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2025年5月24日土曜日

5月18日(日)礼拝動画配信「神の家族である教会」エペソ人への手紙2章19~22節(新約386頁)

 

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2025年5月17日土曜日

5月18日(日)礼拝動画配信「教会としてきよめられる」 エペソ人への手紙5章25~28節(新約391頁)

 

            
説教要旨

「教会としてきよめられる」エペソ人への手紙5章25~28(新約p391

1.教会をきよめる、主イエス・キリスト (2527)

25節からは夫の責務が示されます。その模範は主イエス・キリスト様です。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(25)イエス様が十字架で身代わりに死ぬほどに教会を愛されたように、命がけの愛をもって夫は自分の妻を愛しなさいとの勧めです。妻の従順は夫の愛によって育まれます(小畑進)。

命をかけてキリストは教会を愛したのです。そして、教会はキリストの花嫁にたとえられています。イエス様が十字架に身代わりに死ぬほどまでの教会を愛したのは2627節にある通りです。すなわち、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(結婚の比喩。1・4)ためです。」(2627)「水の洗い」とは、「バプテスマの比喩であるが、その本質は神への聖別にある」(新実用聖書注解)。すなわち、悔い改めて神に帰り、キリスト信仰によって内的に神の霊的恵みを受ける事によって、聖霊によって霊的に新しく生まれる事です。「聖なるもの、傷のないもの」とは1・4の「御前の聖なる、傷のない者」という事です。これは旧約のいけにえの条件(レビ1,3,10章)でした。完全ないけにえはキリストです(へブル9・14、Ⅰペテロ1・19)。神は私たちを、この完全ないけにえである、キリストに似た者とするために選ばれました(ロマ8・29)。この聖化の思想は更に5・26~27で、「ご自分の前に立たせる」(結婚の比喩)、きよい花嫁なる教会の姿へと展開します(新実用聖書注解)キリストが身代わりに死んだのは、教会を聖別する(ご自分のものとして買戻し、取り戻し、救い出し、ご自分のものとする)ため、です。さらにはご自身のみ言葉(見える神の言葉である洗礼を含む)により、きよめ続けるため。そして、汚れなき、きよく、非難されるところのない栄光の教会をご自分のみそばに置くため、でした。

聖書は私たちをきよめるためのことばです。私達をもっと、主イエス様にふさわしい、主イエス様に喜ばれるものとするための、主のみことばなのです。ご自身の宝物を受け継がせるため、神の形の回復、神の御性質をシェアするため、です。何と愛されている事でしょうか。

キリストは御自身にふさわしい存在とするために教会を選び、召し、救い、整えるのです。それは教会を愛しているからです。ご自分のものとして、さらには「自分自身として」と言っても過言ではないほどに、教会を愛しているからです。そのために、イエス様はこの罪に汚れた世に来られ、全ての人を愛して、身代わりに死なれました。それはイエス様を信じる者を救うため、です。すなわち、教会の救いときよめと贖いの為です。

 

2.教会を愛して養い育てる、主イエス・キリスト(2829

夫が妻を愛するその理由。それは、夫と妻の関係の模範である主イエス様と教会の関係が愛だからです。ですから、夫も妻を自分のからだを愛するように愛するのです。「同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」(2829)

キリストは自分の体のように私たちを愛して癒し、いたわり、救い、永遠のいのちを与えました。ご自分が十字架で死ぬ程にです。教会は何とキリスト様に愛されている幸いな存在でしょうか。なぜ、そこまでして下さるのでしょうか。『私たちはキリストのからだの部分だからです』(30)とあります。だからキリストは教会をご自分のからだとして、愛して養い育てるのです。

キリストは十字架で身代わりに死なれるほどの命がけの愛で私たち教会を愛して、聖なる栄光の存在へと救い、導き、整えて下さいます。私たちはキリストの花嫁なる教会、キリストのからだの一部として、キリストの愛を受け取り、その愛に応答して、主イエス様に信頼し従って参りましょう。イエス・キリスト様は私たちを愛し、寄り添い、守り導き、育てて下さいます。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子イエス様は、花嫁である教会を愛し、きよめ、養い育て、整えて下さる事を感謝します。信じます。アーメン。

2025年5月10日土曜日

5月11日(日)礼拝動画配信「苦難の中でも主に信頼し続けた義母と嫁」ルツ記1章15~18節(旧約472頁)   

 

説教要旨

苦難の中でも主に信頼し続けた義母と嫁ルツ記1章15~18節(新約174頁)

今日は母の日です。義母ナオミを愛した嫁ルツの主への信仰に注目しましょう。

1.暗黒の時代の中で、何気ない庶民の日常の中で進められていた主の計画

「さばきつかさが治めていたころ」(1)。すなわち、旧約聖書の士師記の時代(前12001050年頃と言われている)で、ルツ記の出来事の年代は前1150頃と言われています(鍋谷)。イスラエル民族が政治的、宗教的に混乱していた時期です。しかも、「この地にききんがあった」(1)。食料危機であり、経済的危機です。そういう状況にあったユダの地からイスラエル人の一組の夫婦が二人の息子を連れて避難し、神の約束の地を出て、異教の地モアブに行き滞在しました(1)

夫エリメレク(私の神は王である、の意)、妻ナオミ(楽しみ、快い、の意)、二人の息子はマフロン(病める者の意)とキルヨン(消え失せる者の意)。二人の息子が生まれた時代は、大変な状況だった事が、二人の息子の名前から想像できます。

さばきつかさが治めていた時代、神が王であるのに、イスラエル人は自分たちの良いと思う事を勝手にしていくようになりました。やがて、異教の他国のように、人間の王を求めていくのです。真の王である神に背を向け、神を見失っていたのでした。イスラエル民族は主によって形成されてきたにもかかわらず、です。

国内の混乱、飢饉を見て、二人は神の約束の地を去る判断したのでしょう。しかし、異国の地モアブ滞在中に、夫エリメレクが死亡(3)。その後、二人の息子それぞれにモアブ人の嫁オルパとルツを迎えます。そして10年間、モアブの地に住みました(4)。しかし、二人の息子はその地で死にます(5)。大変な試練にナオミは遭遇するのです。異教の地で夫と二人の息子を失います。大変な状況です。

そんな時、神様がイスラエルを顧みて、食べ物を与えて下さった事を耳にします。暗やみの中の希望の光です。ナオミは神様に身を避けるようにして、二人の嫁を連れて、神様の約束の地ユダの地に帰ります。しかし、ナオミはその帰る途中(7)、この二人のモアブ人の嫁の今後を考えて、モアブの地の自分の家に帰るように言います(8~9)。しかし、二人はナオミと一緒にユダに行こうとします(10)。しかし、ナオミは二人の嫁を説得し、モアブの地に帰らせようとします(1113)。二人は声をあげて泣きます。そして、弟息子キルヨンの嫁オルパ(参照410)は義母と別れて、モアブの地に帰って行きます(14)。

2.嫁ルツの主への信仰と、義母ナオミへの愛(14~17)

しかし、ルツはナオミにすがりつき離れようとしません(14)。帰らせよう(15)とするナオミに、ルツは告白します。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(1617)。何という主なる神への信仰と、義母への愛でしょうか。彼女もまた、義母のナオミを通して、ナオミの信じる神様、すなわち、唯一真の神を信じていたのです。ナオミはルツの固い決心を見て、もうそれ以上は言いませんでした(18)

ナオミが帰って来たのを故郷ベツレヘムの人たちは驚きます(19)。しかし、自分の状態は「マラ(苦しみの意)」であり、「ナオミ(「楽しみ、快いの意」)と呼ばないでくれ、と言います。自分の名前を逆さにするほどに、苦しい状態にナオミはありました。ナオミは、この苦しみの原因は神様にあると言います(2021)。しかし、彼女はそれでも全能の主なる神に信頼します。神様がこの苦しみをも支配しておられる。だから、この苦しみの解決も全能の主の手の中にあるのです。

ちょうど帰った時は大麦の刈り入れの時が始まる時でした(22)。ルツは義母と自分が食べていくために落穂を拾いに出かけます。その時、義母ナオミは「娘よ、行っておいで」(22)と言いました。ここに血のつながりを越えた義母と嫁の関係を見ます。その後、神様は不思議な導きによってルツを親類のボアズという立派な信仰者との出会いと結婚に導き、二人の間には子が与えられ、ナオミはその子を抱き養い育てます(416)。ナオミは大いに慰められ喜ぶのです。ナオミの回復をここに見ます。本人も信じられなかった祝福。さらに祝福は続きます。その子の子孫として、ダビデ王が生まれ、その子孫として、永遠の王、救い主イエス・キリストがお生まれになります。エリメレクの名の通り「私の神は王である」との名前が実現するのです。220節のナオミの信仰が実現します。

神様はご計画をもって、私たちをも導いて下さっています。どんな試練や困難の中でもあきらめずに、主に信頼し、主イエス様を信じて、従っていきましょう。

【祈り】主よ。どんな試練の中でもあなたに信頼して生きていきます。アーメン。                                     



2025年5月3日土曜日

5月4日(日)礼拝動画配信「復活の主イエス様が与えてくださる喜び」ルカの福音書24章44~53節(新約174頁)


 説教要旨「復活の主イエス様が与えてくださる喜び」ルカの福音書244453節(新約174頁)

今週も先週に続いて、復活後のイエス様のお姿に注目しましょう。

復活の主イエス様にペテロが出会い、そして、エマオという村に向かっていた二人の弟子にも復活の主イエス様が出会ってくださった。そのことを弟子たちが集まって話し合っていました。すると、その弟子達の真ん中にイエス様が現れます(36)。イエス様は取り乱す弟子たちに、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(3839と言われます。さらに、復活後の手足をお見せになりました(40)。それでも、うれしさのあまりに、まだ信じられず、不思議がっている弟子たちに、イエス様は焼き魚を食べる様子を見せられ、幽霊ではなく、復活された肉体もったお方であることをお示しになられました。

1.聖書を悟らせるために心を開かれ、教えられる復活の主イエス(44~47

そして、主イエス様は旧約聖書からキリストの十字架と復活について悟らせます。44節。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」。さらにイエス様は聖書を悟らせるために「彼らの心を開いて」(45言われます。4648節。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」と言われました。イエス様の十字架と復活の証人です。

2.聖霊の約束をして、祝福しながら天に上げられた主イエス様(49~53)

 しかし、生まれながらの彼らの力では到底、主の証人、宣教の働きはできない事であることを主はご存知でした。弟子たちの状況の困難さもご存知でした。イエス様の事を伝える力、神様の助けと力が必要であることもイエス様はご存知でした。ですから、イエス様は「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24・49)と言われたのです。この力とは聖霊の力です。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒18

イエス様は十字架で死なれる前にも弟子たちに教えていました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14・16)。これは、後に、エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が降られる事をイエス様はあらかじめ言われておられたのです。

 また、イエス様は言っておられました。ヨハネ1412・・・わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」 。イエス様は今も目には見えなくても生きておられ、子なる神として最高の天の父なる神の右に座しておられる。しかも、世の人々を救うために、今もご自身も働き、弟子たちをこの世に派遣して共に働いておられる。信仰者を通して、教会を通して、さらに大きくこの世の真っただ中において、ご自身の働きを、さらに大きく展開しておられるのです。

主イエス様は復活されました。主イエス様は生きておられます。そして、やがて、弟子たちの前で天にお帰りになられました。その際、イエス様はベタニア(使徒1・12にはオリーブ山とある)の近くに弟子たちを導き、イエス様は弟子たちのために手を挙げて祝福しながら天にお帰りになられました(5051)。

イエス様は大祭司として今も天においてとりなし、祝福して祈って下さっています。だから、いつでも、ご自身によって神に近づく人々を、完全に救って下さいます(へブル4・14~16、7・24~26)。弟子たちと共にいつもいて、見守って下さっています。いつも助けて下さっています(マタイ28・20)。

ですから、復活の主イエス様を信じた弟子たちは非常な喜びを抱いて、エルサレムに帰ります。そして、いつも宮にいて神を賛美しました(52~53)。共におられる主が喜びと賛美を与えて下さったのです。そして約束通り、聖霊を待ち望む弟子たちに聖霊をお与えくださり、イエス様の復活の証人として下さったのです(使徒2章)。イエス様のお働きは今も世界中で展開され続けています。

【祈り】父なる神様。復活の主イエス様を信じて、喜んで、主を賛美します。アーメン。

2025年4月26日土曜日

2025年4月27日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「あなたを愛して寄り添って下さる神、イエス様」ルカの福音書24章13~32節(新約172頁~)

 

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説教要旨

「あなたを愛して寄り添って下さる神、イエス様」ルカの福音書241332節(新約172頁~)

先週はイエス様のご復活を記念するイースター(復活祭)でした。今朝はその続きを見ましょう。十字架で死んで三日目に復活されたイエス様が顕現されます。

1. 信仰が弱っている者とも共に歩んで下さる主イエス様(1316)

イエス様が十字架で死なれた金曜日の三日後の日曜日の事。イエス様の二人の弟子がエルサレムから11km離れたエマオ村に向かってとぼとぼと歩いていました。二人は女弟子達が知らせた、イエス様のご遺体のない空っぽの墓、イエス様が復活したとの天使のお告げ、について納得できず、その事を真剣に議論し苦悩していました。すると15節。いつの間にか主イエス様が二人の話を共に歩きながらじっと聴いていました。二人の肉眼はイエス様を見ていました。しかし弟子達は気づきません(16)。現に彼らはこの後イエス様と話しています。問題は彼らの信仰の目がふさがれていた事です。それゆえイエス様のみ言葉を忘れ、信じず、霊的暗黒の中でもがいていたのです。そんな彼らと共に主は歩きます。イエス様は私たちの信仰が鈍り、共にいて下さるイエス様に気づかない時も、変わらない愛をもって共に歩んで下さいます!またイエス様は私たちの話、議論を、全て聞いておられる。イエス様は私たちの心もすべて見通しておられる神様です。

 

2. あなたの心を受けとめつつ、愛をもって真理をお語り下さるイエス様(1732

するとイエス様は二人に言いました。「その話は何のことですか?」(17。弟子達は復活のイエス様に気づかず暗い悲しい顔でした。一人が答えました。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(19~24)。するとイエス様は彼らの話をじっと聞いた後に言いました。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」(2526)。それから旧約聖書の預言からキリストについて、すなわち御自身の事について説明します(27)。二人の弟子はその話を聞いて不思議と心が熱くなります(32)。彼らの、復活の主イエスを信じる妨げ、障壁となっていた誤りが、主イエスとの対話の中で、主のみ言葉によって、解消されていったのです。

その二人の弟子の問題は、主イエス様から教えられていた教えの一部分しか信じていなかった事です。それゆえイエス様の十字架と復活に躓いたのです。キリストがなぜローマ帝国に死刑にされるのか、と。しかし二人はイエス様の聖書の解き明かしを聴いているうちに、さらに話を聞きたいと思ったのでしょう。その人に言いました。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(29。そして3人で食事をします。すると先ほどの人がパンをもって神様にお祈りしてから、パンを分けて二人に渡したその時、二人は気づきます。「イエス様だ!」。するとイエス様は彼らには見えなくなりました(31)。イエス様はこの二人の弟子に、イエス様が復活して生きておられる、という事を教えるために現れて下さったのです。彼らはついに復活の主を信じます。

二人の弟子は話し合いました。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32。彼らはイエス様のお話をいつも聴いていたので、イエス様のお話でいつも心が熱くなっていた事を思い出したのです。

イエス様の話を聴いていると神様の愛、希望、信頼が心にわいてくるのです。この時、彼らの心にも力がわいてきたのです。それは今日も同様です(ローマ5・1~5)。私達が愛の冷えた世の罪の影響や自分の罪のために信仰の火が下火になり冷たくなっていても、復活の主イエス様のみ言葉に聴き、主イエス様と交わる時、私たちの信仰と愛と希望の炎が復興するのです。主に聴き続けましょう。

【祈り】復活の主イエス様。あなたは生きておられ、私たちの信仰が下火になっているような時も共に寄り添い、回復に導いて下さり、感謝致します。アーメン。


2025年4月19日土曜日

2025年4月20日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「復活されたイエス・キリスト」ルカの福音書24章1~12節(新約172頁)


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説教要旨「復活されたイエス・キリスト」ルカの福音書24章1~12節(新約172)

今日は教会の暦ではイースター、キリストの復活祭です。先週は十字架で全人類の罪を背負い身代わりに死なれたイエス様のみ言葉に学びました(ルカ23・43)。その後、イエス様は十字架上で息を引き取られました。アリマタヤのヨセフという金持ち(マタイ2757)の議員で、正しい人(50)が、イエス様のご遺体を引き取って、まだ誰も葬ったことのない墓に納めました(53)。その納められる様子をイエス様について来ていた女性の弟子達は見届けていました(55)。それが金曜日の日没頃でした。女性たちは香料と香油を準備して葬りに備えました。金曜日の日没から土曜の日没まで安息日なので戒めに従って休みました。この間は安息日なので死体に触れることができなかったのです。また安息日が土曜の日没に終わった後は暗いので、女性が外を出歩き、真っ暗な墓に行くのは危険でした。それで女性たちが精一杯、早く行ったのが、安息日が終わった翌日の明け方の日曜日の早朝だったのです。その間イエス様のご遺体は土、日と墓に安置されたのです。

 

1.復活したイエス様を見失った女弟子たち(1節~4節前半)

241節。「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た」とあります。十字架からイエス様のご遺体が取り降ろされて、墓に収められた時には、金曜日の日没が迫り、もう安息日が始まる頃だったので、略式の埋葬しかできませんでした。なので、彼女たちは改めて正式な葬りを行う為に、愛するイエス様の墓に来たのでした。金曜日を含めて金、土、日の、三日後の日曜日の明け方早くに駆けつけました(241)。

しかし墓に来てみると、2節。「見ると、石が墓からわきに転がされていた」のです。当時の墓は横穴に大きな石をごろりとフタをした形の墓でした。しかしそのフタの石がわきに転がしてありました。これは天使によるものでした(マタイ282)。そしてルカ24章3節。「そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった」のです。4節では「そのため途方に暮れていると」とあります。「途方にくれる」という言葉は「とまどい」とも訳されます。それはイエス様が葬られた墓に、イエス様のご遺体を求めて来たのに、無かったからです。

2.約束通り復活されたイエス・キリスト(4節後半~12節)

すると4節後半。「見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。」とあります。二人の天使が彼女たちの近くに来たのです。彼女たちは「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」5ます。すると天使たちはこう言いました。5節後半~6節。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」。重要な出来事の証人として、神によって遣わされた天使は二人であった事が示されています。イエス様のご遺体が無いのは、天使が証言するように、死から復活して生きておられるからです。

さらに天使たちは言います。6節後半~7節。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と。彼女たちはイエス様を敬愛し慕うからこそ、イエス様の死を心から悲しみ嘆きました。しかしイエス様が殺される事だけでなく、三日目に復活するというイエス様の約束(ルカ9・22、マタイ27・63)を忘れていた、又は確信していなかったのです。

しかし主イエス様のみ言葉を伝えられて、8節。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」。彼女たちの信仰がイエス様のみことばを聴く事から、回復に導かれます(ローマ1017)。それは天使を通してでしたが、イエス様のみ言葉を思い起こす事によったのです。また復活の主イエスにその後お会いします(マタイ28910)。彼女達は他の男の弟子たちにイエス様の復活を知らせます。

ところが11節。「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」とあります。当時の女性の証言は重んじられていなかった事もあったでしょう。また、主イエスの十字架の死があまりの事だったので、そこからの復活という事が信じられなかったのかもしれません。しかし彼女たちの証は無駄に終わりません。12節。「しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った」とあります。彼女たちの精一杯の証は、三度、主イエス様を知らないと否んだ使徒ペテロを立ち上がらせました。やがてペテロも復活の主イエス様に出会い、復活の主イエス様を証言するようになります。(祈り)天の神様。イエス様は十字架で死んで復活した事を信じます。アーメン。


2025年4月12日土曜日

2025年4月13日(日)第一礼拝動画配信 午前9時半~「絶望的な状況でもイエス様に希望がある」 ルカの福音書23章39~43節(新約171頁)

 

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「絶望的な状況でもイエス様に希望がある」ルカの福音書23章3943節(新約171)

今日から教会暦では受難週に入ります。今年は4月20日がイースター。イエス様の御受難を覚えつつ、十字架の主イエス様を信じて救われた原点を覚え、この十字架の主イエス様を信じる者は救われる事を信じて、お伝えしましょう。

先週は、イエス様が十字架につけられているにもかかわらず、十字架上の第1言、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23・34)ととりなし、祈られたところから学びました。今日はその続きです。十字架上の第2言は、信仰者への救いの確約でした。

1.主イエス様の左右に十字架につけられた犯罪人(39~42)

イエス様を中央にして、左右に犯罪人(強盗。マタイ273844参照)たちが十字架につけられました。最初、この二人の犯罪人たちは、周りの人々と共に、イエス様をののしっていました(マタイ2744)。

39節。『十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。』。イエス様をキリストと信じていない者の皮肉です。同時に、誘惑でもありました。十字架の上で、悪魔に用いられて、イエス様に皮肉を放ち、十字架から降りるように誘惑する犯罪人の悪口が浴びせかけられる中で奇跡が起こりました。十字架にはりつけにされているイエス様のそのとなりで、同じく十字架にはりつけにされ、苦しんでいるもう一人の犯罪人が悔い改めたのです。4041節。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」』。

このもう一人の犯罪人は、①神様を信じ、神様の前に恐れをもっていました。そして、②この神様の前に、自分の罪を認めていました。そして、③イエス様が何の悪いこともしなかった、無罪のお方であることを告白するのです。そして、このイエス様は、本当に救い主、キリストであることを信じるのです。そして、その十字架刑の苦しみの最中、まさに、死の直前に、イエス様に告白します。42節。そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』。この点、「その強盗は、もう数時間しか生きられないことを知っていたので、この祈りには、イエスが御国で彼を受け入れてくださる未来の状態に対する信仰が含まれている。」(プランマ―、ウェスレアン聖書注解)と解説されています。

2.絶望と孤独の中で見出した、イエス様にある救いの確約と希望 (43)

イエス様の口からは、犯罪人にとって、息も止まるような驚くべき言葉が出てきました。イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」。十字架上の第2言。「今日」というのは「メシヤとの出会いによって生まれる決定的出来事を表すルカ的用語(2・11)」(熊谷、新実用聖書注解)と解説されています。「この約束には、人の死後も意識は継続することが含まれている。…」(プランマ―、同上)。ここでの「パラダイス」とは「新約聖書においては、この語は、正しい者が死後住むところを指していると思われる」(ウェスレアン聖書注解p355)。この点、「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある」(黙示27、参照・黙示録22・1~5、創世記29とあります。これらから「パラダイス」とは、イエス・キリストを信じる者が死後に入る、神と共に住む天国を表しています。なお、「パラダイスにいます」の「います」は未来形です。神の言葉は必ずその通りになる。この主イエス様から、このように語られ、受け入れられた十字架の強盗は、罪を赦され、義と認められ、神に受け入れられ、神の国に入り、神との親しい交わりにあずかるものとされた。彼は永遠のいのちを得たのです。だから、死後に住むパラダイス、天国の前味を、すでに、この地上でも味わいながら、死後に住むパラダイス、天国にまもなく死後、入る。彼にとって「死」はパラダイスに入る時(未来)となったのです。

彼は、悔い改めてイエス様(福音)を信じた事で、人生が大逆転した。死後にパラダイスに入る希望を得、現在はイエス様と近しい親しいものとされ、孤独と絶望から解放された。隣ではイエス様が共に苦難を担って下さっている。そして、この強盗は、自分では全く気が付いていないけれども、今なお、世界中で、ただ恵みによって、イエス様を信じて救われる事の有名な実例となりました。

(祈り)天の父なる神様。イエス様を信じる人は死後パラダイスに入り、この世でもイエス様と共に、神のご支配の中、生きていける事を感謝します。アーメン。


2025年4月5日土曜日

2025年4月6日(日)第一礼拝動画配信「主イエス様のとりなしの祈り」 ルカの福音書23章32~38節(新約170頁)

 

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「主イエス様のとりなしの祈り」ルカの福音書23章32~38節(新約170)

本日は教会役員任命式が礼拝の中で執り行われます。続いて、教会役員の為にお祈りをお願い致します。今朝は、受難節に入ったこの時期に、イエス様の御受難を覚えつつ、イエス様と共に、キリストの弟子として生きる上で欠かせない「赦し」、他者を愛していくために必要な「とりなしの祈り」について見ましょう。

1.全き愛に生き、全人類の救いの為に奔走されたイエス様になされた仕打ち

主イエス様が十字架にかけられる際、他にも二人の犯罪人が、イエス様と共に死刑にされるために引かれます(32)。「どくろ」(ラテン語でゴルゴダ)と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエス様と犯罪人とを十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に(33)。イエス様は何の悪いこともしていないのに、むしろ全き愛に生きられたのに、犯罪者に挟まれる形で、その真ん中に十字架の上にはりつけにされたのです。全人類の救い主を、イエス様を信じない人々は十字架にくぎ付けにし、極悪人に仕立てたのです。主イエス様は人々の救いの為に奔走し、尽くされたのに、人々はイエス様を十字架に追いやります。

2.敵をも愛してとりなし祈る、主イエス様の愛(34)

しかし、イエス様はそれでも自分を殺す者をも愛され祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34)。イエス様は、このような驚くべき、敵をも愛する愛をもって、とりなしの祈りをされたのです。

その後、イエス様を十字架につける人々はくじを引いて、イエスの着物を分けました(34)。イエス様は何も着るものがありませんでした。民衆はそばに立ってながめていました。指導者たちもあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」(35。兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出します(36)。そして、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです(37)。

しかし、イエス様はそれらの愚弄、挑発を受けているのにもかかわらず、十字架から降りませんでした。降りることができなかったのではありません。降りようと思えば降りることがおできになるのですが、決して降りようとはされなかった。なぜなら、イエス様は、この時、全人類を罪と罪の刑罰である地獄から救うために、全人類の罪を身代わりに背負って、父なる神の怒りの刑罰を身代わりに受けておられたからです。それによって、イエス様を信じる者を救うためです。ここにもご自分の敵たちのために身代わりに死ぬ愛が示されます。

悪魔は罪人をあおって、イエス様を必死に挑発し、必死に十字架からおろそうと働きかけましたが、イエス様は決して挑発に乗らず、十字架にはりつけにされたままとなってくださったのです。イエス様が十字架から降りなかったから、主イエス様を信じる私たちは救われるのです。十字架の死は失敗ではなく成功です。

さて、「これはユダヤ人の王」と書いた札も十字架の主イエスの頭上に掲げてありました(38)。これはピラトが書いた罪状書きです。イエス様がローマ総督ピラトの尋問を受けられた時(マタイ27・1114)、ピラトが「あなたはユダヤ人の王ですか」(11と問うと、イエス様は「そのとおりです」と言われました。ピラトは、イエス様は死刑になるような罪を犯しておらず、祭司長、長老たちがねたみのために、イエス様を引き渡してきたことを見抜いていました。

祭司長たちはこのピラトの書いた罪状書きを見て、「ユダヤ人の王と自称していた、と書いてくれ」と要求しますが(ヨハネ1921)、ピラトはそれを許さず、このように書かせました(ヨハネ19・22)。この看板の通り、イエス様はまことのユダヤ人の王でした。さらに言えば、神の国の王、天国の王、永遠の王、天地万物の主なる神、救い主なのです。しかし、民はユダヤ人の真の王であられる、イスラエルの主なる神を拒んで、信じ受け入れずに、十字架の死刑に処したのです。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。主イエス・キリスト様を信じないユダヤ人たちは、イエス様が真のユダヤ人の王である、と正直に言われた事を、偽りとして訴えて、それを罪状としたのです。罪人の愚かさの暴露です。

ここに記されている人間の罪は、私たちの内にある罪の性質でもあります。人間の罪が、イエス様を十字架につけたのです。しかし、イエス様は、そんな罪人たちを愛されました。その証拠に、イエス様は、十字架上で、人類の赦しを、とりなし、祈られました。そして人類の為に、身代わりに死んでくださいました。

(祈り)天の父なる神様。あなたの独り子、主イエス様が罪人である私たちのために、十字架でとりなし祈り、身代わりに死んで下さった事を感謝致します。


2025年3月29日土曜日

2025年3月30日(日)第一礼拝動画配信「主と共に歩み、イエス様に似た者となる事を目指して」マタイ28章16~20節(新約p64)

 

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メッセージ要旨

「主と共に歩み、イエス様に似た者となる事を目指して」マタイ28章16~20(新約p64

本日は、教会学校進級式、教会学校教師任命式です。続いて、教会学校の生徒と教会学校の教師のために、教会教育のために、お祈りをお願い致します。

今朝は、今一度、主イエス様の示された私たちの歩むべき方向性について確認したいと思います。ある時、弟子たちがイエス様に「世が終わる時のしるし」について尋ねた事があり、イエス様がお答えになった時がありました(マタイ24・3~12)。異端、偽キリストの登場、戦争とそのうわさ、民族紛争、あちらこちらでの飢饉、地震…。しかし、これらは「産みの苦しみの始まり」(24・8)と主イエスは言われます。その時には、さらに、キリスト者への迫害、裏切り、偽預言者による惑わし、不法がはびこり愛が冷える…(24・12)。

しかしピンチはチャンスとも言われるように、闇が深い時こそ、真理の光は明確に輝きます。クリスチャンは世の光として、キリストと共に忍耐しつつ信仰と愛をもって輝くのです(24・13,14)。14節の冒頭には原語では「そうしながら」という言葉があります。すなわち、そのような試練の中で、キリスト様が、福音が、かえって証されるのです(14)。その際、重要な事はキリスト者がキリストの弟子として生き、成長していく事です。今朝はそのカギとなるみ言葉です。十字架で贖いを成し遂げ、死後三日目に復活された主イエス様のみ言葉、マタイの福音書28章16~20節に改めて注目致しましょう。今、改めて、キリストの弟子として生きる事、さらにはその成長が必要なのです。

1.復活の主イエス様の権威とご命令(18~20)

復活された主イエス様は弟子たちに語られます。わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(18)。この時、弟子達は困難な中にありました。ローマ帝国、ユダヤの宗教指導者達が敵に回っていました。民衆もイエス様を十字架につけろと叫んだ直後でした。しかし、この18節のお言葉が弟子たちの力であり、命であり、守りであり、勝利です。イエス様は天地万物の王で主です。たといローマ帝国とユダヤ宗教指導者たちと民衆が敵対していても勝利はゆるがないのです。一切の権威はキリストにあるからです。

主イエス様はその権威をもって言われます。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(19~20節前半)。あらゆる国の人々を主イエス・キリストにお従いする弟子にしなさい、という主のご命令です。弟子にするとは、具体的には、その直後にありますように、①愛をもって福音をお伝えして、信仰告白に導かれた方に洗礼を授ける事。②主イエス様の教えを共に学び、信じて、守り行うように教え続ける事です。その際、教える者たちもまた、主イエスの教えを学び守る必要がある事は言うまでもありません。そして、共にキリストの弟子、すなわち、イエス様に似た者となっていくのです。

洗礼は、イエス様を信じて救われて、聖霊を頂いて、三位一体の神との霊的交わりに入る事(ローマ6:3、4)のしるしです。洗礼を受けてそれで終わりではなく、続いて、主イエス様の教えを主の御言葉によって学び続け、守り続けるのです。その人は幸いな者になります(マタイ5・2~12)。しかし主イエス様の教えとご命令は自分の力では守れません。では、どうすればいいのでしょうか?

2.復活の主イエス様のお約束(20)

主イエス様はそんな弟子たちに見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節後半)と約束されました。どこでも、いつでもイエス様は信仰者と共にいて下さるのです。この時の弟子たちは、まだ宣教どころではないと思われるような、つまづいたところからやっと起き上がったような弱い未熟な弟子達です。にもかかわらず、いえ、そんな弱い弟子達だからこそ、このお言葉を下さいました。弟子たちがこれから担う使命の重さを主はご存じです。しかし主イエス様と共に担うなら重荷は軽いのです(マタイ11・28~30)。

主イエス様は一切の権威をもって、父なる神の右の座に着き、天で、地上の弟子たちの為に祝福をもってとりなし祈り、今も弟子達と共に働いておられます。

福音宣教も、キリストの弟子としての成長も、主イエス様と共にするものです。主が共にいつもおられます。だからこそ、弟子としての成長、主に従う事、福音宣教や教会教育が可能となります。主イエス様を中心とし、主イエス様に共に学び倣いながら、互いに愛し合い、共に試練を耐え忍び、共に福音を証しましょう。

(祈り)父なる神様。困難な時代でも、イエス様に学び、倣い、互いに愛し合いながら、イエス様の弟子として共に健全な成長を遂げさせてください。アーメン。


2025年3月22日土曜日

3月23日(日)午前9時半~ 第一礼拝 配信 ヨハネの福音書14章1~6、12~17節「主と共に、この世を生きる」

 

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2025年3月15日土曜日

3月16日午前9時半~ 第一礼拝 配信 *回線不具合のため、夕方礼拝録画を配信致します。申し訳ございません。

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「共にいて、お守り下さる主イエス様」マタイの福音書142233節(新約29)

時に人生で嵐の様な試練に会う事があります。そんな時どうしたらよいのでしょうか。

1.「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(227)

ある時、イエス様は弟子たちを強いて船に乗らせて湖の向こう岸に渡らせ、ご自分は祈るために一人、山に登られました(2223)。一方、弟子達は言われた通りに舟をこぎ出し、陸からもういくらか離れていましたが逆風にさらされ、波に悩まされていました(24)。次々と逆風による波が舟に押し寄せます。元・漁師もいましたが、自分たちの技能や経験や体力に勝る試練。このままでは舟もろとも沈むかも!「イエス様の言うとおりにしているのにどうして?」と思ってしまうような状況です。そんな彼らの所にイエス様が来られました。25節。夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。「夜明けの三時ごろ」は午前3時~6時にかけての事です。夜明け前の薄暗がり時、イエス様が湖の上を歩いて来られました(25)夜中に海の上を歩いてくる人(実はイエス様)を見て、弟子たちは湖の上を歩いておられるのを見て「あれは幽霊だ。」(26と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのです。

私達も試練の中で、試練が続く中で、共にいて下さるイエス様を見失ってしまう事がありえます。しかし、主は試練の中にいる弟子達のそばにまで来て「すぐに」御言葉をもって語りかけて下さったのです。27節。『しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。』。この「しっかりしなさい」という言葉は、「恐れるな、安心しなさい、元気を出せ」という意味があります。「しっかりしなさい」と言える根拠はどこまでも「わたしである」にあります。この「わたしである」とはギリシャ語で「エゴ―、エイミ」。神様ご自身のお名前であるヤハウェに通じる言葉です(出3・14)。まるで鍵で「しっかり」とロックするようにして、主イエス様と信仰によって「しっかり」とつながる事によって恐れに勝利するのです。

 

2.「なぜ疑ったのか?」~どんな試練の中でもイエス様を疑う理由などない~(2833)

するとペテロは主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください(28)と願い出ます。あいかわらず湖は荒れています。しかしペテロの心は主イエスとそのみ言葉を信じて、主イエスのお言葉通り、「しっかり」し恐れていない心の状態となったのです。イエス様が「来なさい」と言われたので、何とペテロは舟から出て水の上を歩いてイエス様の方に歩いて行きました(29)!かつて紅海の水が分かれそこを民が通った主のみわざに匹敵するような出来事を、主のみ言葉を信じる信仰によって体験したのです。ところがペテロは「風」(30、原語では「強風」を見ていて恐れました。そして沈みかけたので叫び出し「主よ。助けてください。」と言います(30)。 原語では「主よ!救って!私を!」。そこでイエス様はここでも「すぐに」手を伸ばして彼をつかんで引き上げ、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(31)と言われ、沈み始めたペテロをすぐに握って支えて下さいました。主は共にいて、お守り下さいました。二人が舟に乗り移ると風が止みます(32)。嵐の試練すら神の御手の中。舟の中からそれらを見ていた弟子たちはイエス様をまことに、あなたは神の子です(33)と言って礼拝しました。

「信仰の薄い者よ」とは信仰はあるのですが小さくなっている人の事です。その原因は主イエスとそのみ言葉から心が離れ、逆風とその影響力を見て恐れたからでした。水の上を歩いたペテロの信仰は小さくないでしょう。しかし、強風を見て恐れ、試練よりもイエス様を小さく見てしまったのです。だから、その分その信仰は小さくなってしまい沈み始めました。なぜ疑うのか。」は「疑う理由なんてどこにもないよ」、「信頼しなさい」とも言われている様です。その後すぐ嵐が止んだ様に、どんな試練の嵐も主の支配下にあるのです。時に直面させられる試練は私たちを信仰者としてさらに成長させるために存在します。全てをお見通しの主イエス様が、弟子たちを舟に乗らせて、湖の向こう岸を渡らせられたのは、実はこのためだったのです。主は私たちを成長させようとしておられるのです。それは更なる大きな試練への備えでした。主イエス様はこの出来事を通して「わたしはあなたの直面している試練よりも大きいのだよ」と教えておられます。どんな試練の中でも主イエス様を疑う理由などないのです。どんな時も主イエス様に信頼して主と共に歩みましょう。

(祈り)父なる神様。どんな試練よりもあなたの方が圧倒的に大きい事を忘れずに日々、主に信頼してつき従います。イエス様のお名前によって。アーメン


2025年3月8日土曜日

3月9日(日)礼拝動画配信 ルカの福音書15章11~24節(新約149~150頁) 「救い、回復せずにはおれない父なる神の愛」 

*今回は回線不具合のため、配信できませんでしたが、夕礼拝の録画を遅ればせながら、

配信させていただきます。こちらからご視聴になられてください。⤵

救い、回復せずにはおれない父なる神の愛」ルカの福音書151124(新約149150)

1.イエス様のたとえ話(15110

ある時、他のユダヤ人から「罪人」と呼ばれて嫌われている人たちがイエス様の話を聞きにきました。イエス様は彼らを受け入れ一緒に食事をしました。律法学者、パリサイ人と呼ばれる当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様のこの行動を非難しつぶやきます。そこでイエス様は①100匹の羊と羊飼いのたとえ、②10枚の銀貨と婦人のたとえ、そして、③二人の兄弟と父親のたとえのお話をされました。有名な「放蕩息子」のたとえ話です。このようなお話です。

2.放蕩息子とその父親のたとえ話(1124

ある人に二人の息子がいました(11)。弟息子は自分の相続財産分を父に要求します。父親は財産を二人に分け与えます(12)。しかし弟息子は父親の財産を換金して遠い外国に出て行きます(13)。しかし、そこで財産を湯水のように使い果たして死にそうになるのです(1316)。その時、この人は幸いにも本心に立ち帰りました。1719節。彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』」彼はこのように決心して父の所に帰ります(20)。すると何と父親がその息子を目がけて走り寄ります。しかし父親は怒るどころか、彼をかわいそうに思って、その息子を抱きしめ、何度もその首に口づけするのです(20)。弟息子は驚愕したことでしょう。そして父に言おうと思っていた事を父に言います。21節。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』…。そして、息子が雇い人の一人にしてください。」と言おうとしたその時!父親は僕たちに言いつけます(2224)。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』。その言葉の通り父親は急いで息子を息子にふさわしく装うのです。そして息子の帰りを心から喜んで、最高のごちそうをもって祝宴をします(24)。

「食べて祝おう」は原語では受身形ですから「食べてみんなで祝わせてもらおう!」というニュアンスでしょう。「私にお前の事を喜ばせてくれ!お前の帰りを私にお祝いさせてくれ!」という父親の喜びの叫びです!これは神様の一方的な無条件の愛を表しています。父なる神様はいつも、あなたという存在そのものを無条件で愛し、あなたの思いや考えをはるかに超えて、あなたを愛しておられます。私たちが思うような自分でなく、もどかしい時も、主はそれでも、私たち一人一人を愛してくださっているのです。そして、父なる神に心を向けて、主イエス様を信じて、父なる神に立ち帰る(悔い改め)人は、イエス・キリストの十字架での身代わりの死のゆえに、神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらうのです。イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの「義」に覆っていただけます。それにより、神に義と認められ、神に受け入れられます。父なる神は、御子イエス様を見るように、イエス様を信じて結ばれた者たちを見て、受け入れて下さるのです。この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛かと思うのです。それはキリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです。キリストと結ばれた生涯がそこからスタートします。神に受け入れられ、神のいのち永遠のいのちにあずかって生きるのです。そこにイエス様のように変えられて行く生涯が開かれます。父なる神様は全ての人が神に立ち帰って来る事を心待ちにしておられます。一人の罪びとが悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、父なる神のところに帰ってきたら、父なる神様の喜びはものすごい喜びです。そして父なる神様のみもとに帰る一本道こそ唯一の救い主イエス・キリスト様です(ヨハネ14・6)。主イエス様は私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。父なる神は最愛の息子を犠牲にされました。これにより、主イエス様を信じる者が父なる神様に受け入れられるようにして下さいました。主イエス様は父なる神様の御許からお迎えに来られました。主イエス様に信頼して、共に、父なる神の永遠の愛の祝宴という、天国の交わりの中に進み、お互いも兄弟姉妹として、愛し合っていけたら幸いです。

【祈り】天の父なる神様。あなたは、私が、うまくいっていてもそうでなくても、私という存在を常に最高に愛し続けてくださっていることを感謝致します。アーメン。


2025年3月1日土曜日

2025年3月2日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「雅歌に見る、主イエス様の愛」( 雅歌8章6~7節 )(旧約1165頁)

 

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「雅歌に見る、主イエス様の愛」雅歌8章6~7節(旧約1165頁)

 今日は旧約聖書の『雅歌』から、主イエス様の愛について見て参りたいと思います。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によると、『雅歌』はヘブル語での書名は「歌の(中の)歌」、「最高の歌」を意味します。なお「雅歌」という呼び名は漢訳聖書から来ているとの事です。さて、一章の表題には「ソロモンの雅歌」とあります。『雅歌』はダビデ王の子ソロモン王の残した愛の歌であります。

1.     背景

雅歌を読んでいると、「どの言葉を誰が語っているのか」また「その意味するところは何か」を考えさせられます。この点、E・J・ヤングは「これは人間的愛の純潔を語っているばかりではなく、これが正典に編入されている事実そのものから、我々の愛よりも純潔な愛を、我々に思いおこさしめる」と述べています。さらには「雅歌」は「われらの目を、たしかにキリストに向けさせる」とも述べています(同上書「雅歌」)。また、鎌野直人師はこの雅歌について、「…おとめとエルサレム神殿の結びつきがそこここに描かれていることから考えると、この愛の歌は、実際には比喩的に主とイスラエルの結びつき、そして主の都エルサレムやそこにある神殿と民の結びつきを歌ったものであるとも考えられます。もしそうであるとしたら、イスラエルの間に住むことによって、イスラエルを通して諸国に祝福を注ごうと願う主の姿が雅歌に描かれていると理解することも可能です」(『旧約聖書ガイドブック』、「雅歌」p210)と述べています。

神の民イスラエルの民を愛してやまない主なる神。その関係が、この雅歌の男女の愛に現されている。そしてこの関係は新約聖書における、教会と主イエス様の関係と二重写しとなります。さらには、この主イエス様と教会の愛の関係は、夫婦の関係の模範としても適用されます(エペソ5章参照)。この『雅歌』が、神様との関係抜きで生きる空しさからの悔い改め(方向転換)を教える『伝道者の書』の後にあり、また、夫を裏切る妻の様になってしまった神の民イスラエルと、それでもその神の民イスラエルを愛する、良き夫の様な主なる神の愛の姿が描かれる、「預言書」の前に雅歌がある事も意義深くつながります。主なる神と神の民イスラエルの愛し合う姿、さらには、主なる神と神に造られたすべての人間とが愛し合う本来の姿を、この「雅歌」という愛の歌に見ます。

2.雅歌に見る、主イエス様の私たちへの永遠の愛(8・6,7)

7章までを見ると、お互いに愛し合い慕い合いながらも、5章以降、二人は離れ離れになってしまっていました。しかし、この7章で再び出会い、お互いの距離が解消しています。特に、その事が711節の個所の、「さあ」との呼びかけと、「私たちは」との言葉から、わかります。それに、その後、8章5節でも「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上ってくる女の人はだれでしょう」。と二人を見た人たちは言っています。二人は再び一緒になれたのでした。この場面では、二人は、「荒野」(8・5)に一緒にいます。しかし、愛し合う者同士が一緒なら、たとい、そこがどんな環境であっても、「荒野」(5)であっても幸せなのです。私たちも愛する主が一緒なら、いつでもどこでも幸せです。 

再会を果たし、再び一緒になれた、神の民を表す女性は、主なる神を表す男性に次のように述べています。今日の中心個所です。867節。

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません」。(6,7節)

この言葉には、神の民(イスラエル民族、さらにはキリスト教会)を示しているこの女性の、主なる神様を表す男性からもう離れたくない心が表れています。この点、沢村五郎師は「これは常に心に刻み込んで記念していただきたいという願いです」と述べ、また「イエスさまは、永遠にみ手に傷を受けておられます。・・・主は永遠のみ座にあっても傷が残っています。それは私たちへの愛のしるしです。それを見ると、私のために命を捨ててくださった主のご愛を忘れることは決してできません」(『雅歌講話 聖なる愛の歌』p157)、と復活してなお残る、主イエス様の十字架の傷跡について述べています(ヨハネ2027参照)。栄光の復活体で復活されたのにあえて十字架の傷跡を一部残されたのは、私達への永遠の愛の印をご自分に刻印されたからだと信じます。神の永遠の最高の愛で愛され、主と愛し合って生きる!この事がどれほど私達を力強く生きる者とする事でしょう(ローマ8・35~39)!いつも主との愛の交わりで更に強くされましょう!

【祈り】主よ。何ものも主の永遠のご愛から私達を引き離せません!アーメン。



2025年2月22日土曜日

2025年2月23日(日)午前9時半~ 第一礼拝動画配信「キリスト信仰者の良い実を結ぶ実際生活」(ガラテヤ5・16~26)(新約382頁)

 

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キリスト信仰者の良い実を結ぶ実際生活(ガラテヤ51626)(新約382)

 今朝はイエス様を信じて救われた人の歩み(生活)の実践、実際について学び、確認しましょう。それは、神の言葉(聖書)と神の霊(聖霊)に従う生活です。

1.あらすじと背景

誤った教えに翻弄され、ユダヤ人の様に律法を自分で行う事で救われよう(ユダヤ主義)としていたガラテヤ諸教会(169)。使徒パウロは、神のしもべとして、その誤りを正します(11012)。生粋のユダヤ人で熱心なユダヤ教徒だったパウロですら律法を行う事によってではなく、イエス・キリスト信仰によって義と認められると知り、パウロもイエス・キリストを信じました(21516)。さらにキリストが私(パウロ)の身代わりに十字架で処刑された事。だから私(パウロ)も共に律法に基づき処刑されたのだ(1819)、と続けます。これは罪人が完全に正しい神と共に生きるためでした。しかし、その罪人が受けるべき処罰を、神の独り子イエス・キリストが十字架で身代わりに受けて下さいました。だからこそ219、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」とパウロは続けます。キリストとはメシア(油注がれた者)の事です。旧約聖書にて、王(統治)・大祭司(仲保)・預言者(指導)の三職(任職時に油注ぎ)を兼ねて成就する存在です。そのようなメシア、救い主をユダヤ人達は待ち望んでおりました。そのメシア、キリストがついに来られたのがイエス様なのです。このお方がイエス・キリストを信じて受け入れる者の心に生きて下さいます(20)。しかもキリスト様は「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子」(20)です。ゆえに、パウロは「私は神の恵みを無駄にしません」(21と記します。

ですから使徒パウロは、偽りの教えに騙されて、ユダヤ教に改宗する事で救われようとしていたガラテヤ教会の人々に愕然としつつ(3・1~4)、「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。」(35と迫ります。もちろん、イエス・キリストの福音を信じたから、神の約束の聖霊を受けた事をユダヤ人の信仰の父祖アブラハムの話をもって説明します(3・5~14)。

2.聖霊と聖書(神の言)に教え導かれて、良い実を結ぶ生涯(51626

イエス様を信じて結ばれて約束の聖霊を受けた信仰者に、使徒パウロは、キリストにある真の自由に留まり、再び偽りの教え等の奴隷にならないように命じます(5・1)。律法を行う事では救われない事(5・2~4)、聖霊によって、信仰によって(現在と共に、最終的にも)義とされる望みを持っている事(5・5)、大事なのは「愛によって働く信仰」と示します(5・6)。そしてそのキリストを信じて救われ、罪の奴隷から解放された自由を、再び「肉」(ここでは「神から離れた人間存在」、「罪の奴隷となり、本能的欲望のままに生きる人間」の意味)の働く機会とせず、愛をもって互いに仕え合うように命じます(13)。それは律法全体を通して神が示した事です(14)。「肉」は聖霊に反抗します(17)。その処方箋は16節で「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」、と聖霊により導かれて生活し続ける事だと教えます。

御霊は神の御心のままに生きるように導きます。肉と聖霊に同時には従えません。どちらかです。肉のわざは具体的に1921節。神の国は神の恵みの支配。神の国の王はイエス・キリスト。このお方を主として王として信頼し明け渡し従って生きる、すなわち御霊によって歩む時、その結実は2223節。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。これらは神の聖なる御性質の現われで、神の聖なる律法も反対せず、むしろ承認します(23)。

そのように聖霊に導かれるなら同時に24節。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」。「キリスト・イエスにつく者」とは「キリスト・イエスのもの」という意味。キリストの十字架での贖いにより、キリスト信仰者はキリストと結ばれ、聖霊を受けて、聖霊に導かれて生きる「キリストのもの」となりました。ですからその事を信じて、私は自分の「肉」(神から離れていた自分)を、諸々の悪欲(1921)と共に「十字架につけたのです」と、主のお言葉ですから、私達も信じて、主に明け渡しましょう。

そして更に聖霊に導かれ、キリストに全く信頼し、明け渡してお従いし、聖書のみ言葉に従って前進して参りましょう(2526)。聖書は聖霊に導かれて書かれました。聖書と聖霊は矛盾せず一致して、私たちに神の御心を教え導きます。

【祈り】父なる神様。私達の生活に御霊の実を豊かに結ばせて下さい!アーメン。



2025年2月8日土曜日

2月9日(日)午前9時半~ 礼拝動画配信「主イエス様への信仰によって」ローマ4章18節~5章2節(新約112~113頁)

 


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「主イエス様への信仰によって」ローマ4章18節~5章2節(新約112113)

今朝は主への信仰によって救われた、救われている、という事について見ていきましょう。ローマにいる信徒への使徒パウロの手紙です。イエス・キリストの福音はすべての主イエス様を信じる人に罪とその結果からの救いをもたらすことのできる神の力であることを示します。罪とは、神への不信仰、不従順(不敬虔1・18)からくるあらゆる不正、悪です。それは全人類に蔓延しており、異邦人に神の戒めを教えようとしているユダヤ人も例外ではない、と示します。人は誰も自分の行いでは救われない。だからこそ、救い主イエス様、福音が神から与えられた事を、32124節において示します。神の義を受け取るための唯一の条件は主イエス・キリストを信じる信仰です。

1.信仰の父アブラハムの主への信仰(ローマ4・18~19)

418『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』とあります。これはアブラムの信仰について記しています。創世記15章1~6節が、この背景にあります。アブラムも、私たちが信じている唯一まことの神様を信じ、生きておりました。そういう中で、アブラムは神様から子孫が増え広がる約束を頂いていました(12:1213:14~、15:5,6)が、高齢のため、子どもがもはや人間的に常識的にはのぞめない状況でした。しかし、アブラムは神と神の約束の御言葉を信頼し続けます。すなわち、19節。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした」。アブラムは神と神の約束のお言葉への信仰故に、その「信仰によって弱らなかった(落胆しなかった)」のです。アブラムは神と神のみことばに対する全人格的・全存在的応答をしたのです。2022節。『不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです』。そして、神様はご自身の約束を真実に成就されました。

2.私たちも主を信じ救われて、神との平和に生きる(ローマ4・23~5・2)

 これはアブラハムだけの事ではありません。ローマ4・23~24。『しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。』。私たちがアブラハムのように信仰によって救われ、信仰によって歩み、神の栄光をもう一度現す存在へと回復されるために、神はイエス・キリストを遣わされ、十字架で身代わりに死ぬことを許されたのです25節。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。とある通りです。

そして、イエス・キリストを信じて、罪が赦され、義と認められる(無罪とされる)。罪の奴隷から解放され、愛と恵みの主人であるキリストのもの、神のものとされる。さらにはローマ5・1,2。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」。

主イエス・キリストを通して、神様との平和(ヘブル語のシャローム。神の命、祝福、幸いの満ち溢れる状態)の関係が回復します。死んで天国に上げられる前から、この世において、神様との平和な関係がスタートするのです。イエス・キリストを信頼し、信仰している者は、罪が赦され、義と認められた、のです。だから、神との平和の関係を持つことができ、保たれる、のです。

赦すという事がどれほど困難か、という事を私は痛感します。ましてや、イエス様を信じる者の罪を、すべて赦し、きよめる贖いを用意をして、愛するとは、なんという途方もない愛と赦し、恵み、でしょうか。主イエスを信じる者を義とする、すなわち無罪とし、イエス様のように見て、迎え、ご自分の永遠のいのちの交わりに迎えて、与らせるとは何という愛でしょうか。この神の愛、この神の赦しを頂き、神の義による「義の衣」を着せて頂き、覆ってもらう、この愛がどれほどの犠牲の代価が支払われた愛か、と思うのです。それは、キリストの血、いのちの支払われた義の衣です。それを着せて頂くのです(ルカ15章)。

【祈り】天の父なる神様。私もアブラハムのように絶望的と思えてしまう状況の中でも、それでも、あなたに信仰の目を上げて信頼し続けます。アーメン。

      


2025年2月1日土曜日

2月2日(日)午前9時半~ 礼拝動画配信

 




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【説教要旨】「神の揺るがない愛」イザヤ書431~7(旧約12371238)  

 私たちは、時に、神の愛が実感できないような時や、自分で自分を価値ある存在とは思えない時があるかもしれません。しかし、神からの愛は揺るぎません。今朝は、その事を神様のお言葉、聖書から、確認、確信しましょう。

1あなたは神に造られ、神に愛された、神のもの(1)

1節。だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。とあります。「主」とは、聖書において「はじめに神が天と地を創造された」(創世記11)と記されている、唯一まことの創造主なる神の事です。旧約聖書の創世記にて、イスラエル民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブ(別名;イスラエル)、…と、イスラエル民族、イスラエル王国を奇跡的に創り出し、形成し、保ってこられたお方です。高齢でありながら、子どもがいなかった父祖アブラハムとサラの間に、奇跡的に二人の実の子イサクを生まれさせ、その子から子々孫々が生まれ、イスラエル民族が形成されたのです。

途中、様々な危機がありましたが、神が救い、守り、導き、保って、増やしてくださったのです。まさに神が、息子娘を愛して育てるようにイスラエルを形成します。17節では何度も「私があなたを造った」という神様の切なる愛が記されています。その創造の目的は神の栄光の為です(7)。

さらに、神はイスラエルに言われます。1節後半。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」ここに出て来る、「贖った」という言葉は「買い戻す」という言葉です。ここでの「贖った」は、かつてエジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を救い出した、という意味で用いています。神の力という代価を払ってイスラエルを救い出したという事です。神ご自身が贖い主で、イスラエルをエジプトの奴隷状態から買い戻された(出エジプト)、ご主人様なのです。そして贖ったお方は慈しみ深い、愛のご主人です。だから、「わたしがあなたを贖った」から「恐れるな」です。そしてわたしはあなたの名を呼んだ。奴隷にとって自分の主人がどのような者であるか、自分が誰の所有になるのか、は大きな事でしょう(奴隷制を是認するわけではありません)。主はイスラエルの名前を呼んで贖い出し、人格を愛し尊んで下さるお方なのです。なぜなら神様は愛そのもののお方だからです。しかも、このお方はイスラエルを贖っただけでなく、創造主であり、イスラエルを愛してやまない「生みの親」、「父なる神」(ルカ151124)なのです。この事は、イスラエル民族だけにではなく、私たち、全人類に当てはまります。

聖書を読むと、創造主なる神は、全人類の創造者、生みの親、父なる神なのです。そして、全ての人が救われる事を願っておられます(Ⅰテモテ24。また「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316とあります。父なる神は、神の御子であり神であるイエス・キリスト様をこの世に送られました(クリスマスの意味)。そして、イエス様は、私たち全ての人の罪を身代わりに背負い、十字架で身代わりに死んで下さいました。これが全人類の為に父なる神が用意した「贖い」のための代価です。

その贖いの代価は、神の独り子の命です。父なる神はそれ程、全ての人間一人一人をもれなく最高に愛しておられます!そして、神は私たち一人一人の名を呼んでおられます。そして「あなたは、わたしのもの」と宣言しておられるのです。私たちは「何を所有しているのか」という事よりも、「誰のものなのか」という事を忘れてはなりません。私たちはもれなく「神のもの」です。どんな試練の中でも、神は「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」(5と約束しておられます。試練がどんなに大きくても、たとい死に直面する事があっても、それらよりも、さらに大いなる主は信仰者と共にいて守る事ができます(詩篇23篇)。

2..神の目にあなたは高価で尊い~私たちが神に愛されている理由~(4

この時のイスラエルは神の民としてふさわしくない罪深い状態になっていました。それでも神は愛しているのです。4節に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。とある通りです。これはどこまでも神の一方的な御愛、ご好意、恵みのゆえです。一方的に神がイスラエルを愛し、そして神は全人類を愛しておられます。それは神の独り子なる神、イエス・キリスト様の命を代価としてまで、あなたを滅びから救い、神ご自身の永遠の命を与えるほどの、はてしない愛、最高の愛なのです(ヨハネ316、ガラテヤ220

【祈り】父なる神様。たとい、私があなたの愛がわからず、実感できないような時でも、あなたの愛は揺るがず、私に注ぎ続けられている事を信じて感謝します。


2025年1月25日土曜日

1月26日(日)第一礼拝動画配信

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説教要旨「主イエス様から信仰の目を離さない」ルカ24152(新約112113)

1.主イエス様を見失った、敬虔な信仰者ヨセフとマリア(4149

イエス様の両親はユダヤ三大祭りの過越の祭りには毎年エルサレムに行きました(41)。イエス様が十二歳になられた時も、イエス様の両親は祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから帰路につきました(4243)。しかし少年イエスはエルサレムにとどまっておられたのです。両親はこの時それに気づかず主イエス様を見失ったのです。両親は少年イエスが自分たち一行の中に一緒についてきているものと思って一日の道のり(数十キロ)を行きました。それから少年イエスが見つからなかったので、少年イエスを捜しながらエルサレムまで引き返したのです。そして三日の後に少年イエスが神殿で、旧約聖書の教師たちの真中にすわって話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました(46)。その時、人々は少年イエスの知恵と答えに驚いていたのです(47)。

両親はそんな少年イエスを見て驚き、母マリアは少年イエスに言いました。どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」(48。両親は本当に心配していたのです。するとイエス様は両親に言われました。どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49。イエス様はここで神を自分の父と呼ぶ事でご自身を「神の子」と宣言されたのです。イエス様と父なる神は一体なのです。しかし両親にはイエス様の話された言葉が「理解できなかった」50)。この「理解」という言葉は元々、「合わせる」という意味で、新しい事柄をすでに知っている事柄と合わせて考え理解するという意味です。イエス様の両親はこれまで自分たちに起こった様々な事と、今回のイエス様のお言葉とを合わせて考えることができませんでした。両親は受胎告知の時の天使ガブリエルの言葉(ルカ1313335)や、ヨセフへの天使の言葉(12023)等(21012202832)を合わせて考えるなら、イエス様は神の子であり、神殿はイエス様の父の家である事を理解できたでしょう。

しかし両親はいつの間にか、毎年の祭りの慣習や行き交う人の流れに流されるように、この世に流されたのでしょうか。過ぎ越しの祭りの中心人物であられる神の御子、主キリスト・イエス様を見失ってしまったのです。思慮深い模範的なマリアとヨセフでさえこのような誤りに陥りました。

私たちも、信仰生活に慣れて来る中で、教会生活や諸行事、日々の忙しさの中で、世の中の流れ等で、いつの間にか生ける真の神、主イエス様を心が見失う事のないように、信仰心を主イエス様に向けていきましょう(へブル12・2)。

 

2.両親と一緒にナザレに下られた主イエス様(5152

さて、「神の子」の自覚を持ち、両親にも現わされた主イエス様ですが、その歩みは終始一貫、謙遜でした。51節。それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。神の子であり神であられるお方が、父なる神の家である神殿を離れ、弱さや足らなさもあったヨセフとマリアと一緒に、小さな町ナザレに下ってゆかれ、両親に仕えられたところに、神の子イエス様のへりくだりが現れています。

聖書は親を愛し敬う事を命じています。その人には神様の豊かな祝福がある事が約束されています(エペソ623)。ここで、主イエス様が親を敬う事の模範を示して下さっています。母マリアは敬虔な信仰者でした(ルカ1・26~56)。父ヨセフも御言葉に信頼し神に従順に従う信仰者でした。しかし二人とも神ご自身であられるイエス様から見れば、弱さ、足らなさ、罪のある人間でした。しかし、主イエス様は弱さや罪のある両親を愛し敬い、お仕えになられました。

そしてイエス様は神ご自身でありますが、人として健全に成長し、知恵が増し加わり、背たけも大きくなり、神と人とにいつくしまれたのです(52)。

私たちも主イエス様に倣いたいと思います。両親との関係は最初の人間関係です。父なる神を第一にしつつ、罪を犯すことはしないで、弱さや罪ある両親にも謙遜にお仕えするならば、他の人間関係でも謙遜にお仕えしていくようになります。主イエス様に信頼し倣いつつ、神に第一にお従いしつつ、両親や隣人に謙遜にお仕えしましょう。そのように、父なる神に信頼して第一に従いつつ、弱さや足らなさもある両親や隣人に、愛と謙遜をもってお仕えしていく中で、人として健全に成長し、知恵が増し加わり、神と人とに喜ばれるのです。

【祈り】天の父なる神様。世の生活の中でいつの間にか、主イエス様とその素晴らしさについて、心が見失ったりしませんようにお守り下さい。アーメン。