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2025年9月6日土曜日

2025年9月7日(日)第一礼拝配信「聖書が教える良いお知らせ」ヨハネの福音書3章1~16節(新約聖書p179~180)

 

           

説教要旨「聖書の教える良いお知らせ」ヨハネ3・116(新約179180)

 この分厚い聖書を一言で言えば、このヨハネ316節であると言われるほど、聖書の中心的メッセージがこのヨハネ316節です。今朝、改めてこの箇所から聖書の良い知らせを確認しましょう。

1.神から新しく生まれる ~神の子どもとして生きる~(111

ある夜、ユダヤ人の指導者でパリサイ人のニコデモという人がイエス様を訪ねて来ました(12)。パリサイ人とは旧約聖書の律法を厳守しようと努力をしていた、厳格なユダヤ教の一派です。さらに彼はユダヤ人の最高法廷の71人の議員の一人。夜に来たのは世間体があったのかもしれません。彼はイエス様に尋ねます。2節。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。彼にイエス様はお答えになりました。まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3。「新しく」とは「もう一度」や「神から」という意味もあります。「神の国」、天国では神の御心が行われます。そのため神の国に生きる者は誰でも新しく生まれる必要があるのです。

ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4と問います。先の「新しく生まれ」と言われた言葉を、ニコデモは「もう一度、肉体的に生まれる」と解釈したのです。しかし主イエス様の真意は、「神から」、すなわち、霊的に生まれる事にありました。これはユダヤ教や、その他の宗教、全ての人間の力では不可能。ニコデモはまずこれを認める必要がありました。

イエス様はその事を教えようとされます。5節。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」。ここで「水」とは「悔い改め」(神への心と生活の方向転換)を意味します。主イエス様は「聖霊によって生まれる」という事を肉体的誕生とは区別して話している事を示しつつ(6)、あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(78と言われます。風は目には見えませんが音やその影響でわかるように、目に見えない聖霊の神の働きにより、人は悔い改めて(神に立ち帰り)、十字架で身代わりに死なれた救い主イエス様を信じて、神の霊である聖霊によって霊的に新しく生まれ、神の国に入り、神の家族の一員となります(エペソ219。ニコデモはそのようなことがあり得るでしょうか。」(9と答えます。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。…」(1011とイエス様。

 

2.神から新しく生まれ、永遠の命を持つために必要なのは信仰(1216

イエス様は彼にだれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」(1314と言われます。民数記2149節で、神様につぶやいたイスラエルの民達が、神様から送られた毒蛇にかまれて苦しんでいた時、神様は指導者モーセに青銅の蛇を旗竿につるすように命じ、その青銅の蛇を仰ぎ見るならば救われると示されました。その事を信じて青銅の蛇を仰ぎ見た人たちは毒が消えたのです。その様に、この後、「人の子」すなわちイエス様が、この青銅のへびのごとくに十字架につるされます。それは主イエスを信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため(15)に、全人類の罪を身代わりに背負い、父なる神からの怒りの刑罰を受けるためだったのです。

イエス様が十字架にかけられた時、ニコデモはあの夜、語られた事、そして旧約聖書を通して学んできた事の成就をイエス様に見たのでしょう。ニコデモがどの段階でイエス様とその御言葉を信じて、聖霊によって新しく生まれたかはわかりません。しかし、まさに風がどこから来てどこに行くかわからないように、イエス様をキリスト(救い主)と信じた時に彼の心は聖霊によって新しく生まれ、神からのいのち、「永遠のいのち」を得ました。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)。この「永遠のいのち」にキリスト様による救いの全てが含まれます。主イエス様を信じましょう。

【祈り】父なる神様。私たちを大切な存在として愛し、あなたの独り子、救い主イエス様を信じて受け入れる者には、永遠の命をくださり感謝致します。



2025年8月31日日曜日

2025年8月31日(日)第一礼拝配信「主イエスのおことばを守る幸い」ヨハネの福音書14章20~24節(新約聖書p214~215)

 

説教要旨「主イエスのおことばを守る幸いヨハネの福音書14章2024節(新約聖書p214215

 今朝は主イエス様がいよいよ十字架刑に処せられる直前の告別説教から学びましょう。ここに主イエス様のお言葉を守る者の幸いについて記されています。

1.イエス様を愛して信じる者にご自身を現わされる主なる神(2021)

20節。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。。「その日」とは、聖霊が降るペンテコステ以降の事。その日には聖霊が信仰者の中に来られる。これにより三位一体唯一の神である父と子と聖霊の神が、主にあって、主イエス様を信じる者の中におられる事がわかるのです。21節。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14・1)等の主イエス様の戒めを守っている人なら、その人はイエス様の愛を知りイエス様を信じて愛するようになった人です。イエス様の愛に応答している人です。イエス様を信じているからイエス様の言葉を遵守実行します。

もともと父なる神は御子イエス様をお与えになるほどにすべての人を愛しておられます。さらに、その愛に応えて父なる神に立ち帰り、イエス様を信じて救われ神の子となり、聖霊を受けその導きにしたがってイエス様のお言葉を遵守し、すなわち父なる神の教えを遵守する人を父なる神はさらに愛されます。イエス様の戒めを遵守し、イエス様を愛する人を父なる神様はさらに愛して下さいます。そしてイエス様もその人をさらに愛し、ご自身を彼に現されます(主が親しくご臨在される)!何とも深遠な神の愛です。神様のもともとの愛の高さがあまりにも高いので、イエス様を与えるほどの最高の愛で愛して下さっているのに、さらにその教えを守る人を愛する、というその愛の高さを表現しきれません。イエス様のことばを守る人は神様との親しい愛の交わりにさらに深く入るようになるという事でしょう。一方的に愛される事も幸いですが、さらに「愛し合う」事はもっと幸いだと思うのです。私たちは主なる神に愛されるだけでなく、主なる神を信じ、主なる神を愛して、主なる神の教えを遵守実行し、兄弟姉妹同士が愛し合い、隣人を愛していくときに、主の愛をフルに体験的に知るのだと思うのです。

2.神の宮としての教会が建てられ、そこに主が住む幸い(22~24

さて、22節。イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか」』すると、23節。『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」』イエス様を信じて愛する者にご自身を示される父なる神とイエス様が、その人を聖霊の宮として建てられます(第一コリント61920)。そして、そこにお住まいになるのです。主がその人のうちに来て下さるだけでも幸いですが、住んで下さるのです。

一方で24節。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。イエス様を愛さない人はイエス様のことばを守りません。そしてそれはイエス様を遣わした父なる神のことばを守っていないという事なのです。

イエス様がご召天後、肉眼では見えなくなりますが、もう一人の助け主なる聖霊様が弟子たちを教え導くようになるのです(2526)。この説教の後、イエス様が父なる神に服従して、十字架にかかり、三日目に復活させられ、弟子たちに現れ、天に昇り、天の王座に着座されます。そこから、約束の聖霊をペンテコステの時以降、注ぎ続けて下さり、特に教会を通してご自身が生きておられる事をお示しになります。イエス様はそれらの事を通して、これからも、御自分をこの世において明らかにされるのです。これがユダへの回答です。そしてイエス様を信じる者が起こされていくのです。この事は、実際、歴史を見れば明らかです。

ですから、弟子たちはこれからイエス様が十字架にかけられ墓に葬られますが、恐れ惑わされる必要はなかったのです(14・1参照)。イエス様のご復活後、天にお帰りになり肉眼には見えなくなりますが、イエス様を十字架につけた人がまだ周りにたくさんいたとしても、主を信じる信仰により、恐れ惑わされる必要はないという現実を、イエス様はこの14章にてねんごろにお語りになりました。

(祈り)父、子、聖霊の三位一体唯一の主なる神様。不信仰の時でも寄り添って下さるのみならず、主に信頼する時には心の内に来て下さり、さらには主と主のお言葉(聖書)に聴き従う時に親しくご臨在下さる事を感謝します。アーメン。


2025年8月23日土曜日

8月24日(日)第一礼拝配信「苦難や試練の中でも主に希望がある」ヨブ記1章13~22節(旧約875頁~)

 

 
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説教要旨「苦難や試練の中でも主に希望があるヨブ記1章1322(旧約875頁~)

 今朝は敬虔な信仰者であったヨブの苦難の生涯からご一緒に学びたいと思います。私達は理由のわからない苦難や試練に遭う時どうしたらよいでしょうか。

1.計り知れない原因による苦難や試練(1・1~22)

昔、ウツという地(定かではないが中東の方)にヨブという人がいました。彼は「誠実で」、「直ぐな心」、「神を恐れ」(主を慕い、主を第一とする)、「悪から遠ざかっていた」、神の御前に生きた人でした。彼は当時イスラエルより東の人(異邦人)の中で一番の有力者で、神に従う信仰と人格においても重んじられる人でした。息子7人、娘3人がいました。さて、天では天使たちとサタン(67)が神の前にいました。主はサタンにヨブについて言います。おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。(8)。サタンは神に反論します、「それはあなたがヨブと家族と財産を守って祝福しているからで、彼が財産を失うなら神を呪います」(911)と。主はサタンにお語りになりますでは、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」(12ヨブを信頼してサタンの試みを限定的に許す神様(12)。これは神の主権の下で、限定的に許可された出来事であり、神様がサタンに妥協や譲歩をしたわけではありません。しかし、ヨブは天でのこれらの出来事を知りません。

その後、様々な試練がヨブとその家族を襲い、次々とヨブに悲しい知らせが届きます(1419)。ヨブはその理由が全く分からず心当たりもありません。しかしヨブは大いに悲しみつつも神を礼拝し(20)、讃美するのです。21節。私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。しかも22節。ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。。「どうして?」と思うような試練が起こる事もあり得ます。しかし、どんな試練の中でも、ヨブのように神に祈り、神を礼拝する恵みがいつも備えられています。

 

2.苦難の中でまことの神ご自身をさらに深く知る(42・1~6)

その後ヨブに病が襲い、彼は苦悩します。さらに友人達が彼に対し、この苦難がふりかかったのはヨブに問題があるのだと責めます。妻もヨブを責め、しもべや、子ども達までヨブを軽んじます。ヨブは孤独の中で主に嘆き訴えます。主はヨブのそばにいて全て受け止めて下さっていました。そして苦難の中で神はご自身をヨブにお示しになります(3841章)。ヨブは試練を通して真の神をさらに深く知ったのです(4215)。ヨブは主の語りかけを聞く中で、世の中の不可解な事も自分の苦難も全て神の御支配の中にある事を確信し、彼を愛して握っておられる神の御手を感じたのです。425節は、苦難の中でその神を見るような(肉眼で見たわけではない)経験に比べれば、今まで主を知っていたのは主のうわさを聞いていたようなものだ、と言ったのでしょう。主の主権を心から認め、主に委ね、礼拝するヨブ。そしてヨブは神に対してよく知りもせずに言った事を悔い改めるのです(36)。どんな苦難も神を深く知る機会となるのです。

結局、神はヨブの病を癒し、所有物を2倍にされ、子どもも新たに10人与えます(死んだ子ども達は10人とも天国で生きています)。子どもも2倍です。「主は取られる」事の中に実は希望がある。主の御手の中にあるからです。

信仰者が直面する不可解な苦難は決して苦難では終わらない。その不可解な試練の極みがイエス様の十字架の死です。それは実は人類の罪、汚れ、呪いを身代わりに背負う十字架の苦難。主イエス様以外、誰も体験した事のない最悪の苦しみ。人類の罪を背負うゆえに父なる神からも断絶され捨てられる中でもイエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神を信頼しつつ祈ります。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受ける中で「どうして」と真に言えるのは、全く罪のない、潔白以外の何ものでもないイエス様だからこそ、です。最後には「わが霊を御手に委ねます」と父なる神に全く信頼して息を引き取られました。義人ヨブですら成し遂げる事ができなかった事をキリストは全うされました。ヨブの不可解な苦難の生涯はイエス様の御生涯を指し示します。

私たちも不可解な苦難や試練の中でも、主ご自身こそ私たちの希望であり救いです。主は私たちを常に最高に愛し最善をして下さいます(ローマ828)。どんな状況でも神のご主権に委ねつつ主を讃美し礼拝する者として頂きましょう。

(祈り)天の父なる神様。あなたに一切の主権があります。不可解な苦難の中でもあなたに信頼し賛美し、礼拝致します。イエス様の御名によって、アーメン。


2025年8月15日金曜日

8月17日(日)礼拝動画配信「すべての人を愛する父なる神の愛に倣う」マタイ5・43~48(新約9頁)

 

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説教要旨「すべての人を愛する父なる神の愛に倣うマタイ5・4348(新約9)

 815日で終戦80年を迎え、改めて不戦の心を新たにしたいと思います。

1.父なる神の子ども(クリスチャン)らしさ ~敵をも愛する愛~(4345

43節。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」とイエス様は言われました。これが当時のユダヤ人たちの常識的な解釈、教えでした。ですから「自分の敵は憎め」というように教えられていたのです。しかし聖書にはどこにも「自分の敵を憎め」とは教えていません。神様は「隣人を愛せよ」と教えています(レビ1918)。旧約聖書の出エジプト記23・4~5には敵の迷っている牛やろばを助けるように命じる規定すらあります。しかし当時のユダヤ人社会の教えは「隣人」とは「同胞であるユダヤ人だけ」を指すと解釈し、「他のあらゆる民族を、異邦人であり敵であると思え」と解釈されていました。隣人愛の対象から、これらの「敵」は除外されていたのです。私たちの常識や考えの中に、聖書が本当に言っている事と違う事が混ざっているところはないでしょうか。実際生活、現状とつじつまの合うように、聖書の教えをどこかで薄めている事はないでしょうか。もし、そういうところがあるならば、聖書の教えに照らして、悔い改めていかねばなりません。

この点、主イエス様は神の権威をもって言います。44節。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ6・2728では「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とあります!主イエス様の教えは当時の常識にとらわれず、神様の御心をはっきりと示しました。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、は聖書の教えであり、その正しい解釈は敵をも愛する愛でした。イエス様は本来の神の教えを明確に示しました。隣人から敵を排除するのではなく、全ての人を愛する愛(ヨハネ316。これが聖書の教える隣人愛です。

そして主イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じた直後に言われました。45節。口語訳では「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。」。「なる」と訳されている言葉は「…であることを示す」、「…らしくする」とも訳せます。また「こうして」〈口語〉と訳された言葉は「…するために」とも訳せます。「子」は「性質の所有者、所属者」という意味もあります。そこで私は次のように私訳しました(ご参考まで)。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天にいますあなたがたの父の子どもとしての性質を持つ者らしくするために」。イエス・キリストを信じて、神の子としての性質を聖霊によって頂いたものにふさわしく、父の子らしさが現れるのは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る時なのです。なぜでしょうか?それは主なる神がそのようにしているからです。45節後半。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。。主イエス様は十字架の上で自分を殺す者達のために、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ2334ととりなし祈りました。敵を愛し迫害する者のために祈ったのです。主であり、師であり、父なる神の実子であるイエス様がそうされました。神の御子イエス様は父なる神の御心のみを行われます(ヨハネ519)。これは私たちの模範です。この愛こそ、父なる神の子どもとしての性質を持つ者たちにふさわしいのです。父なる神とその御子がそうだからです。

 

2.天の父が完全であるように完全であれとはどういう事?(4648

続いて4647節。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。」。しかし敵をも愛し、迫害する者のために祈るのは、まぎれもなく、父なる神の子であるしるしです。それは父なる神がそうだからです。48節。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ルカ6・36では「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」とあります。私たちも神の憐みを頂いた者として、父なる神のご性質を聖霊によって与えられた神の子ども達らしく、天の父なる神様の様に、「あわれみ深い」という意味において「全き」愛の人であらせて頂き、人を差別せず、愛しましょう。

(祈り)天の父なる神様。あなたからの恵みを感謝します。私を、父なる神の子どもらしく、イエス様の様な、憐れみ深い、愛の人として下さい。アーメン。

2025年8月9日土曜日

8月10日礼拝配信「平和をつくる者は幸い」マタイ5章3~9節(新約聖書p6)

 



説教要旨「平和をつくる者は幸い」マタイ5章3~9節(新約聖書p6)

 8 月6 日には広島に、8 月9 日には長崎に、それぞれ原爆が投下され今年で
80年。被爆者が次々と息を引き取られ、その体験を直接お聴きできなくなる時
が迫っています。しかし核兵器の脅威と核戦争のリスクは今なお残り続けていま
す。被爆による後遺症等で心身が傷ついている方のお慰めと癒しと平安を祈りつ
つ、「平和をつくる者」にしていただきたいという思いを新たにさせられます。
今朝、改めて、主イエス様の山上の説教、特に5 章9節に注目します。

1.今日の御言葉の背景(マタイ5・1~8)
 主イエス様は、3~4節で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たち
のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
と語られます。まず自分の罪や足らなさという心の貧しさを自覚し、それを悲し
み、救いを求めて主イエス様に信頼します。そして神のご支配(天の御国)に受
け入れられて救われます。そして主なる神からの慰めを受けます。だから幸いな
のです。この「幸いです」は主イエス・キリストの救いにあずかった人たちだけ
に与えられるキリストの弟子の性質と祝福を指しています(ウェスレアン聖書注解
p32)。イエス様は全ての人をその幸いに招いておられます(マタイ11・28~30)。
 5 節では「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と語ら
れます。柔和な者とは主イエスを信じて救われ、神に慰められ、神とその御旨に
信頼して忍耐深く従う人です。その人は「地を受け継ぐ」。すなわち、神の国の
嗣業を受け継ぐのです。6 節は「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち
足りるからです」。「飢え渇く」は強調表現で「渇望」の意。ここでの「義」と
は「神のとの正しい関係」、「救い」、「きよめ」(キリストの様に生きる事)、
さらに神ご自身です。霊的渇望は本質的に誰もが抱えていて、唯一真の神によっ
てのみ満たすことできます。そして神の恵みの豊かさ故に、さらに神を慕い求め
るようになります。そしてその渇望は神によって満たされるので「幸いです」。
 7 節。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」
と語られます。これは憐みの気持ちだけでなく、実際に、必要に応える行動を伴
う憐みです。神の憐みは神の独り子イエス様をも与える程の最高の憐みです(ヨ
ハネ3・16)。主イエス・キリスト様を信じて、この神の憐みを知った人は、神
様の愛と赦しを受け取って「あわれみ深い者」と変えられていきます。その「あ
われみ深い者」を神様はさらに憐れんでお恵み下さり、良くして下さいます。
 8 節。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」。「神を見
る」とは第一に、この世で、心で霊的・人格的に神を知るという事です。第二に、
天国で神と顔を合わせて見るという事です。「神を見る」人とは「心のきよい者」
です。罪は神との関係を損ない、神を知る事を妨げます(イザヤ59・2)。人はそ
の罪の故に「心のきよい者」に自分の力でなれません。しかし主なる神はその解
決として、独り子の神である主イエス様をこの罪の世に遣わします。独り子なる
神、主イエス様は私たち全人類の罪を身代わりに背負って、十字架で父なる神の
怒りの刑罰を身代わりに受け血を流して死なれます。この主イエス様の十字架の
死によって主イエス様を信じる者の罪が赦され、きよめられる道が開かれました。
 主イエス様を信じて心に主イエス様を主として王としてお迎えする時から御
子イエスの血は罪をきよめ続け(Ⅰヨハネ1・7)、同時に、その人の心の中に
神の聖霊が宿り、心をきよめてゆかれます。そしてその人も聖霊のお導きとお働
きとにより、自らの二心を悔い改めて一心に主なる神を求める時、「心のきよい
者」と神がして下さり、この世でも神を霊的人格的に知り、幸いになります。

2.平和をつくる者は幸い(マタイ5・9)
 1~8節を踏まえて9節。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子
どもと呼ばれるからです」。「平和」とはヘブル語で「シャローム」で「人間の
最高の幸福をつくり出すすべてのもの」とユダヤ人は理解していました。この「平
和」の根源は神にあり、父なる神に遣わされた主イエス様はまさに「平和をつく
る者」です(ローマ5・1,エペソ2・15~18)。主イエス様を信じる者は、
主イエス様の十字架での身代わりの死の故に、罪の赦し、神との和解と平和にあ
ずかります。そして聖霊によって神とその御旨に従う「柔和な者」(5)となり、
神と共に働いて「平和をつくる者」とされ「神の子ども」と呼ばれる様になるの
で幸いです。「神の子ども」とは「父なる神の性質を持つ者」の意味です。その
最たるお方は、主イエス様であり、私たちの最高の模範です。
(祈り)主なる神様。イエス様を信じる者にあなたとの平和を与え下さり感謝します。どう
か私たちをさらにあなたの子どもにふさわしい「平和をつくる幸いな者」にして下さい。

2025年8月3日日曜日

8月3日(日)第一礼拝動画配信「御子イエス様の血潮の効力」ヨハネの手紙第一1章5節~2章2節(新約478頁)

 

説教要旨「御子イエス様の血潮の効力(ヨハネの手紙第一1章5節~22節)

このヨハネの手紙の最大の関心事は、この手紙の読者である、「愛する」信仰者たちを守り、クリスチャンとしての信仰と生き方を堅固なものにしようとする事でした。それは当時、誤った教えが教会を惑わしていたからでした。その教えは、イエス・キリストが神であると同時に完全に人間であることを否定する教えでした。「人間の外観をとっているが見せかけで、人間のように思えたのだ」という異端的教えだったのです。ですから、ヨハネは、人となられた神であるイエス様をよく観察した、その肉声を聞いた、さらによくさわった、とまで言うのです。これによって異端的教えの偽りを示すのです(1~4)。

さらに、5節。「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということですとあります。主なる神のご性質は「光」と表されるように、悪や不義と対比される完全なきよさであり、義と愛を示します。そして、道徳的内容を含む真理そのものである聖なる神の真理の光です。この聖なる主の栄光の前に出る時に、己の罪に気づくのです。使徒ヨハネはこのように示しつつ、身体の行いで罪を犯し続けても精神は汚れない、という偽りの教えをする者たちの誤りを示します。6節。「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていませんと。神のご性質はきよさ。なのに、この神と交わりがあるのだと言いながら、もし「闇の中を歩んでいる」、すなわち、習慣的に罪を犯し続けながら、罪を認めず、悔い改めないなら、それは真理を行ってはいない、とその偽りの教えの誤りを指摘するのです。

そして7節で真理を伝えます。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。「神は光」です。この神と交わりをもつとは、神の前に誠実に神と共に生きるという事です。そのためには自分の罪のために身代わりに十字架で血を流し死なれた主イエス様を信じる必要があります。そして主イエスの血によって罪からきよめて頂きながら生活するのです。さらに、イエス様を信じて歩む者同士も神の光の中で共に歩む中で、主にあって互いに愛し合う、きよい愛の実を結んでいくのです。

さて、使徒ヨハネは8節でも、罪はないと主張する偽りの教えの間違いを示し、9節で真理を示します。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」きよい神の光の御前に自分の罪を認めて、主イエス様を信じるなら、神はその罪を赦し、すべての悪と不義から信仰者をきよめて下さるのです。その罪の赦しときよめは、どこまでもイエス様が十字架ですべての人の罪を背負い、身代わりに血を流し、死んだ事を根拠とします(7)。

一方で、2・1~2で「どうせ赦される」と罪を甘く見る誤り(1a)や、「罪を犯したら復帰できない」という厳格過ぎる誤りも正します(1b)。

【祈り】主よ。イエス様の十字架の血による罪の赦しときよめを感謝します。


2025年7月26日土曜日

7月27日(日)礼拝動画配信

 


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説教要旨

疲れを覚える時も、主に信頼する」イザヤ書402731節(旧約p1232

イザヤ書40章は、紀元前700年代のイザヤが、紀元前536年ごろの事をあらかじめ見越した上で、ペルシャ帝国のクロス王によって70年にもおよぶバビロン捕囚から解放される時の事を前もって予告した神のメッセージであると言われております。イザヤがこの書を書いた時にはまだバビロン捕囚は起こっていませんでしたが、やがて預言通り、南のユダの民がバビロン帝国に連れて行かれ捕囚に。しかし神様のご計画の中で70年のバビロン捕囚の期間を終えた時、神はクロス王率いるペルシャ帝国により、神の民は解放され自分の祖国に帰ります。その時の事を、神は預言者イザヤを通して予告しつつ、民への慰めのメッセージをあらかじめお語りになったのが、このイザヤ書40章と言われています。

1.主なる神の慰め(救い)(1~5)

1節。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──」。「慰めよ」とはヘブル語で「ナホーム」。この言葉はもともと「悲しむ」とか「悔い改める」という意味です。神の前に自分の罪深さに本当に気が付いて、自らの力の無さ、小ささ、足りなさに悲しみを覚えるというのがこの「ナホーム」の意味。そして神の前に悔い改める時に神がその人の心にお与えになるのが「慰め」です(小林)。この「慰め」は「救い」という意味です(参照;マタイ5・4)。

2節。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」。まるで牢獄から「あなたの罪はもう問われないから出てもいい」と言われるような情景(小林)です。その事がバビロン捕囚の後にあるとの予告です。バビロン捕囚が長く70年も続き、解放される希望を失っていたような神の民に、主は事前に、「その労苦は終わり、その咎は償われた」と語らせたのです。

34節。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」』。これは解放者である神が神の民を率いてバビロンから解放して下さるからそれにふさわしい道を備えよ、という意味です。また、後にバプテスマのヨハネが悔い改めを民に伝え、イエス・キリストを信じる心備えをさせた言葉です。5節。「このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる」。神の約束通り歴史上においてユダヤ民族はペルシャのクロス王によりバビロン捕囚からの解放が起こります。さらに言えばイエス・キリストの十字架による救いも歴史上の本当の出来事です。これにより全ての人の救いの道が開かれたのです。

2.主を待ち望む者は新しく力を受ける(2731

しかし神の民は偶像に囲まれる中、バビロン捕囚が長引くと言って、やがて主を見失い、「自分たちは神に見捨てられた孤児なのだ」と嘆き希望を失います。しかし主は言われます。2728節。『イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」』。「地の果てまで創造した方」である主は、日本を含め全地を治めるお方です。また、このお方は他の何物も比較にならない、無限の力を持つ愛の大牧者です(626)。そして29節。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」お方なのです。元気の象徴でもある「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる」(30)。しかし主を待ち望む(信頼してより頼む)者はこのお方から新しい力を頂きながら生かされます。31節。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」。『「わし」という鳥は…10年に一度羽替えをするそうです。新しい羽にされて力強く飛んでいくのです。その羽が古くなってきますと彼らは羽を落とすのです。その新しい羽が生え替わってくるのを待って、ついに新しい羽で覆われて、今まで飛べなかった高さを越えて飛んでいくことができる』(小林和夫)。その様に、主を待ち望む時に神からの聖霊による新しい力(使徒18)が与えられ、自分では越えられない試練を乗り越えさせて頂けます。主を信じて待ち望みましょう。

(祈り)主よ。たとい苦難が長引くような時も、疲れる時も、あきらめないであなたに信頼し続け、大牧者なるあなたから、いつも新しい力と愛と知恵を頂きながら、あなたの慰めと救いと守りの中であなたと共に生きていきます。アーメン。


2025年7月23日水曜日

7月20日(日)第一礼拝動画配信「主ご自身が私達と共に行く」出エジプト記33章11~17節(旧約160頁~)

 

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【説教要旨】

「主ご自身が私達と共に行く出エジプト記33章1117節(旧約160頁~)   

 今朝は、信仰者と共にいて安息を与え、導いて下さる主のお言葉に注目します。

1あなたを愛する主なる神様(12

3312節はモーセのとりなしの祈りです。神に罪を犯したイスラエル民族をとりなし、神がモーセとだけでなく民とも共に歩んで下さるようにという切実な祈りです。そこには民を愛するモーセの愛があります。すると主は、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(14と言われます。12節で主はモーセに「あなたは特にわたしの心にかなっている」と語られています。これは「お前(モーセ)は恵みを見出した、私()の目の中に」と訳すことができます。神様がモーセを見る時の目は、ご好意の目でした。主はモーセを愛して共におられました。神様は私達にも愛と恵みを注いでくださるお方です(イザヤ434)。それは神の独り子イエス・キリストを与えるほどの大きな愛です(ヨハネ3・16)。

2.共にいて安息を与える主なる神様(1317

主はモーセに「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」3314と言われました。主イエス・キリストの別の呼び名は「インマヌエル」、「神は私たちと共におられる」(マタイ123)という意味です。罪の世に真の神であるイエス様が真の人となられて来て下さいました。そして言われました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14・6)。イエス様は信仰者と共にいて導いて下さいます(マタイ28・20)。イエス様ご自身が道です。しかも、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…」(マタイ11・28~30)と言われました。今日、モーセにのみならず、全ての人にこの招きがなされています。重荷を共に負って下さる主イエス様に、共に重荷を負っていただいて、安息を頂きましょう。その際、不要な重荷(罪の重荷)はイエス様がすでに全て取り除き、十字架の上で、身代わりに死んで下さいました。イエス様を信じて結ばれるなら、主によって罪の重荷は全て降ろさせていただけるのです。イエス様を信じて、全ての罪の重荷を明け渡しましょう。そこに、安息があります。

しかし私たちもモーセの様にさらに15節に進みたいと思うのです。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(15。モーセは民の罪のために神の前にとりなし祈りました(12131516)。モーセがこのような祈りができたのは神の愛を知っているからであり神の愛を体現しているからです。ここまで民を愛していたのです。

この祈りは神様の御心にかないました。神様はおっしゃいました。17節。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから」。この祈りは主イエス様の祈りに通じます。イエス様には全く罪がありませんでした(へブル415)。にもかかわらず主イエス様は私たち罪人のためにとりなし祈り(ルカ2334)、私たちのすべての罪を背負って身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです(マタイ2746)。このイエス様のとりなしの祈りと身代わりの死のゆえに、イエス様を信じる者はイエス様と一つとされる事で罪赦され(ローマ42425)、罪の奴隷と重荷から解放されて(ローマ667)、主に礼拝を捧げ(ローマ121)、主にお近づきできます(エペソ218)。主と共に歩めます(マタイ112830)。主にお仕えできるのです(へブル914)。そして天国の安息に入れて頂けるのです(ヨハネ316)。全ては神の恵みです(Ⅰコリント1510)。

人生の荒野のような時も、主イエス・キリストと信仰によって結ばれている私たちと共に主は行って下さるのです。燃え尽きやすい柴(出32)のような、もろい土の器(Ⅱコリント57)のような、弱いわれらと共に主がおられる。主が共におられる事こそ救いです。主が私達を守り支え、安息を下さるのです。

私たちも主イエス様を知らない方々が主イエス様の救いに導かれ、共に主を礼拝する礼拝の民に加えられるようにとりなし祈り、愛し、伝道する重荷を主と共に負いたいと思うのです。主と共になら、弱い私たちにも負えると信じます。

主イエス様を信じる私たちと共に、主なる神様がいる事(マタイ28・20)を信じましょう。共にいて安息(救い)を下さる主に信頼して参りましょう。

【祈り】天の父なる神様。全てをご存知の上で、私達と共にいて救いに導き、安息を与え、主の御業を成して下さる事を信じて感謝致します。アーメン。


2025年7月12日土曜日

7月13日(日)第一礼拝動画配信「神様から祝福される人生」 創世記26章23~25節(旧約45頁)

 

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説教要旨「神様から祝福される人生創世記262325(旧約45)

1.神のみ言葉を信じる中にある祝福(26・1~12

イサクの時代、その父アブラハムの時代にもあったのですが、飢饉がありました(1)。そこでイサクはゲラルという所に行きました。さらにイサクは父と同様、エジプトに身を寄せようとしたようです。当時、飢饉の時には肥沃なエジプトに下るのが当時の常識だったようです。しかし唯一まことの神様はイサクに現われて仰せられます。エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす」(23。主のみ言葉通りにイサクがその地に留まり、種を蒔くと、その年に百倍の収穫を見ます(12)(当時の農業では2540倍でも豊作)。その理由は「主が彼を祝福された」(12からでした。主と主のみ言葉に信頼して従う中に、試練の中でも、主の祝福を見ます。

2.神と共に、神を第一として生きる(1325

こうしてイサクは非常に裕福になりました。しかし現地のペリシテ人たちはイサクをねたみます(1314)。それでペリシテ人はイサクの父アブラハムの時代に掘られた全ての井戸をふさぎます(15)。しかしイサクは戦争をせずにそこを去ってゲラルの谷間に天幕を張りそこに住みます(17)。イサクは井戸を再び掘りました。そして湧き水の出る井戸を見つけました(19)。どんなに財産があっても水がなかったら生きていけません。生きていくために水が必要です。本当に喜んだ事でしょう。ところがゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争ったのです(20)。イサクは戦争をせずにその地を離れます。昔の井戸掘りですから機械もない中です。井戸掘りは20~40mも掘るという大事業だそうです。しかもめったと水が出るものではないそうです。そういう中でやっと水が出たのに奪われる。これは大きな試練です。もう一度同じような事がありました。しかしイサクは争わず、そこから移って他の井戸を掘ります。その井戸については争いがなかったのでその名をレホボテ(自由の地、広々とした地)と呼びました。レホボテはゲラルよりもさらに南に40キロのエジプトに近い場所。約束の地からはみ出たのかもしれません。だからでしょうか、イサクはそこから北東およそ30キロのイスラエルの最南端(参照;Ⅰサム3:20)、ベエル・シェバに上りました(23)。最南端ですからぎりぎり約束の地という所でしょう。そこはかつて父アブラハムが主の名によって祈った所でした(2133)。試練の中で亡き父を慕い求めていたのかもしれません。

しかしその夜、主ご自身がイサクに現われて仰せられます。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに」(24。父アブラハムを支え守り導き祝福して下さった主ご自身からの御声。イサクはどれほど心強く嬉しかった事でしょうか。イサクはそこに祭壇を築き主の御名によって祈ります。まず礼拝を捧げたのです。そして彼はそこに天幕(生活の拠点、家庭)を張り、イサクのしもべ達はそこに井戸を掘りました(仕事、そこに長く住む事の現れ)(25)。神第一の信仰生活です(参照;Ⅰ列王記17116「かめの粉と壺の油」の奇跡、マタイ63133)。

イサクは神に信頼し従う中で神に祝福を受けました。その根底にあるのは、「アブラハムのゆえに」。主とアブラハムとの契約のゆえに、イサクは主に祝福されたのです。私たちもイエス・キリストの十字架の血による契約のゆえに、ただ神の恵みにより、イエス様を信じる信仰によって、「キリストにあって」神の祝福にあずかります(ローマ42551、エペソ248、ヨハネ155、ガラテヤ314)。さて、イサクは試練の中で特に問題の無いレホボテに留まる事もできましたが、さらにベエル・シェバに上ってきた時、主が臨まれました。地味ですがそこに父亡き後、父アブラハムから継承した信仰が現われています。彼は誰に強制されたわけでもなく、神に従い自らを捧げます。それは主が共におられるという主の臨在の恵みの故でした。やがて敵対していた人達もイサクの祝福の歩みを見て、イサクと共に神がおられる事を認め(28)、彼の土地を認め、和平を結びます(2831)。奇しくもかつて父もこの地で和平条約を締結(2132)。ちょうどその日、掘っていた井戸から水が出たとの報告(32)。イサクは父と同じ試練を通して、神と共に生きる父と同じ信仰と祝福に導かれたのです。

【祈り】父なる神様。主を信じて従う祝福された生活をさせて下さい。アーメン。


2025年7月5日土曜日

7月6日(日)第一礼拝動画配信「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒の働き16章25~34節(新約268頁) 

 

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説教要旨「いつも主イエス様を信じて生きる」使徒162534(新約268p

1.試練の中でも、神に信頼し続け、神を賛美したパウロたち(1625

使徒パウロがピリピという都市にいた時の事です。突然、占いの霊に取りつかれた女性がついて来て、パウロを困らせ続けます。ついに、パウロはイエス様のお名前によって占いの霊を女から追い出しました(1618)。すると、この女の占いでもうけていた人たちからパウロは恨まれ、役人に訴えられます(1921。町の人々も反対したので、パウロとシラスは何度もムチ打たれ、牢に入れられました。そして厳重に番をするように命じられた看守はふたりを奥の牢に入れ、足に足かせをかけます(2224)。良い事をしたのに、かえって苦しい目に合わせられたパウロ達。しかし獄に入れられたにもかかわらず、25節。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」。二人は苦難の中でも神に信頼していたのです。

 

2.人生の危機の中で受け取られた神の祝福(2634)

 すると26節。「ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」。そして27節。「目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。」のです。ローマ法によると、囚人の脱獄を許した看守は、その囚人に課せられていたのと同じ刑に服することになっていました。看守の人生は突然の地震で一転。死に直面させられました。そして、いざ、その死に直面した時、その死の先には何の希望もなかったのです。

しかし、そんな看守の所に希望の声が聞こえたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28とパウロは叫びます。まさか、と思ったでしょう。けれども、その声の通りでした。牢屋の扉が開いているのに、囚人は一人も逃げ出さなかったのです。まさに奇跡です。看守の命は救われたのです。看守は、この突然の地震というハプニングを通して、人生の土台を揺り動かされました。そして、死に直面した時、その先に何の希望も救いも無い事を知ったのです。

それは同じく、死ぬかも知れない状況に置かれてもなお、神に祈り、神に賛美を捧げる、二人の不思議な囚人パウロとシラスとは全く違う自分でした。そして、看守はこの時、二人に、救われるために何をしなければならないのかを尋ねます。

看守はひれ伏して二人に「救われるために何をしなければなりませんか。」(30と尋ねます。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31と伝えます。ローマ帝国において、主はローマ皇帝です。救い主はローマ皇帝であり、平和を与え、いのちを守ってくれるのはローマ帝国でした。彼らにとってローマ皇帝は神であり、神の子でありました。けれども地震を通して、看守は、そのローマ皇帝の支配下にあるローマ帝国の命令が、自分に死を迫り、そして、ローマ帝国は、その死の先にある絶望、滅びに対して何の力もない事を知ったのです。しかし、今や本当の救い主イエス様を信じるようにと招かれたのです。二人の囚人を苛酷な環境で生かし、強め、喜びを与えているのは、このイエス・キリストである事を知るのです。

さらに、パウロ達は伝道を続けます。32節。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」。すると、3334節。「看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(34なんと、看守とその家族が救われました!そこには大きな喜びがありました。

看守にやってきた突然の人生の危機。けれども、その危機さえも神様の御手の中にありました。それは看守とその家族が神の祝福を受け取り、救われるきっかけとなったのです。パウロとシラスの投獄・大地震さえも、神は益に変えられました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)主イエス様は私たちに、どんな時も、絶対絶命のピンチの時でも、希望を与え、絶望から救い、生きる力を与えてくださるお方です。苦しい、惨めな環境におかれても、主を信じる者に力と愛と喜びを与え、御業をなして下さるお方です。主イエス・キリストにより頼むなら、人生の土台は決して揺り動かされる事はありません(Ⅰペテロ26

主イエス様に信頼して、家族に仕え、主を証ししていきましょう。

(祈り)父なる神様。あなたが私達の人生の土台となって下さり、感謝致します。


2025年6月26日木曜日

6月29日(日)第一礼拝動画配信「聖書が教える愛と希望」 ヨハネ14章1~6節(新約213p)

 

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説教要旨「聖書が教える愛と希望」ヨハネ14章1~6節(新約213p

今朝はヨハネ14章1~6節を心にとめましょう。以前、英国女王エリザベス2世の国葬でもこの聖書の箇所が、当時のトラス首相によって朗読されました。

この時の弟子たちは、これからイエス様が歩まれる道(十字架へ)について不穏な空気を感じ、先行きが見えず、恐れと不安の中にいたようです。そんな弟子たちに主イエス様は改めてご自身が一体誰であるのかをお示しになったのです。

1.信仰者の心を守り、平安をくださる、主イエス・キリスト(1

1節。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。聖書において啓示されている、唯一まことの絶対者なる神、全知全能の創造主なる神を信じ、また神の子であり神である、主イエス・キリストを信頼し続ける時、神に支えられ平安が与えられて安心し、恐れと不安から守られ、「心を騒がせられること」、「心かき乱されること」から守られます。と共に神に祈る時に平安が与えられる事を聖書は教えています(ピリピ人への手紙4・6,7)。その事を通して聖書の教える唯一まことの神は生きておられる事を知ります。

 

2.神の御許(天国)に居場所を用意して下さった主イエス・キリスト(2~3)

続いて2でイエス様は言います。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」。「住む所」とは「父(唯一まことの神の事)の家」にあります。そこは天国、神の国、父なる神の御許とも言い換えられます。神の身許には多くの住まい、居場所があります。さらに3節。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」。永遠にずっと共にあなたと天国で(この世でも)過ごしたい、という切なる神の愛が表されています。聖書では、その神の愛は、親が子を愛する愛や、新郎が新婦を愛する愛にたとえられています。唯一まことの主なる神は、あなたや私たちにご自分の命を与えるほどに最高に愛して下さっています(ヨハネ316)。ですから、父なる神の御許、天国に私達の永遠の居場所を用意するために、主イエス・キリストはこの後、十字架で死なれます。イエス様以外の全ての人間は皆、「原罪」という罪を抱えて生まれてきます。神の前に罪ある人間は、完全に正しい唯一のまことの神のご支配(神の国)に自分の力では入れません。その原因である「人間の罪」の為に罪なきイエス様が十字架で身代りに死んで下さったのです。父なる神の怒りの刑罰を身代わりに引き受けて下さったからです。それは救い主イエス様を信じる者の罪が赦され、無罪とされ、罪きよめられ、聖なるイエス様と父なる神の御許でいつも親しくできるようにするためです。神とのお交わりを通して信仰者に、神ご自身のご性質(聖さ・愛、義等)が分け与えられるためです。その証拠としてキリストは死後三日目に復活し、弟子達に現れ、弟子達の前で天に引き上げられ、父なる神の王座のある天にお帰りになりました。そして今も一切の権威をもって天に座しておられます。ですからイエス様は目には見えませんが、イエス様を信じて父なる神に近づく者をいつでも救う事がおできになるのです(へブル72425)。この神の与えて下さった救いに、神からの愛と希望があるのです!

 

3.天国の唯一の道である主イエス・キリスト(4~6)

4節。キリスト様は続けて言われました。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」。その時、弟子のトマスが私たちの思いを代弁しているようにイエス様に聞いてくれています。5節。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と。トマスはここで実際に歩いて行く道路を知ろうとしていましたが、イエス様の回答はトマスのイメージとは違います。すなわち6節。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」。主イエス様はトマスに対して「わたしがその天国の道なのだ」と言われます。イエス様がご自身が天国の道、真理そのもの、永遠の命なのです。イエス様だけが父なる神の御許、唯一の神の家、天国への道です。イエス様はまるで花婿が花嫁をエスコートするように天の家へと導かれます!

(結論)主イエス・キリストこそが「道であり、真理であり、命」です。イエス様だけが唯一まことの父なる神の御許、ただ一つの天国の家への、一本道です!

(祈り)天の父なる神様。唯一まことの永遠の命の道、天国への道、主イエス・キリスト様に信頼して、このお方と共に天国の道を歩んで参ります。イエス様によって、アーメン。


6月22日(日)第一礼拝動画配信「主なる神はおられる」 出エジプト記3章1~6,13,14節(旧約101頁)            

 

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説教要旨

「主なる神はおられる」出エジプト316節(旧約101102)

 神はいるのかいないのか。主なる神は「わたしはある」と宣言しています。

1.神に生かされてきた、モーセの生涯

イスラエル民族(へブル人)がエジプトで生活をしていた時の事。エジプトに新しい王が登場し、へブル人の状況は一変。苦役を課せられます。へブル人の著しい人口増加を恐れた王はイスラエルの男の赤子を川に投げ込んで殺せと命じます。しかしイスラエル人の助産婦たちは神を恐れて従いません。そんな中、あるレビ人の夫婦に男の子が誕生。しかし、その男の子を隠し通せず、しかし殺せず、防水加工をした籠に入れてナイル川のしげみに浮かべます。その男の子の姉は見守り続けますが、そこにエジプト王の娘が通り、彼女に拾われます。その時、モーセの姉の機転によって実母が乳母として王の娘に紹介されます。エジプトの王の娘の子として、実母を乳母として育てられる男の子。

その男の子こそモーセでした。そういう複雑な家庭環境の中でモーセは育ち、やがてエジプトの王宮で、へブル人としてではなく、エジプトの王子としてエジプト最高の教育にて育てられます。モーセは40歳までエジプトのあらゆる学問を極め、言葉にもわざにも力がありました(使徒7・22)。しかし40歳の時、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されるのを止めようとして勢い余ってでしょう、そのエジプト人を殺してしまいます。その後、イスラエル人同士の争いを仲裁しようとした時、拒まれて、「自分をもあのエジプト人のように殺すのか」と言われます。モーセはエジプト人を殺した事が知られたと思い、パロとエジプト人を恐れ、エジプトから逃亡。ミディアンという地方に逃れ、そこで結婚し子どもを授かります。そして、その地で、エジプト人に避けられ嫌われていた「羊飼い」となり、彼のしゅうとの羊を飼う羊飼いとして生きるようになり40年。へブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、エジプトの王(ファラオ)から逃れ、エジプト王国から逃れ、荒野に隠れ、今はミディアン人と共に生き、モーセは80歳に。赤子の時から自分という存在を隠され、いつも隠れて生きてきたモーセ。自分とは何者で自分の人生とは何だったのか?と彼は問うたでしょう。しかし、主はモーセにご計画をもち、必要な教育訓練を荒野で羊を飼う事を通して与えました。

2.「わたしはある」~燃えているのに燃え尽きない燃える柴を通して~

そんなモーセ80歳のある日の事。モーセはミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていました。モーセは羊の群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来ます(140年間モーセは習慣的に羊を飼い続けてきました。しかしこの日はいつもと違いました。主の使いが柴の茂みのただ中の燃える炎の中で彼に現れます。モーセがそれ見ると、なんと燃えているのに柴は燃え尽きません(2)!モーセは「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」と思い見に行きます(3)。主はモーセが今までの進路をそれて燃える柴を見に来るのをご覧になりました。神は柴の茂みに隠れる様にしてモーセに「モーセ、モーセ」と呼びかけられます。モーセは「はい、(私は)ここにおります」とつい答えます(4モーセからは神様は見えませんが神様はモーセの全てをご存知でした。燃える柴を見るためにいつもの道から外れたモーセ。それは主に従う道への軌道修正でした。

そんなモーセに神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5。そこに神が臨在される事のゆえに、その地は神様の聖地となりました。そして神様はモーセに履き物を脱ぐように命じます。「履き物を脱ぐ」とは当時、自分が相手にとってしもべで、服従してそむかない事を示しました。明け渡しです。

そして主はさらにモーセに言われました。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(6)。幼き日々に実母から聞かされていたでしょう、その主がモーセにこの時、御声をかけて下さったのです。その後、神はモーセに「『わたしはある』という者である。」(14と御自身を示されます。天地万物を存在させ、モーセを存在させている神。モーセはこれまで、隠され、隠れて生きてきました。しかし神の前には隠れられませんし、この時、モーセは神の前に出ました。かつてはエジプトの王の娘に川から引き出され、それが彼の名前の由来でした(210)。しかし、この時、神がモーセを神の前に引き出したのです。私たちは『わたしはある』という神様によって創造され存在させられています。主なる神は私たちを愛しておられます。神の前に「わたしはここにいます」と祈り出ましょう!


2025年6月14日土曜日

6月15日(日)第一礼拝動画配信「父なる神の愛」ルカの福音書15・11~24(新約149~150頁)

 

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説教要旨「父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

今日は父の日です。肉親の父、育ててくれた父に思いをはせるとともに、私たち人類の共通の生みの親であります、創造主である、父なる神に心を向けて参りたいと思います。ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は、二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。

1.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。

すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、弟息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕した事でしょう。しかし弟息子は自分が息子として受け入れられるとは思えません。21節。彼は『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』と言い、雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。弟息子の自意識を超えた父の愛の取り扱い!「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!

2.このたとえが教えてくれる、父なる神の愛

これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在を無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛して下さっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改める)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらえるのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただく事により、罪赦され、神に「よし!」と認められ、受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。

キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が自分を良く評価できない時も、私という存在を常に最高に愛し続けて下さる愛を感謝致します。主の愛に信頼します。アーメン


2025年6月7日土曜日

6月8日(日)第一礼拝動画配信「神様に導かれて生きる」使徒2・1~4(新約233~234頁)

 

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説教要旨「神様に導かれて生きる」使徒214(新約233234)

今日は教会歴ではペンテコステ(聖霊降臨日)です。ペンテコステは約束の聖霊が初代の教会に最初に臨まれ、教会が聖霊に満たされた事を記念する日です。今年のペンテコステも、改めて、聖霊が初代教会に豊かにお臨み下さった事を覚えて、また現代の教会にもお臨み下さる事を信じて、心から感謝し喜びましょう。

1.聖霊に導かれて生きる(使徒2・1~4)

使徒214節は聖霊の神様が初代教会に最初に臨まれた時の出来事が記されています。この時の弟子達は苦境の中にありました。イエス様の弟子たちを邪魔して、教会を押しつぶそうとする当時のユダヤ教の宗教指導者たちのプレッシャーや、経済的困難もありました。弟子たちはこのような苦境の中で主に信頼し、主のお言葉に従い、主のお約束の聖霊を待ち望んでいました。共に心合わせて祈り合いながら、約束の聖霊を待ち望んでいました。そこについに主イエス様の約束の聖霊が一人一人に、みんなに満ちて下さったのです(使2・1~4)

「風」は旧約聖書において神の霊を表すものでした。まさに天からの息吹が吹き込まれるようにして聖霊が弟子たちに吹き込まれて教会は息を吹き返しました。ここに炎のような舌が分かれて現れ」(3とあります。一つの御霊が各々に臨んだ事を示しています。「炎」とはモーセが燃える柴で示されたように神ご自身が共におられるご臨在を示すしるしでした。これらの現象は神の霊が弟子たちに臨まれた事を示すしるしとしてこの時、特別に示されたものと思われます。

聖霊の降臨はイエス様の約束の成就です。使徒の働き18節。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。聖霊によって救い主イエス様を証しさせて頂く力が与えられます。迫害の中でも、イエス様と主の愛の教えに従う力が聖霊によって与えられます。そのような生き方は聖霊様とその助けとがどうしても必要です。この時、神に祈り続ける中で、悔い改めて、イエス様に全く信頼し、明け渡し、お従いする心で、主を待ち望む人に聖霊が臨んだのです。もちろんイエス様を信じる人の心に聖霊様はすでに生きておられます。共にいて慰め励まし助けて下さいます。さらには、主に全く信頼し、明け渡して、従う人に、聖霊様が臨まれ、満たされるのです。約束の聖霊に満たされた弟子たちはこの時、「御霊が語らせるままに」話し出しました(4)神様はご自身に信頼し明け渡して従う者を通して、さらに豊かに御業をなされます。主イエスを信じ聖霊が主導されるその導きに明け渡し、従う備えのできている者に聖霊が臨まれ、満たされました。そして、弟子たちは聖霊に導かれつつ、聖霊と共に働きます。それは主イエス様と共に働く事と同じです。

今日、聖霊に満たされたからといって、誰もがこのように外国語が話せたり、異言等の特別な言葉が話せたりするとは限りません。ただ共通する事は「御霊が…ままに」(4生きるという点です。そのように生きる時、どんな時にも聖霊による愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という愛の実が伴います(ガラテヤ52223)。聖霊によって多様な弟子達が一致して宣教の為に立ち上がり、人々の心に、愛をもって、福音を伝える事ができました(14)。ペテロをはじめ弟子達はかつてイエス様を置いて逃亡した人たちでした。ですから、この力は弟子たちのものではなく、まさに聖霊の賜物です(ガラテヤ52223、ヨハネ1426)。御聖霊の働きにより人々が回心します(使徒2・41~47)

御聖霊は日々の幸せにも欠かせないお方です。「肉」(神から離れた人間存在)から出て来る様々な「肉のわざ」と呼ばれる悪しき諸症状(淫行、偶像礼拝・魔術、敵意、争い、ねたみ、憤り、分裂分派、泥酔等。参照;ガラテヤ51921に我らは悩まされますが、御聖霊こそ、それらに効く神の特効薬です(同16節)

2.聖霊に満たされて生きる(エペソ518

「御霊に満たされなさい」(エペソ5・18)と神様は今も聖書を通して、全てのクリスチャンに示しておられます。これは「満たされ続けなさい」という事です。様々な困難や難題に現代に生きる私たちもまた今日、直面しています。だからこそ私達は主イエスとそのお言葉に信頼しつつ、助け主、慰め主であられる、聖霊に助けて頂き、慰めて頂き、励まして頂き、導いて頂きながら、神様の愛と恵みの中で、御霊の満たしとお導きをいつも、共に心を合わせて、祈り続けましょう。悔い改めるべきは悔い改め、主に信頼し明け渡し、主に心を向け心合わせて、従い続けましょう。そこに豊かな愛の実が結ばれていきます。

(祈り)天の父なる神様。いつも私たちを聖霊に満たしてお導き下さい。主に従い、周りを潤し、福音を愛をもって的確に伝える愛の人にして下さい。アーメン。


2025年5月31日土曜日

6月1日(日)礼拝動画配信「私たちに必要なお方」 使徒1・3~8(新約232頁)

 

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【説教要旨】

「私たちに必要なお方」 使徒138(新約232)

今年は教会のカレンダーでは6月8日にペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。聖霊が教会に最初に臨んだ記念日です。改めまして今朝は、主の御霊である御聖霊が初代教会に最初に臨まれる直前の弟子たちの姿に学びたいと思います。

1.主が約束されたご聖霊様とその御力 (1・3~8)

十字架の死後三日目に復活された主イエスが弟子達に40日間にわたって現れ関わり続け(3)、散らされていた弟子たちを召し集めました。弟子達は皆、罪があり、失敗があり、弱さもあり、恐れと不安を抱えていました。しかし、そんな彼らと復活の主イエス様は関わって下さり、彼らを励まし支えて下さいました。そして、主イエス様が天に昇られて見えなくなられた後も、イエス様が共におられると、お約束下さいました(マタイ2820)。そして守り、助け、導いて下さいました。さらに、弟子達に主は、聖霊の約束(使徒1・45)、すなわち、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(4)、「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」(5)、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(8を示されました。「父の約束」である「聖霊のバプテスマ」、すなわち聖霊の満たしです。

「わたしの証人」とはキリストの復活の証人の事です。この後、彼らはイエス様の約束を信じて聖霊を祈り求め続けました。このキリストとその約束を信じ続ける教会の祈りは、教会の生命線のように今日も続いています。私たちも個人で祈り、夫婦、家族、祈祷会や礼拝で、教会で共に祈る、等、祈り続けましょう。

 

2.主に祈り求め続ける者に臨まれる聖霊(1・14,2・4,ルカ11・513

教会はいつも必要なものを抱えています。そもそも人間は神を必要としています。しかし主が「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11・9)とおっしゃって下さっています。全知全能で、全き愛で、最善をなされる主なる神が必要を最善に満たして下さるどころか、ご聖霊によって神ご自身が、今も一緒に歩み導き、お助け下さいます。様々に問題があるように見えても、主が一緒に行って下さるのですから、本当は、もはや、私たちが思い煩う必要は何もないのです。主を信頼して、信仰によって先取りして喜び、感謝し、平安の中に生かされたらよいのです。主は聖霊によって、イエス様を信じる者の心の中に、イエス様が目に見えて共におられた時よりも、さらに近しく、私たちの心のど真ん中にまで来て下さいます。そして、聖霊を主に祈り求め、全き悔い改め、全き信頼、全き明け渡し、全き従順の心の備えができている者に、神様の時に、私たちの心の隅々にまで聖霊が満ちあふれて下さるのです。そこには神の平安も満ちるのです。それが神の約束です(ピリピ468)。私たちは主を信じて、主と結ばれて祈る中で喜びと感謝の生活をする事ができるのです(Ⅰテサロニケ51618)。

 

3.ありのままの今の自分で祈り求める聖霊の恵み

弟子たちは、イエス様が命じられるとおりに、自分の罪と失敗と恥の場でもあった、エルサレムという逃げ出した所、逃げ出したい所で共に心を合わせて祈り、約束の聖霊を待ちました(4)。それはありのままの今の自分で、罪や失敗や恥が主の前にも、お互いの前にもあらわになっていたにもかかわらず、主イエスをそれでも信頼し、主イエスの赦しと愛と忍耐を頂ながら、主が置かれている所で、主に信頼して主の弟子として生きていったという事です。私達もまた、置かれた所、遣わされた生活の現場で、時に、失敗や苦戦や行き詰まる中でも主イエス・キリストを信じ続けて、約束の聖霊に満たされて生きる事を祈り続けましょう。

この聖霊のみが人々を回心に導き、全ききよめ(罪を排除し、成長成熟し続ける全き愛の信仰生涯)へと導き、教会を建て上げる唯一の力です(使徒1・8、エペソ518)。その特質は愛、喜び、平安(平和)…です(ガラ52225)。

困難な時代や状況の中でも、それでも私達は聖霊の神様に信頼し、聖霊の満たし、聖霊の御業を祈り求め続け、主に委ねつつ、お従いして参りましょう。教会を、夫婦を、親子を、家族を、人々を真に生かし保ち、救い、幸福にするのは聖霊の神の御業で、全てが聖霊の恵みです。そこに素晴らしい神の御業がなされ神の愛の実が結ばれていきます。試練の中でも、私たち教会はキリストを信じ、いつも、共に心を合わせて、主に聖霊とそのお働きを祈り求め続けて参りましょう。

【祈り】天の父なる神様。ペンテコステに、聖霊が教会に最初にお臨みになった事を覚えつつ、今も聖霊に満たされて生きる事を祈り求め続けます。アーメン。