この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」と告白するに至ったのです。主と直接、よく向き合う大切さを教えられます。

【祈り】主なる神様。主と共に働き、共に喜ぶ者とさらにして下さい。アーメン。

2025年11月15日土曜日

2025年11月16日(日)第一礼拝配信「悔い改めて救い主イエス様を信じる」マルコの福音1章14~15節(新約65p)

 

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第一礼拝説教要旨(後藤健一)

悔い改めて救い主イエス様を信じる」マルコの福音11415節(新約65p)

マルコ1章1節には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。これはマルコの福音書全体を示しているものと思われます。マルコの福音書には主イエス・キリスト様のことばや行いなどについて記されています。主イエス・キリストご自身について記されています。さて福音とは「良いおとずれ」の意味で主イエス・キリストご自身についての知らせです。

マルコの福音書1章14~15節をご覧ください。『ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」』とあります。イエス様の道備えであった、バプテスマのヨハネが捕らえられるというショックな出来事の後にもかかわらず、主イエス様はガリラヤ地方に行き、神の福音を伝えました。「神の国」とは「神の王国、支配、王権」という意味です。神は愛のお方ですから、神の愛の支配、神の恵みの支配、それが神の国です。それがイエス・キリストの到来によって、すぐそこにまで近づいた、のです。永遠から存在しておられる神であるイエス・キリストが、神に選ばれた処女マリヤのおなかの中に、神の霊である聖霊によって、奇跡によって、お宿りになり、そして、私たちと同じように、人間の赤ちゃんとなって、この世界に生まれてきてくださったのです。この罪にまみれた世界に、神が神でありながら、同時に人となって、来てくださったのです。それは、私たちを神の国、天国に救い入れるためでした。その神の国に入るために、主イエス様は「悔い改めなさい」、そして「福音を信じなさい」と命じられています。

.悔い改めて、神に心を向ける

悔改めとは、罪と罪の生活と決別する心をもって、神に心を向けることです。神に背を向ける人生から、神に心を向けて神に立ち返る決心です。悔い改めは救われるために必要不可欠です。でも、神様のところに帰ろう、と思っても、自分の力では、どうやって帰ればいいのかわかりませんし、帰れません。天国までどうやっていけばいいのか。天国は私たちには見えません。また神の国に永遠に住めるのは、神の国の王の許可を頂いたものだけです。

しかし、神の国、天国の全権をもっておられる神の国の王であるイエス・キリストが、お迎えに来て下さいました。「ついに、天国が近づいたよ、こっちを向いて、こっちに来て、私を信じて、天国に入りなさい」とイエス様は言われるのです。もし、神様にそっぽを向いていたなら、神様の方に向きなおり、方向転換して、神様の方に行く心をもつことが悔い改めです。

 

2.福音(主イエス・キリスト様)を信じる

悔い改めて父なる神に立ち返る人に、父なる神は救い主イエス・キリストを示されます。このお方は罪人を愛し、罪人が赦されるために十字架で身代わりに死なれました。神の子として回復されるための全てを、父なる神はイエス・キリストによって備えて下さいました。あとはイエス・キリストを信じれば、父なる神のみもとに帰り、神の子として受け入れられ、神の子として回復していただけるのです。福音とはイエス・キリストご自身です。父なる神が人類の救いのためにお送りくださった唯一真の救い主です。このお方以外に救いはありません。このお方が父なる神のみもとに帰る一本道です(ヨハネ146)。天国の道を神の方で用意し送ってくださいました。イエス・キリストは生きた天国への道です。同時に天国そのものです。天国の王ですから。そのお方が迎えに来て下さったのです。

イエス・キリストが私たちの罪、汚れを全てその身に負われて、十字架で身代わりに、父なる神の怒りの刑罰を一身にお受け下さいました。そして身代わりに汚れなき血を流し死んで下さいました。それゆえに、悔い改めて神に立ち返り、イエス様を信じる者は罪を赦されて、神の国に入国する事が許可されるのです。罪と罪の生活と決別する心をもって神に心を向け、神の国の王であられる主イエス様を信じて心にお迎えしましょう。主イエス様は罪を赦し、罪から救って下さいます。そして、イエス様にお従いしましょう。

 

(祈り)唯一まことの神様。私達を罪と滅びから救うために、あなたの大切な神の独り子イエス・キリスト様をこの世にお送り下さり、救いを成就して下さり感謝致します。悔い改めてイエス様を信じます。イエス様の名によって。アーメン。

           



2025年11月8日土曜日

2025年11月9日(日)第一礼拝配信「不可解な試練の中でも主を信頼する」創世記22章1~14節(旧約聖書p35~36)

 

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説教要旨「不可解な試練の中でも主を信頼する」
(創世記22章1~14節)(旧約34~35頁)

 思いがけない不可解な試練に遭う時、みなさんはどうされるでしょうか?

 アブラハムの生涯は試練の連続でした。一難去ってまた一難。しかし、そういう中でも、アブラハムに幸せな時がやってきました。ついに奇蹟的に、夫婦ともに高齢でありながら、神様の約束どおり、念願の最初の子ども、長男が与えられたアブラハム(21・1~2)。順調に成長する長男。アブラハムの心は喜びと平安で一杯だった事でしょう。将来の夢もふくらんだでしょう。神様の約束の希望の実現を楽しみに、老後の楽しみも一杯だったでしょう。息子が頼もしく、うれしく、喜びだったでしょう。

しかし、ある時、彼に、主からの試練が来ます(22・1)。神様からアブラハムに「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物としてとして献げなさい」()。「全焼のささげ物」とは、通常は、動物を殺して全部ささげて祭壇の上で焼いて煙にする事です。何と息子イサクをそのささげ物にしなさい、というのです。耳を疑うような全く理解不能の命令です。殺人は神の御心に反し(9・6)、子を殺す事は親の人情に反し、これまで聞いてきた神様の約束にも反します(17・19)。しかし、何と即座に翌朝早く、アブラハムは行動に移していきます()

 モリヤの地に行くアブラハムとイサク()。イサクはたきぎを背負って山に登れるほど成長しました。10代中ごろ~20歳くらいでしょうか。そのイサクは、全焼のいけにえの羊がいない事を不思議に思い、父に尋ねます()「火と(たきぎ)はありますが、全焼のささげにする羊はどこにいるのですか。すると、アブラハムは答えます。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」(8)。アブラハムは「主が備えて下さる」と答えました()。この「備える」はラテン語の聖書ではプロヴィデ(Provide)、英語のプロヴィデンス(Providence、「摂理」)の語源との事です(森島豊師)。「先に」(Pro)、「見る」(vide;ビデオの語源)。ここでは「備える」と訳している(森島豊師)。何かに備える時、「先を見て」備える(「Provide」する)(森島豊師)。この点、「アブラハムはここで‥『神が先に見ていて下さる』と言いながら歩み続ける。目に見えない神が、さらに見えなくなるような出来事が身にふりかかってきた。「自分の愛する独り子を殺せ」という、神のお考えが全く分からなくなる出来事が起こった。見えないという事はわからないという事。私たちも神がわからなくなってしまう出来事に直面することがある。…『神様なぜですか!?』という出来事がおこる。アブラハムはそういう神がわからなくなる出来事が起こった中で…「神が必ず見ていて下さる!」と息子に語りながら歩んで行った。私たちには神が見えない。けれども、神は私たちの事が見えているはずだ…神がきっと見ていて下さる。その言葉を心に聴きながら、歩んでいく。他者と一緒に語り合いながら。」(森島豊師)と解説されていました。さて、ついにモリヤの地に着くと、アブラハムは祭壇を築き、そして(たきぎ)をならべ、イサクを縛り、祭壇の上の(たきぎ)の上に置きました。そして、主なる神様の言われた通りに手を下そうとしたまさにその時の使いがアブラハムを呼び言いました「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(12)。そして、身代りの羊が与えられたのです(13)!すなわち、アブラハムが目を上げて見ると、「見よ、一匹の雄羊が角を(やぶ)引っかけていたアブラハム行ってその雄羊を取りそれを自分息子の代わりに全焼ささとした」のでした。主が備えて下さっていました(14)。ですから、アブラハムはその場所の名をアドナイ・イルエ【『主の山には備えがある』の意味。直訳は「彼は見た、(神に)見られている事を、主の山で」(森島豊師)】と名付けました。なお、この雄羊は私たちの身代わりとなって死なれたイエス様のひな型です。さて主は、主に全く信頼し従うアブラハムの信仰が本物である事を確認し、豊かな祝福を約束します。すなわち、「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(1618。アブラハムはこの試練を主への信仰による即座の惜しみなき従順をもって乗り越えました。私たちの人生にも時に不可解な、よくわからない、「神様、なぜですか?」と問いたくなるような出来事がありえます。ヨブもそうでした。しかし、その試練も全て神の御手の中にあるからこそ、全てを見通して、必要を備えて、最善をして下さる主に、それでも信頼したいと思います。

(祈り)主よ。不可解な試練の中でもあなたに信頼させて下さい。アーメン。


2025年11月1日土曜日

2025年11月2日(日)第一礼拝配信 マタイの福音書18章1~5節(新約聖書p36) 「小さい子どものように主なる神様を信頼する」 

 


説教要旨「小さい子どものように主なる神様を信頼する」マタイ1815節(新約36)

 本日は子ども祝福式です。今一度、子どもたちを愛されたイエス様に心を向けたいと思います。イエス様の受難予告の後、弟子たちはお互いの間で誰が一番偉いか?と議論し、イエス様に尋ねます。1節。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」。この問いに対するイエス様の答えが2~5節です。

1.天国に入るためには?(23)

 まず2~3です。イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。。ここで、イエス様は、「自分が一番偉い」とお互いがはりあって、お互いを支配しようといた弟子達に対し、幼い子を呼び寄せて御自分の側で真ん中に立たせ、「向きを変えて」つまり「悔い改めて」、「心を入れ替えて」、「子どもたちのように」ならないならば、天の御国で一番になるどころか、その天の御国に入ることさえできないよ、と言われたのです。一体どういうことでしょうか。「小さい子ども」は保護者に頼って生きています。一人では生きていけない弱くて小さい存在です。いばろうにもいばれません。もちろん、小さい子も罪びとですので、わがままな心はもっていますが、彼らは自分の弱さ、小ささを体験的に知っていて、保護者が必要である事を知っているのです。

さて「天の御国」とは神様の恵みの支配の事を表します。天国の王様は天の父なる神様であり、その御子イエス様です。この幼な子のように、主に保護してもらわなければ(救ってもらわなければ)自分では生きていけない、その事を自覚している人こそ、イエス様により頼み、イエス様の愛と恵みの支配を心から受け入れ、そして天国に入るのです。一方で「自分が一番偉い」と思い込んで、他の人を支配しようとする心は、天の御国においてふさわしくありません。それは天の御国の王である主の御支配に反する事だからです。

ですから「自分が一番偉い」と思って、ほかの人を支配しようとする心の向きを変えて、そういう生き方、考え方を変えて、そして、幼な子のように、自分の無力、自分の罪深さ、神の前に自分の力では到底立ちえない、立場無き身であることを素直に認めて、悔い改めて、イエス様の前に自分を低くする事が必要です。そして、ただイエス様の愛と恵みの支配(救い)に寄りすがって救って頂く事が、そもそも、天の御国で生きるために、全ての人、全てのキリストの弟子に必要不可欠な事なのです (3、参照;ルカ151124)

2.天国で一番偉い人は?(4)

 さらにイエス様は弟子たちの質問に答えます。4節。「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。自分の無力さ、立場の無さを認め、素直に、イエス様の愛と恵みの支配を受け入れる人が天国に入ります。天国はそういう人達の国なのです。そういう人たちは、イエス様を王様としている人です。神の前に、子どものようにへりくだる人です。そして、イエス様に信頼して従う人です。そういう人は謙遜な人になります。なぜなら、イエス様が謙遜な方だからです。イエス様こそ十字架の上で私達の全ての罪と汚れと呪いを背負い、父なる神から身代わりに罰を受けて一番自分を低くして下さった(劣った地位を受け入れた)方で、天国で一番偉いのです。私たちはこのお方に倣い聴き従うべき存在なのです。

3.イエス様を真ん中にして、子どもを含めて、おたがいを大切に(5)

さらにイエス様は言われました。5節。また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。。ここで、「このような子ども」とありますが、これは悔い改めて、こどものように自分の無力を認めて、イエス様を王様として心に迎えたキリストの弟子の事です。キリストの弟子は、自分の罪深さを認め、神の前に自分の力では立てない事を認めて、自分の小ささを認めています。へりくだっています。ですから、この世においては軽んじられたりしやすいでしょう。しかし、イエス様を心の王座にお迎えしている人なのです。ですから、このような、幼な子のようにイエス様を心の王座にお迎えしている人を、イエス様の名のゆえに受け入れる人は、イエス様を受け入れるのです。主にある兄弟姉妹、互いに主を中心にして、愛し合う事が大切であることを教えられます。

(祈り)主よ。私たちは皆、幼子のように弱く小さい者です。ただあなたの恵みによって生かされ、主イエスを信じて救って頂いた恵みを感謝致します。私達も主イエス様に倣って生きられますように。アーメン。出典:©2017 新日本聖書刊行会



2025年10月25日土曜日

2025年10月26日(日)第一礼拝配信 午前9時半~ 



 説教要旨天国の道への招き」ヨハネ14章1~6節(新約213)

今朝はヨハネ14章1~6節を改めて心にとめましょう。以前、英国女王エリザベス2世の国葬でもこの聖書の箇所が、当時のトラス首相によって朗読されました。キリスト御自身の自己紹介が記されている箇所です(6節)。この時の弟子たちは、おそらく、今後の事について不穏な空気を感じ、先行きが見えず(133038等)、恐れと不安の中で主イエス様を見失っていたと思われます。そんな弟子たちにイエス様は改めてご自身について、お示しになったのです。

1.常に信頼に足るお方、主イエス・キリスト(1

1節。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。唯一まことの父なる神を信じ、神の御子であり神であるイエス・キリストを「信じ続ける」様に、信仰にとどまるように言われています。人は恐れや不安に支配されると、できることまでできなくなってしまいます。しかし、旧約聖書において啓示されている、唯一真の絶対者なる神、全知全能の、創造主なる神を信じ、また神の子であり神である、主イエス・キリストを信頼する時、安心し、恐れと不安から守られ、「心を騒がせられること」、「心かき乱されること」から守られるのです。そこに主イエスの与える永遠の命(ヨハネ316)と平安があり、主イエス様が与えて下さる真理による自由があります(83236)。

 

2.神の御許(天国)に居場所を用意して下さった主イエス・キリスト(2~3)

続いて2でイエス様は言います。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか」。「住む所」とは「父の家」にあります。神の一つの家の中にあるのです。そこは天国、神の国、父なる神の御許とも言い換えられます。神の御許、神の家も一つです。しかしそこには多くの住まいがあります。さらに3節。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」。永遠にずっと共に天国で一つの父なる神の家で過ごしたい、という切なる神の愛です。聖書ではその神の愛を、親が子を愛する愛や、さらには新郎が新婦を愛する愛にたとえています。唯一まことの主なる神は、私たちにご自分の命を与えるほどに最高に愛して下さっています(ヨハネ316)。ですから、父なる神の御許、天国、一つの神の家に、私達の永遠の住まいに私達の居場所を用意するために、実は主イエス・キリストはこの後、十字架で死なれます。罪ある人間が、自分の力では、聖なる唯一の神のご支配(神の国)に入れない原因である「人間の罪」の為に十字架で身代りとなり、死んで下さったのです。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに引き受けて下さったからです。それにより主イエスを信じる者の罪が赦され、無罪とされ、罪きよめられ、聖なるイエス様と父なる神の御許にいつもいて親しくお交わりできるためです。また、そのお交わりを通して、信仰者に聖霊によってご自身の性質(聖さ・愛等)にあずからせるためです。その証拠としてキリストは死後三日目に復活し、弟子達に現れ、その前で天に上げられ、父なる神の王座のある天にお帰りになりました。そして今も一切の権威をもって天に座しておられます。ですからイエス様は目には見えませんが、イエス様を信じて父なる神に近づく者をいつでも救う事ができます(へブル72425)。

 

3.天国の唯一の道である主イエス・キリスト(4~6)

4節。キリスト様は続けて言われました。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」。その時、弟子のトマスが私たちの思いを代弁してくれているように、イエス様に聞きました。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と。トマスはここで実際に歩いて行く道路を知ろうとしていましたが、イエス様の回答はトマスのイメージとは違います。すなわち6節。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」。主イエス様はトマスに対して「わたしがその天国の道なのだ」と言われます。そしてその道は真理の道であり、永遠の命の道なのです。その道だけが父なる神の御許、唯一の神の家、天国に通じる一本道なのです。そして主イエス様を信じてその道を歩み出す時、すでに天国に生きるのです。

(結論)主イエス・キリストこそが「道であり、真理であり、命」です。

(祈り)天の父なる神様。唯一まことの永遠の命の道、天国への道、主イエス・キリスト様に信頼して、このお方と共に天国の道を歩んで参ります。イエス様によって、アーメン。

2025年10月23日木曜日

美しい長崎の夕焼けと教会

 

        美しい長崎の夕焼け

        夕焼けの教会と虹(左上)

2025年10月18日土曜日

2025年10月19日第一礼拝「心渇く者は主イエス様のところへ」ヨハネ7章37~39節(新約p194)

 

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説教要旨「心渇く者は主イエス様のところへ」ヨハネ7章37~39節(新約p194

 心、魂の渇きを感じる時、真にその渇きを癒せるのは主イエス様です。 

1.誰でも渇いているなら、主イエスのもとに来て飲みなさい(37

37節には「さて、祭りの終わりの大いなる日に」とあります。「祭りの終わりの大いなる日」とは「仮庵の祭りの第七日目であろう」と言われています。祭りの期間、祭司は朝ごとに神殿の丘を下ってシロアムの池で黄金の水差しで水を汲み、祭壇に注ぐ儀式がありました。7日目には祭壇を七周してから水を注ぐのです。その場には群衆が押し寄せ、神殿の音楽に併せ「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」(イザヤ12・3)が合唱され、終末の希望を人々はその注がれる水の中に見たのです。そういう背景の中で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と主イエスは立って大声で叫ばれたのです。イエス様はご自身こそが、魂の渇きを癒す、救いの井戸だとお示しになっております。その井戸には救いの源泉があるということです。イエス様は、救いの源泉である、ご自身のもとに来なさい、そして、飲みなさい、と言われます。

対象者は誰でしょう。「誰でも渇いているなら」とありますように、対象は「誰でも」であり、「渇いている」人。これは、霊的な渇きです。その霊的な渇きを、主イエスは潤す事ができるのです。「わたしのもとに来て飲みなさい」。祭壇に水が注がれるところに、人々が押し寄せたように、主イエスのもとに、魂の渇きを潤す生ける水が流れ続けている。その主イエスのもとに、「来て」「飲む」ことが渇きを潤すために必要です。「飲む」は現在形が用いられているので「飲み続ける」とも訳す事ができる。一度、イエス様に潤されたら、イエス様から離れるのではなく、いつでも、渇くならば、何度でも、イエス様に潤し続けて頂く事が必要です。つまり、イエス様のもとにとどまり続ける事が必要なのです。これは、イエス様と言うぶどうの木の幹に、私たち枝が、信仰をもってつながり続ける時に、イエス様から流れて来る養分、聖霊によって、愛の実を結ぶことに通じます。

2.主イエスを信じ続ける者の心の奥底から流れ出る生ける水の川々(38

具体的に、イエス様のところに、「来て」、「飲む」とはどういう事か。38節。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。主イエスを「信じる者」、すなわち、現在形なので今から「信じ続ける者」。一度、信じて潤されたからといって、イエス様を信じるのをやめるならばすぐに魂は渇く。イエス様をどんな状況でも信頼し続ける事。イエス様の身許に信頼を寄せてとどまり続ける中で、魂の霊的渇きは主イエスによって潤され癒され続けるのです。さらに主イエスを信じる者には、主イエスという源泉から流れくる生ける水の川(「川」は複数形)、すなわち「聖霊」が、イエス様を信頼し続ける人を満たし、良い愛の実を結びます。さらには周りの人をも潤していく様になるのです。 自分だけ潤され幸いになる事を越えて周りの人々にもその流れは及び、隣人を愛して潤すようになるのです。

3.主イエスを信じた者が受ける聖霊(39

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」。ここに、「生ける水の川」は聖霊を指す事が記されています。それは、イエス様が、十字架で死に、復活し、栄光のからだに変えられ、天に昇られた後に注がれる、ペンテコステの聖霊を指しています。そして、今、主イエスは栄光を受けておられるのです。だから、「イエスを信じる者」は、聖霊を受ける事ができる。「イエスを信じる者」の「信じる」は、信じた、とも訳せる。イエス様を信じた者に与えられる聖霊、です。そして、この聖霊なる神様、別名「キリストの御霊」はその人を愛の実を結ぶように導きます。

主イエスが昇天後、御父と共に注がれた、約束のペンテコステの聖霊を受けた弟子たちは、楽な状況ではありませんでした。危機的状況だったのです。しかし、主イエスを信頼し、み言葉を信頼し続けました。その中で、彼らは、聖霊に満たされ、危機的状況の中でも、主イエスを大胆に証し続けました。そして、彼らを通して、主イエスは宣教され続け、多くの人が、主イエスを信じ、そして、彼らもまた、聖霊にあずかり、救われていったのです。まさに、イエス様を信じた人、信じ続ける人に聖霊が与えられ、満たされ、あふれて、主イエスからの聖霊による流れが、その人を通して、その人の周囲に影響していくさまをあらわしているのです。38節。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とある通りです。

(祈り)主よ。私をも、聖霊の通り良き通路となし、周囲を潤して下さい。アーメン。


2025年10月11日土曜日

2025年10月12日第一礼拝「豊かな実を結ぶ人生のために」ヨハネの福音書15章1~5節(新約p215~)

 

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説教要旨「豊かな実を結ぶ人生のために」ヨハネの福音書151~5節(新約p215~)

今朝は十字架の直前に主イエス様が愛弟子達に語られた説教に学びます。

1.成長させて下さる神様 ~主の御言葉と試練等による取り扱い~(1~3)

主イエス様は愛弟子達に言われます。1節。わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」。また5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。と言われました。イエス様を信じてイエス様に従っていく弟子たちは、イエス様というぶどうの木の枝のようなものです。ぶどうの枝はぶどうの幹にしっかりとつながっていると、そこから栄養分が流れてきて、ぶどうの実を結びます。そして良い実がなるためには手入れが必要です。同じようにイエス様を信じ従っていく弟子達が、聖霊による愛の実を結ぶように天の父なる神様は教え導いて下さるのです。2節を見るとわたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除きとあります。ここは農夫が実を結ぶように必要な手入れ(剪定や支え等)をして下さると理解したいと思います。時に神様は苦痛を伴う取り扱いを与える場合もあります。しかしそれはただもっと多く実を結ぶためです。罪を犯す事は、神様が愛の実を豊かに結ばせるために妨げになります。主は悔い改めに導かれることによって、さらに豊かな愛の実を主は結ばせるのです。

2節後半。実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。。主は成長している弟子はもっと成長するために、さらに教え導かれるのです。神様のみ言葉によって手入れがなされるのです。キリストの弟子も成長段階に応じた神様の取り扱いがなされるのです。神様は耐えられない試練は与えません。クリスチャンに与えられる試練は、神様がその試練を通して、さらに成長させ、さらに愛の人に変えるためです。主を忍耐しつつ信じ続ける信仰の訓練でもあるのです。御言葉に立てば時に試練はありますが成長があるのです。

イエス様はあなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」(3と言われました。父なる神様は、聖書のみ言葉、神のみ言葉によって、私たちを手入れして下さり、「もっと多くの実を結ぶ」キリストの弟子とされます。主なる神様の御言葉に信頼して聴き従って参りましょう。

 

2.さらなる成長のために~キリストに信頼し続け、聖霊を祈り求める~48

 さらにイエス様は実を結ぶ人生のために必要な事を話されました。45節。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」。「とどまる」
とは口語訳では「つながる」と訳されます。ここでは「信頼する」という事でしょう。イエス様はイエス様に信頼する者につながり、とどまって下さるのです。イエス様に信頼し続ける人は多くの実を結ぶと約束されています。なぜならイエス様とつながり、イエス様が心に宿り、住んで下さっているからです。「実」とは「御霊の実」(ガラ52223)、愛(第一コリント131813141)の実、キリストの弟子の結実です。キリストに信頼し、神の言葉に従う時、愛の実が結ばれます。イエス様を信じてとどまる以外に神様による愛の実を結ぶ事はできないのです。6節は厳粛です。だからこそ主は「わたしにとどまりなさい」と愛故に命じます。

7節に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。とあります。ここでは実を結ぶために必要不可欠な聖霊を祈り求める事で、聖霊が注がれてさらに実を結ぶ事を教えています(ルカ1113。これは主イエスを信じ受け入れ、主の御言葉を信じる人へのイエス様の約束です。そういう人のお祈りに神様は最善の形で答えて下さいます。それはその人がイエス様を信じ、神様の言葉に従い、愛の実を結ぶ事と矛盾しない形で最善に答えられます。その事を確信して神様に祈り続けましょう。そして聖霊の実である愛の実を通して農夫である父なる神の栄光が現わされるのです。8節。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。とある通りです。ここで「わたしの」とは「イエス様のもの」という意味です。「イエス様のものである弟子となる」という事です。イエス様のものである弟子達となったら主に栄光が帰されます!その事を祈り求め続けましょう。

(祈り)主よ。私にキリストの弟子としての愛の実を結ばせて下さい。アーメン。


2025年10月3日金曜日

2025年10月5日(日)第一礼拝配信

 

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2025年9月28日日曜日

2025年9月28日(日)第一礼拝配信「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19章1~10節(新約157頁)

 

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           ご容赦ください。
 

「あなたの所にまで降って来て下さったイエス様」ルカ19110節(新約157頁)

今朝は有名な聖書の話で、イエス様と出会った取税人の頭ザアカイのお話です。

1.ザアカイの友となられた主イエス様(1~7)

エリコの町にザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで金持ちでした()。ザアカイはユダヤ人でしたが同じユダヤ人からは嫌われていたようです。というのはユダヤ人を支配していたローマ帝国の出先機関としてユダヤ人から税金を集めていたからです。また取税人の中には、ローマ帝国の権力を背景にして不当な利益を得ていた者もあったようです。ザアカイがそうだったかはわかりません。でも、少なくとも、そのように見られていたようです(7節参照)。

さて、イエス様がエリコの町をお通りになった時 ()、イエス様の周りには多くの人々が集って来ました。病気を癒し悪霊を追い出し、神様のメッセージを伝える人気絶頂のイエス様。人々は様々な願いをもってイエス様の所に集まります。ザアカイは評判のイエス様がどんな方か見ようとしますが、背が低かったのと群衆のため見ることができません()。誰もザアカイをイエス様の見える所に通してくれません。それでザアカイは先回りしていちじく桑の木に登り()、イエス様を見下ろしていたのです。しかし、彼はそれ以上、近づけませんでした。

しかし主イエス様はザアカイの全てをご存じの上で、あえてザアカイの上った木の下に来られて(4)、上を見上げてザアカイに言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」()。「ザアカイ」の名前の意味は日本語でいえば「清」。でも、この後見るとザアカイは皆から、「罪人」と呼ばれていたようです。人々はザアカイを見ると、「ザアカイだ!お金を取られる!」と思って逃げて近寄らなかったかもしれません。しかしイエス様は通り過ぎないで名前を呼んで家に泊まりに来てくれました。

一方、ザアカイはイエス様に近づきたいと思っていても、自分からはできませんでした。ザアカイは木の上からイエス様を見下ろすしかできなかったのです。けれどもイエス様の方から近づいて下さり、わざわざ、ザアカイの木の下まで来てくださって、上を見上げて名前を呼んでくださいました。ザアカイがしたくてもできなかった事をイエス様はザアカイにして下さったのです。イエス様の方からザアカイの友となって下さったのです。ザアカイにとってそのイエス様の愛の行いは、まさに、福音、救いそのものを見た時だったはずです。

ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えました()

 

2.主イエス様に救われ、祝福されたザアカイと家族(810

しかし、イエス様はザアカイの家に行く事で周囲のユダヤ人から今度は悪口を言われて評判ガタ落ち。「あの人は罪人のところに行って客となった」()。罪人の家に入り、汚れたという評価でしょう。しかし、このイエス様の愛に触れてザアカイは立ち上がります。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」()。彼は主イエスを信じて救われたのです。その結果として良いわざ、愛の行いの実が結ばれたのでした。そして、他の人の事も大切にするようになりました。イエス様は彼に「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(910と言われました。「アブラハム」とはユダヤ人たちから信仰の父と敬われている人で、神への信仰のゆえに、神の祝福を約束された人でした。聖書にはイエス・キリストを信じる者こそがアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ事が書いています(ガラテヤ3・7,9)。イエス様を信じる者はアブラハムの祝福を受け継ぐアブラハムの子孫とされ神の子とされるのです。イエス様はご自分が汚されるどころか、ザアカイを救い清めて祝福を受け継ぐ人にされました。ユダヤ人なのに部外者にされていたザアカイがこの人もアブラハムの子なのですから」とイエス様から宣言された時どれほど嬉しかったことでしょう。イエス様はザアカイの様に「失われた」罪人を捜し出して救うために天から来られたのです。聖書を読むならば、全ての人は完全に清い神様の前には、もれなく罪人です。しかしイエス様は今、友となるべく全ての人の名前を愛して呼んで下さっています。

今、全ての人を愛して友となって下さる救い主イエス様を信じて心にお迎えするならば、その人は救われ、家族にも祝福が及ぶ事でしょう。そして家族もイエス様を信じるなら救われます。そして主イエス様の愛に心満たされます。そして主を愛し、隣人を愛する事に心の目が開かれるのです。ご一緒に祈りましょう。

(祈り)父なる神様。罪人の私の為にイエス様をお送り下さり感謝します。イエス様を私の心にお迎えします。私も清い愛の人にして下さい。イエス様のお名前によって。アーメン。 

2025年9月20日土曜日

2025年9月21日(日)第一礼拝配信「疲れて重荷のある人を招かれるイエス様」マタイの福音11章25~30節(新約21p)

 

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説教要旨「疲れて重荷のある人を招かれるイエス様マタイの福音112530節(新約21p)

私たちの人生において幸いな時もありますし、単調な時もありますし、疲れる時もありますし、試練の時もあります。そのような人生の様々な出来事の中で、クリスチャン生涯を生き、信仰生活を歩み続けていくために大切な事を学びます。

1.父なる神との交わりの中に生きた主イエス様に学ぶ(2527

今朝の聖書の箇所は主イエス様の奇跡の数々にもかかわらず、悔い改めなかった人々を、主イエス様は愛するがゆえに、そのままでは滅びてしまう事に嘆き悲しみ憐れまれます(マタイ112024)。時に、伝道しても信じてもらえない、というやがて弟子たちが直面する試練、嘆き悲しみを、イエス様ご自身こそ誰よりも体験しておられ知っておられます。それ以外のあらゆる苦難もご存じです。それは同じような苦難に直面する私たちの慰めです。主イエス・キリストに対する熱心な求道と拒絶という二つの反応を受けて、主イエス様は父なる神に祈ります(25)。「ほめたたえます」はイエス様が父なる神の御心に全面的に従っておられる事を示します。さっきまで嘆き悲しみ、愛するがゆえに悔い改めない街々を責めておられたのに一転、父なる神への賛美を表しました。ここにどんな時もクリスチャンとしての歩みや奉仕を続ける秘訣があります。私たちもクリスチャンとして生きる中で試練に直面し、悲しみ嘆く中でも父なる神との交わりの中に生き続ける中で支えられ、慰め励まされ、新しい力と愛と知恵を頂き、人生の歩みや、クリスチャン生活を疲れ果てずに、継続することができるのです。モーセやイサクという旧約聖書における信仰者もそうでした。信仰生活、奉仕、夫婦・親子・家族関係、仕事、人間関係等、生きる事全てにおいて主が必要です。

25節後半。これらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」。「これらのこと」とは福音の真理であり、主イエス・キリスト様ご自身の事です。「知恵ある者や賢い者とは、ここでは、高慢に陥ってしまい、福音であるイエス様を受け入れず拒絶していた人々です。そういう中でも幼子のように心を開いて救い主イエス様を信じる人もいました。それは神がなさった事でした。26そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」。イエス様は、先の嘆き悲しみの中で、同時にそれでも、父なる神に信頼し明け渡し、「そうです、父よ」とその御心に全面的に同意して従われます。

27節。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」。ここで、すべてのこととは「神の国の福音の啓示のすべて」という事です。それを父なる神からイエス様は渡されているのです。ですから、主イエス様が知らせて下さらなければ、父なる神を知る事ができないのです。主から教えられるために必要なのは謙遜です。

 

2.主イエス・キリスト様とつながり、学び、合わせて、共に生きる(2830

そして父なる神との交わりをしつつ、主イエス様はあきらめずに、常にすべての人を招き続けます。愛しているからです。28節。すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」。わたしのもとに来なさい」。ここに父なる神を真に知らせていただける場所があり、父なる神との親しい交わりがあり(第一ヨハネ1・3,4)、罪のゆるし、きよめ、神の国、安息、癒し、救い、永遠の命、知恵、愛と力の源泉、真の宝があります。イエス・キリストを信頼し、神に立ち返る時に、罪の重荷は取り除かれ、人生の重荷は主イエスが共に担って下さり、共に歩んで下さり、人生を守り導いて下さるのです。2930節。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」。「くびき」とありますがこれは強い牛と弱い牛をつなげる道具です。イエス様が強い牛、弟子が弱い牛にたとえられ、自分だけでは負いきれない重荷も主イエスが共に担ってくださるので重荷が軽くなるという事です。また主イエスの弟子になる事も意味します。イエス様は真実なお方で、ご自分に信頼して、ご自分の弟子となる者の魂や人生に、真の安息を必ず与えて下さるお方です。だからこそご自分のことを偽る事ができず、ご自分の事を「わたしは心が柔和でへりくだっていると言われたのでした(エレミヤ3・12参照)。

(祈り)天の父なる神様。人生の重荷や苦難の中で、時に嘆き悲しみ疲れる事もありますが、どんな時も、主が共に重荷を負って支えて下さり、お交わりの中で慰め励まし、立ち上がらせて下さり感謝です。イエス様によって、アーメン。